某シミュレーションゲームを楽しんだりしてますが
代表的な合戦として、必ず出てくる川中島の戦いの勝者が
本やサイトによってまちまちで困惑します
なので、この板の皆さんなら素人にも分かりやすく
解説してもらえると思いスレ立てしました。
ニュース
>>1
川中島の戦いで勝ったのは謙信。
人にとって一番大切なものは何かを考えれば自明。
一番大切なのは人命。土地は2に次。
川中島の戦いでの両者
謙信→川中島一帯は失ったが、重臣は誰一人失ってない。また信濃北辺は守り切った。
信玄→川中島一帯を手中にしたが、武田軍No.2で最も信頼する実弟・信繁を討ち取られた。他にも数人の重臣を失う。
この大ダメージは想像に難くない
信玄自身や家臣団の誰しもが、勝ち戦とは思ってないだろう
戦争目的は人命などではなく、一帯の土地に他ならない
つまり、川中島の合戦では最終的に川中島一帯の土地を手に入れた武田の勝ち
>>6で答えが出てるじゃん
最終的に、退却したのは上杉、川中島一帯を支配したのは武田
武田の勝利
信繁ら重臣が死んだことで勝ちのグレードは下がるかも知れないが、
だから負けだとまでは到底言えないし、
武田はその後滅んだからなんてまるで無関係
百歩譲って因果関係を認めたとしてもこの一戦の勝敗とは全く別
暴走族じゃないが
アイツら全員ぶっ殺すってその地域に攻めて行って
ヘッドや親衛隊長や特攻隊長やら幹部クラスを
ボッコボッコに殴る蹴るで病院送りにした後
そろそろ警察や、こいつらの応援来るからとその場去って(退却?)
それでゆうゆう地元に帰っても負けなの?
その通り!
例えが上手い
それが川中島とどんな関係があるの?(笑)
土地があっても人が死んだら何にもならん
信玄は「信繁を失ってでも川中島が欲しい」とは思ってない。
しかも信玄は信濃守護でありながら信濃制覇に失敗してる。
信濃北辺(飯山城・野尻城一帯)は謙信が守り切ったから。
信繁を失った武田家はその後義信の誅殺、勝頼の暴走により崩壊していく。
上杉家はその後、秀吉、家康に屈するも繁栄。
つまり信玄は目的を果たしたワケじゃない。
戦術的にも戦略的にも、川中島の戦いは謙信の勝利。
信繁や勘助は戦場に死体で残ってた。
いくら最後に残ってても死んでたら意味ない。
謙信勝利。
謙信は武田を削るのが目的だったんだし
秀吉はそう評していたね
近代戦争クラスだろ。
それが本当だとしたらどっちも負けといわざるをえんし、二人とも戦国最強の指揮官と認める。
各方面から色々な数字が出てるけど
手持ち史料では、武田側の戦死者4630名で上杉(長尾)側が3470名
死傷率は武田側が88%で上杉側が72%とある
この死傷者に数えられなくても
ほとんどの兵士が手傷の一つは負っただろうと考えられる
とにかくすさまじい激戦だったのは容易に伝わるね
死ぬもう死ぬもうダメ絶対死ぬと思ったとか当時の記憶を
子供の石合戦並にヌルい大坂の陣の際に語ったとか何とか
そんな話を本で読んだことあるな
信玄、川の中州に布陣。別働隊が、謙信を奇襲作戦。
川中島に布陣して、絶対やられないだろうと思った信玄。
ところが、作戦当日、冷え込んで、雪も振った。
川中島、露出状態。
謙信、一気に突撃。楽勝。怪我だけ負わせて、帰りました。
馬とか寒かっただろうね
当主だったのかな?
信繁だったら織田や徳川に負けることもなかった
信繁が次期当主になることは無いんじゃない?
信虎は結果最期に追放されたが
息子を見る目は確かだったな
上杉軍の死傷者の数は疑わしいと思う、
武田軍とほとんど同じ数死傷者を出してるのに、雑兵だけがきれいに死傷出来るもんなのかなあ?
池乃めだかのギャグっぽくて笑えるな
これくらいで勘弁したるわ、といって逃げ帰ったのは越後勢。
信濃残党の協力得たのに、
武田に思わぬ反撃を喰らって、
約束通り武田を懲らしめたぞ、って得意顔。
信濃残党は唖然。
関東諸勢が北条になびくのもわかるよね。
関東管領の権威が縮小していったよ。
上杉憲政のほうが品格があったし、関東諸勢をまとめていたよ。
川中島で謙信が武田に会心の一撃を与えた印象だけど、
同じ状況なら、信長・家康・氏康だったら信玄の首を獲っていたよ。
1戦目
謙信の猛攻に武田圧倒され謙信の勝利
長期戦のにらみ合いになるも武田側の統率力が劣り、武田陣営からの不満が抑えられず信玄からの譲歩での和議
武田が謙信の矛先をかわし決戦を避け戦いにならず
両軍背水覚悟で激突し、謙信側が機先を制し前半有利、後半兵力で勝る武田が巻き返し引き分け
5戦目
互いに戦わず引き分け
軍事面のみでは謙信側の有利勝ちだが
>>43 訂正させてもらう。
第1戦
土地を奪われた村上義清と土地を奪われそうな高梨政頼の救援で謙信川中島出陣。
謙信の猛攻に武田圧倒されるも、逆に押し上げられ、両者引き分け。
第2戦
信玄が木曾攻略中、隙を狙って謙信川中島へ。
旭山城に攻めかかるも武田鉄砲隊に後退。また犀川を渡ろうとするも武田の防戦に失敗。
長期戦のにらみ合いとなり両軍疲弊、時間の無駄とした信玄からの譲歩で、今川氏の仲裁により休戦和睦。
謙信はこれを勝利とし、その後の戦いや幕府による和睦斡旋の際、今川調停ライン「塚原対陣」を最低条件とす。
第3戦
謙信の隠居騒動に乗じて、信玄「府中破却(春日山攻略)」を宣言。
武田軍、和睦ラインを突破し、高梨政頼を領地から放逐。信濃最終ライン(飯山街道側)飯山城に迫る。
謙信慌てて出陣しようとするも、隠居騒動の余波で武将集まらず1ヶ月遅れで出陣。
千曲川北岸の回復に一時的に成功、川中島に迫る。しかし武田軍各城に布陣。信玄本陣を見つけられず。
糸魚川方面で武田別働隊が小谷城を落したため、越後の危機を感じて後退開始。その途中上野原で両軍衝突。勝敗不明。
その後、川中島に武田側の海津城完成。川中島域の武田領土化が決定。
第4戦
謙信、上杉憲政の養子となり、長尾姓を捨て上杉の名跡と関東管領職を継ぎ、関東に出陣。長躯して小田原城を囲む。
信玄、北条の後方支援のため、越後へ侵入し小田切を蹂躙。信濃最終ライン(北国街道側)割ヶ嶽城を陥落。北国側は野尻を残すのみ。
謙信、小田原を断念し、武田を滅しなければ関東攻略は成らぬと、「信玄打倒」を宣言して川中島に出陣。
信玄、謙信の「関東管領」就任を認めず、これを有名無実化すべく「謙信打倒」を宣言して出陣。両軍大激突。
謙信、作戦を有利に展開し武田を圧倒しつつも、後半武田別働隊の到着により謙信敗走。残党野尻城などに逃げ込む。
*両軍戦死者ほぼ互角と伝わる。但し、武田側は大将級の信繁・諸角はじめ武将多数討死。
謙信、防衛ラインの押し戻しに失敗、翌年以降、長尾政景を春日山留守将として常駐させ「信玄越後乱入」に備える(~7年)。
その後、しばらく関東に舞台を移し、上杉vs武田・北条の戦いが続く。
第5戦
信玄、会津葦名盛氏と連携して越後挟撃を謀る。北国街道の野尻城陥落。謙信、葦名を撃破し、反転して野尻を奪回。
武田軍が飛騨侵攻する隙をついて、川中島に出陣。信玄兵を戻して川中島へ。
両軍戦わず90日余後、謙信帰陣。信玄、進軍して先鋒を飯山城下に進ませるも攻撃せず帰国。
その後
永録10年、謙信、武田北条連合軍によって関東から追い出され、上州沼田一城となる。
駿河今川氏真、武田と断交し謙信と結ぶ。
翌11年信玄、本庄繁長に謀反を起させ、越中椎名、会津葦名、北条による越後包囲網を作り、越後侵攻、関山城攻撃。
北条氏康、今川問題で信玄と手を切り、謙信と手を組む。信玄撤退し、反転して駿河今川を滅亡さす。
川中島戦は途中から越後防衛戦になっている。
軍事的には信玄が圧倒し、謙信が必死な感じ。
天海の再三の証言だけでなく
謙信が近衛前久へ宛てた書状でも、謙信自ら一騎打ちしたと残ってたはず
それと当時武田信玄の近習で、後に家康に仕えた初鹿野伝右衛門も
上杉定勝に江戸で対面した際に、その時の模様を語ってる
一騎打ちじゃなくて「俺も刀もって戦ったよ」ぐらいのもんじゃなかったけ?
>>86
>謙信が近衛前久へ宛てた書状
正確には謙信の近衛前久宛書状ではなく、近衛前久の謙信宛書状。
「期せざる儀に候と雖も、自身太刀討ちに及ばるる段、比類なき次第」と、
「思いがけず乱戦になり、謙信自身が太刀を振って戦った事を聞いて感嘆した」と書いてあるだけです。
これをもって「信玄に討ちかかった」と読むのは飛躍し過ぎ、というのが一般的な歴史認識です。
天海の証言が書かれた軍記物「川中島五箇度合戦記付録」は「偽撰」と成本当時から怪しいものとされたものです。
高橋修氏は越後流軍学は慶安期幕府と紀州藩と対立の一つとして、紀州藩が幕府公認甲州流軍学へのネガキャンとして、
軍学者大関佐助(出自不明)を宇佐美定祐と改名させて越後流を創設し、謙信讃美・信玄&甲州流批判を展開したと。
彼らによって書かれた「川中島五箇度合戦記付録」「北越軍記」などの上杉系軍記は、
甲陽軍鑑の記述を「謙信大勝利」に改竄、捏造したものと読んだ方がいいです。
初鹿野伝右衛門ネタは「武辺咄聞書」
延宝年間、彼の死後約百年後に書かれたものなので、普通は史料としては採用しない。フィクションと見るべき。
例の軍記にある天海の記述を要約すると、
「甲陽軍鑑の記述はおかしい。戦いがあったのは天文23年8月18日。御幣川に両軍が乗り込んで大将同士の太刀討ちとなった(騎馬決闘だそうだ)。その話をすると信玄は外聞が悪いと機嫌が悪くなった。だが自分は確かに見た。軍鑑は嘘である」
どうする? 日にちも違うし、信玄も馬に乗っていて、河原での決闘らしいよ。
天海の話を信じるなら、全部信じなきゃ。
ついでながら「川中島五箇度合戦記付録」がどんな内容か知らないようなので簡単に
天文22年第1回川中島。上杉軍大勝利。武田側武田飛騨・穴山相模・板垣三郎他6千討死。
天文23年第2回川中島。御幣川決闘。武田信繁討死。両軍戦死3千。
弘治2年3月第3回川中島。一条六郎・諸角豊後・初鹿野源五郎・山本勘介など討死。
弘治2年8月第4回川中島。上杉軍勝利。武田方千討死。
永録4年9月第5回川中島。謙信西条山に布陣。両軍激突。決着つかず。
永録7年武田から安馬彦六、上杉から長谷川与左による一対一での決闘。上杉方長谷川が勝利し、信玄川中島を返還する。
この後、天海や武田遺臣横田などが出てきて、軍鑑は嘘。これが本物と証言する。
正直、言って読み物としてもかなり微妙。
勝敗は引き分け
他の大名の戦いはみんなどちらかが完全に負けて家が滅びたりしてるが
川中島はどちらも健在でしかも勢力を拡大させて全盛期を迎えるから
武人なんだからどっちが強いかで勝敗を決めるべき
殺したくても殺せないよ 挟撃完成した頃には逃げるんだし^^
最後まで川中島を死守する気なら全滅するまで戦うべき
数において劣る状況で武田の名だたる武将を何人も討ち取ったんだからすごいと思うよ
武田厨が認めないだけで
村上さんが睨んでますよ?
その場面をリアルで見た天海が証人なんだよな
天海ほど影響力と地位がある人間が言うならウソじゃないだろう
川中島が終わった日の夜、海津城に招かれて
信玄とこの度の戦の論評をしたとか何かの文献で見たな
上杉方軍記物「川中島五箇度合戦記付録」に載ってる怪しいネタで、軍記物の箔つけに使われただけ。
武田側はどうだったか忘れたが
副将やら軍師やらが討ち取られてるから
勝どきとかするような、とてもそんな気分じゃかったと思うな
これ間違ってる。
軍記物では最も古い武田側「甲陽軍鑑」では、最終局面で上杉軍が「敗走」して、首も奪い返し、信玄が勝どきを上げている。
それより後に書かれた上杉側「上杉家御年譜」では、謙信は戦場を「脱出」した後、
北方20キロ弱の髻山城に集結して「首実検」し、勝どきを上げた。
信繁の首も取り返したのか。
取り返してる
信繁の首は家来の山寺が取り返し、しかも信繁の首を持っていた越後兵を討ち取って帰った
諸角、勘助、信玄の弟が討ち取られて悲惨な空気が漂っていた。
よって上杉の方がやや有利ではないか。
首も取替えしたし 涙の勝鬨ってことで
やっぱり上杉家有利じゃないかな。
武田家は京へ行くのが遅くなり信玄が病死してしまった。
四男の勝頼では役者不足で武田家が滅亡した。
武田家滅亡の遠因にもなってるのかも知れない、この川中島の合戦。
それを言ったら謙信も同じだよ。
謙信は信玄が生きている間は越中半国がやっと。
死んでからようやく北陸領土拡張の道が広げ、上洛を目指したものの、
結局、トイレで倒れてあの世行き。
信玄氏康の不和のおかげで上州と景虎を貰ったけど、それが御館の乱に発展。
武田勝頼が味方してくれて景勝が家督を継げたが、
織田に追い詰められる結果となって滅亡寸前で運良く本能寺が起きた、そんな感じ。
こういう結果論は意味ないんじゃないか。
それを言うなら、川中島の始まりは村上義清が真田の土地を奪い、
真田幸隆が信玄を頼って村上を放逐し、その村上が謙信を頼ったのが始まりだから、
最終勝利者は川中島(松代)領主となった「真田」という事になる。
>>73が正解じゃね?
結果的に北信、飛騨、西上野を削り取った武田が戦略的には勝利と言えるね
堺屋太一、御立尚資などの本を棚から引っ張りだしてきて知的武装をしてから挑みます。
待ってて下さい。
>堺屋太一、御立尚資
どっちも歴史学者じゃないじゃん
自分は完全にそういうのに加わらなくなりました
興味の無い板の適当なスレで無責任な投稿をしてストレス解消しましょう