面倒臭いと評判の、本多作左衛門の有名な話でも。
天正13年のこと、家康は疔(ちょう)という腫れ物ができた。
近習に膿を押し出させたが、悪化するばかり。
激痛のあまり意識が朦朧とし、家康自身もすっかり弱気となり、これまでだと思った。
そこで作左衛門は
「私も以前同じ病にかかりましたが、ある医者によってすっかり治りました。どうかこの医者にかかって下さい」
とすすめたが、
「これはもう仕方がないのだ」
と言って家康はそれをかたくなに拒んだ。
そんな家康を見て作左は怒り、
「良医の治療を拒否してまで死を願うとは、なんと勿体ない命であろう!わかりました。
それでは、年老い、あとに残っても役に立ちそうにない私は一足先に冥土へ旅立つことにいたしましょう」
と言って御前から退出した。
この言葉に家康は驚き、
「作左を止めよ」
と近習の者に命じて走らせ、力づくで彼の帰宅を阻止させた。
「なぜ最後の暇を願い出た者を止めるのだ!」
と近習を罵りながらも再び病床の御前の前に座した作左に、家康は
「俺はお前らが生きていることを頼みとして、こうして死ねるのだ。お前らは1日でも多く生きて若き者達を指導し、我が家の絶えないよう計らってくれ」
と懇願した。
これに作左は
「私は若い頃より多くの軍に従い、眼を射られ、指を落とされ、足を切られ、負わぬ傷はなく、世に交われぬほど体が不自由になりました。その私が今こうして仕えていられるのは、殿のお陰です。
殿が亡くなられれば、北条がこの国を狙い、徳川家はたちまち滅びましょう。
このような身で命を永らえ路頭をさまよっても、あれがかつて徳川家の古老として活躍し、己が命惜しさに今も生き恥を晒している本多作左衛門よ、と後ろ指をさされてしまいます。そのようにはなりたくありません。
殿に遅れて死ぬのも悲しく、我が身の果ても惨め。そのため、一足先に死ぬことにしました」
と答えた。
これを聞いた家康は
「わかった、治療はお前に任せよう」
と観念。医者を呼ばせて治療にあたらせた。
その結果、病はたちどころに良くなり、そのことを聞いた作左は嬉しさのあまり大声で泣いたという。
ところどころ間違ってるかもしれんorz
ニュース
もしも鬼作左の逸話が全部本当ならば、
鬼作左の息子の成重を厚遇してやれば良かったのに…
成重に与えた越前国丸岡てのは良い土地だったのかなあ?…
そして4代目藩主重益の時に改易になってるのが…
>>244
作左衛門の息子の本多成重は、大阪の陣のとき、家康が真田丸に自分から仕掛けておいて、撤退するのは見苦しいと批判された時
「俺は幕府の命令があったから進退しただけだ!それも18メートルだけ。撤退後はそこに陣地作ってとどまり戦っている。今だって息子残して戦わせてる!嘘だと思うなら今すぐ検使送って確かめろ!批判するなら事実を認識してから言え!」
って、家康を怒鳴りつけてるんだよねw
まあ案の定、家康はそれを褒めちぎるわけですが。
講談映えするガンコ親父がいるのがいいな
だって講談だもの
たまごが先か
鶏が先かみたいな事か?
作左衛門は実際にも、相当特異なキャラクターだったのは間違い無いと思うよ。
今の時代も一緒だけどね
独断は何でも不許可な上司と居る。