稙宗-晴宗-輝宗-政宗
義篤-義昭-義重-義宣
>>118
うむ。
それにしても佐竹も伊達もかなり好きな人物の一人の俺としては
ここの佐竹厨と伊達厨は好感w
義篤の父、佐竹義舜も、山入氏討伐や佐竹家法二十三条の制定などを行った人物で、
佐竹中興の祖とか言われてるらしいな。
伊達家の方は、伊達稙宗の前はどうなんだろう?
ニュース
稙宗の前の君主がどういった実績を残したのかは知らないけど、
9代目の政宗は中興の祖と讃えられた人物で、
政宗の名乗りもそこから採ったらしい。
12世伊達成宗はバサラ大名を思わせるいでたちで上洛し、将軍家に膨大な量の進献贈呈をしたと伝わる。
9世政宗、11世持宗は幾度も鎌倉府や稲川・篠川両御所に反旗を翻しています。
8世宗遠の時に出羽に進出。7世行朝は南朝方で活躍。
室町時代の奥州伊達家は歴代傑物揃いだったようです。
唯一、10世氏宗のみ実績が残っていませんが・・
政宗はどういう風に中央に進出していこうか戦略を立てていたみたいだけど、
義重は秀吉に臣従して惣無事令がでる前は北条が攻めてきてもそれを撃退し続けていた、
くらいしか知らないけどその前はどうだったんだろう?
局地戦の強さは実績から義重>政宗、戦略構想や外交は政宗>義重という印象。
義重は北関東の諸将や謙信と協力して北条を抑えながら、
南奥や下野、常陸南部への出兵も繰り返し、地道に勢力を伸張し続けた。
信長や秀吉などとは早くから親交を結んだが、自身が中央に進出する気はなかったろう。
中央で台頭した織田や羽柴の力を背景にし、仙道口へ勢力を伸ばそうとしてたと思われる。
>>159
芦名に子どもを送り込んで親佐竹にしたのはそのための布石かな。
惣無事令が出てからは進出よりも、
芦名を後押しして伊達の押さえ込みをするというふうに
防衛を主体にするように方針を変えたようだけど。
ところで1580~1590にかけてのあのあたりの大名の関係って
佐竹→北条が宿敵、上杉が同盟者、芦名が敵~同盟者、伊達が敵~宿敵
伊達→北条が対佐竹での協力者、上杉とは別に仲は悪くない??、芦名が敵~宿敵、佐竹が敵~宿敵
という感じだったっけか。
義広を送り込む前、天正六年あたりから葦名との関係は改善し、親密になってる。
義広入嗣で葦名家中での発言力が高まったのは良いが、
後嗣争いで伊達竺丸を推した富田や平田らと、義広を推した金上や白河らの間で対立が引き起こされ、
そこを政宗に突かれる形で摺上原→葦名滅亡となったからなあ。
>>161
摺上原→葦名滅亡の時だけど、
一連の対伊達との合戦で、
年齢から芦名義広(15)が主導権を握っていたとは考えにくいなぁ。
義重が主導権握っていたのか芦名の重臣が主導権握っていたのかはわからないけど、
郡山の戦いで優勢に立ちながら伊達の力をそぐこともなく和睦に応じてるし、
義重(芦名家も?)は惣無事令発布後はこれに徹底的に従う方針を貫いてるのか。
北条降伏後に切り取った土地の所有は秀吉に認められているのだから、
秀吉臣従と惣無事令の順守は堅実に成功した戦略だったのかも。
>>162
常陸一国のお墨付き、常陸江戸崎に義広の領地、更に岩城常隆の後嗣に義重三男を入れる事と、
奥州の滑津と南郷が佐竹領である事を認められたが、葦名滅亡の代償に見合っていたかは分からないな。
お墨付きを貰った後、水戸城を僅か1日で攻め落とし、翌日には江戸氏支城十三館も悉く落城せしめ、
さらに2日後には府中城を落としてしまうあたり、義重の局地戦の強さが伺えるな。
政宗も母親には嫌われていたが父親は良き理解者だったようだ。
もし父親が生きていたら政宗の派手な振る舞いと戦略はもっとおとなしめになったかもね。
>>163
北条に隣接しているし北条征伐の時には重要な位置を占めているし、
芦名が滅びる前にある程度の待遇は保証されていただろうなあ。
佐竹→芦名と合流せず二手に分かれる→摺上原で伊達が勝利。
惣無事令がでているのだから二手に分かれて不利な状況を作ってやれば、
伊達は博打に出たりせず撤退すると思ってたんだろう。
義重にとっては摺上原で政宗が正面決戦したのはやはり計算違いだったと思うよ。
>>政宗はどういう風に中央に進出していこうか戦略を立てていたみたいだけど、
どんな風に進出しようとしてたんだ?
はっきり言って、あそこまで天下が定まった状態では中央に進出なんて無理に思えるが。
>>213
郡山戦で伊達に有利な結果を引き出せたので、
そこから芦名を一気に滅ぼして東北の主導権を握った後に、
秀吉が北条征伐に動き出す前に北条と共闘して佐竹を滅ぼしておいて
その後は秀吉と交渉して(臣従+北条攻め協力?)良い待遇をゲット。
毛利、徳川などのように中央政治の中枢に近づける立場になっておいて
秀吉の死後に主導権をねらうだったかな。
小説や大河ドラマ、NHKのドキュメントで一応資料の解説(曲解?)で
紹介された構想(制作者の創作といえなくもないが)がこんな感じだった。
秀吉の九州征伐が2ヶ月かからずに終わってしまった上に1590年には、
北条攻めが決定的になったので佐竹と戦うどころか満足に折衝する暇もなく、
結果は芦名領返還で占領地の一部を認められる位に終わったけどね。
郡山の後に考えたとしたら、やはり無謀だと思う。
秀吉は天正13年に義重に、14年には景勝に関東出馬の意向を伝えてるし、
惣無事令も発動してる。
葦名どころか佐竹すら滅ぼしておいて、北条攻めを協力したくらいで許されるとも思えないし、
北条攻めまでの時間も短い。
種を撒き散らすところがそっくりだ。
義重は、寝る時には敷布団は敷かずに掛け布団だけで寝てたらしい。
秋田に行った時に、雪国は寒いだろうと、義宣から夜着と布団一式を贈られ、
喜んで使ってみたは良いが、暑くて眠れず、今まで通り敷布団を敷かずに寝たそうだが。
まあ、確かに親子仲は良さそうだな。
ただそれだけ
佐竹家の記録はほとんど義宣以降のものしかない
義重と政宗とどっちが優れてるとかじゃなくて
ドラマとか小説にしたら義重の方が面白いと思うよ
関東の方が規模が大きいから
わずか15歳で家督をついで以来圧倒的な戦力差のある北条と戦い始め
謙信と手を結んで北条を攻めたり
北条の北上を阻止するために宇都宮・皆川・壬生・那須・茂木・多賀谷・白河・岩城・石川あたりの豪族を従わせて
攻防を続けて
更には東北で力をつけ始めた伊達が南下してくるのを
謀略で蘆名を勢力下に組み入れて阻止したりして
佐竹はわずか2、30万石程度だったのに万単位で戦をすることが多かった
それだけでも義重の能力の高さが分かる
強敵を前後に控えて少しでも判断が狂えば一瞬で滅ぼされるギリギリの状態で
謀略、外交、合戦を巧みにこなして着実に勢力を伸ばしていく様は
戦国好きには堪らないだろ?
視聴者の主な層は戦国マニアじゃなくてじーさんばーさんでしょ?
戦国マニアに受けるかもしれんけど面白いと感じてくれる一般人は少ないでしょ
俺は面白そうだなと思うけどね
佐竹の大河があったら俺も観るとは思うけど、
関東の方が規模が大きいからなんて理由でドラマ作れるな
んて無理あるだーよ。1年引っ張るには大変なんでしょうよ。
まぁ大河の話なんてのはどうでもいいけど。
義重だけで余裕で一年いけるでしょ・・・
腐るほどネタあるし
大河なんて赤穂浪士で無理やり一年引っ張ったりするんだから
政宗は秀吉に会津とりあげられたけど
義重は54万石のお墨付き貰ったわけだし
戦するには莫大な出費あるんだから領地が全く増えなかった政宗は大損害だよ
逆に義重は20万石ぐらい手に入れたでしょ
そもそも小田原の例があるのに惣無事令を無視して秀吉にいい口実を作ってしまう辺りは
政宗らしからぬと思う
安易に目先の欲に捕らわれたようにしか見えない
なんかまた政宗叩きみたいになっちゃったけど
実際不思議で仕方ない
>>172
芦名滅ぼしたのは小田原出兵前。
だから北条氏の末路を知っていながら芦名領を占領した訳じゃあない。
摺上原の合戦が無駄だったかというとそう単純でもない。
占領地は一部認められたらしく芦名領返還後80万石は所有していたらしい。
またその後の秀吉との折衝も含めて政宗の名前が全国的に有名になったのも確か。
これは外交を進める上で相当有利になる材料だろう。
仮に芦名の後継者を養子で貰うときに政宗に摺上原直後くらいの評判があったら、
芦名内部の親伊達勢力はもっと多かっただろう。
>>174
芦名領返還後に東北で起きた一揆に政宗が荷担した疑いがあったので、
多分それを理由に仙台の方に転封されて表高50万石になった。
その後関ヶ原で上杉を東北に釘付けにした働きで家康から10万石の加増を受ける。
また徳川三代の将軍に仕えた実績からちょこちょこ加増されて最終的に62万石に。
また加増といえるか微妙だけど大阪冬の陣の後に、
家康は政宗の長庶子の秀宗に伊予で10万石の土地が与えられている。
最上側でも伊達に多少調略は仕掛けてたみたいだけど
攻めこむまではしてないよね
案外不仲ってほどでもなかったのかな
戦略的にはさほど重要じゃないだろうけど
最上領も石高たかいから放置しとくのはもったいないような・・・
もっともそれだけ簡単には攻め取れないけど
輝宗の代に、義光の家督相続時の争いに乗じて攻め込んだんだけど、
やっぱり義姫が出てきて和睦しちゃったんだよね。
別に最上領なんてどうでもいいや、と思っていた訳じゃなくて、
単にあの鬼姫が怖かったんだろう。
政宗って最上義光とは戦ったことないの?
戦おうとしたらママンが国境で80日も居座って妨害しました。
最上と伊達って仲悪いのに
全然合戦の話しがないから不思議だった
政宗からすれば母親が自分を嫌っていたとしても、
母親の実家と事を構えたくなかったんじゃないか。
最上がつぶれた後に自分を捨てて何十年も最上に居続けた母親を引き取っているんだし。
最上領は政宗がなんかする上で占領しておかなければいけない、
というほど重要な位置ではなかったからなのかもしれないけど。