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車なんとかという将が伊達軍を打ち破って敗走させている
よって佐竹
よって政宗
車丹波守斯忠
慶長五年に佐竹家を出奔して兵300百を引き連れて上杉家に仕えた
表向きは出奔だけど実際援軍なのはバレバレだけどね
車丹波は、佐竹の秋田転封後に水戸城奪回の一揆を起こしてるよな。
佐竹の援軍だったのかもしれんが、こいつは個人的に徳川が大嫌いだったんだろう。
そこで義姫が両軍の間に1ヶ月鎮座し続けた話ですよ
取り合えず派手さでは伊達の勝ちだな。
なんの派手さ?
どうでもいいパフォーマンスは伊達派手だけど
合戦や謀略は佐竹の方が派手だよ
伊達の派手さと言ったらパフォーマンスの派手さに決まってると思うが。
謀略にかけても一揆煽動なんて生温いもんじゃなく
佐竹は行方三十三館主の虐殺みたいに当事でも汚すぎるって言われたぐらい
派手に謀略をつかってる
下館か~
常陸って有名な一族がいっぱいいるよね
政宗と義重は戦争したことあったっけ?芦名の援軍とかではなく、
伊達家vs佐竹家のような形で。
人取橋、郡山、摺上原と三回対陣したが、どれも葦名の要請を受けての出陣。
>>36
その戦いには義重は出陣していたのかな?
人取橋→数に勝る連合軍が伊達軍と戦い、押し気味になるが
北条が佐竹をねらうような動きを見せたことで佐竹は撤退、
他の連合軍も撤退。
数的優位に立ちながら攻めきれなかったので引き分け?
郡山→よく知らない
摺上原→芦名軍は猪苗代方面に向かい、佐竹の援軍は田村領に向かう。
それによって伊達家の軍勢を二つに分けようとしたのかもしれないが、
政宗は田村領に向かうそぶりを見せながら主力を摺上原に移動させて、
芦名の主力を壊滅させる。
この戦い前後の用兵や戦術は政宗が優れていた。
という印象だ。摺上原は政宗の完勝という感じだけど、
義重が佐竹側の総大将として出てきたわけではないなら、
この戦いでは義重が政宗に負けたとは言い切れないな。
経験不足での摺上原の合戦の勝利、豊臣、徳川政権を生き抜いているからな。
これと同じような年齢で動いたやつは謙信と信玄くらい。
佐竹はどうなんだろ?
動いたの意味がよく分からんが、義重も20代前半で色々な合戦を経験してる。
南奥での戦はもちろん、那須攻め、手這坂合戦、
元亀二年には北条の軍勢2万を辛うじてだが防いでるしな。
この時代の有名な武将は全員若年から活躍してる
義重は政宗より若い15歳で家督を継いで大国北条相手に何度か勝利をおさめてる
18歳の時には足利義昭から援助要請がきたぐらいだから
すでにかなり名は知られていたみたい
北条相手に勇猛さを発揮して坂東太郎と恐れられたのが24歳の時
>>41
全員というのは言い過ぎだと思うが同感。
年取ってから勢力を急速に拡大していった元就も、
若い頃に大内、尼子の間をうまく渡り歩いて家を守っているし、
尼子の猛攻を防いでもいる。
家康も方針を一大転換して織田家と同盟を結んで、
本能寺の変の目前では大大名になっている。
局地戦や防衛戦では義重の能力は相当優れていたと思うよ。
北条方の補給基地に少数の兵で夜襲をかけた時についたものだな。
そう、下妻だか下館だかのあたり
古先御戦聞書っていう佐竹方の記録によると、岩井らしい。
若い頃は、ド貧民の小者で苦労しながらから成り上がった秀吉はどうなるんだ?
若くして人質生活で苦労した家康は?
島津、大友、毛利、長宗我部、足利などなど、戦国を彩った人々は若い頃は
何にもしていなかったとでも言ってるのか?
足利をその中で挙げるのはどうかと思うが。
秀吉は若い頃から手腕を発揮してただろ
普通の百姓が侍になるってだけで異常な出世だ
田舎者同士の戦いには勝てても、洗練された中央政権の武将相手には全く通用せず、秀吉や家康たちからは、その小細工ぶりを笑いものにされ、あの前田利家ごときには「二股膏薬」と冷笑され、徳川政権においては道化を務めた。
そこまで言っちゃ可哀相だよ・・・
確かに結果的に見ると北のほうで必死あがいてただけで
道化めいてるけどさ
そういえば、伊達政宗の戦略・政略が中央政権に対して効果があった例を見たことないねw
しょせん田舎者は都会人には通用しない。
信長に「鳥なき島の蝙蝠」とバカにされた長宗我部元親をはじめ、九州では無敵でも
秀吉にはあっさり叩き潰された島津、井の中の蛙の北条氏政(当時の関東はド田舎)など
「田舎の英雄」は「洗練された中央政権の武将」には勝てない運命。
秀忠、家光の代で外様の中で補佐役(アドバイザー?)として
その意見を取りいれられたりもするんだが、
そういうのは中央政権にたいして効果があったとはいわないのか?
>>58
それは秀忠・家光の「飾り」だろ。
昔の征夷大将軍たちも、鎮圧された東北の蝦夷の酋長・武将を都に連れ帰って
自分の武勇・権力の飾りとして使った。
都の人々も、それら敗れた者たちを「勇敢な敵」として称えることによって、
それを破った中央政権の武将や兵士たちの強さを誇りにした。
ご意見番扱いされても、実際に政権を動かす者の中に入れてもらえたわけでなく、しょせんはゲスト。
むしろ政宗は徳川政権の旗本ごときにも恥辱を与えられた。
結局、中央政権の武将たちの戦歴・権力を称え、彼らを満足させるための「飾り」「道化」「戦利品」に過ぎない。
政宗は有能なやつじゃない!派手好きなだけの道化だ!
といいたいのか。それとも
有能な面もあるが天下とれるほどのやつじゃないだろ、
といいたいのか。
俺は後者の方だな
政宗は全国でも屈指の名将だったとは思うけど
伊達厨はあまりに妄想しすぎ
古来から名の知れた名家だから地盤が固まってたような気がするけど
実際はほんの小勢力にすぎない
関東でも僻地の山岳地帯を数郡もってたにすぎない
よくあれで北条、伊達を敵に回して戦えたと関心する
外交・謀略が余程優れていなければあっという間に潰れてるよ
芦名の後継者争いで佐竹の血縁が後継者になったときあたりなのかな?
芦名と佐竹も政宗の代になる前は敵対していた気がしたのだが。
以前から伊達とは仲悪かったみたいけど
直接衝突するようになったのは芦名の後継者問題の時からであってると思うよ
とすると義重と政宗が直接ぶつかり合う戦闘は発生しなかったのかな?
摺上原だけとると伊達家vs佐竹家(政宗vs義重ではない)という観点では、
伊達の完勝のようだけど。
秀吉の介入が遅れていたら、
摺上原直後は北条と伊達に隣接することになった佐竹の情勢は相当危険だっただろうな。
義重と政宗が直接ぶつかったことは一度もなかったみたい
常に他勢力の援護って形
人取り橋の戦いではだいぶ佐竹と伊達も激戦をくりかえして
誰だったか忘れたけど佐竹の将に危うく討ち取られはぐった話しもある
直接ぶつかりあってないなら戦争に関しては、
どちらが上というのは答えが出ないんだな。
なら後は有事のときの身の処し方とか政治や外交の手腕で比べるしかないか。
直接といっても佐竹だけと伊達だけって戦闘がなかったってだけで
合戦自体は何度もやっているよ
戦術にかけては義重>政宗だと思う
いつも戦闘では伊達が押されてる気があるから
戦略は政宗>義重だと思う
いつも佐竹は有利に戦闘を進めるのに
ゴタゴタがおきて引き上げてるから
あと運に関しては政宗>>>>>>>義重だねw
>>83
おおむね同意。
伊達vs連合軍で伊達が数的優位を保ったことはあまりなかったが、
苦しいときにも外交で周りから介入させて引き分けに持ち込む手腕は政宗の特徴。
政宗は最初から芦名の主力を滅ぼすことを考えていたみたいだけど、
その政宗の方針を佐竹が(主導権は芦名が握っていたかもしれないが)読み切れなかった。
そういえば政宗が家督を継いでから義重が家督を譲るまでってそんなに長くなかったような。
そんな感じだろうな。
ただ政宗が家督を継いだ頃は、佐竹は殆ど秀吉旗下の大名みたいになってたから、
戦略の幅は狭まってたように思える。
天正年間後期は積極的に動いてなかったみたいだし。
そこが難しいところだね
義重贔屓に見れば
すでに天下は秀吉に治まったのを見ていて
惣無事令を守り豊臣政権下で勢力を伸ばす方が得策と思い
伊達との戦闘も消極的だった可能性があるとも思える
逆に政宗はやはり田舎者で
秀吉がいくら権勢ふるってるといってもこっちまでは来れないだろ
やっちまえ~って程度で芦名を攻め滅ぼしたとも思える
結局会津は取り上げられてしまったのだから
軍事費、人員の損害から見ると決して頭のいいやりかたじゃなかったと思ってしまう
本当の名将ならわざわざ金かけてまで秀吉に討伐の理由を与えるような事はしないだろ
でも実際に、佐竹は秀吉が台頭してきた頃からは、
南下する伊達、北上する北条を抑える為の出兵しかしてない。
息子を葦名に入れたり、政略のほうはやってたみたいだが。
そうなんだよね
秀吉の政権が落ち着いてきたあたりから
佐竹の動きは大幅に縮小されてるんだよね
北条に限っては全面戦争ってのは全くなかった
伊達はたびたび南下を繰り返してきたから迎え撃っていたけど
佐竹側からの侵攻ってのは一度もないよね
だからどうしても伊達が芦名を滅ぼしたってよりは
佐竹が見殺しにしたように見えてしまう
だから摺上原での動きを佐竹の判断ミスだって言う奴もいれば、
秀吉との密約や圧力があっての行動だっていう奴も出てくるんだな。
義重VS政宗だったら直接対決のあった郡山の合戦ははずせないな。
インターネットに詳細な資料なさそうなんで俺が書いてやる。
1588年6月17日
宮森城を出陣した伊達政宗(22)が、郡山に陣を構え、
安積郡に侵攻してきた佐竹義重(42)・芦名義広〔14)の連合軍と戦闘に入った。
連合軍4000に対して、伊達氏は大崎・最上氏との境にも軍勢を配備しなくてはならなかったため、
わずか600の劣勢だった。
郡山の合戦とよばれるこの戦いは、田村清アキ死後の田村家をめぐる政宗と相馬義胤の抗争が原因で、
義胤を側面から援助するために義重、義広の連合軍が北上してきたのである。
政宗は郡山城と窪田城を死守し、7月16日に岩城氏と石川氏の調停によって講和が成立する。
8月5日、田村氏の本城三春城に入った政宗は、滞在40日の間に、田村家中の相馬派を排除し、
政宗を頼る田村宗アキを三春城主にすえる。
ほぼ一年後磨上原の合戦。
逢瀬川を南北に挟んで対陣したんだよな。
政宗は窪田に堀を掘って、更に郡山城にも兵を入れて佐竹方を牽制。
佐竹方も郡山窪田間に堀を掘らせ、砦を設けて対陣した。
7月4日の伊達成美と新国頼基の衝突をきっかけに戦闘が開始され、
その後、岩城常隆・石川昭光の調停で和睦。
「しげざね」じゃ一発変換できないから「なるみ」でやってるんだよ。
どの程度の腕前だったんだ?
凄腕
俺は鬼義重のほうが一枚上手だと思うが・・・
奥義も伝授されたらしいね。
鬼真壁は霞流の開祖だし、主従ともに凄腕の剣術家だったわけだ。