おいら、川中島の戦いの生き残りだよ。何でも聞いてよ。
よく謙信助かったなと思ふ
ほとんどがなぞに包まれたものであるから、よほど強力な物的証拠でも
ない限り創作とか捏造とかもしくはこれで間違いないとか決め付けることは
できない。
>>467
物証というなら、たしか、妻女山には陣を構築した跡がみられない、とかなかったかな?
どのみち、啄木鳥戦法だのが甲陽軍鑑に依拠する以上、疑問視されるのは当然の話だが。
三池純正説ね? そもそも陣の跡って?
山頂が掘削されて、平らになってるのはどう説明するんだ?
甲陽軍鑑を疑問視すれば、信長公記とかも全部疑問視されるだろな。
手紙や日記と比較してどうなのか考えると、軍鑑いがいの軍記もの
よりも信頼できるだろ。成立年代も古いし
資料批判の結果、甲陽軍鑑の信憑性の低さと、信長公記の信頼性の高さが現在言われている
のだが。
詳しい根拠がよくわからないんだよ。
>>472
いえいえ、甲陽軍鑑の著者は、小幡景憲ではなくて高坂昌信だそうですよ表向きは。
…この時点でうさんくさいよなあ。最近では、昌信は最後まで春日姓を続け、高坂姓
を名乗ったことはないのだとか(高坂姓の文書がまったくみられない)。
>…この時点でうさんくさいよなあ。最近では、昌信は最後まで春日姓を続け、高坂姓
>を名乗ったことはないのだとか(高坂姓の文書がまったくみられない)。
俺は最後まで春日姓だと思ってたけど……
香坂氏を継ぐという名目で。
高坂昌信は軍鑑のみ記述。
香坂氏が信玄に成敗されたあと、春日虎綱が名跡をついで香坂を名乗ったというのが
これまでの通説ですが、春日姓の文書はあっても香坂姓の文書が全くない、またその
後継者も春日姓を名乗っていることなどから、春日虎綱の香坂氏継承自体がなかった
ことだと今ではされています。
さらに、香坂氏が成敗された後もその存在は確認できるので、香坂氏は春日虎綱の配下
だった、とも。
もう一つ上げると、「高坂弾正忠」の名は偽文書にはあっても、確実な文書には見られ
ず、甲陽軍鑑の創出であるとも。
味方の隊をぐるぐる回して順繰りに突撃って。
てか後ろ半分を休ませて遊軍にしとくってどうなの?
いつ武田の別働隊がケツ突っつきに来るかわからないのにそんな無駄なことするほど謙信ってアホだったの?
>後ろ半分を休ませて遊軍にしとくってどうなの?
むしろ軍事ではセオリーですが?
当然武田の他部隊が横槍入れようとするわけだが、その動きを見せた
途端、上杉後方に控えていた部隊が動き出し、横槍のさらに横槍を入れよう
とする動きを見せる。こうすると武田はうかつに動けなくなる。そうこう
しているうちに初めに攻撃された武田部隊がドンドンやられていって壊滅的
打撃を受け、結果大将首をいくつも取られることになった。これが世に言う
「車懸りの陣」ではないかとオレは考えているのだが。
車懸りの見方は同意。
485がセオリーというのは、後詰決戦の意味。
意見が多いのだがいかに??
孫子の兵法に曰く、「真の兵法とは“水”のように兵を用いる事・・云々」
というようにある。>>486にあるような変幻自在、臨機応変の用兵を
いうのではないか、と思うのだが。
車懸かりの陣は本来防御陣形である
円陣から反撃に移る戦法のことだという。
川中島合戦においては、上杉軍は
武田軍の動きを察知して陣払いをし、
善光寺方面に退却中であった。
千曲川を渡り、霧が晴れると思わぬことに
側面に武田軍本隊が進出してきていた。
行軍中で長く伸びた隊列を突かれては
一溜まりもなく、上杉軍は止むを得ず先制攻撃を仕掛け
る。行軍の先頭から急反転して武田軍
に襲い掛かかる。武田軍に反撃の暇を与えない
ために、絶え間なく攻撃を仕掛けたことが車懸かりの陣の真相ではないか、
みたいなことが書いてあった。さもあらん。
とれたのだろうか?
普段から訓練しているわけでもないのに。
していたんでないの?なんつうか、武将が「こっちに動け」とか
「あっちに突撃」とか集団行動ってなかなか難しいけど、慣れに
よっていくらかはすんなり動けるようになってたとか。
役目でしょ。上杉謙信が無類の戦上手ってのは疑いないのだから、当時の事情を
反映したより良いやりかたを熟知していたと考えるのが妥当だ。
>>495
>当時の事情を反映したより良いやりかた
これのレベルが、講談で言われるような「車懸りの陣」を行うには不可能だ、
と言っているのでは。
上杉だから、織田だから武田だから可能不可能なのではなく、16世紀の日本
の社会体制(軍制度はその社会による)では不可能だと。
半農半武だろうと訓練くらいできるわ。孫武の時代からやってるっつの。
>>497
時代や場所によって異なる、と言っているのに、違う事例を挙げても説明にはならない。
紀元前の中国で出来ること出来ないことは、戦国時代の日本と完全に一致するわけではない
のだから。同じ中国ですら、春秋と戦国では社会の変化によって軍制、兵法は変わっている。
ヨーロッパでは、ローマの共和制と帝政、さらにローマ滅亡後の中世ヨーロッパの封建諸侯の
軍隊は全く異なる。当然、出来ること出来ないことも。
反論するのなら、16世紀の日本での事例を挙げてくれ。講談の類は除いてね。
何らかの訓練はあったと見ることは出来る。
いずれにしてもやたら強いし統制が取れていたのは事実だし。
他がへなちょこだった予感
越後のような雪国だと冬に雪を掻き分けて歩かなきゃいけないので
足腰が自然に鍛えられて、それが戦場での強さにつながったとか
>>504
そういった地域差というのもあっただろう。しかしそれは頑健さとか機敏さとか、個人
の強弱でしかない。軍としての熟練度はまた別。この集団行動は専門に訓練されなければ
不可能。
好例なのが古代のローマとゲルマン。個人のちからでは体格や膂力でゲルマン人が上だが、
軍としては圧倒的にローマ軍が優れていた。
と不思議に思うんだが・・・。甲斐もそうだね。土地が痩せていたそうな。
飢えた兵ほど略奪に活躍するんでは?
軍としての統制は崩壊しているな。
それが常態だと言うなら、ますます当時の軍隊に「車懸かりの陣」なんて不可能
農業地帯の農民は軍の統制行動にも慣れるのが早いのではないか?
多かったとか。そして敵軍との間が詰まったところで白兵戦に突入、って順番。
そうすると、「構えー! 放てー!」の号令のもと一斉に射撃したり、指揮官
がタイミングを見て「突撃ー!」と一気に襲い掛かったりする。
ならば統制は取れていなければできないな。
世界まる見えでドイツの武田信玄を崇拝する団体が紹介されてた。
黒澤明の「影武者」か?
そうらしい
日本(甲府)に来るのが念願だったみたいだけど、
まだ来てないのかな。
そしてゆきだるまは関東から以北に生息していることが発覚。で、どこの県?
ちなみに信玄の隠れ湯は山梨県内に複数あるw
紛糾しますな。参考になるのはまず甲陽軍鑑だけど、それも創作ではないか
といわれてるし。他の重要資料ってどれくらいあるんだろ?いままでの
ログを見たが、当時の手紙などは少なくとも“当時のもの”として
重要である、って意見もあったが。
戦前からずっと紛糾してるよ、いや江戸時代から、
上杉家は軍鑑がデタラメだって。
けど、上杉文書は軍鑑をもとに書かれたんだけどね。
非常な疑わしさを感じてしまうよな。
後世に書かれた軍談くらいを参考にするしか手段がない、というのは
赤壁の戦いと似ている。
戦国時代の史料はほとんどそうだぞ。
信長公記でも都合よく家臣が書いたものだし。
いちおう、軍鑑を書いた小幡は父親が川中島に出陣してるしな。
ただしその日一日で決着した戦ではない。
双方損害を出しながらも長いこと粘った。
それは信玄が書いた手紙にまだ上杉軍が
残っているとある事でも分かる。
>残っているとある事でも分かる。
飯山城とか国境の城砦のことだろ? それなら川中島合戦の前から
終わっても常駐してたってわけで、永禄4年9月10日の戦は、
1日で終わってる。史料の読み方間違えんな!
長沼の浄興寺の記録には18日に戦に巻き込まれて
堂宇が焼けたともある。
信越国境際まで上杉軍が後退してしまっていたら、
これはおかしいわけでねえ。
何の史料を以って一日で終わったと断言しているのかな?
続いていたということだが、上杉軍が撤退したのは国境付近まで遠く、
ではなく葛尾城など最寄の上杉傘下の城などであって、しばらくは付近に
駐屯しており、10日以降も小競り合いが起こったということではないだろうか。
569ではないが、北信濃には上杉方の信濃国人衆がいるわけだから、
日常的に衝突はあったんでは? 長沼といえば飯山城よりはるか南で
犀川以北だが、高梨勢の南の前線と考えればうなずける。
上杉家御年譜には、その日のうちに髻山で首実検をしてるとあるし、
武田方も八幡原で首実検をしてるわけで、合戦はこの段階でピリオドだろうな。
5次にわたる川中島合戦いがいにも、北信濃をめぐる越甲の衝突は何度も
あるけど、謙信と信玄が直接対峙したものだけを川中島とすれば、第4次川中島
の戦闘は1日だけで終わったとみるのが無難。ただし、在陣を入れると8月中旬
からだから、約1ヶ月?
合戦期間に含めてもよさそうだけどな。
実際問題として、10日の戦闘の後にすぐ撤退というのは
まず無いだろうし。
信玄は9月10日に2通、9月26日と10月11日に各1通ですね
信玄は10日のうちに既に送っているのだな。
普通に考えてぜってー壊滅するwww
甘粕を残して丹波島から撤退
あんま目立たないんだよねこの人。ナゾの猛将甘糟景持・・・まあ
かっくいいんだが。
信玄を討ち取れていたらまだしも、未だ健在で上杉方絶体絶命だったと思うんだが。
よくわからん
になるのか。まあ、前半戦でいくつもの大将首を取られるほど信玄本隊は
叩かれていたから別働隊をほとんど無視して本隊の残りを強引に押し切れば
考えられなくもないが。
円形に陣を組む車懸の陣に死角は無いよ。
従って挟撃だろうが何だろうが問題無い。
兵力差で押される事はあっても
背後を衝かれて壊乱なんて事は有り得ない。
そこんとこわかってる?
挟撃って事はお前の言う死角が無い状態でも、戦力を2分する事になるんだぞ?
しかも退路を塞がれたらどんな強兵でも動揺するって何かに書いてあった。
また点で敵と接し戦うが故に挟撃とてその利点は生かせぬ。
元より外周をゆったりと循環しながら次の出番を待つ兵なれば
疲労度の増加ペースが多少増すだけのこと。
鶴翼の陣などという古典的陣形によって全員を常に緊張状態に置く
武田軍にくらべればそれでも余裕がある。
挟撃されても退路を絶たれても、敵より余裕になれるなんて。
しかも兵数の差は約2倍なのに。
兵士の半分は外周をグルグル。それが上杉クオリティー。
凡将は回転する上杉軍の曲線的陣形を線で捉える事が出来ず、
点で捉える事しか出来ないためにこれは兵の無駄使いである。
相手に兵の無駄遣いを強いつつも一点に力を集中し打ち破るのが
神将上杉謙信である。
違う。意図的にやったのである。
ソースは?
謙信公の強さは伝説的である。
故にその戦術も伝説的である。
休まずひたすら回るのではない。
戦には駆け引きがあり、押す時間帯も引く時間帯もある。
故に円陣を基調とし一点から押し込み
そして引きながら全体を回転させて戦闘正面を変えるのである。
魚鱗だ鶴翼だと言っても単なる方陣の並べ方に過ぎず
それしか智慧の回らない凡将は
神将謙信の戦闘正面を変えながら戦うという発想の前に
ただ無為に前列の兵を疲れさせそこから崩れて負けるのである。
円陣を基調とし全方位が戦闘正面を務められるようにする事で
四方八方への前進後退自由自在の移動が可能であり
尚且つ側背への攻撃を弱点としない。
一部の兵しか事実上戦闘に参加できないような隊列を組む
凡将どもが相手なら、謙信公であれば三倍四倍を相手することも
可能である。
>故に円陣を基調とし一点から押し込み
>そして引きながら全体を回転させて戦闘正面を変えるのである。
押すときも退く時も全体が動くなら、兵士全員に休む時間がない
これじゃ自壊するね
後半の記述が少ないのはそれだけ激戦で陣もへったくれも無かったのだろう。
と俺は解釈。
上杉本隊6000が3縦隊となって八幡原へ進軍。丹波島には直江の荷駄隊1000、千曲川峰に甘粕隊1000を配置。
午前六時、濃い霧が晴れて隊の右手前方に武田本隊の鶴翼8000を確認。
先鋒の柿崎隊から右向きに順次突撃を開始。信玄自身が傷つくほどに武田軍は壊滅寸前にまで追いやられる。
午後十時、別働隊が千曲川を渡って、迂回に備えていた甘糟隊1000を軽く駆逐。
上杉本隊の背後に迫り、挟撃を開始。
上杉軍は堪え切れず壊走。犀川を渡り、善光寺方面へ退却。
午後四時、信玄は八幡原で勝鬨を上げた。その後、会津城へ入り、甲府へ凱旋帰国。
謙信は善光寺で残兵4000を掌握、春日山へ退却した。
上杉軍の死傷率72%、武田軍の死傷率88%。川中島は武田のものに。
文献資料がありそうなのに、
なぜ川中島のことがよく分からないの・・・。
特に景虎についた奴ら
甲陽軍鑑では山本勘介と馬場信房が相談の上で作戦を立て
それによれば1万2000が西条山に向かって戦をして
勝っても負けても謙信は引き上げるだろうから
それを8000の兵で討ち取るという作戦。
迂回だ何だとは書いていない。(重要かも!)
1万2000の方が別働隊だと思われがちだが
どちらかと言うと8000の方が別働隊。いわば伏兵。
で早朝濃霧になるのだが、
八幡原で待ち構えていた信玄は
霧が晴れたら無傷の上杉軍が目の前にいてビックリと。
数で勝る上杉軍が入れ替わり立ち代わり攻めかかる「車懸」で
来たのでさすがの信玄も押されまくりになると。
ただその際にグルグルをやったかと言うと今一度うだかなあと言う感じですが。
はたして当時そういうことができたのかどうか。なにせ命令伝えるのも人力ですから。
前へ出ろとか後ろへ下がれ程度なら合図決めて出来るかも知れんけど
敵とぶつかり合ってる連中に戦場横切って味方の陣の方へグルっとまわってけとかどうなの?
甲陽軍鑑の記述によれば、
信玄が出した物見は上杉軍は退いていると応えた。
武田軍の部隊を迂回しては前を塞ぐようにして。
そして信玄はそれは車懸である、という。
車懸とは何順目かに自分の旗本と相手の旗本をぶつけるものだと。
これらから推測するに、車懸として想定されている戦術は、
相手の前線を務める各部隊に対してそれぞれに部隊をぶつけ、
そして退きながら戦わせて釣り出し、敵の本陣の周囲を手薄にさせて
自分の本隊でそこを叩くというもののようだ。
やはり
妻女山にしちゃったり
迂回奇襲作戦にしちゃったり
ぐるぐる回したりしちゃったり
したのは全て江戸の講談師かとw
一番恩恵を被ったのは後北条だけど。
川中島は平安時代からいくつもの荘園が開かれていた
信濃で一番の穀倉地ですが?
だいたいその「辺鄙な場所」に拘泥して謙信の関東進出は
遅れに遅れたんでしょうがw
戦略的には双方敗者。
武田は多大な出血と時間を費やして、猫の額ほどの土地を得た。
戦略目標の立て方の失敗による敗北。
直江津を始めとする日本海側の津を握れば大きな飛躍が出来て、戦略的大勝利だろうが、
現在の目から見れば、若く英邁な君主を擁する越後を制するというのは無謀だ。
長尾は武田と恒常的な敵対関係に陥り、最優先目標であった関東制覇に多大な支障が出た。
これも戦略目標の立て方の誤りだが、善光寺から春日山までの距離を考えると
現在の目から見ても、戦わない選択枝があった、とは思えない。
その前に、織田の徳川の扱いみたいに、北信の領主たちをバッファゾーンとして取り込んで置くべきだった。
長期的な視野がなかったかも知れない。
その緩衝地帯になるはずの村上氏とかが追い出されて、影虎に泣きついたのがそもそもの・・・
甲斐一国の大名が信濃以外に進みようがあったなら教えてよw
むしろ越後を本拠とする謙信が関東制覇を最優先目標にした事自体が
重大な戦略ミスだと思うが。
万単位の軍を率いて三国峠を越える無駄を考えたら、関東なんか
北条にくれてやって、対武田・一向一揆に専念するべきだった。
ただ、そうすると目の上のたんこぶが消えた北条が巨大勢力化するな。
色々言っても、善光寺平は広いからね。
後世真田が領したときは、名目10万石だったはず。
戦火が落ち着けば、善光寺参りの人から銭も落ちる。
戸隠山の修験者ネットワークにもアクセス可能になる。
比叡山延暦寺を見延山に誘致しようとした信玄の目から見れば、
悪くないと考えていたかもしれない。
他に攻めるところといったら、美濃くらいだから、
これでもいいや、と思ったんじゃないだろうか。
とか言うより「信濃一国」が欲しかったんじゃないかと。