于禁字文則、泰山鉅平人也。黄巾起、鮑信招合徒衆、禁附従焉。
于禁は字を文則といい、泰山郡鉅平県の人である。黄巾が蜂起すると、鮑信は兵士を招き集め、于禁はそれに付き従った。
及太祖領?州、禁与其党?詣為都伯、属将軍王朗。朗異之、薦禁才任大将軍。
太祖(曹操)が?州を領有すると、于禁とその配下はみな会いに行って都伯となり、将軍の王朗(王景興ではない。彼はまだ陶謙配下または会稽太守をしている)の部下になった。王朗は彼を優れていると思い、于禁の才は大将軍に任じるべきだと推薦した。
太祖召見与語、拝軍司馬、使将兵詣徐州攻広威。抜之、拝陥陳都尉。
太祖は会見させて彼と語り、軍司馬に任命し、兵を率いて徐州に行かせ広威を攻撃させた。これを落とし、陥陳都尉に任命された。
従討呂布於濮陽、別破布二営於城南、又別将破高雅於須昌。従攻寿張、定陶、離狐、囲張超於雍丘、皆抜之。
濮陽での呂布討伐に従い、別動隊として城の呂布の城の南の二つの陣営を破り、また別動隊として須昌で高雅を破った。寿張、定陶、離狐の攻撃に従い、雍丘で張超を包囲し、すべて攻略した。
「陳」は「陣」で「陣を陥落させる」という意味があるんや
へー
地名かと思た
「陳」は並べたものやからな
陳列とか陳述とか
従征黄巾劉辟、黄邵等、屯版梁。邵等夜襲太祖営、禁帥麾下撃破之、斬辟邵等尽降其衆。遷平虜校尉。従囲橋?於苦、斬?等四将。
黄巾の劉辟、黄邵らの征伐に従い、版梁に駐屯した。黄邵らが太祖の陣営を夜襲すると、于禁は配下を率いてこれを撃破し、劉辟・黄邵らを斬りその手下を全員降伏させた。平虜校尉に昇進した。苦での橋?の包囲に従軍し、橋?ら四将を斬った。
従至宛、降張?。?復叛、太祖戦与不利、軍敗、還舞陰。是時軍乱各間行、求太祖。禁独勒所将数百人、且戦且引雖有死傷不相離。
従軍して宛に行き、張?を降伏させた。張?はふたたび背き、太祖は戦っても勝てず、敗北し、舞陰に帰還した。この時軍は乱れ各々は小道を進んで、太祖を探した。于禁は単独で数百人を率い、戦いつつ撤退して死傷者はいたが離ればなれにはならなかった。
虜追稍緩、禁徐整行隊鳴鼓而還。未至太祖所、道見十余人被創裸走、禁問其故、曰「為青州兵所劫」初、黄巾降、号青州兵、太祖寬之、故敢因縁為略。
追撃がやや緩むと、于禁はゆっくりと部隊の列を整え太鼓を鳴らしながら帰還した。太祖の所に行かないうちに、道で十人余りが傷を負い裸で進んでいるのを見かけたので、于禁がそのわけを問うと、(彼らは)言った「青州兵が略奪をしたのです」
当初、黄巾を降伏させ、青州兵と名付けると、太祖は彼らに寛大で、ゆえにそれに乗じて略奪をしたのである。
ここ一歩間違ったら反逆者よな
それは曹操の度量を信じたのかも
曹操という人は嫌いな人間なら評判も気にせず殺す一方で
ほれ込んだ人物にはとても寛大だ
改めて面白いと思ったわ
禁怒、令其衆曰「青州兵同属曹公、而還為賊乎」乃討之、数之以罪。青州兵遽走詣太祖自訴。
于禁は怒り、配下に命じて言った「青州兵とは一緒に曹公に属していたが、以前に戻って賊となったか」そこで彼らを討伐し、彼らの罪として責めた。青州兵は慌てて太祖のもとに行って(于禁を)訴えた。
禁既至、先立営塁、不時謁太祖。或謂禁「青州兵已訴君矣、宜促詣公弁之」
于禁は到着すると、まず陣営や塁(とりで)を作り、すぐさま太祖に会いに行かなかった。ある者が于禁に言った「青州兵はすでに君(于禁)を訴えに行きましたので、すぐに公(曹操)にお会いして弁解なさってください」
禁曰「今賊在後、追至無時、不先為備、何以待敵。且公聡明、譛訴何縁」徐鑿塹安営訖、乃入謁、具陳其状。
于禁は言った「今賊は後方にいて、追いつくのはまもなくだというのに、先んじて備えておかず、敵を待てるはずがなかろう。さらに公(曹操)は聡明であらせられるから、讒訴などどうにもなるまい」
ゆっくりと塹壕を掘り陣営を作り終えてから、(曹操に)会いに行き、つぶさに事情を説明した。
天気が悪いんや…
正道でしか戦ってこなかった于禁には
数多の戦を経験した関羽は天敵だったんでしょ
太祖悦、謂禁曰「?水之難、吾其急也。将軍在乱能整、討暴堅塁。有不可動之節。雖古名将、何以加之」於是録禁前後功、封益寿亭侯。
太祖は喜び、于禁に行った「?水の難(張?に敗北したことを指す)では、私は危急であった。将軍は混乱の中でよく整然とし、暴虐(反乱した青州兵)を討って塁(とりで)を築いた。揺るぎない忠節がある。古の名将といえども、これ以上はあるまい」
こうして于禁の前後の功を記録し、益寿亭侯に封じた。
復従攻張?於穣、禽呂布於下?。別与史渙曹仁、攻?固於射犬、破斬之。
また穣での張?の攻撃に従い、下?では呂布を捕らえた。別動隊として史渙や曹仁とともに、射犬で?固を攻撃し、撃破して斬った。
集団には絶対に必要な人だけに悲しい
将軍には厳しさと仁愛が両方揃ってなければならないというが
于禁はそこが惜しまれる
関羽と張飛合体させたら解決やね(にっこり)
上にも下にもつらく当たるクソ上司が完成しそう
士大夫を軽蔑し兵をいたぶるんですね
太祖初征袁紹、紹兵盛、禁願為先登。太祖壮之、乃遣歩卒二千人、使禁将、守延津以拒紹。
太祖が袁紹を討伐した当初、袁紹の兵は盛んで、于禁は先駆けを願い出た。太祖は彼を雄壮だと思い、そこで歩兵二千人を与えて、于禁に統率させ、延津を守って袁紹を拒ませた。
太祖引軍還官渡。劉備以徐州叛、太祖東征之。紹攻禁、禁堅守、紹不能抜。
太祖は軍を引き連れて官渡に戻った。劉備は徐州で反乱し、太祖は東に行ってこれを征伐した。袁紹は于禁を攻撃したが、于禁は堅守し、袁紹は攻略できなかった。
でもなんでたった二千の于禁軍に阻まれたのか
やっぱ子の病で本腰やなかったんやろか
袁紹は出兵してないという伝もあるし
袁紹が配下を出して小競り合いさせたのを主将を省いて書いてるのかもね
復与楽進等将歩騎五千、撃紹別営。従延津西南縁河至汲、獲嘉二県、焚焼保聚三十余屯、斬首獲生各数千、降紹将何茂、王摩等二十余人。
また楽進らと歩兵・騎兵五千を率い、袁紹の別の陣営を攻撃した。延津から黄河に沿って西南に向い汲、獲嘉二県に到り、保聚(人を集めて守りを固める施設)三十屯余りを焼き、斬首し生け捕った者はそれぞれ数千となり、袁紹の将の何茂、王摩ら二十人余りを降伏させた。
太祖復使禁別将屯原武、撃紹別営於杜氏津、破之。遷裨将軍。
太祖はまた于禁を別動隊の将として原武に駐屯させ、杜氏津にある袁紹の別の陣営を攻撃させ、(于禁は)これを破った。裨将軍に昇進した。
後従還官渡、太祖与紹連営、起土山相対。紹射営中、士卒多死傷、軍中懼。禁督守土山、力戦、気益奮。紹破、遷偏将軍。
のちに(曹操に)従って官渡に戻り、太祖と袁紹は陣営を連ね、土山を作って対峙した。袁紹は陣営の中に射かけ、兵士の多くが死傷し、軍中は恐れた。于禁は指揮して土山を守り、力戦し、ますます奮い立った。袁紹を破ると、偏将軍に昇進した。
冀州平。昌?復叛、遣禁征之。禁急進攻?、?与禁有旧、詣禁降。諸将皆以為「?已降、当送詣太祖」
冀州は平定された。昌?がまた背き、于禁にこれを討伐させた。于禁は急行して昌?を攻め、昌?は于禁と旧交があったので、于禁のもとに降伏しに行った。諸将はみな思った「昌?はすでに降伏したのだから、太祖のもとに護送して会わせるべきだろう」
禁曰「諸君不知公常令乎。囲而後降者不赦。夫奉法行令、事上之節也。?雖旧友、禁可失節乎」自臨与?決、隕涕而斬之。
于禁は行った「諸君は公(曹操)の定めた法令を知らないのか。包囲されたあとに降伏した者は許してはならない。そもそも法を奉じて令を行うのが、上に仕える者の忠節というものだ。昌?とは旧友だが、禁(わたし)は節を失うつもりなどない」
自ら昌?に会って決別し、涙を流しながら彼を斬った。
うーんこの融通の効かなそうな感じ
昌?と于禁でどのタイミングでともになったんやろ
同郷やったんかなぁ
曹操に降伏してた時期あったからその時に知り合いになったのかも
女にされたりオカマになったり
于禁がオカマにされてるって何?
コーエーの決戦Ⅱ
裴松之の注釈に面白いコメントがあるので紹介
「包囲されてからの降伏は認められないとしても、曹操のもとに護送するのは命令違反ではない旧友が曹操に許されることを期待せず、皆の意見も聞かなかったのだから、最後に自身が降伏し、悪い諡を与えられたのは、当然である」
諡はその人物の生前の行いによってつけられる。于禁の「厲」は逸周書の諡法解によれば「暴慢無親曰厲。殺戮無辜曰厲(要は悪いやつ)」とのこと
張遼は主将じゃないから別扱い
特例で曹操が許した
その法律は当時なかった
今考えた説
是時太祖軍淳于、聞而嘆曰「?降、不詣吾而帰禁。豈非命耶」益重禁。東海平、拝禁虎威将軍。
この時太祖は淳于に軍を置いていたが、(于禁が昌?を斬ったと)聞いて嘆いて言った「昌?は降伏したが、私ではなく于禁の所に来た。天命であろう」ますます于禁を重んじた。東海を平定すると、于禁を虎威将軍に任命した。
後与臧覇等攻梅成。張遼張?等、討陳蘭。禁到、成挙衆三千余人降。
のちに臧覇らと梅成を攻めた。張遼・張?らは、陳蘭を討伐した。于禁が到着すると、梅成は配下の三千人余りを連れて降伏した。
既降復叛、其衆奔蘭。遼等与蘭相持、軍食少、禁運糧前後相属。遼遂斬蘭、成。増邑二百戸、并前千二百戸。
降伏してからまた離反し、彼の配下は陳蘭のもとに逃げた。張遼らは蘭相と対峙し、兵糧は少なくなり、于禁は兵糧を運んで前後で続けさせた。張遼はついに陳蘭、梅成を斬った。邑二百戸を増やし、前と合わせて千二百戸になった。
こういう融通の利かなさもあるんかね
正論しか吐かん奴が嫌われるのに近いんやない?
曹丕は割と根に持つタイプだから
皇帝に就く前に何かしらやらかしたんでない?
満寵もそれだと嫌われてそう
でも満寵はこれで勝つ?ってとこで勝つし…
是時、禁与張遼、楽進、張?、徐晃?為名将、太祖毎征伐咸遞行為軍鋒、還為後拒。而禁持軍厳整、得賊財物、無所私入。由是、賞賜特重。然以法御下、不甚得士衆心。
この時、于禁は張遼、楽進、張?、徐晃とともに名将で、太祖が征伐するたびにかわるがわる付き従って先鋒となり、帰還すればしんがりとなった。于禁は軍を持すれば厳しく整え、賊の財物を手に入れても、自分のものにしなかった。そのために、恩賞は特別多かった。
しかしながら法で配下を統御したので、兵士たちの歓心はあまり得られなかった。
是時はこの時よか当時の方が相応しいな
太祖常恨朱霊、欲奪其営。以禁有威重、遣禁将数十騎、斉令書。径詣霊営奪其軍、霊及其部衆莫敢動。
太祖は常日頃から朱霊を嫌っており、その陣営を奪おうとした(解任しようとした)。于禁には威厳があるため、于禁に数十騎を率いさせ、命令書を持っていかせた。朱霊の陣営に行ってその軍を奪ったが、朱霊やその部下は動こうとしなかった。
徐州虐殺に加担したんやろなぁ
あんだけ忠義を尽くした袁紹から簡単に離れるとは考えにくい
乃以霊為禁部下督、衆皆震服。其見憚、如此。遷左将軍、仮節鉞、分邑五百?、封一子列侯。
こうして朱霊を于禁の部下の指揮官としたが、人々はみな震え上がって服従した。彼が憚られていることは、このようであった。左将軍に昇進し、節と鉞が貸し与えられ、邑五百戸を分け、子の一人が列侯に封ぜられた。
建安二十四年、太祖在長安、使曹仁討関羽於樊、又遣禁助仁。秋、大霖雨、漢水溢、平地水数丈、禁等七軍皆没。
建安二十四(219)年、太祖は長安にいて、曹仁に樊で関羽を討伐させ、また于禁に曹仁を助けさせた。秋、とてつもない長雨があり、漢水が氾濫し、平地には数丈も水があり、于禁らの七軍はすべて水没した。
禁与諸将登高望水、無所回避。羽乗大船就攻禁等、禁遂降、惟?徳不屈節而死。太祖聞之、哀嘆者久之、曰「吾知禁三十年。何意、臨危処難反不如?徳邪」
于禁は諸将と高みに登って水を眺めたが、逃げられる場所がなかった。関羽は大船に乗って于禁らを攻めに行き、于禁はついに降伏したが、?徳だけは節を折らずに戦死した。
太祖はそのことを聞くと、悲しみ嘆いてしばらくしてから、言った「私が于禁を知って三十年になる。思いがけず、危機に臨み難に遭ってかえって?徳に及ばないとは」
曹操は負けて戻ってきても許しそう
だが内心では戦死して忠義示してもらいたかったんやろなあ
会孫権禽羽、獲其衆、禁復在呉。文帝踐?、権称藩、遣禁還。
おりしも孫権が関羽を捕らえ、配下を生け捕り、于禁も呉にいた。文帝(曹丕)が位に就くと、孫権は藩国を称し、于禁を返還した。
帝引見禁、鬚髪皓白、形容??、泣涕頓首。帝慰諭以荀林父、孟明視故事、拝為安遠将軍。
文帝が于禁を引見すると、ひげも髪も真っ白になり、容貌は憔悴しており、泣きながら頓首した。文帝は荀林父、孟明視(ともに春秋の人物。どちらも戦場で大敗したが許され、のちに大功を立てている)の故事を引き合いに出して慰め、安遠将軍に任命した。
虞翻ストレスすご∃
そのせいで于禁の評価もボコボコにされてそうよね
あれ対比の構造とはいえ于禁が可哀そう
欲遣使呉、先令北詣?謁高陵。帝使予於陵屋画関羽戦克、ホウ徳憤怒、禁降服之状。禁見、慚恚発病薨。
(曹丕は)呉に使者として送ろうとし、まず北の?に行かせて高陵を詣でさせた。文帝はあらかじめ陵の建物に関羽が戦いに勝利し、ホウ徳が憤怒し、于禁が降服しているさまを描かせていた。于禁はそれを見ると、恥じ入って発病して死んだ。
ねえわ
桓温も仇の息子殺して名を挙げてたな
息子どころか孫ひ孫その他一族を数十年後だからねえ
子圭嗣封益寿亭侯。諡禁曰厲侯。
子の于圭があとを継いで益寿亭侯に封じられた。于禁は厲侯と諡された。
なかなかできることじゃないですよこれは
晋の将軍で楚に負けたから死罪を賜ろうとしたけど生かされて
鄭に厳正なる閲兵行って晋の威信を取り戻させたってある辺り
曹丕も意地悪いわね
廟の裏で「ドッキリ大成功」のプラカード持ってる曹丕想像して草
その後に曹操が墓から登場して二重ドッキリになってそう
于禁「ポックリ」
曹丕「ハァ…(クソデカため息)厲侯な!」
別に優しくもない世界
于禁は剛毅で重厚だが終わりを全うできなかったとあるで
叛心ありとフカヨミしてそう
今更謀反とかいわれてもって感じだが
せやで適当や
三国志以外も詳しいとか凄いな
ワイは趣味で中国史勉強してるだけの人やぞ
本当にすきなだけでやってる
乙やで