歴史書の訳

正史三国志「黄権&王平&張嶷伝」の全文訳と解説をするで

2020年2月22日

409: 名無し 平成31年 04/08(月)21:26:51 ID:6Ro
黄権、王平、張嶷伝やります

412: 名無し 平成31年 04/08(月)21:30:08 ID:6Ro

黄権、字公衡、巴西?中人也。少為郡吏、州牧劉璋召為主簿。

黄権は、字を公衡といい、巴西郡?中県の人である。若くして郡吏となったが、州牧の劉璋が召して主簿にした。

414: 名無し 平成31年 04/08(月)21:30:57 ID:6Ro

時、別駕張松建議、宜迎先主、使伐張魯。権諌曰「左将軍有驍名。今請到、欲以部曲遇之則不満其心、欲以賓客礼待則一国不容二君。

このとき、別駕の張松は建議して、先主(劉備)を迎え、張魯を討伐させるべきだとした。黄権は諌めて言った「左将軍(劉備)には勇名があります。今呼びつけ、兵士として待遇すれば不満に思うでしょうし、賓客の礼で待遇すれば一国に二人の君はいられません。

419: 名無し 平成31年 04/08(月)21:32:04 ID:6Ro

若客有泰山之安則主有累卵之危。可但閉境以待河清」璋不聴、竟遣使迎先主。出権、為広漢長。

客が泰山の安きにあれば主は累卵の危きにあるのです(泰山は巨大な山で安泰したものの譬え、累卵は積み重ねた卵で崩れやすいものの譬え)。国境を閉ざして黄河が清らかになる(事態が落ち着く)のを待つべきです」
劉璋は聞かず、ついに使者を遣わして先主を迎えさせた。黄権は(中央から)出されて、広漢の長となった。

420: 名無し 平成31年 04/08(月)21:33:28 ID:6Ro

及先主襲取益州、将帥分下郡県。郡県望風景附、権閉城堅守、須劉璋稽服、乃詣降先主。先主仮権偏将軍。

先主が益州を襲撃して奪うにあたり、将帥は分かれて郡県に向かった。郡県は恐れて服従したが、黄権は城を閉ざして堅く守り、劉璋が稽首(頭を地面にこすり付ける礼)して降伏してから、ようやく先主に会いに行って降伏した。
先主は黄権に偏将軍を与えた。

421: 名無し 平成31年 04/08(月)21:34:22 ID:6Ro

及曹公破張魯、魯走入巴中、権進曰「若失漢中、則三巴不振。此為割蜀之股臂也」於是、先主以権為護軍、率諸将迎魯。

曹公(曹操)が張魯を破ると、張魯は逃げて巴中に入り、黄権は進言した「もし漢中を失えば、三巴(巴・巴東・巴西)は振るわなくなります。これは蜀の股や臂を割かれるようなものです」そこで、先主は黄権を護軍に任じ、諸将を率いさせて張魯を迎えさせた。

423: 名無し 平成31年 04/08(月)21:35:17 ID:6Ro

魯已還南鄭、北降曹公。然、卒破杜?、朴胡、殺夏侯淵、拠漢中。皆権本謀也。

張魯はすでに南鄭に戻って、北に向かい曹公に降伏していた。しかしながら、杜?、朴胡を破り、夏侯淵を殺し、漢中を占拠できた。すべて黄権の立てていた謀であった。

※このとき関羽が別に荊州で行動しており、それは諸葛亮の隆中対に沿っている
漢中攻略までの方針を立てたのが黄権、出兵を決断させたのが法正
このほか法正は定軍・興勢で夏侯淵に勝負を仕掛けることを促した

425: 名無し 平成31年 04/08(月)21:36:29
>>423
重要そうやのに端折られてんな

427: 名無し 平成31年 04/08(月)21:38:35 ID:6Ro
>>425
正史はもともと簡潔なもんやで

430: 名無し 平成31年 04/08(月)21:40:21
>>427
そうやけど謀の中身とかもうちっとあってもいいじゃん

432: 名無し 平成31年 04/08(月)21:42:07 ID:6Ro
>>430
蜀は重要人物でさえ記録がバッサリ抜け落ちてたりするんや
おそらくこれも詳細な記録が残されてなかったんやろうな

424: 名無し 平成31年 04/08(月)21:36:17 ID:6Ro

先主為漢中王、猶領益州牧、以権為治中従事。及称尊号、将東伐呉、権諌曰「呉人悍戦、又水軍順流、進易退難。臣請為先駆以嘗寇。陛下宜為後鎮」

先主は漢中王になったが、なおも益州牧のままでいて、黄権を治中従事とした。帝号を称するにあたり、東に行って呉を討伐しようとしたので、黄権は諌めて言った
「呉人は猛々しく戦い、また水軍は流れに従いますから、進むのは簡単でも撤退するのは難しくございます。どうか臣を先駆として賊を試させていただきたい。陛下は後方をお鎮めくださいませ」

426: 名無し 平成31年 04/08(月)21:37:23 ID:6Ro

先主不従、以権為鎮北将軍、督江北軍以防魏師。先主自在江南。

先主は従わず、黄権を鎮北将軍とし、江北の軍を率いさせて魏の軍を防がせた。先主は自ら江南に向かった。

428: 名無し 平成31年 04/08(月)21:38:46 ID:6Ro

及呉将軍陸議、乗流断囲、南軍敗績、先主引退。而道隔絶、権不得還、故率将所領、降于魏。有司執法、白収権妻子。先主曰「孤負黄権。権不負孤也」待之、如初。

呉の将軍の陸議(陸遜)が、流れに乗じて軍営を破るに及び、(劉備の)南軍は敗績し、先主は撤退した。そのため道が断絶され、黄権は帰還できず、そのため部隊を率いて、魏に降伏した。
役人は法規の通り、黄権の妻子を捕らえたいと申し上げた。先主は言った「孤(わたし)が黄権に背いたのだ。権が孤に背いたのではない」妻子を待遇すること、初めと同じであった。

429: 名無し 平成31年 04/08(月)21:39:43 ID:6Ro

魏文帝謂権曰「君、捨逆効順。欲追蹤陳韓邪」

魏の文帝(曹丕)は黄権に行った「君は、逆(蜀)を捨てて順(魏)に従った。陳韓(古の陳平・韓信。楚から漢に寝返った)に倣おうとしたのか」

431: 名無し 平成31年 04/08(月)21:40:33 ID:6Ro

権対曰「臣、過受劉主殊遇。降呉不可、還蜀無路、是以帰命。且、敗軍之将、免死為幸。何古人之可慕也」

黄権は答えた「臣は、劉主より過分な待遇を受けておりました。呉に降伏できず、蜀に帰る路がなかったので、帰順したのです。しかも、敗軍の将は、死を免れれば幸いとするものです。どうして古人を追慕できましょうか(自分にはその資格はない)」

433: 名無し 平成31年 04/08(月)21:42:15 ID:6Ro

文帝善之、拝為鎮南将軍、封育陽侯、加侍中、使之陪乗。蜀降人或云、誅権妻子。権、知其虚言、未便発喪。後得審問、果如所言。

文帝はこれを善しとし、鎮南将軍に任命し、育陽侯に封じ、侍中を加え、(自分の車に)陪乗させた。蜀から降伏したある人が、黄権の妻子は誅殺されたと言った。黄権は、その嘘がわかっており、すぐには喪に服さなかった。あとで詳しい話が届くと、果たして(黄権の)発言の通りであった。

434: 名無し 平成31年 04/08(月)21:43:23 ID:6Ro

及先主薨問至、魏群臣咸賀、而権独否。文帝、察権有局量、欲試驚之、遣左右詔権。未至之間、累催相属、馬使奔馳、交錯於道。

先主が亡くなったとの話が届くと、魏の群臣はみな慶賀したが、黄権だけは拒否した。文帝は、黄権には度量があるとわかっており、試しに驚かせてやろうと思い、側近をやって黄権を詔で召した。
到着するまでの間、何度も催促して続けざまに人をやり、馬に乗った使者を走らせたので、道で(彼らは)交錯した。

435: 名無し 平成31年 04/08(月)21:44:04 ID:6Ro

官属侍従、莫不砕魄、而権挙止顔色自若。後、領益州刺史、徙占河南。

属官や侍従のうち、恐懼しない者はなかったが、黄権だけは挙動は落ち着き顔色は普段通りであった。のちに、益州刺史となり、河南に移り住んだ。

436: 名無し 平成31年 04/08(月)21:45:00 ID:6Ro

大将軍司馬宣王、深器之、問権曰「蜀中有卿輩幾人?」権笑而答曰「不図、明公見顧之重也」宣王与諸葛亮書曰「黄公衡、快士也。毎坐起嘆述足下、不去口実」

大将軍の司馬宣王(司馬懿)は、彼をとても重んじ、黄権に問うた「蜀中には卿のような人がどれくらいいるのだ?」黄権は笑って答えた「思いもよりませんでした、明公(司馬懿)が私をこれほど重んじてくださるとは」
宣王が諸葛亮に与えた書には「黄公衡(黄権)は、快活な男です。いつも足下(諸葛亮)のことを褒め称え、口にしないことがありません」

437: 名無し 平成31年 04/08(月)21:45:53 ID:6Ro

景初三年、蜀延熙二年、権遷車騎将軍、儀同三司。明年卒、諡曰景侯。子?嗣。?無子、絶。

景初三年、蜀の延熙二年(239年)、黄権は車騎将軍、儀同三司に昇進した。翌年亡くなり、景侯と諡した。子の黄?が後を継いだ。黄?には子がなく、(後継は)絶えた。

438: 名無し 平成31年 04/08(月)21:46:57 ID:6Ro
王平と張嶷も同じ伝にあるのでこのまま続けます

439: 名無し 平成31年 04/08(月)21:47:04 ID:6Ro

王平、字子均、巴西宕渠人也。本養外家何氏、後復姓王。

王平は、字を子均といい、巴西郡宕渠県の人である。もとは外家(母方の家)の何氏に養われていたが、のちに王姓に戻した。

440: 名無し 平成31年 04/08(月)21:47:13
文帝さん相変わらず陰湿ですね
魏で何してたんやろ

441: 名無し 平成31年 04/08(月)21:48:34 ID:6Ro
>>440
彼の伝から見るに実権は与えず飼い殺しかな?
降伏した者は高待遇しますよアピールだけに使われるだけの存在

442: 名無し 平成31年 04/08(月)21:48:41 ID:6Ro

随杜?朴胡、詣洛陽、仮校尉、従曹公征漢中。因降先主、拝牙門将、裨将軍。

杜?・朴胡に従い、洛陽に行き、校尉を与えられ、曹公(曹操)に従って漢中を征伐した。そのときに先主(劉備)に降伏し、牙門将、裨将軍に任じられた。

443: 名無し 平成31年 04/08(月)21:49:30 ID:6Ro

建興六年、属参軍馬謖先鋒。謖、舍水上山、挙措煩擾。平、連規諌謖、謖不能用、大敗於街亭。

建興六(228)年、参軍の馬謖の先鋒隊に所属した。馬謖は、水利を捨てて山に登り、行いが煩雑であった。王平は、続けざまに馬謖を諌めたが、馬謖は(諌言を)用いられず、街亭で大敗した。

446: 名無し 平成31年 04/08(月)21:50:27 ID:6Ro

衆尽星散、惟平所領千人鳴鼓自持、魏将張?疑其伏兵、不往?也。於是、平、徐徐収合諸営遺迸、率将士而還。

兵士たちは全員散り散りとなったが、ただ王平の率いる千人だけは太鼓を鳴らして持ちこたえたので、魏将の張?は伏兵を疑い、近寄ろうとしなかった。こうして、王平は、徐々に諸営の敗残兵を集め、将士を率いて帰還した。

447: 名無し 平成31年 04/08(月)21:51:17 ID:6Ro

丞相亮、既誅馬謖及将軍張休李盛、奪将軍黄襲等兵。平、特見崇顕、加拝参軍、統五部兼当営事、進位討寇将軍、封亭侯。

丞相の諸葛亮は、馬謖及び将軍の張休・李盛を誅殺し、将軍の黄襲らの兵を取り上げた。王平は、特に尊ばれ、参軍を加えられ、五部(王平・馬謖・張休・李盛・黄襲の兵)を統率させ軍営の事務に当たらせ、討寇将軍に昇進させ、亭侯に封じた。

449: 名無し 平成31年 04/08(月)21:52:07 ID:6Ro

九年亮囲祁山、平別守南囲。魏大将軍司馬宣王攻亮、張?攻平。平、堅守不動、?不能克。

建興九(231)年諸葛亮は祁山を包囲し、王平は別に南の包囲を固めた。魏の大将軍の司馬宣王(司馬懿)は諸葛亮を攻め、張?は王平を攻めた。王平は、堅く守って動じず、張?は勝てなかった。

450: 名無し 平成31年 04/08(月)21:53:19 ID:6Ro

十二年亮卒於武功、軍退還。魏延作乱一戦而敗、平之功也。遷後典軍、安漢将軍、副車騎将軍呉壱、住漢中、又領漢中太守。十五年、進封安漢侯、代壱督漢中。

建興十二(234)年諸葛亮は武功で亡くなり、軍は撤退した。魏延が反乱を起こして一戦したが敗北したのは、王平の功績である(>>0�。
後典軍、安漢将軍に昇進し、副車騎将軍の呉壱と、漢中に行き、また漢中太守となった。建興十五(237)年、安漢侯に爵位を進められ、呉壱に代わって漢中を治めた。

※具体的には魏延の反乱軍と対峙した際、王平が正論を説いたことで魏延の兵は彼を助けなくなり、容易に討伐できたことを指す
魏延伝参照

451: 名無し 平成31年 04/08(月)21:54:45 ID:6Ro
>>450
ちなみに王平はこのころ母方の何姓を名乗っていた
演義で唐突に登場する何平はこの王平のことなんやで

452: 名無し 平成31年 04/08(月)21:54:54 ID:6Ro

延熙元年大将軍蒋?、住?陽。平、更為前護軍、署?府事。六年?還住?、拝平前監軍、鎮北大将軍、統漢中。

延熙元(238)年大将軍の蒋?は、?陽に駐屯した。王平は、改めて前護軍となり、蒋?の大将軍府の事務を任された。六(239)年蒋?は?に帰還して留まり、王平を前監軍、鎮北大将軍に任じ、漢中を統率させた。

453: 名無し 平成31年 04/08(月)21:56:00 ID:6Ro

七年春、魏大将軍曹爽率歩騎十余万向漢川、前鋒已在駱谷。時、漢中守兵不満三万、諸将大驚。

延熙七(240)年春、魏の大将軍の曹爽は歩兵・騎兵十万余りを率いて漢川に向かい、先鋒はすでに駱谷にいた。このとき、漢中の守備兵は三万に満たず、諸将は大いに驚いた。

454: 名無し 平成31年 04/08(月)21:56:40 ID:6Ro

或曰「今力不足以拒敵、聴当固守漢楽二城。遇賊令入、比爾間、?軍足得救関」

ある者は言った「今の力では敵を拒めませんから、漢・楽の二城を固守いたしましょう。賊に遭遇したら侵入させ、その間に、?の軍は関を救援できます」

455: 名無し 平成31年 04/08(月)21:57:39 ID:6Ro

平曰「不然。漢中、去?垂千里。賊若得関、便為禍也。今宜、先遣劉護軍、杜参軍拠興勢、平為後拒。

王平は言った「それは違う。漢中は、?から千里もある。賊がもし関を手に入れれば、たちまち禍となろう。今すべきことは、まず劉護軍(劉敏)、杜参軍(杜祺)を遣わして興勢に依拠させ、平(わたし)はしんがりとなろう。

456: 名無し 平成31年 04/08(月)21:58:32 ID:6Ro

若賊分向黄金、平率千人下自臨之。比爾間、?軍行至、此計之上也」惟護軍劉敏、与平意同、即便施行。

もし賊が分かれて黄金に向かったならば、平(わたしは)千人を率いて下り自らそれに臨もう。その間に、?の軍は到着し、この計が最上だ」護軍の劉敏だけが、王平と意見が一致し、すぐさま実行に移した。

457: 名無し 平成31年 04/08(月)21:59:25 ID:6Ro

?諸軍及大将軍費?、自成都相継而至、魏軍退還、如平本策。是時、鄧芝在東、馬忠在南、平在北境、咸著名迹。

?の諸軍及び大将軍の費?は、成都から続々と来て到着し、魏軍は撤退したが、王平の策の通りとなった。このとき、鄧芝は東におり、馬忠は南におり、王平は北の境にいて、みな名声と業績を顕した。

458: 名無し 平成31年 04/08(月)22:00:22 ID:6Ro

平、生長戎旅。手不能書、其所識不過十字。而口授作書、皆有意理。使人読史漢諸紀伝、聴之、備知其大義、往往論説、不失其指。

王平、軍中で成長した。自分で文字を書けず、知っているものは十文字を越えなかった。しかしながら口伝えに文書を作り、すべてに意味と道理が通じていた。
人に『史記』・『漢書』のそれぞれの紀伝を読ませ、これを聞き、その重要な事柄をよく理解し、頻繁に論じ合ったが、本質を間違ってはいなかった。

459: 名無し 平成31年 04/08(月)22:01:13 ID:6Ro

遵履法度、言不戯謔、従朝至夕端坐徹日、?無武将之体、然性狭侵疑、為人自軽、以此為損焉。十一年卒、子訓嗣。

法規を遵守して履行し、冗談を言わず、朝か夕まで端座して一日を過ごし、武将のようではなかったが、しかしながら性格は偏狭で疑い深く、自らを軽んじ(体裁を整えないくらいの意か)、それによって評価を損なった。延熙十一(248)年に亡くなり、子の王訓が後を継いだ。

460: 名無し 平成31年 04/08(月)22:02:26 ID:6Ro

張嶷、字伯岐、巴郡南充国人也。弱冠為県功曹。

張嶷は、字を伯岐といい、巴郡南充国の人である。弱冠(二十歳)にして県の功曹となった。

461: 名無し 平成31年 04/08(月)22:02:37
周りにはあまり好かれないタイプか

463: 名無し 平成31年 04/08(月)22:05:57 ID:6Ro
>>461
そうみたいね
偏狭で疑い深く←は将軍としてはいいとして人気が出るような人柄ではないしな

462: 名無し 平成31年 04/08(月)22:03:05 ID:6Ro

先主定蜀之際、山寇攻県、県長捐家逃亡。嶷、冒白刃、攜負夫人、夫人得免。由是顕名、州召為従事。時、郡内士人?禄、姚?位二千石、当世有声名、皆与嶷友善。

先主(劉備)が蜀を平定した際、山賊が県を攻め、県長は家を捨てて逃亡した。張嶷は、白刃の中を進み、夫人を引き連れ背負い(逃げたので)、夫人は難から免れることができた。
このため有名になり、州は召して従事とした。この時、郡内の士人の?禄、姚?は位が二千石で、当時名声があったが、みな張嶷の親友となった。

466: 名無し 平成31年 04/08(月)22:06:53 ID:6Ro

建興五年、丞相亮北住漢中。広漢綿竹山賊張慕等、鈔盗軍資、劫掠吏民。

建興五(227)年、丞相の諸葛亮は北に行って漢中に駐屯した。広漢・綿竹の山賊の張慕らは、軍需を盗み取り、吏や民をさらった。

469: 名無し 平成31年 04/08(月)22:08:14 ID:6Ro

嶷、以都尉、将兵討之。嶷、度其鳥散、難以戦禽、乃詐与和親、尅期、置酒。酒酣、嶷身率左右、因斬慕等五十余級、渠帥悉殄。尋其余類、旬日清泰。

張嶷は、都尉として、兵を率いてこれを討伐した。張嶷は、(賊が)四散し、戦って捕らえるのは難しいと考え、そこで偽って和親し、期日を決めて、酒宴を開いた。
酒宴がたけなわになると、張嶷は自ら側近を率い、張慕ら五十人余りの首を斬ったので、頭目は全滅した。残党を探し、十日で掃討された。

470: 名無し 平成31年 04/08(月)22:09:10 ID:6Ro

後、得疾病困篤、家素貧匱。広漢太守蜀郡何祗、名為通厚。嶷、宿与疎闊、乃自?詣祗、託以治疾。

のちに、病気になって重症となったが、家はもともと貧乏であった。広漢太守である蜀郡の何祗は、義に厚いことで名が知られていた。張嶷は、長らく疎遠であったが、自ら輿に乗って何祗を訪ね、病気を治療してもらいたいと頼んだ。

471: 名無し 平成31年 04/08(月)22:10:08 ID:6Ro

祗、傾財医療、数年除愈。其党道信義、皆此類也。

何祗は、財を傾けて治療し、数年後には回復した。(張嶷が)道理のあるものと仲間になり義のあるものを信じるのは、すべてこの通りであった。

472: 名無し 平成31年 04/08(月)22:10:40
何祗って占われた人やっけ

475: 名無し 平成31年 04/08(月)22:12:40 ID:6Ro
>>472
占いはあったかな?
秀才で演義?統が県令だったときのような逸話は知ってる

480: 名無し 平成31年 04/08(月)22:14:17
>>475
ググってきた
趙直に48で死ぬっていわれてた

482: 名無し 平成31年 04/08(月)22:15:00 ID:6Ro
>>480
サンガツ
趙直に言われたら死ぬわ(確信)

473: 名無し 平成31年 04/08(月)22:10:58 ID:6Ro

拝為牙門将。属馬忠、北討?山叛羌、南平四郡蛮夷、輒有籌畫戦克之功。

牙門将に任命された。馬忠の配下となり、北に行って?山の反乱を起こした羌族を討伐し、南に行って四郡(諸葛亮の南征は建興三年なのでその時に恢復した四郡とは違うだろう。どの四郡かは馬忠伝にも書いていなかった)の蛮賊を平定し、その都度策を立てて勝利の功績があった。

474: 名無し 平成31年 04/08(月)22:12:21
蜀の異民族キラーか

478: 名無し 平成31年 04/08(月)22:13:33 ID:6Ro
>>474
蜀の異民族対策は馬忠と張嶷が重きをなしてるね

476: 名無し 平成31年 04/08(月)22:12:48 ID:6Ro

十四年、武都?王苻健、請降。遣将軍張尉、往迎、過期不到、大将軍蒋?深以為念。

建興十四(251)年、武都の?王の苻健が、降伏を求めた。将軍の張尉に、迎えに行かせたが、期日を過ぎても到着せず、大将軍の蒋?はとても心配した。

479: 名無し 平成31年 04/08(月)22:13:47 ID:6Ro

嶷、平之、曰「苻健求附款至、必無他変。素聞、健弟狡黠、又夷狄不能同功。将有乖離。是以稽留耳」

張嶷は、彼をなだめて、言った「苻健は帰順を求めて内通してきたのですから、心変わりしたというわけではないでしょう。もともと聞いておりますが、苻健の弟は狡猾で、また蛮族には同じ功(帰順)を立てようとしないでしょう。仲間割れが起こったのです。それで留まっているのです」

481: 名無し 平成31年 04/08(月)22:14:37 ID:6Ro

数日、問至、健弟果将四百戸就魏。独健来従。

数日後、音信が通じ、苻健の弟は果たして四百戸を率いて魏に帰順したとのことであった。苻健は単独で来て服従した。

483: 名無し 平成31年 04/08(月)22:15:56 ID:6Ro

初、越?郡、自丞相亮討高定之後、叟夷数反、殺太守?禄、焦?。是後、太守不敢之郡、只住安定県。去郡八百余里、其郡徒有名而已。

当初、越?郡は、丞相の諸葛亮が高定を討伐した後、叟族が何度も背き、太守の?禄、焦?を殺した。そのあと、太守は郡に行こうとせず、安定県に留まるだけであった。郡から八百里余り離れており、その郡は名のみの存在であった。

484: 名無し 平成31年 04/08(月)22:16:05
趙直は諸葛亮陣没のすぐ後に魏延に招かれて
頭に角生える夢見たけどどないなん?って占いを依頼された人だっけ?

486: 名無し 平成31年 04/08(月)22:17:05 ID:6Ro
>>484
せやで
ほかにも蒋?が公になるのも予言したとか

485: 名無し 平成31年 04/08(月)22:16:33 ID:6Ro

時論欲復旧郡、除嶷、為越?太守。嶷、将所領往之郡、誘以恩信、蛮夷皆服、頗来降附。

このときもとの郡を取り戻そうという議論があり、張嶷を任命し、越?太守とした。張嶷は、配下を率いて郡に行くと、恩愛と信義で誘ったので、蛮族はみな帰服し、降伏しに来る者が多かった。

487: 名無し 平成31年 04/08(月)22:17:49 ID:6Ro

北徼捉馬、最驍勁、不承節度。嶷、乃往討、生縛其帥魏狼。又解縦告?、使招懐余類。表拝狼、為邑侯、種落三千余戸皆安土供職。諸種聞之、多漸降服。嶷、以功賜爵関内侯。

北の境の捉馬族は、とても強く、制度に従おうとしなかった。張嶷は、そこで討伐に向かい、首領の魏狼を生け捕った。さらに解放して諭し、残党を招かせた。上表して魏狼を、邑侯にしてやり、部落三千戸余りはすべて土地に住み着き職を持てた。
諸族はそれを聞くと、だんだんと降服する者が多くなった。張嶷は、功績によって関内侯の爵位を賜った。

489: 名無し 平成31年 04/08(月)22:18:57
心を攻める有能

490: 名無し 平成31年 04/08(月)22:19:02 ID:6Ro

蘇祁邑君冬逢、逢弟隗渠等、已降、復反。嶷、誅逢。逢妻、旄牛王女、嶷以計原之。

蘇祁の邑君(村長)の冬逢と、冬逢の弟の隗渠らは、降伏しながら、ふたたび背いた。張嶷は、冬逢を誅殺した。冬逢の妻は、旄牛族の王女で、張嶷は計略として彼女を許した。

493: 名無し 平成31年 04/08(月)22:20:55 ID:6Ro

而渠、逃入西徼。渠、剛猛捷悍、為諸種深所畏憚。遣所親二人、詐降嶷、実取消息。嶷、覚之、許以重賞、使為反間。二人遂合謀殺渠。渠死、諸種皆安。

隗渠は、逃亡して西の境に入った。隗渠は、剛勇で荒々しく、諸族がとても恐れ憚っていた。(隗渠は)親しい二人を、偽って張嶷に降伏させ、実際は情報を手に入れていた。
張嶷は、それをわかり、手厚い恩賞を約束して、離間させた。二人はそこで共謀して隗渠を殺した。隗渠が死ぬと、諸族はみな安らかになった。

497: 名無し 平成31年 04/08(月)22:22:00 ID:6Ro

又斯都耆帥李求承、昔手殺?禄。嶷、求募捕得、数其宿悪而誅之。

また斯都の首領の李求承は、昔手ずから?禄を殺していた。張嶷は、捕縛する者を求め、その長年の悪事を責めたうえで誅殺した。

499: 名無し 平成31年 04/08(月)22:23:06 ID:6Ro

始嶷、以郡郛宇?壊、更築小塢。在官三年、徙還故郡、繕治城郭、夷種男女莫不致力。

当初張嶷は、郡の城郭が壊れていたことから、改めて小さな塢(とりで)を築いた。在官三年にして、もとの郡に帰還し、城郭を修繕したが、蛮族の男女で力を尽くそうとしない者はなかった。

501: 名無し 平成31年 04/08(月)22:24:06 ID:6Ro

定?、台登、卑水、三県去郡三百余里。旧出塩鉄及漆、而夷徼久自固食。嶷、率所領奪取、署長吏焉。

定?、台登、卑水の、三県は郡から三百里余り離れていた。もともと塩・鉄及び漆が産出されたが、辺境の蛮族は長らく自分たちで使っていた。張嶷は、配下を率いて奪い取り、長吏に管理させようとした。

502: 名無し 平成31年 04/08(月)22:24:51 ID:6Ro

嶷之到定?、定?率豪狼岑、槃木王舅、甚為蛮夷所信任。忿嶷自侵、不自来詣。

張嶷は定?に到着すると、定?の首領の狼岑は、槃木王の舅で、蛮族からすこぶる信頼されていた。張嶷の侵入に怒り、自ら来ることはなかった。

503: 名無し 平成31年 04/08(月)22:25:53 ID:6Ro

嶷、使壮士数十直往収致、撻而殺之、持尸還種。厚加賞賜、?以狼岑之悪、且曰「無得妄動。動即殄矣」種類咸面縛謝過。

張嶷は、壮士数十人をすぐに行かせて捕らえさせ、鞭打って殺し、屍を持たせて蛮族に返させた。手厚い恩賞を与え、狼岑の悪事について話し、さらに言った「妄りに動いてはならぬ。動けばすぐに殲滅するぞ」蛮族たちはみな面縛(手を後ろで縛り顔を突き出す降伏の仕方)して謝罪した。

506: 名無し 平成31年 04/08(月)22:27:10 ID:6Ro

嶷、殺牛饗宴、重申恩信。遂獲塩鉄、器用周贍。

張嶷は、牛を殺して饗応し、重ねて恩愛と信義の話をした。こうして塩と鉄が手に入り、必要な物はどこでも足りるようになった。

507: 名無し 平成31年 04/08(月)22:28:02 ID:6Ro

漢嘉郡界、旄牛夷種類四千余戸。其率狼路、欲為姑壻冬逢報怨、遣叔父離、将逢衆相度形勢。

漢嘉郡の境の、旄牛の部族は四千戸余りであった。それを率いる狼路は、姑壻(父の姉妹の夫)の冬逢の恨みを晴らそうとして、叔父の狼離を遣わし、冬逢の手下を率いさせて情勢を探らせた。

508: 名無し 平成31年 04/08(月)22:28:04
董卓もしてたらしいけど
異民族に対して牛を殺してもてなすのって最高級の礼なんだっけ?

510: 名無し 平成31年 04/08(月)22:29:35 ID:6Ro
>>508
最高級かは知らんが酒と牛はしょっちゅう出てくるね

509: 名無し 平成31年 04/08(月)22:28:52 ID:6Ro

漢嘉郡界、旄牛夷種類四千余戸。其率狼路、欲為姑壻冬逢報怨、遣叔父離、将逢衆相度形勢。

漢嘉郡の境の、旄牛の部族は四千戸余りであった。それを率いる狼路は、姑壻(父の姉妹の夫)の冬逢の恨みを晴らそうとして、叔父の狼離を遣わし、冬逢の手下を率いさせて情勢を探らせた。

511: 名無し 平成31年 04/08(月)22:30:11 ID:6Ro

嶷、逆遣親近齎牛酒労賜、又令離?逆逢妻、宣暢意旨。離、既受賜、并見其?、?弟歓悦、悉率所領将詣嶷。嶷、厚加賞待、遣還。旄牛、由是輒不為患。

張嶷は、反対に側近に牛や酒を持たせて労わせ、さらに狼離の姉に冬逢の妻を迎えさせ、考えを宣伝させた。狼離は、贈り物を受け取り、さらに姉とも会えたので、姉弟は歓喜し、配下をすべて率いて張嶷に会いに行った。
張嶷は、手厚い恩賞を与えて待遇してから、帰らせた。旄牛族は、このために憂いがなくなった。

512: 名無し 平成31年 04/08(月)22:31:07
張嶷は活躍が詳しく残ってるな

514: 名無し 平成31年 04/08(月)22:32:24 ID:6Ro
>>512
この人はなんでだろてくらい詳細やね
彼と近しい人間が陳寿の知り合いにいたのかもしれん

513: 名無し 平成31年 04/08(月)22:31:20 ID:6Ro

郡、有旧道、経旄牛中至成都、既平且近。自旄牛絶道、已百余年。更、由安上、既険且遠。嶷、遣左右、齎貨幣賜路、重令路姑?意。路、乃率兄弟妻子悉、詣嶷。

郡には、旧道があり、旄牛族の領内を経て成都に到るが、平坦で近かった。旄牛からの道は断絶し、すでに百年余りが経っていた。代わりに、安上を通っていたが、険しくて遠かった。
張嶷は、側近を遣わし、貨幣を持たせて狼路に贈らせ、重ねて狼路の姑(おば)に考えを伝えさせた。狼路は、こうして兄弟妻子をすべて連れ、張嶷に会いに来た。

515: 名無し 平成31年 04/08(月)22:32:35 ID:6Ro

嶷、与盟誓、開通旧道、千里粛清、復古亭駅。奏封路、為旄牛?毘王、遣使将路朝貢。後主於是、加嶷憮戎将軍、領郡如故。

張嶷は、(彼と)盟約を結び、旧道を開通し、千里を払い清め、宿と駅を復活させた。上奏して狼路を封じてもらい、旄牛?毘王にして、使者をやって狼路に朝貢をさせた。後主(劉禅)はそこで、張嶷に憮戎将軍を加え、統治する郡はもとのままだった。

518: 名無し 平成31年 04/08(月)22:34:14
亡命してきた夏侯なんとかに仲良くしようやと誘われながら拒絶した人

521: 名無し 平成31年 04/08(月)22:35:19 ID:6Ro
>>518
夏侯覇さん

519: 名無し 平成31年 04/08(月)22:34:22 ID:6Ro

嶷、初見費イ為大将軍、恣性汎愛、待信新附太過、嶷書戒之曰「昔、岑彭率師、来歙杖節、咸見害於刺客。今明将軍、位尊権重、宜鑑前事、少以為警」後、イ果為魏降人郭脩所害。

張嶷は、当初費イが大将軍となると、気ままに恩愛を広め、新たに降伏した者でも信頼して待遇することが過ぎるので、張嶷は書でそれを戒めた「昔、岑彭は兵を率い、来歙は節(旗)を杖にしてつきながら、みな刺客に殺害されました(今明将軍(費イ)は、位が尊く権力があるのですから、故事を鑑みて、少しは警戒なさってください」

※岑彭・来歙はともに東漢初期の将軍で敵対する勢力の刺客に暗殺されている

522: 名無し 平成31年 04/08(月)22:35:33 ID:6Ro

後、イ果為魏降人郭脩所害。

のちに、費イは果たして魏より降伏した郭脩に殺害された。

523: 名無し 平成31年 04/08(月)22:35:47
費イは魏のカクジュン?に殺されたから間違ってなかったな

525: 名無し 平成31年 04/08(月)22:36:26 ID:6Ro
>>523
うむ
張嶷は予言者のごとく人の末路を言い当てる

526: 名無し 平成31年 04/08(月)22:36:31 ID:6Ro

張嶷が諸葛瞻に手紙を送って諸葛恪のことを諌めさせるが長いので省略
張嶷は諸葛恪が孫権より遺児(孫亮)を託されながら、勝利に乗じて魏に攻め込もうとしていると聞くと、変事が起こるかもしれないからと、それを諸葛瞻に制止させようとした
結果、諸葛恪は北伐に失敗した挙句に誅殺され、陳寿は張嶷の識見を褒め称えている

527: 名無し 平成31年 04/08(月)22:36:56
費イに対して警戒するべきだって言ってるけど
費イじゃなかったら普通に更迭とかされてたやろうね

529: 名無し 平成31年 04/08(月)22:38:24 ID:6Ro
>>527
まず疑って近づけんわな
費イは度胸あるがその裏返しで警戒心も薄いのが欠点

528: 名無し 平成31年 04/08(月)22:37:27 ID:6Ro

在郡十五年、邦域安穆。?乞求還、乃?、詣成都。夷民恋慕、扶轂泣涕。過旄牛邑、邑君襁負来迎、及追尋至蜀郡界。其督相率随嶷朝貢者、百余人。

郡にいること十五年、国境は安寧になった。しばしば帰ることを求めたので、そこで召されて、成都に言った。蛮民は彼を慕い、轂(こしき)を抱き留めて涙を流した。
旄牛の邑を通過すると、邑君(村長)は襁(むつき。ここでは子供の意)を背負って迎えに来て、追いかけて蜀郡の境まで来た。引率していた張嶷について来て朝貢する者は、百人余りもいた。

530: 名無し 平成31年 04/08(月)22:38:35 ID:6Ro

嶷至、拝盪寇将軍。慷慨壮烈、士人咸多貴之。然、放蕩少礼、人亦以此譏焉。是?、延熙十七年也。

張嶷は(都に)到着すると、盪寇将軍に任じられた。意気盛んで勇壮、士人の多くが彼を尊んだ。しかし、品行が収まらず礼儀に欠けるので、人はそれを批難することもあった。この年は、延熙十七(254)年であった。

531: 名無し 平成31年 04/08(月)22:39:34 ID:6Ro

魏狄道長李簡、密書請降。衛将軍姜維、率嶷等、因簡之資、以出隴西。既到狄道、簡悉率城中吏民出迎軍。

魏の狄道の長の李簡は、密書で降伏を願い出た。衛将軍の姜維は、張嶷らを率い、李簡の物資を頼みとして、隴西に出陣した。狄道に到着すると、李簡は城内の役人や民をことごとく連れて出て軍を迎えた。

532: 名無し 平成31年 04/08(月)22:39:39
あんまり堅っくるしくなかったのも異民族に好かれた要因かね?

535: 名無し 平成31年 04/08(月)22:42:24 ID:6Ro
>>532
それはありそう
厳しいだけの人が好かれないのは于禁がいい例

533: 名無し 平成31年 04/08(月)22:39:54
もうシバイ亡くなっとるか?

535: 名無し 平成31年 04/08(月)22:42:24 ID:6Ro
>>533
亡くなっとるで
時代的に司馬の兄が牛耳ってるのかな?

534: 名無し 平成31年 04/08(月)22:40:50 ID:6Ro

軍前、与魏将徐質交鋒。嶷臨陳、隕身。然、其所殺傷亦過倍。

進軍して、魏将の徐質と交戦した。張嶷は陣に臨んで、亡くなった。しかしながら、殺傷した敵は(味方の)倍を超えていた。

536: 名無し 平成31年 04/08(月)22:42:35 ID:6Ro

既亡、封長子瑛西郷侯、次子護雄襲爵。南土越?民夷、聞嶷死、無不悲泣。為嶷、立廟、四時水旱輒祀之。

(張嶷が)亡くなると、長子の張瑛を西郷侯に、次子の張護を雄襲爵に封じた。南の越?の民や蛮族は、張嶷が死んだと聞き、悲しんで泣かない者はいなかった。張嶷のために、廟を建て、四季が来るか水害や干ばつがあればその都度それを祀った。

539: 名無し 平成31年 04/08(月)22:45:07
>>536
ここ「護雄が爵を襲いだ」じゃない?

540: 名無し 平成31年 04/08(月)22:46:21 ID:6Ro
>>539
ホントだ
これどうなってこういう間違いしたんやろか自分で草生えるわ

537: 名無し 平成31年 04/08(月)22:44:00 ID:6Ro
最後に三人の評をまとめて


評曰。黄権、弘雅思量。李恢、公亮志業。呂凱、守節不回。馬忠、擾而能毅。王平、忠勇而厳整。張嶷、識断明果。咸以所長、顕名発迹、遇其時也。

評にいう。黄権は、高雅で思慮深い。李恢は、公正で役目に専心した。呂凱は、節を守り正直であった。馬忠は、おとなしくも断行ができた。王平は、忠勇かつ厳整であった。張嶷は、見識があって果断であった。
みな長所によって、名をあらわして事績を残したが、その時を得られたからである。

542: 名無し 平成31年 04/08(月)22:48:23
>>537
みんな優秀だけどいま一つ華が無いのが惜しい

547: 名無し 平成31年 04/08(月)22:52:21 ID:6Ro
>>542
関張諸葛の派手さに比べると見劣りするのはしゃーない
でもこういう人物も好きだったりする

538: 名無し 平成31年 04/08(月)22:44:22
張嶷は年齢的に60は越えてただろうに
出陣して相手の武将と自軍の倍の兵を葬るってのが恐ろしいわ

540: 名無し 平成31年 04/08(月)22:46:21 ID:6Ro
>>538
老将は廉頗や馬援、黄忠を挙げるがこの人もなかなか

543: 名無し 平成31年 04/08(月)22:48:34
末期蜀の武将って生姜張翼諸葛セン廖化羅憲くらいしか思いつかんな

547: 名無し 平成31年 04/08(月)22:52:21 ID:6Ro
>>543
いないこともないがあまり触れられないからね
ここらへん演義でも姜維ばっかで他は有象無象扱いやし

546: 名無し 平成31年 04/08(月)22:50:31
おつやで

547: 名無し 平成31年 04/08(月)22:52:21 ID:6Ro
>>546
それではワイは落ちるわ
あとは自由に使ってください
ほな、また

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