中国清代の政治家。字は少穆(しょうぼく)。諡は文忠(……)。
イギリスによるアヘン密輸を強硬に取り締まり、怒ったイギリスはアヘン戦争を引き起こした。
福建省侯官に生まれる。父は科挙に挑戦して悉く失敗したため、貧しい教師生活をしていた。林則徐はこの父の無念を晴らすべく学問に励み、1811年(嘉慶十六年)27歳の時に進士となる。その後、北京の翰林院に入った林則徐は多くの行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだという。その地方官を歴任して当時問題とされてきた農村の再建とその解決に欠かせない治水問題に積極的に関わるとともに不正な官吏の大量処分を断行した。彼の地方行政官としての手腕は今日でも高く評価されている。また、彼の阿片根絶の取り組みもこの時の経験から強く意識されたものであると考えられている。
1837年(道光十七年)に湖広総督になる。この時に管内での阿片根絶に実績を上げ、黄爵滋の「阿片厳禁論」に賛同し上書した。実績と論の精密さを道光帝は評価し、1838年に林則徐を阿片禁輸の欽差大臣に任命した。広東に到着した林則徐は英国商人に対して持っている阿片を全て没収し、処分した。これに怒った英国商人たちは林則徐に抗議し、最終的に阿片戦争を引き起こすことになった。
現地の英国商人を支援するためにやって来た英国の東洋艦隊は広東へは行かず、北京に近い天津にやってきた。間近に艦隊を迎えた清の上層部は狼狽し、慌てて林則徐を解任し、英国の意を迎えることに必死になった。林則徐の後任の琦善はひたすら英国に低姿勢で臨み、結果清が大幅に譲歩した南京条約を結ぶ事になった。
欽差大臣を解任された林則徐は新疆に左遷された。しかし林則徐はここで善政を布いた事で住民から慕われた。林則徐にとってもこの場所で南下するロシアの脅威を実見できた事は大きな収穫であり、進士の後輩に対し「将来清の最大の脅威となるのは英国よりもむしろロシアだろう。」と言い残した。これが後の左宗棠らの塞防派を形作る事になった。
1849年(道光二十九年)に隠棲したが、太平天国の乱が勃発すると召しだされ、太平天国に対する欽差大臣に任命された。そして任地に赴く道中に病死した。
林則徐が解任された理由の一つとして、当時の清の官僚には広東の商人から賄賂を受け取っている者が多く、林則徐によりその金が絶たれた事を恨む者がいた事がある。もしも林則徐が変わらず広東で指揮を取り続ければ、英国を撃退できたのではないかと言う仮定はそれほど無理な事とも言えず、後世の中国人は強く惜しんだ。また、欽差大臣就任直後に長年温めてきた直隷の再開発を行って財政・国防上に資するべきであるという上奏(『畿輔水利議』)を行ったために、他の高官から「自分達の直隷での仕事ぶりを怠慢だと誹謗された」との恨みを買った事も原因の一つであるとされている。
常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた姿は後世の人間から強く尊敬されている。
明朝だと、絶対に殺されていた気がする。
「阿片戦争」はイマイチ好きになれなかったけど。
影から世界を動かそうとするキャラがいると萎える
その娘婿も進士だよ。
それをそのまま継承したという意識の方が強いんじゃないかな。
米国商人を通してポルトガル製の軍艦とカノン砲を買い込んで
広東防衛の兵達に使えるよう訓練させてるんだよね
軍事指導者としても一流だったんだな
問題は、林1人が幾ら優秀でも
広東をいくら堅固に防衛しても
清朝本体が旧態依然では何も影響しなかったってことだな
明末の袁崇煥なんかもそうだけど、
中国って、文官でも優秀な軍事指揮官が時々出てくるよね。
実入りも良いとは言えないしな
文官のわりに名将というより、出るしかないというか
明の武官が恵まれないのもその辺りに原因があるだろう
中央にコネないからすぐ罷免される
軍隊に入れなきゃ、盗賊になるしかない。
上司に苛められたりしなかったのかな?
濁流の中で清らかな水が残るのは難しい。
そうでなきゃ、あそこまで高い地位には登れないよ。
引き起こしたのはイギリスでは?
清は取り締まっただけだし
責めるのは酷だな。
結果だけ見たら、族滅級の大罪だろうけど。
圧倒的な戦闘能力の差は国家システムの違いからきているんだから
阿片撲滅は結構だけど急進的過ぎたな
しかし、本来インドから船で攻めてくる英軍は兵力は限られ、補給にも問題があるから、長期戦になれば勝てると考えてもおかしくない。
問題は林則徐解任後、英国の目的を賠償のみと考え、和睦を考えて兵力を削減したこと。
靖遠砲台を守って戦死した水師提督関天培の元には二百人しか兵力が無かったうえ、援軍要請も無視された。
また林則徐が集めた義勇軍を解散(武装解除もせず)したことで失業した連中が、生活のために英軍に協力した。
彼ら現地協力者(漢奸と呼ばれた)によって情報は筒抜け、加えて清軍は遠方から派遣された軍が中心で、軍の派遣を要請された地方ではわざわざ質の悪い兵を選び、さらに兵力を水増ししていた。
結果、英軍より少数の兵力で戦うことになったり、地理に暗く動きも遅いので各個撃破されたり、弱兵ぞろいなので逃亡兵が続出したという事情もある。
俺も政権内で意思統一が出来てれば長期的には勝てたか痛み分けになったと思うな。
そこまでの覚悟が無く日和ってしまったのが結局裏目に出てしまった。
阿片厳禁を林則徐に命じながら、英軍が舟山を占領し天津を目指すと聞いて驚いて林則徐を解任し、後任に和平派のチシャンを任命していながら、英軍が広東に去ると再び強硬論に傾いた道光帝がいかんな。
もっとも道光帝も明の皇帝たちに較べればかなり優秀だし、だからこの程度ですんだという考え方もあるが。
誰が何のために頑張って持たせたんだろう?w
意外と無能な皇帝のほうが、全部委任して政権の意思統一ができるかもしれないな。
結果もっと悪くなるかもしれんけど。
自らは国民の健康を慮り、阿片に反対したが、皇帝の排外主義に追随し、むしろ銀流出防止が主眼の阿片消毀を実行した。
そして、英国が武力をもって反抗すると、清国軍は一たまりも無く敗北した。
則徐の外政への視野は狭く、戦争の原因をつくり、結果として中国を敗亡に追いやったのである。
まぁ失敗したけど、でも林則徐は失敗すると最初からわかってたよね
わかってたけどやらないわけにはいかなかった
あと林則徐の視野が狭いといってもまわりはもっと狭かったような
軍艦はイギリス軍からジャンク(がらくた)と言われるくらいショボかったし。
のちのアロー戦争とかを見ても、どうあがいてもイギリス軍相手には勝ち目はなかった。
英国軍を撃退するという観点ではね
装備が優れていても、英国は本国から遠く離れていて、
展開できる兵力規模に限界があったし、実際綱渡り的に拾った勝利もあった
清側の軍事指揮、兵の運用が稚拙だったのに加え、
内部のゴタゴタ、現場の足の引っ張りあいがいろいろ悪影響を及ぼしたのが敗因
内陸で徹底的に抵抗すれば余裕かもね
ただこの時の清朝は漢人に大軍を預けようとしなかったからな
己の分を弁えて、攻める時には攻め引き際を誤ることもない。
林則徐のように急進的に物事を進めることもなく確実に実力を高める方法を取った。
逆境のなか列強との交渉も李鴻章でなければなし得なかった。
林則徐如きは李鴻章の足元にも及ばんよ
いや清朝も悪いと思う
日本ではペリーが開国させたけど、イギリスも清朝の開国を望んでた
でも清朝は三跪九叩頭の礼をはじめ、まともな外交をしようとはしなかった
小説家のソースだけじゃなくてな。
徹底的に取り締まったのは外国産アヘンであって
国産の海賊版アヘンを野放しにして儲けてたという観点が全く抜けてる
科挙制度末期の官僚の腐敗を日本人はなめすぎてるね