前651年、斉の桓公は、諸侯を会盟する。
桓公自身はたいした人物ではなかったが、宰相の管仲が有能だった。
春秋時代に入って、すでに120年が経過していた。
戦国の七雄は戦国時代に力を持っていた七カ国ってことで意味があるけど
春秋の五覇はまず覇の定義が定まってないところに
五って数字が定着してしまったから、まるで不完全なリストになってしまった
書物によって五覇のメンバーが異なるってどういうことだ?
それなのにそんな五覇を暗記させるとかまるで無意味すぎる
斉の桓公、晋の文公以外固定じゃないなら五覇とか数を固定する意味がわからん
覇者には違いないが、いまひとつ地味な存在
呉越コンビで入っちゃうんだよな
どっちも覇者としての実際の力より
元蛮族が台頭してきたという象徴性が強いと思うが
え、なんで?そんな国あったの?というタイミング
呉は一応周の太伯・虞仲からの古い由来があるけど信憑性が薄い
そこから500年以上経ってから句呉が呉になっていきなり現れる
越に至っては千数百年前に夏王少康の庶子を会稽に封じたのが源流というが
歴史に現れたのは呉と同じ頃でまったく真実味がなく、
まるで呉に対抗してもっと古い起源を唱えただけのようだ
ドラマ性はあるけどそこだけ異世界の話をつないだみたいだ感じさえする
どちらも中央の戦いに加わると無駄に強いし
どちらも会盟で牛耳を執り覇者となるが、そのくせ潰しあってあっさり滅びるという
呉越は異民族で確定、
楚は微妙なところだな
候補は八人
大まかには孟子の王道や荀子の覇道が基準で選出されたり、いくつか説あるよなあ
個人的には三番手は楚荘王で確定って気分だけど
落ちて周が無くなる寸前の時代に
呉と越が周王の名代となって諸侯を束ねて会盟を仕切る話が
駆け込み乗車のように立て続けに現れる
戦国になってしまえばみんな王だから会盟なんてなくなるのに
呉王と越王は気にせず名乗ってるのって既に周が没落したからか?
周王の封土じゃないから王と名乗ってもいいとかいう理屈?
呉や越は伝承とは別に状況からみて楚から派生した新興勢力とも言われている
王号を早くから用いていたのも楚の模倣、
あるいは楚を強く意識した対抗意識からだろう
その時点では周を立てる中原の勢力を意識する必要もないほど辺境だったとも言える
だが急成長して呉も越も一度は会盟の盟主になっているが、
これも、二百年近く離れているが、楚の荘王の覇業の後追いのように見える
王号を名乗ること自体おかしい(筈な)んだよな
楚は蛮国とされ、その王は子爵待遇
呉は子爵です
呉の分家の虞は公爵ですが
三國志の呉や東晋の頃から発展して、
隋唐の頃には経済力がかなり大きくなりました」とよく言われるのだが、
春秋時代の呉越だって、諸侯を会盟して覇者になるほどの国力があったんだよな?
越が長けていたのは「銅器の製造」
鉄器については確認できなかった
呉が会盟の覇者になったのは史実らしいが、
その留守を突いて呉を滅ぼした越は
一度覇者になったかならないか
(越絶書以外に覇者になったという記録がない)で
楚に滅ぼされた
呉越とも春秋末期にならないと歴史に登場しないのは、
長江文化圏に属していて
まったく動静が見えなかったからで、
(黄河圏から見ると「南方で色んな国がドタバタしているらしい」程度か)
楚という東西に長い国に阻まれて、
長江以南の事はあまり伝わってこなかったのではないか
いかにもシナ人好みの五行説っぽい世界。
周を殷にすれば、そのまんま封神演義の状況になってしまう。
この世界観のために、呉越を入れたくなかったんじゃないか。
封神演義では、
東西南北にどういう勢力がいたの?
あくまで創作だからね
もともとは、殷(いん)で、朝歌を中心とした東西南北とあった四大諸侯のうちの一つ。 西の大諸侯の西伯侯・姫昌の説得により、周と同盟を結んだ。
崇侯虎(すう・こうこ)
北の大諸侯・北伯侯(首領)の崇侯虎だ。
弟の崇黒虎と間違えそうな名前なので気をつけよう。
民を権力者の食い物としか考えていない。
つまり、北伯侯の治めた国の民はあんまり住み心地が良くないのだ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、
妲己を諌めた東伯侯・南伯侯を殺されるのを目にし、
妲己にこびるようになる。
西の大諸侯。
食べ物が少なくなるにもかかわらす大量の難民を受け入れたり、
偶然ぶつかってきて傷を負わせた武吉を許したり、
自分が死にそうなのに北の崇黒虎を味方になるよう説得したりと、
まあいわゆる大人物である。
ちなみに100人の子を持つ。
妲己のたくらみにより幽閉され、七年後、長男伯邑孝でできたハンバーグを食べさせられてやっと解放される。
東の大諸侯・東伯侯(首領)だ。
娘の姜妃は紂王の正統な皇后。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、
南伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、東の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。
南の大諸侯・南伯侯だ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、東伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、南の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。
姜桓楚っていうのは斉の桓公をもとにしたキャラか
太公望は、斉の建国者とされてるが
東伯候も姜氏なら、それが斉につながってるというほうが自然だな?
姜桓楚の桓は桓公の桓だろうね
姜氏の部族集団を率いて周と連合して殷を
倒したというのなら、
羌の支族といわれる姜氏は東海のあたりにも多数いたことになる
斉に封じられて営丘に都してからも現地の習俗に従って
儀礼を簡素にしたというのも
また斉の土地柄に合わせて製塩と漁業で豊かにしたというのも、
呂尚がもともとこのあたりの出身だったからではないのか
(東海=斉とは限らないが情報は持っていた)
中原が「周韓鄭(漢代趙魏含む)」と「衛宋」に分かれているけど、
これはなんでなんだろうな。
中原を東西に分けたのか、
周代初期から中原にいた国と春秋戦国になってから中原に移ってきた国を分けたのか
http://heartland.geocities.jp/zae06141/china_history10.html
そのせいかどうかは知らないが、
衛と宋は、2つとも「殷の遺民の国」とされている
城市を一歩でたら、そこは異国という時代だ
「城市を出たら、そこは土人が住む世界」
という感覚が強く残っており、戸籍でも市民と土人が明確に区別され、
公然と差別されている。
ましてや、ムラとクニに分かれていた古代社会においては、
城市に対する市民の思い入れが、ことのほか深かったであろうことが、
容易に推測できる。
今でいう「中国」が1つの国であるという意識はまったく無かっただろうが、
それぞれの祖国への帰属意識はむしろ強かっただろう。
市民にとって、安全なのは城の中だけであり、城の外のフィールドは異世界だった
当時の都市国家が一歩外を出れば「野人」
(「土人」はともかく史書にはこれなら出る)
のうごめく世界だったことは、
別の話だろう
市民には文明人としての一種の連帯感があったようだ
古代ギリシャに似ている
西洋哲学がプラトンに付けられた注ならば、
中華思想は諸子百家思想に付けられた注なのだろう
中国ではそんな思想革命は起きなかった
様々な戦争について学んで書いたんでしょ
孫子が別の時代、別の地域に生まれたら書けなかったかもしれん
「春秋」に書かれている時代が春秋時代(覇者の時代)
「戦国策」に書かれている時代が戦国時代(覇王の時代)
戦国時代は古代では六国時代と呼ばれていた
戦国七雄じゃないんだ、どれが除外されてるのか
楽毅の登場で脚光浴びたけど、
その前に後継問題の内乱を突かれて一度滅んだような状態だからね
薊を斉に支配されて、何事も斉にお伺いをたてるような感じで
一時期は斉の従属国状態になっていた
その状態から回復させた昭王は優れた君主だったよね、
後継ぎはどうしようもないけど
生かしといたら復讐に怯えることになって、
虐殺したら悪評うけるとか
燕に実効支配できるだけの兵力があったかは怪しいし
他の国が関わってこないのも気になる
当初は完全に「消えた」のではなく、継承者一族が「社稷」「宗廟」を残す、
すなわち土地神・穀物神と祖霊を崇めることを許されていた
滅ぼした側も祟りが怖かったというのもあるが、
それよりも他国の間で自国の悪評が立つことが怖かったのかもしれない
ただ段々とそういう「常識」が消えていったので、
本当に消滅する国も多くなっていった
そういう国の中で大きめの陳は諸国間で立ち回ってなんとか生き残っていたが
春秋末期には楚に完全に消滅させられる
三晋が立ち、周に諸侯と認められ、晋は事実上滅んだが、
小諸侯として20年ほど残ったのも
宗廟を祀らせるという思想のためかもしれないが、
やがて国も失い静公は庶民となり祭祀を禁じられ死んだ
という滅ぼされ方は戦国の新しいパターンだろう
斉が2城を残してもらえたというのは古い習慣の名残りか、
完全に無力化したとみなされたか
何で70余城を落とした軍と戦えているんだよ、、、
楽毅は連合軍の総大将として
五国連合軍を率いて斉軍を済西で打ち破った(済西の戦い, 五國聯軍攻齊之戰)。
その後、楽毅は燕軍を率いて斉の首都臨淄に迫り、湣王は莒に逃げ込んだ。
本文中では梁の恵王と梁と呼ばれ
恵王自身は我が晋国と晋を自称し
また恵王自身は夏王と称していた
正確には、首都が安邑にあった頃までは「魏」
秦に大敗して開封に遷都してから「梁」となる
たしか竹書紀年じゃその前から大梁に比重が向いてた気がするんだが
そりゃそうだろうな。
開封は昔も今も、黄河の水運の要衝
商業価値が違いすぎる
恵王の時代に、東の斉、西の秦に敗れて転落する
魏は、中華と呼ぶにふさわしい位置にいたが、
強国に囲まれた地形はあまりにも不利だった
ふつうに考えりゃ韓の方が100倍有利じゃね?
どっちか滅ぼせば半減しそう
元々の領土を交換しなかっただけとか
山や川、森や道路などは所有が曖昧というか各国共用だったのはたしか
城の取り合いが戦なので、領域という概念は希薄だったのだろう
ということは地図で見ると細長く不利に見えても、
ある程度の縄張りにはなっているのでそれほど不都合ではなかった
拠点を次第に黄河の南岸へ
更に東へ東へと移動させてはいるのよな
戦国時代の韓の領土って農業的には恵まれない地域だったみたいだし、
まかなか腰が落ち着かなかったのかね
韓原や平陽なんかは戦国時代じゃ魏に移ってるけど、
摩擦もなく受け渡してたのか
そこがよくわからん
バリョウの戦いでも斉12万、魏10万らしいし
覇権国にしてはそこまで圧倒的でもない
初期の鄭を覇者のように言うけど小国でしかなかったように
初期の鄭は、圧倒的な先進国だった
でも、やっぱり小国
仮に斉とか晋とか楚とかと戦っても勝てない程度だと思う
戦国末期の韓が新鄭だから鄭ってその程度の領土なんでしょう
小覇の頃の鄭はいくつもの周辺の盟邦を会盟で束ねて戦ったから強い
辺境のやがて覇者になる国は、まだあまり徳(実績)がないから地位が低く、
国力も開発途上で弱かった
3万と2万ぐらいかな
他の国も都市国家でしかないから大した兵力ないし
周も7万5千とかいうけど実数は5万5千ぐらいらしいし
それも諸侯達を率いた兵力に過ぎない
趙は3氏の軍勢に持ちこたえるぐらいだから
智氏の次ぐらいの勢力だよね
3晋で最強なのもおそらく趙だろうし
初期の鄭は、圧倒的な先進国だった
でも、やっぱり小国
オランダみたいなものだと思う
貿易で覇権みたいに世界史でやるけど
オランダはイギリスやフランスやドイツと戦っても勝てるわけがない
オランダは当時の世界最強スペインと戦って勝ったけどなぁ
17世紀のオランダは、イギリスともフランスとも死闘を続けた
当時は、「ドイツ」はまだ地理的概念に近い
楚がロシア
越がブルガリア
呉がルーマニア
韓がイタリア
魏がフランス
趙がドイツ
鄭がオランダ
宋がトルコ?
衛がモナコ?
まあ、東西の大国・秦と斉がドイツとフランスで、
間にある3つがベネルクス諸国ってのが、一番にてると思うけどな
その点では、同じく長江下流の平野という、中国で最良の地を占める呉に似ている。
地理的なポジションとしては、この2つが最も似ているように思う。
ナポレオンもヒトラーも勝てなかったイギリスとロシアが秦と楚だと思う
当時としては、統一なんか考えられなかったでしょうな
ヨーロッパ諸国のようなイメージで見た方がいいだろうな
後世の統一王朝の歴史を知っているだけに
どうしてもバイアスがかかってしまうが