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味方となるものには寛容で慈悲深い。
ただ、その温情は冷めやすいので勲功行賞時になどに恩賞を出し渋る悪癖もある。
韓信曰く「婦人の情」
寡聞にして項羽本紀忘れたんだけど、「史記」にはそんな一騎打ちの記述なんかあったの?
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」の創作じゃないの?
>>89
ああ、そうですか。
今度家に帰ったら本紀読み返してみます。
ところで、秦討伐時のはじめの頃は項梁の親類ながら一部下と言うことだから陣頭指揮があってもおかしくないね。
また、ガイカ以降はしょうがないんだろうね。人数がいないんだから。
>>94
もしかして、三戦板の楚漢スレでその説を述べた方?
功臣の序列で蕭何、曹参、張敖、周勃、樊カイ、レキ商ときて、次にくるんよね
>>96
そう。
奚涓と樅公は殉職しか共通点ないんだけど、
樅公という呼び名からして生前既に県令以上であった=ある程度高い地位=序列が高かったと考えられる点、
周苛や紀信(成)、レキイキの子は侯になっているのに彼の子孫等が侯になったことが明記されていない点、
それほどの序列でありながら本紀や列伝からはその名の活躍が見えない=別名で呼ばれていたと考えられる点
これらからの類推
呂后「あーんして」
張良「あーん」
今のシーン。この一口で体調を崩して死んだと聞いた。
腸が破裂して死んだとかいう説を聞いたことがある。
断穀していた張良に呂后が無理やり飯食わさしたって
岩波の史記世家にも書いてあったな。
さすがに腸が破裂とは書いてなかった。
BSドラマの胡亥はナイスキャスト
あの間抜けっぷりはww
つーか、さまーずの三村に似てる
NHKでやってほしいなあ。
別に日本の大河ドラマなんていらんから。
DVD化したら見てみたい。
胡亥は鹿を知らなくて「角の生えた馬がいる」と言った事を皮肉り
頭の悪い人を馬鹿と呼ぶ言葉が生まれたって本当?
オレが知ってるのは
趙高「これは何の絵でしょうか?」
胡亥「馬だ」
趙高「いいえ鹿でございます」
胡亥「バカ言え、馬だよ。なあ?」
家臣「……し、鹿でございます」
というものだな。
馬と鹿が逆だったかもしれないが。
一応、「馬鹿」の語源とされるものの一つ。
他にも仏典にあるサンスクリット語の音訳が語源だという説もある。
趙高が胡亥に鹿を献上する際に「馬でございます」と言って群臣を試した、という話。
つーか趙高って宦官ですよね、髭生えてるんだけど
横山版しか見たことなかったので知らない場面とかあって面白い。(BS)
劉邦の母の死のエピや色恋のエピ(これは削除されて当然だが)
宦官だって、ひげが生える場合と生えない場合があるらしい。
まさに生命の神秘。
大漢風のオープニング見ると
劉邦が黄旗で項羽が赤旗になってるけどあれ逆じゃないですか。
赤帝は劉邦のことですよね
大漢風面白かったが字幕なので一瞬も目が離せない
しかし日本語の発音に近い単語があるとニヤニヤしてしまう。
最近、嫁もつられて見だしてるんだが何かの度に聞かれると説明するのがウザイ
つーか説明しずらいのが多い。
例えば、
Q主人公 A劉邦とは答えずらい
Q悪役 A初期は秦だが項羽は?
Q呂雉はヒロインか Aさすがに今週で嫁も引いてしまった。
あまり権威を感じなかったのかな
秦に祖国を滅ぼされた項羽としてはそんなもん使いたくなかったんだろう。
帝号にそれほどの価値を見出していなかったのかもしれないけど、
最初はまだ義帝がいたから「西楚の覇王」に留めたんじゃないのかな?
加えて、義帝亡き後に帝号を称したら「項羽が義帝を殺した」という話が補強され、
敵対諸侯の大義を助けてしまうことになるし。
名将の称号を与えられてるように思う。
つまり、名将の章邯を打ち破った項羽や韓信は奇才の持ち主なんだと印象付ける為に
名将の称号を与えられてるってことだが。。
おそらく陳勝の叛乱までは実戦経験のない人物。
秦では統一戦争で功績を挙げた軍人に恩賞を与えたり列侯に封じても、
基本的には中央で政治に関わる職には就けてない。
章邯は周文が函谷関に迫るまでは秦帝国では山沢池の税を管理する少府で
あり官僚。
朝廷でそこまで高い官職を与えられた人物なら統一戦争でも王翦や蒙恬に
及ばないまでも史料に事績が残る程度の働きをしているはず。
文官から将軍に任じられた経緯ってどうだったんだろうな
元々軍隊指揮で名が通っていたのか、秦がよほど人材不足だったのか
二代皇帝と趙高の政治で、みな責任を追及される仕事を受け持つのを嫌がった。
>>147
囚徒に武器を持たせて迎撃させるなんて、本来は物凄く危険な賭けだったから、
責任負いたくなくて誰もやりたがらなかった、というのはあるかもしれない。
(むしろ、切羽詰っていたとはいえよく二世皇帝や趙高が許可したものだと思う)
章邯が評価されないのは、秦を救えなかったこと以上に、秦を裏切ってしまったこと
(どのような経緯があるにせよ)が響いていると思う。
同じ名将でも章邯は見劣りするのは否めない?
結局敗れて、秦の滅亡に繋がっていくからね。
しょうがないんじゃない?
ところで、
史記だと、コウ門の会でハンカイに豚の生肉が
与えられたと書いてあるらしいんだけれども、
あの当時って豚の生肉は、宴会に普通に出すもんなんでしょうかね?
それとも単にハンカイへの嫌がらせのために出したのでしょうか?
誰か当時の食事に詳しい人教えて。
>>160
いやがらせ。
普通に豚の生肉食ってたら
大変なことになる。
色々な解釈がある
誤字もそうだけどあらゆる面で誇張されてるのは間違いないのでは?
楚漢戦争より50年以上前で、戦国時代の話だが。
鉅鹿の戦いで章邯とともに投降した秦の兵卒を、項羽が新安で穴埋めしたことかいな?
項羽すなわち黥布・蒲将軍を召し、計りて曰く、
「秦の吏卒なお衆(おお)く、その心、服せず。関中に至りて聴かずば、事必ず危うし。これを撃殺して、ひとり章邯・長史欣・都尉翳とともに秦に入らんにはしかず」。
ここに楚軍、夜、撃ちて秦の卒二十余万人を新安城の南にあなうめにす。
(史記 項羽本紀)
鍾離昧のことだって言ってる小説があったような
こじつけっぽいし、専門書じゃないから信憑性ないけど
>>168
黥布と並んで活躍してるのに、論功にも名前が出てこないし、たしかに謎が多いな。
黥布と同時期に項梁に合流したことや、黥布とセットになることが多いから、
最初は番君の将軍梅ケンあたりかなとも思ったが、高祖本紀だと梅ケンは劉邦と
南陽ルートで合流しており、ちょっと違うっぽい…
又聞き情報くらいしか残ってないのかも…。
特に章甘が水攻めに遇ってから死ぬまでの期間の長さはひどい…。
その頃にはもう死んじゃったのかな。
英布と並べて名前が出てるから、それなりの人みたいなんだろけど。