ここまでの総合評価(1~5)
@政治
最上義光 4
伊達政宗 3
@戦闘
最上義光 4
伊達政宗 3
@教養
最上義光 4
伊達政宗 1
@魅力
最上義光 2
伊達政宗 4
@野望
最上義光 3
伊達政宗 5
@容姿
最上義光 3
伊達政宗 4
ニュース
1ってのは過小評価しすぎじゃないか?
伊達厨としては『ここまでの』という、如何にも皆の意見って言い方が気に食わない。
容姿って見たことあんのかよ?
教養も伊達のほうがあるだろ?
政宗は当時諸芸能に秀でてて
特に書道は生前からプレミアが
ついてたらしいぞ。
>>358
最上義光は連歌作者として当時の京都で評価されてたみたいだね
容姿に関しては義光肖像画が残ってないんで評価できないと思われ
もし想像するならば、材料となるのは娘の駒姫肖像画くらいか・・・・
ログよんでねーけど政宗教養5だろ。
公家と密につきあってんだから、親父は教育パパだし。
歌、詩残してるし。
>公家と密につきあってんだから、
それを言ったら義光は公家と連歌会を通して公に付き合ってますが・・・・・
ちなみに当時最高の連歌の宗匠里村紹巴から「好士(くじ、優れた風流人)」と称賛されたと
>>353
教養度・政治力: 残念だが、政宗>>>義光 だわな。
「入そめて 国ゆたかなるみきりとや 千代とかきらし せんたいのまつ」
政宗は、城下町を築く際、旧名「千代」を「仙台」に変え、1000年といわず
永遠に繁栄するようにとの意味をこめて、この和歌を詠んだ。仙台城は、現存
していないが、宣教師ビスカイノに「日本で最も優れ、最も堅固なものの1つ」
とまで言わしめた豪壮なものだった。
政宗は和歌、漢詩や茶等の教養に優れ、秀吉・家康にそれだけでも一目置かれる存在
だった。桃山建築の最高水準の大崎八幡宮、瑞巌寺、瑞鳳殿(全て国宝)が代表的だが、
文化方面にも随分力を注いでいる。
領国経営では、スケールの大きな北上川の大改修、灌漑、運河(貞山運河)の開発が有
名で、千石船で江戸へ米を流通させ、経済を潤わせている。慶長遣欧使節では、外国貿
易まで積極的に視野に入れていたしね。
義光の方は何をした?
>>366
その仙台の名づけに関しても
中国の古書から引用してんだっけ?
そういや司馬遼太郎は伊達の場合詩人として知ってしまったから
思い出あるようだ。漢詩が平仄も韻も完璧らしいから驚いてたり。
というか勅撰和歌集の集外歌仙にも歌載ってるな。
その通り。唐詩選が基になっている。『同題仙遊観』の詩「仙臺初めて見る五城楼」
にちなみ、「千代」を「仙臺」とした。
なお、仙台出身の相撲取り、五城楼もこの詩にあやかってる。
教養となると甲乙付け難いか?
能筆家としても有名、能書として見本になってたくらいだから。
天皇に何かの書物も天覧してっし(これは確か家康に頼まれて家康にも見せてる)。
たぶん定家筆の古今集とかか何とか。
豊臣の歌会で年齢も位も低いのに参加許されて絶賛されるわ禅の本にも歌載るわ…。
教養人としては伊達は相当なものというか…とんでもないが。
別に政宗厨なわけじゃなく、さすがに教養について文句はいえん。
もちろんも義光も優れた風流人として賞賛されたんだから教養はある。
密かじゃねーよ。密(みつ)だつーの
義光と比較するなら同じく京で連歌会を開いてた直江兼続なんかと比較し易いんだけど
(彼も他の風流人に讃辞されてる
そりゃ…禁裏にも名前が聞こえるはずだわな…一武将が持ってる代物かい…。
茶道やるなら(当たり前だが)香道もたしなむけど、そういや政宗
細川から名香プレゼントされてんな。教養系の話だとネタが多い人物だな。
細川幽斎か、
彼は最上義光が開いた連歌会にも、直江兼続が開いた連歌会にも参加してるね
やっぱ武家文化人のステータスシンボルみたいなとこあったんだな、と
中国の漢詩とか歴史とかお話とかなぁ。
古の歌人の歌を織り交ぜたりして詠んだりとかすんだよな。
だな。京都で伊達に限らず色々歌会やってるし。
っていうかな、達筆過ぎて読めん。昔の人の書は。
日本語が視覚言語っていうのがよくわかったよ…
意気投合しそうではある。
細川忠興と伊達政宗はなんというか、インテリヤ○ザ同志というか、
文系キ○ガイ同志というか、そういった共通項でシンパシーを
感じあってる関係。
文化人系危ない感じの人物同士マブ達 とかいうレスをどっかで見たw
政宗は、こんな歌を詠んでいる。
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞいく」(辞世の句)
「七種(ななくさ)を 一葉によせて 摘む根芹」 (伊達家連歌の会の発句)
「馬上少年過ぐ/世平にして白髪多し/残躯天の赦す所なり
/楽しまざるは是如何」(漢詩)
(秀吉の醍醐の花見にて5首)
「おなじくは あかぬ心に 任せつつ 散らさで花を 見るよしもがな」
「遠く見し 花の梢も 匂うなり 枝に知られん 風や吹くらん」
「吉野山 瀧津流れの 花散るは 井関にかかる 浪ぞ立ちそう」
「昔誰 深き心の 根差にて この神垣の 花を植えけん」
「君がため 吉野の山の 槇の葉を 常磐に花の 色や添うまじ」
(他)
「五月雨の 夜半も淋しき 暁に 鳴く郭公 友とこそしれ」
「池水の「山高し 麓の里に 旅ねして 嵐の枕 夢も結ばず」
「みるからに 心ぞ千々に くだけぬる 世にたぐいなき 花の名残に」
「思い余り 露と消えなん 身のうさを 文ならずして いうよしもがな」
「馬上少年過ぐ」は「葵三代」の中でも取り上げられてたな。
蟹江敬三の福島政則とすまけいの政宗がぼけた味を出していた。
おぉ、どれも有名やね。やっぱ漢詩は雄々しく好きだな。
ちなみに集外歌仙に採られたのは
「鎖さずも 誰かは越えむ 逢坂の 関の戸埋む 夜半(よは)の白雪」
「出づるより 入る山の端は いづくぞと 月に問わまし 武蔵野の原」
新古今らしい雅な調べって感じだわな。
大阪の役の際、政宗に従って戦功を上げた百二名の鉄砲足軽が、
その周辺に住んだことにより「鉄砲町」の名の由来になった。
某所で見つけた話↓
早くから家康に誼を通じていた義光は
慶長元年(1596)伏見で大地震が起きた際にも、
多くの武将が秀吉のもとに馳せ参じたのに対して、
ひとり、家康のもとに駆けつけて警護していた。
かなり前から家康と懇意であった事を窺わせる記述。
※WIKI「慶長伏見地震」
義光っていつ頃から家康と接近してるんですか?
誼を通じるのがとても早い印象があるんだけど。
>>409
信憑性には疑問があるけど色々なサイトの情報では↓の様な感じだった。
秀次事件で義光は娘の助命を嘆願したが許されず駒姫は処刑された。
そればかりか義光自身も秀次の謀叛に与したとの嫌疑を受けた。
結局徳川家康のとりなしで最上家は危機を脱して義光の謹慎処分で済む。
この事件以後、義光は次男の家親を家康に仕えさせるなどして家康に接近していく。
最初に誼を通じていたのがいつかは分からないけど
秀次事件が家康に接近するきっかけになったみたい。
>>406
1591年九戸政実討伐の為出張ってきた家康を大森城に迎えたんだけど、
その時、次男家親を小姓にして貰ってる。
多分、その時から接近してる。
ま、その翌年には秀次と駒姫の事を約束しているから、二股だけどね。
明確に徳川一本になるのは、過去レス通り秀次切腹後。
>>414
いやもっと早いようだ。義光は、家康が信長の部下だった頃から鷹や
駿馬を贈るなどして誼を通じている。これが奏して、秀吉の北条征伐の際
には、家康から秀吉にうまく取りなして貰ったりもしている。翌年には
家親を家臣として差し出し、早くから家康一辺倒だったことが伺える。
傍目には、家康の親衛隊長という感じすらあった。
それで、嫡男「義康」(名君の素質あり)か、次男「家親」(家康の信頼
熱い)か。義光・家康の腹の内では、初めから「家親ありき」だったんだ
と思う。
義光と天童氏らの騒動ん時要請受けて、輝宗が山形周辺固めてたことくらいしか知らんのです
>>410
その時輝宗は親父の義守方として出陣したんだよね。
義光と政宗が対陣中、まん中に東の方が一ヶ月居座って
どちらも手を出せず退却した話とかは、どう?
あぁでも妹(妻)に仲裁される義兄弟は微笑ましいかもしれんw
んな事言ったら、
妹(母親)が戦場のど真ん中に陣取って、渋々帰ってく義光と政宗の二人は微笑ましいのかとw
微笑ましいじゃないかw
少なくともギャグマンガ向けだ。
>>419
後世の俺らからみれば微笑ましいかとw
義光が義姫に宛てた手紙の中で義姫80日間居座り和睦の事を
「我ら一代の恥」と言っているしな。
「男伊達」なんて言葉があるのがムカツクぜ
現代だとちょっと違う感覚で使うが。
最上家重代の宝刀、「鬼切」
最上家には代々伝えられてきた「鬼切」という太刀がありました。
「鬼切」の名がついたのは、源頼光が酒呑童子を退治したときにその首を切ったものとされているからです。
最上家に代々伝えられた鬼切は改易後も受け継がれ、8代将軍吉宗の時にはその所望により三日間江戸城に貸し出されたという記録があります。
当時の最上家の領地であった近江から江戸までの道中鬼切は唐櫃に入れて運ばれましたが、
途中民衆は「魔除けの効能がある」と唐櫃の下をくぐらせてもらったと伝えられています。
廃藩置県の後、最上家当主が事業に失敗し借金返済のため遂に鬼切は最上家を離れ、京都の質屋に入れられてしまいました。
明治13年、当時滋賀県令であった篭手田安定はこれを憂い、有志の寄付を募り鬼切を請戻し最上家に返しましたが、
重代の宝刀を手放してしまったことを恥じたのか、あるいは二度とこのようなことが起こらないようにと考えてか、
最上家ではこの太刀を北野天満宮に奉納しました。
明治維新による東京遷都後、明治天皇が京都に行幸した際にも鬼切を見たいと所望され叡覧に供されました。
現在もここの宝物殿に納められているようですが、毎月25日の参観日にはその優美な姿を拝むことができます。
もったいねぇーーー
クソ真面目というか何と言うか、この刀さえあれば、もっと客が呼べるだろうに。最上義光歴史館。