義光が存命のときには家中はおさまってたのか?それとも義光の晩年の時にはもうやばかったのかな?
>義光が存命のときには家中はおさまってたのか?それとも義光の晩年の時にはもうやばかったのかな?
義光の死において殉死者も4人だか出すくらいだから、やはり家臣団はまとまっていたのだろう、と
ていうか、家臣団だけで60万石以上の知行を与えるには、よほど家中が安泰で無いと
ニュース
表高が60万未満なだけで実質はそれを越えているというのなら不思議ではないけど。
>>243
関ヶ原後の最上の石高は57万石と言われてるが
最上の資料の家臣団の所領の合計は78万9000石(一万石以上の重臣と一門だけで31万)、
最上の蔵入り10万石、新田2万石で90万石くらい
他に76万石説、93万石説、100万石、120万石と諸説あるみたいだけど
楯岡兄弟の由利4万石を筆頭に、大名クラスの家臣が15~6人いたんだから
外様大名としては尋常ではないと思われ
江戸時代なら開墾が進んでそれくらいの実収があっただろうが
それはないんじゃないの?
石高制と貫高制をまぜてんじゃないの?
自分も当時の山形、秋田にそれだけの石高があるのか疑問だけど
(江戸以降は庄内は豪農がすごい収入を得るが)
義光時代に急速な開墾と、最上川水運の運輸量(大半は米)が5、6倍に増えたって事実はあるらしいです
秀吉時代、関ヶ原後と平和な時代になったから
他へ輸出しはじめただけで
それ以前は貯蔵なり、戦役にあてたりしてたんじゃないの?
当時庄内方面にそれほど大きな港ないでしょ?
酒田港どこいったよ…
その後、日本海有数の港になったはず。
第一そこら辺の海路は江戸期に西回り航路が
開かれてからメジャーになった。
ただ東北では米の収入は金山などがあるためあまりあてにならない。
しかし最上氏は地方豪族の本領を安堵したりしてたから
57万石とはいえ実収がどれぐらいかはわからない。
長男義康は父に疎まれ、高野山に追放途中で殺害される。
将軍家直臣であった次男家親に家督を継がせるためだったという。
家親を無理やり擁立しようとしたため義光死後に家親は毒殺される。
家親死後家督を義俊がつぐが内紛のため改易。
確かに関ヶ原前後に、最上家が知行を与えた半士半農、半士半商、半士半工の土豪達は大勢いたっぽい
いわゆる国人衆や町衆だが、長谷堂戦やその他の戦を転戦するなど傭兵色が強かったらすぃ
まぁ臣従というよりは同盟関係というべきか。
もともと最上48館といわれるぐらいに独立心が強かったらしいし。
だから義光の兄弟や子供たちは本家の力を強めるべく
他家に養子入りしたんだろう。
そもそも義光の父義守も一族の中野氏出身だし。
家臣達の、有り得ない合計石高って、要は義光が…
『お前はこうこうコレだけ安堵してやる』
と勝手に言っていたんじゃないの?
実際にそれだけ石高が無くても、水増しして教えたように。
もしくは最上領内の石高計算方と、中央の石高計算法が違ったとか。
上は想像の域を越えないけれども。
それあるかも秀吉が一反=360歩から300歩に変更して
水増ししてるから。55万石ってもそれで表高が増えてるだけかもしれないね。
ますます関ヶ原後の所領が判然としなくなるな。
・・・・これ関ヶ原の57万石ってのには、どう計算されてるんだろ・・・・
出典はおぼえていないが、
確か慶長19年(1614年)位じゃなかったか・・・
慶長19年(1614年)だと家親相続だから、その表高まんま相続したとか
最上が優勢になったとたんに加勢してきやがる。
評価されないのも当然
直江じゃなくて本庄・須田だろ
あれだけ惨敗したらしばらく動かないのは仕方がない
長谷堂合戦のことじゃないの?
長谷堂じゃ伊達はほとんど何もしてないやん
しかも政宗出陣してないし
>>296
>政宗は、直江から尻尾巻いて逃げ出しておいて
最上が優勢になったとたんに加勢してきやがる。
逆だよ。最上の援軍に応えただけ。政宗は、家康が西へ反転した時点で、
120万石の上杉と正面から戦うことはハナから考えてなかった(裏で和睦)。
ところが直江に攻撃の矛先を向けられた最上が援軍を要請したため、義理立
ての形で出兵(留守政景に3000人託す。腹の内では、上杉と最上を戦わせ、
両者が弱ったところをいただこうと考えてもいた)。この伊達の援軍に勢い
を得た最上が、直江方に激しい抵抗を示した。もっとも伊達はやる気なく、
ただ傍観してただけだったが。
直江は撤退時に、追ってきた伊達・最上を痛撃して名をあげた。
政宗は、その後福島城へ攻めかかったが、上杉はやはり強く、本庄繁長に
体よく撃退され、家康の不興を買うという情けない結果に終わった。
政宗は、なんていうか、狡っ辛く、計算高いことは確かだな。
>>303
>この伊達の援軍に勢いを得た最上が、直江方に激しい抵抗を示した。
伊達の援軍決定は上杉の第2部隊、第3部隊全滅後だったから
政宗は勝ち馬に乗りに来ただけだったと思うよ。
当の長谷堂攻略の本隊も500対2万5000で2週間耐えられた上、
奇襲部隊壊滅、客将上泉まで討ち取られて散々な状況だったし
>>303
>>ところが直江に攻撃の矛先を向けられた最上が援軍を要請したため、
>>義理立ての形で出兵
政宗は、義光の再三の援軍要請も、ことごとくシカトしてたんだよ。
援軍送ってきたのは、戦況がひっくり返ってから。
はじめは上杉・最上の共倒れを狙って傍観していたが、最上が勝ちそうな状況になってきたので、
「最上・伊達連合軍で追い払ったんですよ」と家康にアピールするための姑息な手段。
結局、この消極的ないいとこ取り作戦が家康にバレて、伊達は100万石を逃したんだよ。
まーどっちにしろ、500対2万5000をひっくり返した最上は神。
長谷堂城主・志村光安も神。
>>315
ちゃんとレス嫁よ。
伊達が百万石をふいにしたのは和賀の一件が原因だよ。
同じく東軍の最上に形の上だけとはいえ援軍出して
不興をこうむるはずがない。
数の上では負けてる最上を助けるには
上杉が最上を攻めれば後輩の伊達から攻められると
上杉に思い込ませることだけだ。
駄目よといわれてたような城を。
伊達方? 緒戦で、豊坂勝乃が守備する白石城
を片倉景綱等が攻略してるよね。
かたじけない。東北の方はあまり知らないもので。
その白石城って、一国一城の江戸時代でもそのまま
片倉が城主としていたんだよな。それがうろ覚えだったんで。
>>家康の不興を買うという
家康が西に転進した際に政宗に望んでいたことは上杉の足止めと消耗だろ?
なら最上に援軍出して上杉の進軍を牽制させて
主力は白石城方面を攻めて上杉の注意を二つに分けたので十分働いているだろ。
120万石の上杉相手に地の利があるとはいえ合わせて80万石未満の伊達と最上に
上杉家が倒せるなんて家康は考えていないと思うが。
家康の不興は伊達が上杉に勝てなかったことじゃなくて南部の一揆に加担していたことじゃないのか?
>>310
>家康の不興は伊達が上杉に勝てなかったことじゃなくて南部の一揆に加担していたことじゃないのか?
「福島城攻撃失敗+南部一揆画策」。その両方とも家康の不興の原因となった。政宗の福島城攻
撃というのは、実は、かなり妙な動きだった。関ヶ原の結果を直江が知ったのが9/29、政宗に
は9/30に報告が届いており、事実上戦争は東軍の勝利で結論が出ていた。にもかかわらず、
10/5になって、政宗は福島城へ進撃している(これは非常に危険な行為だ)。実はこの時、南部で
は政宗が煽動したごたごたが続いていた(9/20に和賀忠親が花巻城を攻めたが失敗、岩崎城へ退却。
この報を聞きつけた南部利直が血相かえて引き返してくるのが10/18)。政宗としては、「福島城」
へ出兵することで、家康の目を何とか「南部一揆」から離したいという、偽装・カモフラージュ目的
という思惑があったのではないか、という見方すらある。
南部利直は翌年3月岩崎城を制圧。即、幕府に訴えた。(全てがばれたら、政宗もタダでは済
まなかったろう。)和賀忠親は重要証人として江戸へ召還される予定だったが、何故か仙台にて5月
に自殺(謀殺)してしまい、この件はうやむやに葬られてしまった。
ただ、家康の政宗への不信感はMAX(笑)に達してしまい、「100万石」はパーになってしまった。
最上への破格の「33万石加増」も、政宗への一種のあてつけ、懲罰の意味もあっただろう。
関ヶ原と違って東北では戦争が続いていた。
実際徳川と上杉が和睦するのはもっと後だし。
南部の一件では確かに不興をこうむっただろうが、
福島城の件は別だと思う。
>>314
>南部の一件では確かに不興をこうむっただろうが、
福島城の件は別だと思う。
福島城は局地戦に過ぎなかったが、伊達は本庄・須田に挟撃される形で
見事に釣り込まれ、陣幕まで奪われる失態を演じた。問題なのは、「関ヶ原
終結」にもかかわらず、家康の命令を無視し、上杉を性懲りもなく挑発しつづ
ける政宗の態度で、家康はかなり激怒している。
徳川は休戦命令をだしていたか?
上杉が家康と講和したしたのは関ヶ原終結後ずいぶんたってから。
しかも表向き結城秀康に対しての講和。
家康は九州・東北に停戦命令を出したことはない。
政宗は純粋に和賀一揆に対して不興をかっただけ。
関ヶ原後に戦端を開いたのが罪なら佐和山城攻め、九州の柳川城攻めに参加した
大名も罰されねばならない。
罰されるといっても当時家康は豊臣の代官に過ぎず
そんな権限もない。
個人的な想像だが。
あの”狸”の家康は、元々政宗を非常に警戒していたのでは?
実際には何も戦っていない長宗我部盛親。
吉川広家の独断だが、領土安泰の約束のあった筈の毛利。
関ケ原で東軍に勝利をもたらした小早川秀秋。
そのほかにも、福島正則、加藤清正、有名所だけでも尽く改易されたり大幅厳封されている。
長宗我部辺りなんかは仕方無いにしても。
何だかんだ理由を付けて、結局100万石の御墨付きは反故にする予定だったのでは?
最上等は増やすだけ増やしておいて、義光が死んだ途端取り潰したのも怪しい。
義光や、政宗辺りは戦国期最後の生き残り組み。
政宗や義光等のような『乱世の梟雄』が生きている間は、
取り潰しを決めたら大反乱が発生し兼ねない。
徳川家としては、義光や政宗等の『乱世の梟雄』は既に警戒リストに入っていたんじゃないだろうか。
死んだら即座に取り潰すか、減封するつもりで。
そう考えると、島津、伊達、上杉、佐竹は『戦国期生き残り』の中では、
辛うじて勝ち組みとは考えられないか?
無論家康に警戒されていた筈だが、二桁でも何とか家は残っている。
>義光が死んだ途端取り潰したのも怪しい。
え?
すまん、マジすまん。馬鹿書いた。
酒呑みながら文章書くもんじゃないな。
まあおちけつ、
強力な戦国外様大名を何とか処理し様と、
徳川幕府が懸命になってたつーのはわかる話だ
>>317に同意
政宗の狡猾なところは100万石はかえって危うい、とわかっていたところ。
その点義光は読みが浅かったかも知れず。
岩明均の「雪の峠」を思い出した。
ただ、織豊系以外の2桁大名なら鍋島、里見、南部、京極などもいるので、
どこが勝ち組かってのは難しいな。
黒田は馬の骨だけど、細川は由緒正しいと思う。
細川が由緒正しい、って文武両道というイメージだけで言ってない?
細川幽斎が古今伝授を受けたみたいな
細川幽斎は和泉細川氏(管領細川頼之の弟の家系)だから
普通に由緒正しい名門だと思うよ
そんなこといってたら
成り上がり以外の連中はみな
由緒正しき家柄でしょ?
細川和泉上守護家
┬細川元常
└三淵晴員─長岡藤孝
で藤孝は元常の養子になっているので血統的には当然のこと、
家督の上でも十分筋目正しいといえる
どちらかと言うと前田家みたいな
家康でも深入りできないクラスの大名じゃねーの?
黒田、細川ともに豊臣期に勃興したなり上がり大名だろ?
どちらも関ヶ原以前は50万石以下。