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証明された貴重な例
なかなか帰ってこないので、仲間がビザンツ皇帝の人質に取られて
しまったと思い込み、すべてを掠奪すると脅して城壁の上を歩き回った。
投石機ってあんなに石が飛ぶんかいな?
本当にあんな事実あったん?
400mぐらい飛ばすことができるそうです。
15世紀、大航海時代が始まってスペイン・ポルトガルなどが海上からイスラム支配下の要所を攻撃・占領したり、
かなりもう力関係がひっくり返りつつあったように見えるが
オスマンのふんばりでしばしおあずけとなったようだ。
18世紀に入ってやっと決定的にキリストのイスラムに対する優位が確立されたようだ。
>>9
確かに、11~12世紀のヨーロッパは大きな転換点を迎えていたと思う。
この時期に現在の西欧社会の原型が形作られたというか…
いわゆる「教皇革命」(聖職叙任権闘争、グレゴリウス改革)が起こるが、
これなしには十字軍もありえなかった。
だが、彼は即位するとまずシチリアのムスリムを大量虐殺し、彼らを
イタリア東部のルチェラに移している。
彼はエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの娘イザベルと結婚したが、
ジャンがまだ生きているにもかかわらず、約束を破って自分が
エルサレム王になった。
フリードリヒ2世の十字軍は第6回だよ。
それから、塩野七生なんてここでソース引用したら笑われちゃうからおやめなさいね。
グリエルモ2世の死後、各地でキリスト教徒VSムスリムの暴動が頻発した。
多くのムスリムは北アフリカに亡命するか、シチリアの山岳地帯で抵抗を
続けた。
フリードリヒ2世がシラクサの自治体制からジェノヴァ商人を排除すると、
彼らはムスリムを煽って対抗しようとした。フリードリヒ2世が山岳地帯に
いたムスリムを大勢殺したのはこのため。
その後降伏したムスリムをアプリアやカラブリアに移し、土地を与えている。
異分子ともまたーり共存がデフォなイスラムにとっては
宗教が違うってだけで悪魔のような所業を嬉々として行う彼らを理解できなかったろう。
ヨーロッパでナチスのような勢力が現れたのは必然だよ。
マターリ共存というか、共存しないと国が成り立たなかっただけの話なんだけどな。
もちろん異教徒でも寛容に扱ってたのは凄い事だけど。
イスラムが寛容というか、単にもとからキリスト教圏内だったところにムスリムが増えたって事情があったから
殊更に憎しみ合わずにすんだってだけじゃないかな?
スペインのキリスト教もレコンキスタ完了前まではムスリムの扱は悪くなかったし。
ドイツとか北フランスとかのムスリムと交流のない輩が、
教皇の言うことを間に受けちゃった所に十字軍の悲劇があると思う。
>>3の言う通り、200年も聖地で過ごせばフランク人だってマトモになってくるし。
騎士が何であんなに過激になったかというと、祖国にはもう居場所が
無かったというのも大きかった。
既に分割相続から一括相続へと潮流が変わってて、相続者の数を絞る為に
長子以外の十字軍遠征への参加を強制した家系も多かった。
これで家系が断絶する場合も多かったのは皮肉だけど。
過激なのは騎士たちよりも貧民だったのでは?
聖地に向かう前に各地でユダヤ人を虐殺しているし、民衆十字軍の
大部分はヨーロッパを横断する旅の途中で姿を消したが、シリアや
パレスチナに到達して、流浪者の一団となったものもいた。
この集団は「タフル」と呼ばれ、傷だらけで不潔で、木の根や草や、
ときには敵兵の死体を焙って食料にした。
彼らが通過した土地はすっかり荒らされてしまうほどの凶暴な集団で、
ムスリムたちは彼らのことを、「フランク族ではなく、生ける悪魔」
と呼んでいた。
十字軍に参加した諸侯たちですら彼らを恐れていたほどだった。
馬が持てないので一匹の馬に二人乗りする“騎士”の姿には、
コンキスタドーレスと同じ人種なんだ~って、既視感がある。
正解はどっちも過激
それにしても今は史劇ブーム、第一回十字軍の映画を見てみたいな。
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルしそうだが。
初期の十字軍は精神的にグロい、なんというか狂信者怖すぎ
しかも目的達成してしまうんだもんな。
悪が栄えてしまうバッドエンディングにしかならんな。
ジャンルは史劇というよりホラーだな
>>33
>ジャンルは史劇というよりホラーだな
ムスリムの密偵が十字軍の厨房に潜入すると、串に刺されて回転
しているいくつかの死体があったとか。
テンプル騎士団などの騎士修道会に入ったのも、
貴族の次男坊・三男坊が多かった。
そういう次男坊連中に対する見返りみたいなモノってあったのかな?
家督は継げない、入っても何もないじゃ役立たず扱いされてるってわかりそうなもんだけど。
やっぱ「将来どこそこの領地が手に入ったらそこをあげますね」みたいな
確約でもされてたんだろうか?
多分そうだと思います。十字軍に参加して活躍すれば、領地や富を
手に入れることができたのでは?
そもそも諸侯にしてからが、ゴドフロワ・ド・ブイヨンはエルサレム
王に、ボエモン・ド・タラントはアンティオキア公に、レイモン・ド・
サン=ジルはトリポリ伯に、ボードワン・ド・ブローニュはエデッサ伯
にと大出世してますから。
成る程。具体的に参加者がどんな役職に就いたのかまでは知らなかった。
㌧クス、勉強になったよ。
第一次十字軍で諸侯になった連中ってのは、配下を抱えてるれっきとした
フランスの諸侯。
次男以外の口減らしってのは、一族から信仰で強制されてやむなく・・・というケースが多かった。
本人にしてみれば神聖な任務とでも思い込まなきゃやってられないだろうと思う。
とはいえ上手く行けば喰うには困らなかったけど。(領主付きの騎士になれるから)
かなりの数の巡礼者たちもまた開拓者になったようです。
パレスチナの農業人口のうち、大半がキリスト教徒またはムスリムの
シリア人でした。
もちろん教会参事会員たちも多くの土地を持っていました。
>>40
信仰心ってのはすげえよな・・・。
>>41
ということは遠征して土地を奪ったらあとは思ったよりも楽に領土に
出来たんだろうな。少なくとも俺がイメージしてた大変さはなさそうだ。
>>43
ローマ教皇ウルバヌス2世は、十字軍に参加した者に対して贖宥を
約束している。殺傷を生業とする騎士にとって、これは魅力的だった。
何しろ当時は、罪あるままに世界の週末を迎えるならば、「火と硫黄の
燃える池」で「第二の死」を迎えると考えられていたのだから。
人々がもっとも気を使ったのはやはり水だったようだ。水路や貯水池
や水車をつくった話がよく出てくる。
>>44
へえ、じゃあ十字軍の遠征でいくら殺しても罪は赦されるって事か?
俺はてっきり殺しても罪にはならないって考え方が蔓延していたと思っていた。
第一回の頃には一応、罪としていたんだな。
・・・やべ、少し楽しくなってきたな十字軍の話。
罪じゃないし、十字軍に行く事で永久贖罪が約束されてた。
でも妻などが止めたら、留まるべきだとされた。
>>46
また楽しそうな話が出てきたな
>妻などが止めたら、留まるべきだとされた。
ちょっと興味出てきたから今から調べてみるわ。おまいら色々と㌧クス。
読まなきゃいけない論文がまた増えそうだw
十字軍に多くの女性たちが参加していたということは、あまり知られていない。
例えばアプリア公ロベール・ギスカールの妻ジッヘルガイト、
ブルゴーニュ侯ユード1世の娘フロリンダ、レーモン・ド・サン=ジルの
妻エルヴィール、ボードワン・ド・ブーローニュの妻ゴドウェアなど。
アルメニアのダニシメンドへ遠征してる留守に、
第一回十字軍が重なったことが痛いね。
エルサレム王国建国後も、エジプトのファーティマ朝の宰相だった
シャーワルは、ディルガームに宰相の座を追われた後、
ヌール・アッディーンの援助を受けて復権するが、
その後エルサレム王のアモリーと組んだりしている。
>>62
元々セルジューク朝は、名祖セルジュークの息子達を核とするオグズ系トルコ人たちの寄り合い所帯で、
しかもその後ルーム・セルジューク朝の流祖となるセルジュークの長子アルスラーン・イスラーイールが
1025年にガズナ朝のあのスルターン・マフムードにとっ捕まって事実上廃嫡され、かなりの波乱含みで
イラン入りしている。
このことに絡んで一時イランの北側は騒然となるけど、基本的には次男ミーカーイールの息子達チャグリー・ベクと
トゥグリル・ベクがセルジューク朝の覇権を握ることになり、ミーカーイール家がセルジューク朝本家の地位を得た。
十字軍がやってくる以前にも、そのミーカーイール家内部でも対立が起きている。チャグリー・ベクの息子のアルプ・
アルスラーンが死ぬとその後継を巡り、ケルマーン王家の祖となる兄のカーワルドとアルプ・アルスラーンの
嫡子マリクシャーのとの間で内戦となり、カーワルドの敗死でマリクシャーの即位が成った。
おかげでという訳でもないが、マリクシャー生きてる内はまだなんとかなったけど1192年に彼が死ぬと、
ケルマーン王家は本家の後継争いをそっちのけで、自領土の拡大を計りカーワルドの子トゥーラーンシャーは
ファールス地方の奪取に成功している。実はカーワルドが死んだ後ケルマーン王家も彼の息子達の家系で
後継争いをしていたりする。
ダニシュメンド朝、アルトゥク朝、クルド系政権などが乱立していた。
ルーム・セルジューク朝は、十字軍にニケーアを奪われた後、首都をコニア
に移す。
ゴドフロワ・ド・ブイヨンの弟ボードワンは、セルジューク朝のもとで
エデッサのキリスト教徒の統治を認められていたアルメニア人僭主トロスを
殺害して王位と財宝を奪い、エデッサ伯領を建国するというエゲツナイことを
やっている。
>>62
当時ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世はマリクシャーの死によって
本家から独立してスルターンを名乗っていた。マラーズギルトの戦いの後冊封された
父スライマーンが保持したルームの支配権を本格的に獲得しようと周辺の諸勢力と抗争していた。
マリクシャーによってアナトリア地方を安堵されていた有力アミール、ダーニシュマンドを初めと
するトルコマーン・アミールたち、さらにコムネノス家のビザンツ帝国が目下の懸案だった。
クルチ・アルスラーンが、ダーニシュマンドの本拠地マラティアを包囲中の1097年6~7月頃、
首都のニカエアが十字軍に襲撃されているとの一報が彼の陣営に届いた。急遽引き返したときは
既にニカエアは陥落した後で、その後数年は本拠地を失って減退した勢力を盛り返すべく、シリア
アナトリア一帯で苦闘し続け、何とかコンヤに本営を置くことで一時体勢を立て直すことが出来た。
1101年、マラティアを拠点にカッパドキアを支配していたダーニシュマンドと協同して初めて
十字軍勢力と本格的な戦闘を行い、これを破って主将ボヘモンドを捕縛することに成功する。
これが十字軍戦争での最初の勝利となった。
十字軍が侵攻してきた頃、イランの東方でも、西方でもシリア・アナトリア方面でも、
セルジューク朝の諸王家はそれぞれがそれぞれでマリクシャー死後の混乱に乗じて地方の覇権を握ろうと
内紛を繰り返し十字軍どころではなかった。しかも間が悪いことにその数年前、ファーティマ朝との
シリア争奪戦の前線を担っていたアルプ・アルスラーンの子トゥトゥシュが、マリクシャー死後の
後継争い喧しいイラン方面の内紛に関わって戦死してしまっていた。
当時はまだ十字軍戦争はシリアの北方の出来事でファーティマ朝の方では殆ど手が下せなかった。
戦線が南部に拡大し始めた頃には今度はファーティマ朝の内部で権力闘争が激化して、エジプト側
でも対応が出来なくなっていた。
結局、十字軍勢力がシリア・パレスチナ一帯に領邦を樹立できたのは、ファーティマ、セルジューク両朝、
特にセルジューク朝の諸勢力がことごとく内紛のために戦力の余裕が殆どなかったことが原因だったという
ことが云える。
そのためザンギー朝のようなアタベク政権などが地域ごとの覇権をとりあえず確立していくと、次第に
十字軍側の領邦は縮小していくことになる。その代表がヌールッディーンであり件のサラディンであった。
>>73
>結局、十字軍勢力がシリア・パレスチナ一帯に領邦を樹立できたのは、ファーティマ、セルジューク両朝、
>特にセルジューク朝の諸勢力がことごとく内紛のために戦力の余裕が殆どなかったことが原因だったという
>ことが云える。
サラディン没後の混乱で十字軍国家は延命することになった。サラディンには
17人の息子+2人の弟+数多くの甥がいた。
結局長子はダマスカスを、次男はカイロを取り、三人目はアレッポを取った。
その後9年余り経って、サラディンの弟の結局、マリク・アル=アーディルが
アイユーブ朝の主要な版図を支配するようになる。
マリク・アル=アーディルはフランク人との平和共存を望み、イタリア商人に
特権と保証を授与したので膨大な経済的利益を得た。
出てくるんだが、「大公」だとどうしてもヨーロッパの大公を連想
してしまう。
この時代のイスラーム世界だと、「アミール」や「アタベク」や
「ムクター」になるのか?
イスラーム圏の称号にくわしい人の降臨キボン。
>>81
その部分は自分も聞いた。「彼は〜のハーキムだ」といっている部分を字幕では
「シリアの大公だ」と説明していた。 حاكم h.ākim という言葉が当時具体的にどういった
身分を著す単語なのか説明するのは難しい。多分スルターンから地方の広い領土の監督
を任されるような身分ある役職・人物のことを指すのだろうが、これだけでは何とも。
>この時代のイスラーム世界だと、「アミール」や「アタベク」や
>「ムクター」になるのか?
今は亡きカリフ・イマームスレで同じ話題があったので既出になってしまうが、
取りあえず説明すると・・・
○アミール・・・
امير amīr アラビア語の字義的には「司令者」の意味。この当時だと「スルターン」がカリフを奉じるか
否かに関わらず一国で唯一無二の独立的な支配者であるのと違い、カリフやスルターンに臣従して
下位の戦闘集団を単位ごとに束ねる部将のような立場の人たちをいう。日本の戦国時代で云えば、
織田信長がスルターンであれば、羽柴秀吉や柴田勝家みたいな人たちがアミールと思って
差し支えない。
セルジューク朝やモンゴル帝国では、王朝を支える譜代の各部族の首長たちを「アミール」と呼んでいる。
○アタベク
اتابكatābek 本来はテュルク語で「ata(父)+bek(君侯)」の意味。セルジューク朝で使われたもので、
君主から王子の後見・養育を任された有力な人物の称号で、少し前の本では「王輔」とか「父侯」など
の訳語を当てていた。史上有名な宰相ニザーム・アル=ムルクのような文官もアタベクになることも
あったが、大体はセルジューク朝君主の子飼いのトルコ系有力マムルークが王子の後見役として君主から
アタベクに任じられた。父親に代わって子息に対して全権をゆだねられ、子息に与えられたイクターの
の管理も任せられいていた。
やがて王朝内部の後継問題がこじれると有力なアタベクやその息子たちが地方で独自の勢力を持つよう
になり、父や先祖にならってアタベクを名乗り続けるようになったりした。
ザンギー朝のヌールッディーンも父イマードゥッディーン・ザンギーがアタベク位を与えられたのに
引き続いて自らもアタベクと名乗っている。
○ムクター
مقطع muqţa' イクターを授与されそれを保持する人物をいう。身分の上下に関わらず君主からイクターを
与えられればその人物はムクターといえる。スルターン(君主)からイクターを与えられる人物には
スルターンに対して果たすべき義務を課せられている。とりわけ重要なのが軍事奉仕であった。
この軍事奉仕は絶対的な義務であったため、これを拒否すると反乱者と見なされた。
他にも当時の用語にはファーリスとかワーリーとかサーヒブとかあるけどそれらは今回割愛。
入ったの?
モンゴルに破れたあと、ホラズムのテュルク人はマーワラーアンナフルやホラーサーンに留まって
モンゴルの傘下に入るか、西方に逃れてアッバース朝やルーム・セルジューク朝や
エジプトのアイユーブ朝などの庇護を受けていたそうだ。
アイユーブ朝のスルターン・カーミルの時代に東方から逃れてきたホラズムのトルコ系
部将にイクターを与えた記事が『完史』などに出てくるとのこと。
アゼルバイジャンに本拠を移したジャラールッディーン率いる
ホラズムシャー朝の軍勢と激しく戦ってますが。
ああ、>>89 はジャラールッディーンの軍勢に加わらなかったり敗戦後離散した人たちの話ね。
>>87の内容がジャラールッディーン以後のことを聞いてるように思えたから端折った。
ジャラールッディーンがディヤールバクルで殺害されたあと、1236-37年に、残余のホラズム勢の一部
1万2000騎がルーム・セルジューク朝のカイクバード1世のもとに身を寄せたらしい。
その後息子のカイホスロウ2世に疎まれて、シリア一帯の太守でカーミルの弟サーリフの
もとに逃れた。そこでカーミルの勅許を得てジャズィーラ地方のイクターを与えられたと
イブン・ワースィルなどは伝えてるとのこと。『完史』の方にも載ってたかと思ったが
記憶違いだったか orz
ジョン・キーガン『戦略の歴史』(心交社)より引用
十字軍の兵士たちは辛抱強い努力を積み重ねて、彼ら自身の戦法とは相反する
戦法の効果を高めていった。つまり騎兵とかなりの規模の歩兵との共同作戦
である。歩兵は鋭利な武器と弓、最終段階では石弓をもつようになるが、
獰猛な顔つきを軽騎兵にさらす彼らは騎兵部隊と遭遇するとつねに殺到して、
兵士一人ひとりを狙い撃ちした。(中略)ところが聖地では、歩兵は真価を
発揮した。とくに輜重部隊の防御で真価を発揮し、彼ら抜きでは十字軍は
遠征ができなかった。また戦闘隊形に入ったときにも、攻撃されやすい
騎兵の側面防御に欠かせなかった。
その野蛮さでムスリムやビザンツ人を呆れさせたDQNフランク人だが、
ときには彼らを感心させることもあった。
十字軍がアラブの地を支配していたときのことを、
「その野蛮なフランク人たちを嫌ったアラブの知識人の一人、イブン・ジュバイル
はまた、ムスリムがフランクとともに安楽に暮らしていることを伝えている。
これは、驚くべきことだった。ムスリムの『家屋は彼らのものだし、財産も
手をつけられることがない』。ところが、同じムスリムのもとではそうではない。
『事実、フランクは平等を旨として行動するのに、この同胞たちは同宗の者が
行う不正に苦しんでいる』。
この記録を紹介したアミン・マアルーフはいう。これは重大な事実の発見である。
「フランクにおける正義についての見解が、・・・『野蛮』と形容できる側面を
もっていたにせよ、彼らの社会は『権利の分配者』であるという長所を備えていた」。
「封建諸侯、騎士、聖職者、大学、ブルジョワ、そして『不信心』の農民でさえも、
十分に確立した権利のすべてをもっている。東アラブでは、裁判過程こそフランクより
合理的であったが、領主の専制権力にはいかなる歯止めもない」
またラテン帝国のボードワン1世がブルガリア人に敗れて行方不明に
なったとき、ラテン人がボードワンの死を確認してアンリ1世が皇帝の
称号を名乗るまで1年以上かかった。
ビザンツ人たちは彼の行為を誰にもまねのできない美徳と賞賛した。
ビザンツ帝国では、皇帝の一族や臣下が空位の瞬間を捕捉ないし先取り
するのに躍起で、西欧のような相続の法規は存在しなかったのである。
残っている。
中国の「械闘」も有名。
イブン・ハルドゥーンのいうアサビーヤでつながった部族社会だね。
して非難したらしいね。
今でも、アラビア半島のアラブ人は、「我々は純血の、いわばサラブレッドの
アラブだ」という意識が強くて、シリアやエジプトのアラブ人を見下してる。
アラビア語で「混血する(هجن)」という単語には劣っている、とか卑しい、
とかいった意味がある。
平等な裁判などとたわけた評価はないがな
>>100
でもその場合、爺さんが決闘裁判を望んだわけで。
ところで、Might is right という英語のことわざも、決闘裁判と
同じ発想からきたものかな。
>>100-101
当時のムスリム騎士(ファーリス)の騎士道(フルースィーヤ)の精神から言えば、
裁判なら裁判で決裁し、決闘なら決闘で勝負を決めるのが常道だとおもう。
当時の規範からすれば、王が決闘を申し込める相手は王クラスでないと身分的に釣り合いが
取れないと見なされてたので、レゴ王子ではサラディンとの決闘なぞは無理ではないかと。
ボードワン4世やリチャード1世だったら身分的に申し分ないが、ボードワンは病人だし、
サラディンの方も実はヒッティーンの戦いの前後、リチャードの上陸あたりまで何度か高熱を
出して寝込んでるから、どっちにしろ厳しい。ルノーの場合はメッカ・メディナの近くまで
掠奪・殺人を犯しもした大悪人だったから、決闘とか何とか以前に成敗と考えて良さそう。
アラブ社会の慣行では受けた辱めはきちんと報復するのも美徳とされた。
ムンキズが語るところによれば、ある騎士が戦場で鑓で不意打ちされたが、
余りの悔しさにムンキズに泣いて訴えその不意打ちした騎士に復讐を誓った。
気持ちを落ち着かせると、直ぐさまとって返して一騎打ちを申し出て、互いに
鑓で突き合い見事相手の騎士を討ち果たしたという。
騎士・武人であれば決闘の話は武功の話として誉れの一種として語られるだろうが、
庶民のうちでは、よほど同族意識の強いところでないと陰惨な血讐の報復合戦という
事態は起こらないそうだ。清算がされない報復は周囲のムスリム社会から見れば美徳
などとは全く思われないだろう。
第4次十字軍以降はかなり混沌としてて面白いんだけどあまり詳しい本がないですね。
そういえば欧州の諸王やムスリム側の動向はある程度しられていますが、
当時のペレポンネソス半島やエーゲ海方面、キプロスのあたりは殆ど
聞かれませんね。どういう活動をしていたんでしょうねえ。
>>117
第4回十字軍がビザンツ帝国を滅ぼしてラテン帝国を建国した後、
西ギリシアにはエピロス君侯国というビザンツの亡命政権、
ペロポネソスにはアカイア侯国、アッティカ地方にはアテナイ侯国、
テッサロニケ王国というフランク人の建てた国がありました。
コンスタンティノープルのすばらしさをえんえんと書き連ねたあとに普通に略奪するんだよな(w
当時の習慣では、抵抗して陥落した都市に対しては掠奪が許されていた。
テオドシウス記念柱から広場へ真っ逆さまに地上へ突き落として処刑。
イスラムの慣習では、
都市が征服されると掠奪はされるけど普通は住民の殺戮までは伴わない。
勿論、都市が陥落すると掠奪の過程で住民が捕縛され、のちに奴隷として
売買されることがよくあるが、これに住民虐殺までいくかどうかは
やはり当事者の君主や状況よってまちまち。
陥落後は君主にはその都市の支配権が発生するので、住民の保護義務が生じる。
これは相手側がキリスト教徒やユダヤ教徒であっても変わらない。
投降してきた住民には原則アマーン(安全保障)を与えることになってるが、
これに伴う諸条件はやはり都市を征服した君主の裁量に一任される。
(キリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民」の)住民の信仰や生活保障に
ついては従来のものを保持できるように取り計るのはイスラム君主の義務とされ、
いかなる場合でもイスラムへの強制改宗は行われない。しかし、もし捕縛した人物
(この場合非ムスリム)が処刑されるにたると判断した場合、最後の容赦というか
最後通牒として、イスラムへの改宗を促して最後の赦免の機会を与える義務がある。
これが拒否されると処刑されるが、改宗勧告を受け入れた場合君主はその人物を
保護しなければならないことになる。
>>131
>勿論、都市が陥落すると掠奪の過程で住民が捕縛され、のちに奴隷として
>売買されることがよくあるが、これに住民虐殺までいくかどうかは
>やはり当事者の君主や状況よってまちまち。
1291年にアッコンが陥落したときは悲惨だったらしい。
アル=アシュラフ はサラディンほどの紳士ではなかったということ。
ヨーロッパ人がサラディンを名君と称えるのもわかるな。
コンスタンティノプールでは、コンスタンティノス11世の時代にコンスタンティノープル総主教だった
人物がメフメト2世によって引き続きその地位を保証されたそうなので、首都の住民が全員殉教したような
流説はフィクションの類。
ヒッティーンの戦いの場合でもこれらの問題が出てくる。
サラディンがギー王にシャーベットを与えたことが当時のいくつかの史料で述べられているが、
捕虜となった人物に飲食物を与えることは、アマーン(安全保障)を与える形式の一つとされている。
つまり当初からサラディンはギー王に安全保障を与える意思があったことがうかがえる。
ギー王がそのシャーベットをルノーにさらに手渡した時、サラディンがそれはルノーに与えた物ではない、
つまり捕縛された段階で、当初からルノーはサラディン陣営では安全保障を与えられるような状態では
なかったことが分かる。
シャッダードのサラディン伝などの史料によれば、サラディンは通訳を通じてルノーに宣言したこととして
次のように語ったという。ルノーにシャーベットが与えられなかったこと=安全保障が与えられない理由をとして、
ルノーが行った、それまでの休戦協定の破約や住民虐殺、メッカ巡礼団などの隊商への掠奪・虐殺行為、
さらにメッカ・メディナの破壊を目的とした紅海一帯の掠奪に加え、準聖域であるヒジャーズ一帯への侵犯と
それに続く掠奪・虐殺行為などを述べ挙げて、彼ルノーには容赦はされないことをはっきりと表明した。
その後ルノーは処刑されるのだが、すぐさま処刑されたというものや、サラディン自らが斬首した、
あるいはルノーに改宗を勧告したが拒否されたのでサラディンは彼を手打ちにし、近侍らがテントの外に
連れ出してトドメを刺したなど、史料によって若干の異同があるらしい。
聖堂騎士団や聖ヨハネ騎士団は騎士団長以外ほとんど処刑されたそうだが、その他の主立った騎士たちは
後日釈放されたようだ。(その中にトリポリ伯レイモンドやイベリンのバリアンもいたらしい)
やるだけやって仕返ししないのはできた奴だ、するやつは外道、って論理じゃ通らないでしょ
住人は何も関係ない。
ブルガリアの主力はキプチャク人の騎馬弓兵だったらしいから
やっぱりフランク人はトルコ系に弱いのか。
ブルガリア王カロヤン(イワニッツァ)との戦いで、
ラテン帝国のボードワン1世は弟アンリの軍勢が戻るのを待たずに、
140人の騎士とその弓兵や従士を連れただけで出陣。
ヴィラルドワンは敵を深追いしないように忠告したにもかかわらず、
主力部隊を率いたブロワ伯は軽率にもクマン族の軽騎兵を追跡。
クマン族は最初の突撃の後に後退し、ラテン軍の騎士とその馬が息切れした
ころを見計らって、突如反転して主力部隊を包囲。
その結果、ブロワ伯は戦死し、皇帝ボードワン1世は捕虜になった。
>>148
アケメネス朝ペルシアvsスキタイ人、
ナポレオン軍vsコサックもそんな感じだな。
いったん退却して、敵が疲労&補給線が途絶えたころを見計らって反撃。
セルビアの西欧式軍隊が軽騎兵中心のブルガリア軍を
破った例があった気がするが・・・
1330年に、ステファン・ドゥシャンが少数の兵でブルガリアの大軍を撃破した
戦いかな?
でもそのセルビア軍もオスマン朝の軍勢にはあっさり敗北。
との戦いに敗れて戦死、彼の頭蓋はブルガリア王カロヤンに献上された。
だがその後アンリ1世はブルガリア王の軍勢を撃退。カロヤンは天幕の中で
何者かに刺殺される。
またアンリ1世はニケーア皇帝ラスカリスを追い詰めて小アジアに勢力を
伸ばし、ニケーア・エピロス両国と講和を結んだ。
またギリシアの民心をつかむため、教皇インノケンティウス3世による
ギリシア正教会の土地の教皇領への移譲を拒否。
その献上されたドクロはひょっとして金箔貼って酒盃にしたのか
エピロス君侯国も。
西欧人(カトリック圏の人間)のこと。
の市民は彼にそそのかされて市内に住む西欧人を虐殺している。
自分たちの船に隠れ場を見つけられなかった者はすべて殺され、
教皇アレクサンデル3世の使節であるジャン枢機卿が斬首される騒ぎに
なった。
西欧人がいかにビザンツ人から嫌われていたかを示すエピソードである。
ラテン帝国皇帝アンリ1世の死後、彼の姉妹のヨランドの夫である
ピエール・ド・クルトネが新皇帝に即位した。
彼はエピルスの山中でテオドロス・ドゥカスと戦って敗北し、
しばらく拘留されたあと暗殺された。
ピエールの死後、彼の兄弟のロベールが皇帝の座に就いたが、
彼の治世にラテン帝国はニケーアとエピルスの双方から圧力を受けた。
テオドロス・アンゲロスはテサロニカ王国を手に入れ、ボニファチオ・
ディ・モンフェラートの息子のデメトリオスを追放した。
ヨアンネス・ドゥカス・ウァタツェスはエピルスの僭主テオドロスに
ニケーアの宗主権を認めさせ、フランス人傭兵隊を征服事業に使い、
艦隊を建造してヘレスポント海峡の制海権を握り、レスボスとロードス
を占領し、小アジアとバルカン半島を制圧してラテン帝国を完全に
孤立化した。
また彼は最初の妻イレーネ(テオドロス1世ラスカリスの娘)の死後、
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の娘アンナと結婚している。
これは彼が神聖ローマ帝国の封臣になることで、ラテン帝国の宗教的
体面を取り潰す意図にもとづいていた。
当時のレヴァントでのヴェネチアとジェノバの対立って、ヴェネチアがラテン側、ジェノバが
ギリシャ勢力側、みたいな感じですか?
関係ないけど昔読んだ映画雑誌に、ポール・バーホーベン監督、シュワルツェネッガー主演で
第4回十字軍の映画を撮るとか載ってたような気がするが・・・立ち消えになったのかな。
そのときどきで敵味方が入れ替わることもあった。
1082年5月、アレクシオス1世はヴェネツィアに、ビザンツ帝国内の都市で
関税を払うことなく取引できるという特権を与えた。
次のヨハネス2世は父が与えた特権を回収しようとしがmヴェネツィア側が
武力に訴えてあきらめさせた。
例えばマヌエル1世はイタリア半島を支配下に置こうとしてヴェネツィア
との関係を悪化させ、1171年3月、マヌエルはヴェネツィアに断交を宣言し、
帝国内の全ヴェネツィア人を逮捕、その財産を没収する。コンスタンティ
ノープルのヴェネツィア人地区も撤去された。さらにヴェネツィア人追放に
先立ってジェノヴァ、ピサと通商条約を結んでいる。
アンドロニコス1世コムネノスの時代には再びヴェネツィアとの交渉を
始めている。アンドロニコスは政権奪取のために西欧人のすべて追放
したので、ビザンツ経済が正常に機能しなくなっていたのである。
第四回十字軍で、ヴェネツィアはコンスタンティノープルを征服する
ことによって、東地中海世界システムの中核の地位を確固たるものとする。
通商条約を結んでいる。ラテン帝国の黒幕であるヴェネツィアに関税免除の
特権を与えたのは、穀物を販売したい貴族層の利害に配慮したためである。
貴族たちはまた、ヴェネツィア商人がもたらす絹織物を欲しがっていた。
ただし、ニケーア帝国は決してヴェネツィアべったりではなく、ときに
ジェノヴァに接近したりして、いたりあ都市間の対立を利用して活路を
開こうとしていた。
ミカエル8世がコンスタンティノープルを奪回すると、ヴェネツィアは
シャルル・ダンジューと同盟を結ぶ。(これはシチリアの晩鐘事件で失敗)
第4回十字軍はそもそもエジプトを攻めるつもりだったのだが、
インドやアラビアン産の香辛料はナイル河を通って地中海世界に
運ばれていた。
ヴェネツィアやピサの商人たちは、ダミエッタやロゼッタで、川船から
商船に商品を積み替えていた。
そしてエジプトのスルタンも、十字軍戦士と同じフランク人であっても、
それが国庫に恩恵をもたらすことを知っていたので、これらの商人に
好意を持って接した。彼らが船の建材、ピッチあるいはタール、金属、
武器などを持っていった場合には、ますます歓迎された。
したがって、ヴェネツィアにとっては十字軍がエジプトを攻めるのは
国益の観点からして望ましくなかったのである。
十字軍の場合、イタリア商人+騎士修道会の自前の海軍で成り立っていた
らしいけど。
初期イスラームの海軍は、イエメン人、オマーン人、シリア系のアラブ人、
コプト派キリスト教徒、ギリシア人によって編成されていたらしい。
ただ、サラディンの時代の海軍がどうなっていたかは不明。
マグリブ人が海兵として優秀だったとか
そういえば十字軍の初期の頃は海軍国のファーティマ朝が健在だったんだよな
ファーティマ朝はアレキサンドリア・ダミエッタ・ローダ島・マクスに
海軍工廠を持っていた。
ファーティマ朝は北アフリカとシリアの領土を失うと、深刻な人的資源不足
に悩まされ、その結果海軍力に大きく頼るようになった。
ファーティマ朝の宰相、アル・アフダルは、最初十字軍と組んでシリアから
セルジューク朝の勢力を排除しようとさえ考えた。
(彼は十字軍の実態について無知だったらしい)
イェルサレム国王ボードワン1世は1118年にエジプトに侵攻したが、途中で
病気にかかって引き返した。このときのファーティマ朝はほとんど無抵抗
という醜態をさらしている。
1160年にはイェルサレム王国に年間6万ディナールを貢納することになる。
西欧かぶれのマヌエル1世とか、イェルサレム王ボードゥアン3世の寡婦
テオドラと駆け落ちしたアンドロニコス1世とか、第4回十字軍の力を借りて
皇帝に即位しようとしたアレクシオス4世とか。
ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン2世のもとに亡命していた
ことがあるんだよね。
そしてトレビゾンドに何度も侵攻し、テオドラがこの地の総督に捕われるに
およんで、鉄の鎖を首に巻きつけてマヌエル1世の赦免を乞うた。
あとどうなったの?
その断片は「聖遺物」として初期キリスト教の教会の多くに納められたので、十字軍が
発見したのもイスラムに奪われたのというのも丸ごとではなく断片でしょう。
お釈迦様の「仏舎利」と同じようなものと思われますが。
ヘレナが発見したことになっているのは丸ごとで、「聖へレナ」の画像は、十字架に
寄り添う豪華なマントを着た老貴婦人で示すことになっています。
あまり詳しくないからアレだけど、
シャッダードのサラディン伝によれば、リチャード1世がアッカー占領後
サラディン側に対して捕虜返還の条件のひとつに「真の十字架」の引き渡しを
挙げている。
欧州諸王とサラディン側の交渉の材料になるくらいなので、ヒッティーンの戦いと
エルサレム占領後、十字軍側が陣中に持ち込んでいた「真の十字架」はサラディン側
の手に落ちたのち、破却されることなくサラディン側に保管されていたのかも知れない。
恐らくエルサレム占領後、もとの聖墳墓教会あたりに戻されていたのやもしれないが
それまでの経過はよくわからない。キリスト教側の聖遺物の管理はキリスト教の教会側
の領分なのでムスリムの君主であるサラディンに裁量できる権限があるかは、自分には
よく分からない。その後の「真の十字架」がどうなったか、これもよくわからない。
十字軍とは直接関係無いけど、「真の十字架」はサーサーン朝のホスロー2世に
一度奪われ、その後ビザンツのヘラクレイオス帝が奪回。
ヘラクレイオスは奪回した真の十字架をイェルサレムの聖墳墓教会におさめた。
聖遺物といえば、第一回十字軍がアンティオキア籠城戦のさいに発見した
「聖なる槍」なんてのもあった。
>>216
一つの山が樹木で覆われてしまうぐらい、だそうでつ。
>>215
マルセイユ出身のピエール・バルテルミという聖職者が、自分の夢に
聖アンデレが現れて、「アンティオキアの聖ペテロ教会の祭壇の近くに、
我らの救世主の横腹を刺した槍の穂先が隠されている」と告げたと
ふれまわった。
という書物があります。これは預言者がイェルサレムの岩のドームから昇天し、
人頭獣身の霊獣ブラークに乗って神の王座にいたる七つの天界と地獄をめぐる
という説話にもとづいており、後にダンテの「神曲」に影響を与えたと
いわれています。
ひょっとしたらこれも十字軍とともにヨーロッパに伝わったのかなあ?
>>219
ミウラージュは、コーランで述べられてるムハンマドの数少ない奇蹟のひとつで
ハディース集やムハンマド伝などでもよく取り上げられる主題ですね。
(奇蹟自体は預言者というよりもこの際は神の力(意思)の顕現であり
コーラン自体がムハンマドを通して顕現した神の奇蹟であるというのは置くとして)
ミウラージュの話そのものは神に謁見するため天の階梯を登る内容なので、コーランなどでは
古代のイナンナ女神や新訳外典のように地獄下りはなかったはず。
天地が惑星圏ごとに階層化しているという宇宙観は、メソポタミア・シリアでは
古代から一般的だったようです。天地の階層がそれぞれ7つずつという発想そのものは
割と新しく、ペルシア帝国時代からヘレニズム時代にユダヤ人やアラム人、ギリシア人に
よって天文学や占星術関連の文献がアラム語やギリシア語によって著述されるようになってから
特にギリシア人によって体系化されていったと見られています。この過程で各階層に哲学的かつ
神秘主義的意味が付与されるようになりますが、これは当時流行していたグノーシス思想の
影響が多分に反映しています。
>>221の続き
ミウラージュの説話は、15世紀以降になるとイラン・トルコ方面で挿絵付き写本の
作成が一般化するようになってから預言者伝や聖人伝のジャンルとして「ミウラージュ・ナーマ」
の類が登場します。しかしこれは『神曲』の作成年代よりは新しい物です。
『神曲』の階層的な天地の構造は、むしろ10~12世紀にシリア・エジプト方面で隆盛した新プラトン主義的な
神学や神秘主義思想、その影響を受けた天文学というか占星術などの諸学の文献が、アンダルスやシチリアの
アラビア語・ギリシア語文献の翻訳運動によって西欧に伝播し受容された結果だと考えた方が良さそうです。
お知りになった「ミウラージュ・ナーマ」やムハンマド伝に地獄下りの場面があるのでしょうか?
ダンテの場合は新訳外典のひとつにあるイエスの地獄下りの説話が下地にあるように思えます。
キリストの冥府下り(アナスタシス)は、トリエント公会議で否定されたので、
日本人には馴染みがないんだよね。
ビザンティン美術にはこのテーマを扱ったものがイパーイある。
西欧でも、アーニョロ・ブロンズィーノがこのテーマで絵を描いている。
>>224
そのような話は聞かれないが、サラディンが叔父シールクーフに
伴ってエジプト遠征に派遣されたとき、何度か苦戦を強いられたことは
知られている。
1164年5月に第1回エジプト遠征が行われたが、宰相位に復帰した
シャーワルがアモーリー1世に通じて十字軍をビルバイスまで引き寄せ、
シャーワルの軍とエルサレム王国軍とで、シールクーフのシリア軍を包囲した。
しかし、アモーリーは自軍の犠牲を避けるためシリア軍側に包囲を解く条件として
3万ディーナールの支払いを要求したらしい。シールクーフはこれに承諾して
10月にはシリア本国まで撤退している。この時サラディンは26歳だったが
戦闘そのものはなかった可能性も高く、史料にもサラディン自身の活躍もほとんど
無いに等しい。
十字軍侵攻から救援要請をした当のシャーワルの不誠実さには、派遣した
ヌールッディーンもシールクーフも大いに不満だったようで、三年後の
1167年初めに第2回エジプト遠征が行われた。エジプト到着はアモーリーの
軍と同時だったようでナイルデルタ一帯で戦闘が行われた。この時もサラディンは
シールクーフに従って一軍を任され、アレクサンドリアの住民の支持を得られたので
これを防衛し、これを包囲したアモーリーの軍をシールクーフが撃破する三ヶ月間
攻囲を耐えきっている。
ちなみに第3回エジプト遠征でシールクーフがカイロ入りして宰相に任命され、
サラディンのエジプトでの足掛かりが出来る。
サラディンがクラク・ド・モアブを包囲したとき、トランスヨルダンの女領主
エティエネット・ド・ミリが、サラディンに使者を送って、自分が子供のころ
サラディンに抱かれていたことを思い出してくれるよう頼んだ、という話を
読んだもので。
ソースは?
サラディンの少年時について詳しい日本語の文献はあまり無いから
海外調べた方がいいかも。
レジーヌ・ペルヌー『十字軍の男たち」(白水社)でつ。
レジーヌ・ペルヌー『十字軍の男たち』(白水社)を読んでいると、著者が
アラブ人やムスリムに対して無知であるか、偏見を持っているのではないかと
思う。例えば、
「『聖戦』を布教上公認された手段としているイスラム教徒」
「この宗教がキリスト教と比べた場合に明らかな特色となっている後退や
退行の性格」
「イスラム教を特色づけるものは何よりもまず新約聖書の本質的な貢献を
全面的に否定することである」
「645年のアレキサンドリアの有名な図書館の消失は世界にとって
とりかえしのつかない損失であった」
>>230
それには同感。
彼女の著作がフランス本国でベストセラーになってるのも
ちょっとナショナリズム色の強さを感じて抵抗感がぬぐえない。
でも、あの時代の著作に関しては定評のある作家だから、
>>224みたいなことについて嘘は書かないんじゃないかと思う。
この分野だとフランス語の文献をあたるのがベストなのかな。
>ナショナリズム色の強さ
フランス人だからかどうかわからないが、フリードリヒ2世を批判して、
聖王ルイを称賛している。
フリードリヒ2世については、
「体型からみても、この禿げ頭の猫背の小男と、彼の次に登場してくる
聖王ルイによって表現されるような騎士の姿のあいだには似かよった
点は何もないのである」
「彼の業績については、政治的見地からすれば、彼がまったく予期
しなかった結果だけを残すこととなった。つまりプロシアの基礎を
つくったことである」
>>230
その辺、結構微妙なとこだけどね。
1番目は事実といえば事実。
ただし、コーランの教えは非戦闘員を対象にはしていない。
2番目は確かに偏見。
3番目、マホメットはキリスト本人の神性は否定しつつも、
預言者としては認めるという立場だったから、確かに新約とは
相容れない部分がある。
新約が弟子の記録を意図的に取捨選択した結果なのは確かだし。
4番目は自分も同感。でも似たような例を挙げればきりがない。
彼女はそれなりの学者だけど、ヨーロッパでは政治的中立タイプの
学者のほうが珍しいしね。読む側が気をつけるしかないのかも。
読む側が気をつけるしかない