日露戦争(1904~05年)で日本の捕虜となり、大阪府の「浜寺俘虜収容所」とみられる施設などで過ごすロシア兵らの写真78枚のガラス板ネガがロシア西部イワノボ州の民家で見つかり、イワノボ国立歴史郷土博物館が公開せず所蔵していることが9日分かった。
木造長屋で暮らしていたロシア捕虜。大阪の浜寺俘虜収容所で撮影されたとみられる(イワノボ国立歴史郷土博物館提供、共同)
78枚のうち日本での撮影とみられるのは22枚。捕虜が曲芸を眺めるカットもあり、「一等国」入りを目指していた日本が1899年のハーグ条約に基づき捕虜を厚遇したことが分かる。ロシア捕虜の研究を続ける立命館大政策科学部の桧山真一非常勤講師(71)は「いずれも初見で、捕虜の生活に余裕があったことがうかがえる貴重な史料だ」と評価している。
以下ソース
産経新聞
https://www.sankei.com/smp/photo/story/news/200509/sty2005090007-s.html
大阪で軽業を見物するロシア人捕虜達
ニュース
それを言っちゃうと、イタリアはおろか、フランスだって戦勝国と言えないしね。
ロシアを満州地域から駆逐して当面のロシアの南方進出の意思をくじいて戦略目標を達成したんだから日本の勝利だろ。
ロシアは南方の進出拠点失ったんだから負け。
戦争の勝ち負けの基準が敵の首都占領とでも思ってんの?
堺市浜寺公園の日露友好之碑には
ザキトワ選手が来たよ
特に、ロシア兵は日本の捕虜収容所で読み書きを覚えた兵士も多く
バルチック艦隊の総司令官に対しても、東郷司令官は失礼にならないように
面会の際には気を使った。その態度に、ロジェストヴェンスキー司令官は
いたく感動して「あなたと戦えた事を光栄に思う」と称した。
第1次大戦におけるドイツ兵捕虜の処遇は有名で鳴門市の「坂東捕虜収容所」の
逸話は有名。今も、ドイツ兵捕虜の子孫との交流があり「ベートヴァンの合唱」コンサート
が開催されている。
>>46
いまの日本とは違う。
当時の日本は、薩摩の叩き上げで、戦争経験ある奴が
政府の実権を握っていた。
世襲はいなかった。
日本だけじゃなくて、ww1ぐらいまでは各国捕虜の扱いが丁寧だったみたい。
なぜかww2では各国とも結構酷いことしてる。
兵器・戦術は進歩したが、野蛮になった。
このころは、東郷など英国留学組で、海軍は英国式だった。
ロシア捕虜の海兵に、タバコとシャンパンを与えたり。
英国紳士のやりかた。英国とユダヤから、資金援助してもらってたし。
説明しなかったんだと思う。当時の日本じゃ牛肉なんか無理
健康増進のためだと言えばよかった。米軍捕虜
【シベリア抑留】
終戦後、投降した日本軍捕虜らが、ソ連によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離された
厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した
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日本人が忘れかけてる真実
そのお陰で治外法権撤廃されたんだし
まぁ東洋の小国が大国ロシアに勝っちゃったってことで植民地の人間焚きつけちゃって各地で独立運動へと向かうんだけど
島根県は沈没したロシア船を救助した縁で、いまでも姉妹都市を結んでるところもあるね
この頃はロマノフ王朝
ソ連じゃない
ソビエトになってからはあらゆることがとてつもなく悲惨