蒋エンいきます
ニュース
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蒋エン、字公?、零陵湘郷人也。弱冠與外弟泉陵劉敏、?知名。
蒋エンは、字を公?といい、零陵郡湘郷県の人である。弱冠(20歳)にして外弟(いとこ)である泉陵の劉敏と、ともに名を知られた。
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エン、以州書佐随先主入蜀、除広都長。先主、嘗因遊観、奄至広都、見?衆事不理時又沈酔、先主大怒、将加罪戮。
蒋エンは、州の書佐として先主(劉備)に随行して蜀に入り、広都の長に任命された。先主は、かつて遊覧をして、急に広都に行き、蒋エンが諸事を処理せずその時泥酔しているのを見ると、先主は大いに怒り、処刑しようとした。
あとあとやるけど無頓着わかるわ
楊儀のくだんやろわかるで
そうそう
そこらへん
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軍師将軍諸葛亮、請曰「蒋エン、社稷之器、非百里之才也。其為政、以安民為本、不以脩飾為先。願主公、重加察之」先主雅敬亮、乃不加罪、倉卒、但免官而已。
軍師将軍の諸葛亮は、願い出た「蒋エンは、社稷(=国家を担う)の器で、百里(=県程度)の才ではありません。その為政は、民を安んじることを根本とし、(うわべを)飾り立てることを先としません。
願わくは主公、なにとぞそのことをお察しください」先主は諸葛亮を敬愛していたので、処罰せず、その場で、免官するだけにした。
魏延に選んだら蜀軍が五丈原で壊滅してそう
だれもついてこなそう
丞相府の連中からは浮いてるし
丞相府の長史やから順当なんやないかと
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エン、見推之後、夜夢、有一牛頭在門前流血滂沱、意甚悪之、呼問占夢趙直。直曰「夫、見血者事分明也。牛角及鼻、公字之象。君、位必当至公、大吉之?也」頃之、為什?令。
蒋エンは、取り調べの後、夜夢で、一匹の牛の頭が門前にあり血がたくさん流れているところを見たので、不気味に思い、夢占いの趙直を呼んで問うた。
趙直は言った「そもそも、血を見るは政事に明るいという意味です。牛の角や鼻は、公の字の形です。君は、位は必ず公となり、大吉の予兆です」しばらくして、什?の令となった。
趙直夢占いで有名やったらしい
他にも誰か占ってたけど忘れちゃった
何祇と魏延と蒋エンの3人みたいやね
サンガツ
覚えてなかった
何祗の死期とかわざわざ付け足してどうにかなるもんでもないし
夢は魂が分離してみるもんだと昔の人は考えてたらしい
そんで「何々の夢見た」
これが伝承としていつしか真実味を帯びて史官が記録した説
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先主為漢中王、?入為尚書郎。建興元年、丞相亮開府、辟エン為東曹掾。挙茂才、エン固譲劉?、陰化、?延、廖淳。
先主が漢中王になると、蒋エンは(政府に)入って尚書郎となった。建興元年(223年)、丞相の諸葛亮は丞相府を開き、蒋エンを招いて東曹掾とした。茂才に推挙したが、蒋エンは固辞して劉?、陰化、?延、廖淳に譲った。
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亮教答曰「思惟、背親捨徳以殄百姓、衆人既不隠於心。実又、使遠近不解其義。是以、君宜顕其功挙、以明此選之清重也」遷、為参軍。
諸葛亮は諭しの返答した「思うに、親しい人に背き徳を捨てて百姓を滅ぼせば、人々は同情しないだろう。本当にまた、遠近にそのわけを理解させられないだろう。
それゆえ、君は功によって推挙されたことをはっきりさせ、この選挙の正しさ重要さを明らかにしてくれ」昇進して、参軍となった。
バリバリ現役の魏延の頼り強さは異常
馬趙両将死んだ後のこいつしかいない感は異常
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五年亮住漢中、エン與長史張裔、統留府事。八年、代裔為長史、加撫軍将軍。亮数外出、エン常足食足兵、以相供給。
建興五年(227年)諸葛亮が漢中に駐屯すると、蒋エンは長史の張裔と、留守の丞相府を統括した。建興八年(230年)、張裔に代わって長史となり、撫軍将軍を加えられた。諸葛亮がたびたび外征すると、蒋エンはつねに糧食を充足させ兵卒を充足させ、供給した。
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亮毎言「公?、託志忠雅。当與吾共賛王業者也」密表後主曰「臣若不幸、後事宜以付?。」
諸葛亮はつねに言った「公?(蒋エンの字)の、志は忠義にある。私とともに王業を助けるべき者だ」後主に密かに上奏した「臣にもし不幸があれば、後事は?に託してください。」
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亮卒、以エン為尚書令、俄而加、行都護、仮節、領益州刺史、遷大将軍、録尚書事、封安陽亭侯。
諸葛亮が亡くなると、蒋エンを尚書令とし、すぐに、都護を代行させ、節を貸し与え、益州刺史とし、大将軍、録尚書事に昇進させ、安陽亭侯に封じた。
王平くらいしかまともなの知らんのやが
張嶷さんとかを忘れないであげて...
費イ姜維を筆頭としておるにはおるんやが
知名度ではどうおもね
姜維「…」
夏侯覇「…」
姜維忘れる痛恨のミス
夏侯覇は何もしてないんだよなぁ
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時新喪元帥、遠近危悚。エン、出類抜萃、処群僚之右、既無戚容、又無喜色、神守挙止有如平日。由是、衆望漸服。
この時元帥を失ったばかりなので、誰もが危惧していた。蒋エンは、人々の中から抜擢され、群臣の右(上)となったが、憂えた顔をせず、喜んだ顔もせず、精神や挙動は日頃と同じだった。そのため、人々はだんだんと心服した。
あーあこの人何も考えてないよ
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延熙元年、詔エン曰「寇難未弭、曹叡驕凶。遼東三郡苦其暴虐、遂相糾結、與之離隔。叡、大興衆役、還相攻伐。曩秦之亡、勝広首難。今有此変、斯乃天時。
延熙元年(238年)、(後主劉禅は)蒋エンに詔を下した「賊の難はいまだ止まず、曹叡は傲慢凶悪である。遼東三郡はその暴虐に苦しみ、ついに集結して、彼から離反した。曹叡は、兵卒を大挙し、かえって攻撃した。
昔の秦の敗亡は、勝広(※)が難の始まりとなった。今この変があるのは、これこそ天の時である。
※秦末の農民反乱の指導者陳勝と呉広のこと
陳勝は秦の苛政に追いつめられて挙兵、一時は秦朝を脅かすほどの大勢力となったが、秦の将に敗れて味方に殺された
呉広は陳勝の部下
二人は直接秦を滅ぼしたわけではないが、これが秦の滅亡のきっかけとなった
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君其治厳、総帥諸軍、屯住漢中。須呉挙動、東西掎角、以乗其釁」又命?開府。明年就加為大司馬。
君は(軍を)厳しく統治して、諸軍を統率し、漢中に駐屯せよ。呉の挙動を見て、東西で掎角の勢(挟撃の態勢)を作り、その隙に乗じるのだ」また蒋?に開府させた。翌年になると大司馬を加えた。
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東曹掾楊戯、素性簡略、エン與言論、時不応答。或欲搆戯、於エン曰「公、與戯語而不見応。戯之慢上、不亦甚乎」
東曹掾の楊戯は、生まれつき大雑把で、蒋エンと議論すると、時に答えないことがあった。ある者が楊戯を陥れようとし、蒋エンに言った「公が、楊戯に話したのに答えませんでした。楊戯の傲慢さは、酷いものではないでしょうか」
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エン曰「人心不同、各如其面。面従後言、古人之所誡也。戯、欲賛吾是耶則非其本心、欲反吾言則顕吾之非。是以黙然、是戯之快也」
蒋エンは言った「人の心は同じではなく、まるで各人の顔のようだ。対面して従って後に(違うことを)言うのは、古人も戒めている。
楊戯は、私に賛成しようとしてもそれは本心ではないし、私の言葉に反対すれば私の間違いが明らかになってしまう。それで黙っていたのであって、これが楊戯の良さなのだ」
まーた何にも考えてないよ
軍事行動を図れるまで立て直したことだから
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又、督農楊敏、曾毀?曰「作事??、誠非及前人」或以白?、主者請推治敏。?曰「吾実不如前人、無可推也」
また、督農の楊敏が、かつて蒋エンを毀損した「事を行えば混乱し、まことに先人(諸葛亮)に及ばない」ある人が蒋エンに申し上げ、担当が楊敏の取り調べを願った。蒋?は言った「私はまことに先人に及ばないゆえ、取り調べることもない」
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主者、重拠聴不推。則乞問其??之状、?曰「苟其不如則事不当理。事不当理則??矣。復何問邪」
担当は、重ねて取り調べないわけを聞いた。すなわち混乱のことについて詰問を願い出ると、蒋エンは言った「仮にも及ばなければ事は処理できない。事が処理できなければ混乱する。また何を問うのだ」
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後、敏坐事繋獄。衆人猶懼其必死。?、心無適莫、得免重罪。其好悪存道、皆此類也。
後に、楊敏はある事件に連座して獄に繋がれた。人々は必ず死ぬだろうと心配した。蒋エンは、私情を挟まなかったので、重罪を免れた。その好悪(の情)と道理に従うことは、すべてこの通りであった。
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エン以為、昔諸葛亮数?秦川、道険運艱竟不能克、不若乗水東下。
蒋エンは、昔諸葛亮がしばしば秦川を窺いながら、道が険しく運送が困難なためについに勝てなかったことから、水を進んで東に行った方がよいと考えた。
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乃多作舟船、欲由漢?、襲魏興上庸。会旧疾連動、未時得行。
そこで多くの舟船(舟は小型、船は大型)を造り、漢水と?水を経由して、魏興と上庸を襲おうとした。たまたま持病が続けざまに再発し、行けなかった。
呉さえなんとかなれば
このIFみてみたいランキング上位やわ
赤壁があるやん
孫権は領土二倍に増やしたり
裏でそこそこ戦ってるんやがどうもぱっとしない
孫策が派手すぎるってのもある
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而衆論咸謂、如不克捷、還路甚難、非長策也。於是、遣尚書令費?、中監軍姜維等、?指。
人々の議論ではみな、勝てなければ、帰還はとても難しく、良策ではないとして。そのため、尚書令の費イ、中監軍の姜維らを遣わして、その旨を伝えさせた。
蒋エンの上奏があるが省略
「魏は九州に跨り深く根を張っておりますが、呉と協力すればいくらかの土地を取ることはできましょう。しかし、呉は協力を求めても、ためらって果たそうとしません。この艱難を思えば、寝食を忘れるほどです。
そこで費イらと議論しました。涼州の胡の要地は、進退に便利で、賊も目をつけており、しかも羌や胡は漢に心を寄せております。
利害を考えれば、優先するべきでしょう。姜維を涼州刺史としてください。もし姜維が行って河右を保持できたならば、臣は軍を率いて姜維の後詰めとなります。
?は水陸のどこにも通じており、緊急のことがあっても対応できます。もし東北の方に問題があっても、駆けつけるのは難しくないでしょう」
蒋エンは帰還して?に留まることになった。
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疾転増劇、至九年卒、諡曰恭。
病がさらに重くなり、延熙九年(246年)になって亡くなり、恭と諡された。
挟撃にされるか
全土貰って固めれば後がかなり楽
挟撃対策として呉を味方につける論客次第やな
ワイは荊州に関しては
実は諸葛亮と魯粛の間で
話がついてたのではないかと妄想してるわ
軍事にまで明るい人物やったんか
戦ってないから測定不能やが
何の取り柄もないなら全権任されるはずもない
…と思ったけど
後主が適当に放り投げてる可能性も否めなかった
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評曰。蒋エン、方整有威重。費イ、寬済而博愛。咸、承諸葛之成規、因循而不革。是以、辺境無虞、邦家和一。然、猶未盡、治小之宜、居静之理也。
評にいう。蒋エンは、厳正にして威厳があった。費イは、寛容で博愛であった。みな、諸葛の作った制度を受け継ぎ、それに従って改めなかった。そのため、辺境に憂いはなく、国家は一つとなった。
しかしながら、小さきを治める適宜な方法(蒋エンに対して)や、静かに住まわるやり方(費イに対して)が出来なかった。
司州、冀州、青州、徐州、豫州、
幽州、并州、雍州、涼州に
北部荊州、揚州の一部
持ってる魏に
孔明はよく一進一退の戦い仕掛けられたものよね
魏がドン引きディフェンスで防衛すればいいと気づいてからは
合肥みたいに膠着しちゃったけど
陳倉の戦いとかすこ
荊州貰っても豪族たちが付かんから無理
劉表一族の味方も劉琦しかいなかったし
あれは辞退して当然
そういや徐州もらった時は支持されてたんか?
豪族かはわからんが麋竺やらに懇願されつつ
孔融あたりにも推薦されることで体裁整えてたような気がする
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董允、字休昭、掌軍中郎将和之子也。先主立太子、允以選為舍人、徙洗馬。後主、襲位、遷黄門侍郎。
董允は、字を休昭といい、掌軍中郎将董和の子である。先主(劉備)が太子(劉禅)を立てると、董允は選ばれて舍人となり、洗馬に転任した。後主(劉禅)は、帝位を継ぐと、黄門侍郎に転任させた。
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丞相亮、将北征住漢中。慮後主富於春秋朱紫難別、以允秉心公亮、欲任以宮省之事。
丞相の諸葛亮が、北伐しようとして漢中に駐屯した。後主(劉禅)が春秋に富み(=年若く)是非を判断できないのを心配して、董允が公明さを守るゆえ、宮や省の事を任せようとした。
諸葛亮の出師の表の一部が掲載されているが以前訳しているので省略
郭攸之、費イ、董允には宮中のことをすべて任せてもよい、進言を怠れば処罰するようにと上奏
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亮尋請イ、為参軍。允遷為侍中、領虎賁中郎将、統宿衛親兵。攸之、性素和順、備員而已。献納之任、允皆専之矣。
諸葛亮はついで費イに願い、参軍とした。董允を侍中に昇進させ、虎賁中郎将を兼任させ、宿直する近衛兵を統括させた。郭攸之は、人におとなしく従う性格で、官員としているだけだった。献策の任は、董允がすべて担当した。
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允、処事為防制、甚尽匡救之理。後主常欲、采択以充後宮。允以為、古者天子后妃之数不過十二、今嬪?已具、不宜増益、終執不聴。後主、益厳憚之。
董允は、事に当たっては(後主の過ちを)防ぎ、正して助ける道理を尽くしていた。後主は常に、美女を選んで後宮を満たしたいと思っていた。
董允は、古の天子の后や妃は数が十二を越えない、今宮女は揃っており、増やすのはよくないとして、最後まで聞き入れなかった。後主は、厳しさによってますます彼をはばかるようになった。
せやで
重要度でいったら黄権や馬忠に劣るが
ワイがすきというそれだけの理由です
◆
尚書令蒋?、領益州刺史、上疏以譲費?及允。又表「允、内侍歴年、翼賛王室、宜賜爵土以褒勲労」允固辞不受。
尚書令の蒋?は、益州刺史を兼任すると、上奏して費イと董允に譲ろうとした。また上表した「董允は、内侍を歴任し、王室を助けておりますので、爵位と領土を賜って勲功と功労を褒賞すべきでしょう」董允は固辞して受けなかった。
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後主漸長大、愛宦人黄皓。皓、便辟佞慧、欲自容入。
後主は次第に成長し、宦官の黄皓を寵愛するようになった。黄皓は、媚びへつらい口が上手くて頭がよく、取り入ろうとした。
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允常上則正色匡主、下則数責於皓。皓畏允、不敢為非。終允之世、皓位不過黄門丞。
董允は常に上は顔色を正して主を正し、下は何度も黄皓を責めた。黄皓は董允を恐れ、悪事を働こうとしなかった。董允が亡くなるまで、黄皓の位は黄門丞に過ぎなかった。
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允嘗與尚書令費イ、中典軍胡済等、共期遊宴。厳駕已?、而郎中襄陽董恢、詣允脩敬。恢、年少官微、見允停出、逡巡求去。
董允はかつて尚書令の費?、中典軍の胡済らと、ともに遊んで酒宴することを約束していた。車をすでに用意したところ、郎中の襄陽の董恢が、董允を訪ねて敬意を表そうとした。董恢は、年若く官位が低かったので、董允が出発を止めようとしているのを見ると、ためらって去ろうとした。
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允不許、曰「本所以出者、欲與同好遊談也。今君已自屈、方展闊積。舍此之談、就彼之宴、非所謂也」
董允は許さず、言った「もともと出発しようとしていたのは、同好の者と遊んで話したかったからだ。今君は自らへりくだって、蘊蓄を述べようとしている。この話を無視して、あちらの酒宴に行くのは、ありえないことだ」
こういう人物は前に出ないが重要やな
今回紹介できてよかったわ
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乃命解驂、?等罷駕不行。其守正下士、凡此類也。
こうして繋いでいた馬を解かせ、費?らは車を止めて行かなかった。正しきを守り士にへりくだることは、おおよそこの通りであった。
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延熙六年、加輔国将軍。七年、以侍中守尚書令、為大将軍費?副貳。九年、卒。
延熙六年(243年)、輔国将軍を加えられた。延熙七年(244年)、侍中守尚書令のまま、大将軍費?の副官になった副貳。延熙九年(246年)に、亡くなった。
董允は張昭みたいになんでも言う品行方正ご意見番タイプやったんにゃなあ
費?は黒いからなぁ
同じ不遇をかこつ仲間を売る奴やで
◆
評曰。(中略)馬良、貞実、称為令士。(中略)董允、匡主、義形於色。(中略)皆、蜀臣之良矣。(後略)
評にいう。(中略)馬良は、篤実で、よき士と称賛された。(中略)董允は、主を正し、義が顔色に表れていた。(中略)みな(董和・劉巴・馬良、陳震・董允)、蜀臣のよき人物であった。(後略)
義の顔色ってどんな顔つきやろ……
ワイは正しいことをしようとする気持ちが
顔にまで出てたくらいの意味で取ってる
犠牲者数は中国の戦争の中でもかなり多い
(戸籍消滅も死亡扱いやから本当はよくわからんが)
その人口減をどうにかしようと
異民族を受け入れ知識を与えた結果が後の時代の動乱に……
民族移動的な側面のある時代よな
漢民族が南下して
その空隙に五胡をはじめとした民族が入り込んでくる
なんか気温低下で
漢民族が羌の住居に侵入したから云々
みたいな話をきいた
逆か
逆やろ
漢民族が胡を引き入れた結果かみつかれた
劉淵も石勒もそのたぐい
そのどさくさに慕容部や拓跋部が南下
匈奴は漢に降伏
羌や右桓は光武が引き入れたやったはず