諸葛亮、字孔明、琅邪陽都人也。漢司隸校尉諸葛豐後也。父珪、字君貢、漢末爲太山郡丞。亮、早孤。
諸葛亮は字を孔明といい、琅邪郡陽都の人である。漢の司隸校尉諸葛豊の後裔である。父諸葛珪は字を君貢といい、漢末に太山郡の丞であった。諸葛亮は早くして孤児となった。
ニュース
從父玄、爲袁術、所署豫章太守。玄、將亮及亮弟均、之官。會漢朝、更選朱皓代玄。玄、素與荊州牧劉表有舊、往依之。玄卒。
おじの諸葛玄は袁術に豫章太守に任命された。諸葛玄は諸葛亮とその弟の諸葛均を率いて官職に就いた。そのとき漢朝は改めて朱皓を諸葛玄の代わりに選んだ。諸葛玄は平素より荊州牧劉表と旧交があったため、行ってこれを頼った。諸葛玄が亡くなった。亮、躬畊隴畝、好爲梁父吟。身長八尺、每自比於管仲、樂毅、時人莫之許也。惟、博陵崔州平、潁川徐庶元直、與亮友善、謂爲信然。
568: 名無し 2017/08/06(日)19:03:28 ID:Rpv
亮、躬畊隴畝、好爲梁父吟。身長八尺、每自比於管仲、樂毅、時人莫之許也。惟、博陵崔州平、潁川徐庶元直、與亮友善、謂爲信然。
諸葛亮は自ら田畑を耕し、好んで梁父吟(※1)を歌った。身長は八尺(193.6cm)で、常に自らを管仲(※2)、楽毅(※3)に比していたが、その時代の人で認めるものはいなかった。ただ博陵の崔州平、潁川の徐庶元直は諸葛亮と友好を結び、その通りだと信じていた。
※1
斉の晏嬰の知略を称えた詩
斉の桓公に仕えた名宰相
魏の管寧の祖先でもある
燕の昭王に仕えた武将
連合を組んで攻めることを進言した
七十余りある斉の城を莒、即墨の二つ以外すべて陥落させた
管仲楽毅に例えるという間違いなく中二病炸裂させてるエピソード好き
なお間違いではなかった模様
流石に楽毅には劣るけど
管仲とはいい勝負やとワイは思うで
諸葛ってやっぱすげーわ
時、先主屯新野。徐庶見先主、先主器之、謂先主曰「諸葛孔明者、臥龍也。將軍、豈願見之乎」
時に先主(劉備)は新野に駐屯していた。徐庶は劉備に会い、劉備はこれを目にかけ、(徐庶は)劉備に言った「諸葛孔明(諸葛亮)という者は伏した龍です。将軍はどうしてこれを見ようとしないのですか」
先主曰「君、與?來」庶曰「此人、可就見、不可屈致也。將軍、宜枉駕顧之」由是、先主遂詣亮。
劉備は言った「君が共に連れて来てくれ」徐庶は言った「この人は見に行くことが出来ますが、連れて来ることは出来ません。将軍が来訪されて会いに行くのがよろしいでしょう」こうして劉備は遂に諸葛亮の元へ赴いた。
凡三往、乃見。因、屏人、曰「漢室傾?、姦臣竊命、主上蒙塵。孤、不度德量力、欲信大義於天下。
おおよそ三度行き、会うことが出来た。こうして人払いして言った「漢室は傾き崩れ、奸臣は天命を窺い、天子は都を逃げられました。私は徳を量らず力を量らず、天下に大義を示そうとしている。
而智術淺短、遂用猖獗、至于今日。然、志猶未已。君謂計、將安出?」
しかし知略は浅はかで、遂に悪事を用いずに今日に至る。しかれども、志は未だ止まない。君はどのように計るべきだと言うか?」
亮答曰「自董卓已來、豪傑並起。跨州連郡者、不可勝數。曹操、比於袁紹則名微而衆寡。然、操遂能克紹、以弱爲強者、非惟天時、抑亦人謀也。
諸葛亮は答えて言った「董卓がやって来てから、豪傑が並び立ちました。州を跨ぎ群を連ねる者は数えることが出来ません。曹操は袁紹と比べると名は小さく寡兵でした。しかしながら、曹操は遂に袁紹に勝ち、弱者は強者となって、それはただ天の時を得たのではなく、人の謀によるものです。
今操已擁百萬之衆、挾天子而令諸侯、此誠不可與爭鋒。孫權、據有江東、已?三世、國險而民附、賢能爲之用、此可以爲援而不可圖也。
今、曹操は既に百万の兵を擁し、天子を差し挟んで諸侯に号令し、これは誠に鋒を争うべきではありません。孫権は江東に拠り既に三世の歴史があり、国は険阻で民は懐き、賢者を用い、これは援助を貰うべきで計ってはなりません。
荊州、北據漢?、利盡南海、東連?會、西通巴蜀、此用武之國、而其主不能守。此、殆天所以資將軍、將軍豈有意乎?
荊州は北を漢水、?水に拠り、南の海はことごとく利があり、東は呉会に連なって、西は巴蜀に通じ、これは武を用いる国ですが、その主は守りきることが出来ません。これは天が将軍に与えた所で、将軍はその意がありますか?
益州、險塞沃野千里天府之土、高祖因之以成帝業。劉璋、闇弱。張魯在北、民殷國富而不知存恤、智能之士、思得明君。
益州は険阻で肥沃な千里の土地があり、高祖はこれによって帝業を成しました(※)
劉璋は暗愚です。張魯は北にあり、民は多く国は富んでおりますが哀れみを知らず、智恵のある士は名君を得たいと思っております。
※高祖は漢を興した劉邦のことで、彼は項羽に命じられて蜀に流されたが、ここを基盤とし、後に項羽を破り帝位に就いた
將軍、既帝室之冑、信義著於四海、總攬英雄、思賢如?。若跨有荊益、保其巖阻、西和諸戎、南撫夷越、外結好孫權、?脩政理。
将軍は帝室の末裔で、信義は天下に及び、英雄を掌握し、賢者を渇望しておられます。もし荊州、益州を所有されるならその険阻を保ち、西の諸々の異民族と和を講じ、南の異民族を慰撫し、外で孫権と誼を結び、内に政を修めるのです。
天下有變、則命一上將、將荊州之軍以向宛洛、將軍身率益州之衆出於秦川、百姓孰敢不?食壺漿以迎將軍者乎。誠如是則霸業可成、漢室可興矣」
天下に変があれば一人の上将に命じ、荊州の軍を率いて宛、洛陽に向かい、将軍は益州の兵を自ら率いて秦川に出れば、百姓のいずれも食事や飲み物をもって将軍を迎えぬ者がおりましょうか。誠にこの通りにすれば覇業を成すことが出来、漢室が再興されましょう」
劉備がこれ以降この諸葛亮の策に従って動いていくことは
先主(劉備)伝などを読んでいけばわかるで
先主曰「善」於是、與亮情好日密。關羽張飛等不悅、先主解之曰「孤之有孔明、猶魚之有水也。願諸君勿復言」羽飛乃止。
劉備は言った「良し」これにおいて、諸葛亮との親密さは日に日に密となった。関羽、張飛らは喜ばず、劉備はこれを説明して言った「私に孔明(諸葛亮)があるのは、魚に水があるのと同じだ。諸君は再び言わないでくれ」関羽、張飛はこうして言わなくなった。
劉表長子琦、亦深器亮。表、受後妻之言、愛少子琮、不悅於琦。琦、?欲與亮謀自安之術、亮輒拒塞未與處畫。
劉表の長男劉琦もまた諸葛亮を評価した。劉表は後妻の言葉を受けて、幼子の劉琮を愛し、劉琦を喜ばなかった。劉琦は度々諸葛亮と自らを安んずる術を計ろうとしたが、諸葛亮はその度拒んで計画はしなかった。
琦乃將亮、游觀後園、共上高樓、飲宴之間、令人去梯、因謂亮曰「今日、上不至天、下不至地。言、出子口、入於吾耳。可以言未?」
劉琦はこうして諸葛亮と共に裏の園を遊覧し、共に高楼に上り、宴の間に人に梯子を片付けさせ、諸葛亮に言って曰く「今日のことは、上は天に届かず、下は地に届きません。言葉はあなたの口から出て、私の耳に入るだけです。言うべきことはありませんか?」
亮答曰「君不見、申生在?而危、重耳在外而安乎?」琦意感悟、陰規出計。會?祖死、得出、遂爲江夏太守。
諸葛亮は答えて言った「君は申生の内にあって危うく、重耳の外にあって安きを見ないのですか」劉琦はその意を悟り、密かに外に出ることを計った。この時黄祖は死んでおり、外に出ることが出来、遂に江夏太守となった。
重耳は首都から遠ざけられていたことを幸いに、国外へ逃亡したため命を長らえた
後に重耳は王位を取り戻すこととなる
俄而表卒、琮聞曹公來征、遣使請降。先主、在樊聞之、率其衆南行。
まもなく劉表が亡くなり、劉琮は曹操が征伐しに来ると聞き、使者を遣わして降伏を請うた。劉備は樊に居てこれを聞き、そこの民衆を率いて南行した。
荊州でもめっちゃいい所に逆玉の腰してんのに
劉表に仕える気なしとか良い根性しとるわ
後で出て来るけど
諸葛亮って隠者みたいに過ごそうとしてたんだよね
結局仕えなくて正解だし
亮與徐庶並從、爲曹公所追破、獲庶母。庶、辭先主而指其心曰「本欲與將軍共圖王霸之業者、以此方寸之地也。
諸葛亮と徐庶は揃って従い、曹操に追われて破られ、徐庶の母が捕らわれた。徐庶は劉備に別れを告げてその心を示して言った「本来なら将軍と共に王道覇道の業を、この一寸四方の場所(※)で図ろうと思っておりました。
※心臓のこと
昔の人は心臓で思考すると考えていた
ここの徐庶の胸中は色々と妄想できるなぁ
母親の事は別にして
もう劉備には付いていけへんわって感じだったかもしれん
ワイは劉備にずっと仕えていたいって感じに読んでたわ
そういう考えも面白いな
今已失老母、方寸亂矣、無益於事。請、從此別」遂詣曹公。
今既に老母を失い、一寸四方は乱れ、事において益はありません。ここで別れることを請います」遂に曹操の下に行った。
先主至於夏口、亮曰「事急矣、請奉命求救於孫將軍」時、權擁軍在柴桑、觀望成敗。
劉備が夏口に到ると、諸葛亮は言った「事は急であり命を奉じて孫将軍(孫権)に救援を求めることを請います」この時、孫権は柴桑に居て軍を擁し、勝敗を傍観していた。
亮?權曰「海?大亂。將軍、起兵據有江東。劉豫州、亦收衆漢南、與曹操並爭天下。
諸葛亮は孫権に説いて言った「天下は大いに乱れております。将軍は兵を興して江東に拠っております。劉豫洲(劉備殿)もまた漢南の人々を収め、曹操と並んで天下を争っております。
これ州の字間違ってるわ
正しくは劉豫州ね
今操、芟夷大難、略已平矣、遂破荊州、威震四海。英雄無所用武、故豫州遁逃至此。
今曹操は大難を除去し、大方平定し、遂に荊州を破り、天下を震撼させました。英雄は武を用いる所が無く、故に劉備殿は遁走するに至ったのです。
將軍、量力而處之。若能以?越之衆、與中國抗衡、不如早與之?。若不能當、何不案兵束甲北面而事之。
将軍は力を量ってこれに対処されてください。もし呉越の兵をもって中原と拮抗出来るなら、早くこれと絶交するに越したことはありません。もし当たることが出来ないなら、どうして兵を参照し、甲冑を束ねて、北に行きこれに仕えないのでしょうか。
すまんこれも誤訳や
中国では皇帝は南面、臣下は北面するって概念があるから
北に行くってわけではないで
今將軍、外託服從之名、而?懷猶豫之計。事急而不斷、禍至無日矣」
今将軍は外に服従の名を託し、内に猶予の計を抱いておられます。事が急であるのに決断しないなら、日を措かずして禍は至るでしょう」
ヤツの身も蓋も無い打算だけの説得と
それにホイホイ乗る孫権は草生える
タテマエってものがあるだろうに
こんなん史書に載せるなよって感じだった
ぶっちゃけ陳寿は
孫権なんてどうでもいいと思ってるからしかたないね
三国の君主のなかで唯一皇帝扱いされてないし
確かに曹操や劉備なら絶対あんな書き方しないやろうなぁ
權曰「苟如君言、劉豫州、何不遂事之乎」
孫権は言った「いやしくも君が言う通りなら、劉備殿は、何故これに仕えないのか」
亮曰「田橫、齊之壯士耳、猶守義不辱。況劉豫州、王室之冑、英才蓋世。
諸葛亮は言った「田横は斉の壮士であるだけでしたが、なお義を守り辱められませんでした。ましては劉備殿は王室の末裔で、英才は世を蓋います。
高祖が天下を取ると以前より高祖と確執があったことから殺されるのを恐れて逃亡した
後に高祖に呼び出されると断り切れないと悟り、かつて共に王であった高祖の下に付き、自分が煮殺した?食其の弟である?商と同僚となることを恥じて自害した
衆士慕仰、若水之歸海。若事之不濟、此乃天也。安能復爲之下乎」
衆人は仰いで慕い、水を海に帰すがごときです。もし大事が成せなければ、それは天命でありましょう。どうしてまた(曹操の)下となれるのでしょう」
權勃然曰「吾不能、舉全?之地十萬之衆、受制於人。吾計、決矣。非劉豫州莫可以當曹操者。然、豫州新敗之後。安能抗此難乎」
孫権は勃発して言った「私は呉の全ての地の十万の兵を挙げ、人に制約を受けることなど出来ない。我が計は決まった。劉備殿でなければ曹操と当たる者などいないだろう。しかしながら、劉備殿は新たに敗れた後だ。どうしてこの難に対抗できるのか」
心臓に毛が生えてると言わざるを得ない
藺相如みたいに命がけの説得だったのか
もしくはものすごい鈍感だったか
前者だと思いたい
亮曰「豫州軍、雖敗於長阪、今戰士還者及關羽水軍精甲萬人。劉琦合江夏戰士亦不下萬人。
諸葛亮は言った「劉備殿は長阪において敗れたといえども、今帰還した兵士と関羽の水軍の精鋭は併せて一万人です。劉琦の江夏の兵士を併せるとまた一万人を下りません。
曹操之衆、遠來疲弊。聞、追豫州、輕騎一日一夜行三百餘里。此所謂『彊弩之末、勢不能穿魯縞』者也。
曹操の兵士は遠方より来ております。聞くところによると、劉備殿を追って軽騎兵は一日中三百里余りを行軍したそうです。これはいわゆる『強弩の末、魯縞に入る能わず(※)というものです。
強弩であっても最後には魯の絹を射貫くことは出来ない
勢いのある者でも終いには衰えて何も出来なくなってしまうことの例え
故、兵法忌之、曰『必蹶上將軍』且、北方之人、不習水戰。又、荊州之民附操者、?兵勢耳、非心服也。
故に兵法はこれを忌み嫌い、曰く『必ず上将軍は倒れる』です。かつ北方の人は水上戦に不慣れです。また、荊州の民で曹操に付いている者は、兵の勢いに迫られただけで、心服しているのではありません。
『五十里先の利を争う時は、上将軍が倒れ、それはその半分が行きつくだけだからである』からの抜粋
五十里先の利益を求めて行軍を急がせると兵士の半分が脱落してしまい、先鋒の上将軍が倒されてしまうと言う意味
こいつの編み出した兵法は唐の頃猛威を振るったんよな
将軍としてのカテゴリーは軍人としてより理論家なんだろうな
グラウゼヴィッツとかそんな感じ
『李衛公問対』の李靖とかが参考にしとるしな
でもクラウゼヴィッツがわからん
今將軍、誠能命猛將統兵數萬、與豫州協規同力、破操軍必矣。操軍破、必北還。如此則荊?之勢彊、鼎足之形成矣。
今将軍が猛将に数万の兵を統率させて、劉備殿と協力すれば、曹操軍が敗れるのは必至です。曹操が敗れれば、必ず北に帰ります。こうすれば荊、呉の勢力は強くなり、鼎の足の形(※)となります。
※鼎の足は三本あり、即ち天下三分の形勢のことを指す
成敗之機、在於今日」權大悅、?遣周瑜、程普、魯肅等水軍三萬。隨亮詣先主、?力拒曹公。
成功と失敗の機会は、今日においてあります」孫権は大いに喜び、すぐに周瑜、程普、魯粛ら水軍三万を遣わした。諸葛亮に随行させて劉備の元に行かせ、力を併せて曹操を拒ませた。
曹公、敗於赤壁、引軍歸?。先主遂收江南、以亮爲軍師中郎將、使督零陵、桂陽、長沙三郡。調其賦?、以充軍實。
曹操は赤壁において敗れ、軍を退かせ?に帰った。劉備は遂に江南を収め、諸葛亮を軍師中郎将とし、零陵、桂陽、長沙の三郡を督させた。賦税を調達し、軍費に充てた。
ここでようやく行政官諸葛亮が水を得たって感じやな
そういえばここからやな
建安十六年益州牧劉璋、遣法正迎先主、使?張魯。亮、與關羽鎭荊州。
建安十六年(211年)、益州牧劉璋は法正を遣わして劉備を迎え、張魯を攻撃させた。諸葛亮は関羽と共に荊州を鎮めていた。
ただ、長期間荊州北部を抑えられて、トヨと司馬炎とかいう有能が揃って、呉がガタガタになったら流石に破られたけど
まさにその通りやと思うわ
それに加えてその時は蜀を下して川上を有してたしな
まぁこの人の伝やとこんなもんか
意外やと思うけど正史の赤壁って皆こんなもんなんや
先主、自葭萌還、攻璋。亮、與張飛趙雲等、率衆泝江、分定郡縣、與先主共圍成都。
劉備は葭萌から翻って劉璋を攻めた。諸葛亮は張飛、趙雲らと共に兵を率いて長江を遡り、分かれて郡県を平定し、劉備と共に成都を包囲した。
そして孟獲も官僚として出世してるとか
それは調べたことなかったわ
一応諸葛亮が南征したのは記録にあるけど
孟獲を倒したとは書かれてへんし
そもそも孟獲は反乱の首謀者ですないですし
見りゃ解るけどあの辺は
演義一ハチャメチャやってるから色々違いが面白いよな
成都平、以亮爲軍師將軍、署左將軍府事。先主外出、亮常鎭守成都、足食足兵。
成都が平定されると軍師将軍とし、左将軍府に割り当てた。劉備は外に出ると諸葛亮は常に成都を鎮め、食を充足させ兵を充足させた。
この辺りを見れば、劉備は諸葛亮をどう見てたかわかる、完全に宰相、政治家として扱って、ホウトウは軍の参謀だわ
なるほど
確かに諸葛亮はホウ統の後に入蜀したな
二十六年羣下、勸先主稱尊號、先主未許、亮?曰「昔、?漢耿?等、初勸世祖?帝位、世祖辭讓前後數四。
建安二十六年(221年)、群臣は劉備に尊号を称する(帝位に就く)ことを勧め、劉備が許諾しないと、諸葛亮は説いて言った「昔、呉漢、耿?らは、初め世祖に帝位に即位することを勧め、世祖は断ること前後四回を数えました(※)。
※世祖は王莽を倒し漢を再興させた光武帝劉秀のこと
呉漢、耿?、後述の耿純はその主だった配下
耿純進言曰『天下英雄、??、冀有所望。如不從議者、士大夫各歸求主、無爲從公也』世祖、感純言深至、遂然諾之。
耿純は進言して言いました『天下の英雄は仰ぎ慕い、(帝位を)所望することをこいねがっております。もしこの議論をする者に従わなければ、士大夫は各々帰って主を求め、公に従うことは無いでしょう』世祖は耿純の言葉に深く感じ入り、遂にこれを許諾しました。
当事の蜀を征したヤツを引き合いの出すのも何か意味がありそう
ここだとむしろ蜀を東漢と重ねあわせてるんではないかと
君主の地元を略奪して
君主の親戚を暴発させる痛恨のミスをやらかしたからな
なお蜀も略奪した模様
光武帝の頃、城を落としまくった人やっけ?
それとも蕭何みたいな人やっけ?
雲台二十八将っていう将軍たちの一人やったかと
でも詳しくないから曖昧な事言えへん
どっちかというと前者やけど
早くに軍人引退して地方の行政担当して、そちらでも成果上げた人やな
蕭何ポジは寇恂って人かな、兵糧確保の達人
今曹氏?漢、天下無主。大王劉氏、苗族、紹世而起。今?帝位、乃其宜也。士大夫隨大王久勤苦者、亦欲望尺寸之功、如純言耳」先主於是?帝位。
今曹氏は漢を簒奪し、天下に主がありません。大王である劉氏は跡継ぎの一族で、世を受け継ごうと決起しました。今帝位に即位することはよろしきことです。士大夫で大王に付き従って久しく苦労を勤めた者は、また少しばかりの功を欲し、耿純の言葉通りです」
策亮爲丞相、曰「朕、遭家不造、奉承大統。兢兢業業、不敢康寧、思靖百姓、懼未能綏。
諸葛亮を丞相にする木片に曰く「朕は劉家の造営が出来ないことに際し、皇統を承り奉った。不安に怯え、あえて安寧にせず、百姓を安んじることを思い、恐れ多くも未だに安んじられていない。
於戲、丞相亮、其悉朕意、無怠輔朕之闕、助宣重光、以照明天下。君其?哉」亮、以丞相、?尚書事、假節。張飛卒後、領司隸校尉。
ああ、丞相亮よ、朕の意に沿って尽くし、朕の欠けた所を怠らず補佐し、重き光のように助け、天下を明るく照らすのだ。君はそれに努めるのだ」諸葛亮を丞相として尚書の担当に任命し、仮節とした。張飛の死後、司隸校尉を領した。
もっとメジャーになってほC
あそこらへんで面白い作品が日本にないのが惜しまれる
封神とか楊家将とか以下の知名度かも
わりとまじめに例のやる夫スレが一番面白い光武帝の読み物やと言われとるからな
まぁワイもそれで嵌った口
昆陽の戦い前後の展開は神がかり過ぎ
そんなんあるんか
今度調べてみようかな
「やる夫が光武帝になるようです」
とりあえずタイトルやで~
蕭何はいて陳平もいるんだけど張良と韓信にあたるやつが見当たらんな
英布彭越に似たやつもいるけど
張良=孫乾、伊籍、トウシじゃなあ
孔明がこの位置で陳平に法と鳳ならまだええけど
>>686
その人物並べられるとやっぱ人材不足やなぁ
まぁ関係ないしな
基本的に他の伝に詳しいことは乗せないからね
ここで抜け落ちたのは先主伝他に載ってると思うで
章武三年春、先主於永安病篤、召亮於成都、屬以後事。謂亮曰「君才十倍曹丕、必能安國、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」
章武三年(223年)春、劉備は永安において病が篤くなり、諸葛亮は成都より召され、後の事を託された。諸葛亮に言って曰く「君の才は曹丕の十倍で必ず国を安んずることが出来、終いには大事を定められる。もし嗣子が補佐すべきなら補佐してくれ。その才が無いなら君が自ら取ってくれ」
神遺言にして呪い遺言好き
諸葛亮「蕭何と張良と韓信ぜんぶやるぞ(吐血しながら)」
司馬懿も諸葛亮の様子を聞いて長くないと思ったらしいし
>>669
せやな
あの遺言で縛りつけられてこうなったと
あいつは重用してはいけない
なお呪いの力が足りなかった模様
馬を山に登らせてはいけない(戒め)
679: 名無し 2017/08/06(日)20:06:55 ID:Rpv
北伐を詳しく調べればわかるけど
ホンマ馬謖のやらかしは罪深いからな
最大、最初、最後の大チャンスを生兵法でぶち壊したわけだし
登山家と罵られるのも残当
高地は有利、よって高地に陣を敷く!
王平「山の下はどうするんですか(小声)」
文盲は黙っていればよろしい
>>680
よりにもよって敵の将軍が魏のエースにして
大ベテランのチョウコウという悲劇
だがみんな待って欲しい
馬謖がやらかしたと言っても、精々損失は三千で本体は無傷やった訳や
張?の魏軍の決戦するって選択もあった
それを選ばず、せっかく確保した地域も放棄して総撤退したのは諸葛亮
勿論蜀はバクチに出る訳にはいかない状態だったのは解るけど
別の可能性もあったんだよなとは言いたい
あとで語るけど諸葛亮は進軍しようとしてたで
拠点がなくて撤退したんや
亮涕泣曰「臣敢竭股肱之力、效忠貞之節。繼之以死」先主又爲詔、敕後主、曰「汝與丞相從事、事之如父」
諸葛亮は涙を流して言った「私は敢えて臣下としての力を尽くし、忠節を尽くしましょう。これを継いで死にます」劉備はまた詔して後主(劉禅)に勅命して言った「汝は丞相に従い、父のように仕えよ」
建興元年、封亮武?侯、開府治事。頃之、又領益州牧。政事、無巨細、咸決於亮。
建興元年(223年)、諸葛亮を武郷侯に封じ、府を開かせ事業を治めさせた。この頃、また益州牧を領させた。政治は大小なく皆諸葛亮が決定した。
南中諸郡、並皆叛亂。亮、以新遭大喪、故未便加兵。且遣使聘?、因結和親、遂爲與國。
南中の諸軍が揃って反乱した。諸葛亮は新たに喪にあったとし、ただちに兵を加えなかった。かつ、使者を遣わして呉に礼物を持って訪問させ、和を結び、遂に同盟国となった。
三年春、亮率衆南征、其秋悉平。軍資所出、國以富饒、乃治戎講武、以俟大舉。
建興三年(225年)春、諸葛亮は兵を率いて南征し、その秋にことごとく平定した。軍事物資の出る所となり、国はこうして豊かになり、こうして異民族を治めて武道を習わせ、大挙を待った。
出師の表
五年、率諸軍、北駐漢中。臨發、上疏曰。先帝創業、未半而中道崩殂
建興五年(227年)、諸軍を率いて北に行き、漢中に駐屯した。出発するに臨んで上奏して言った。先帝の創業は未だ道半ばにして崩御されました。
晋は魏を正統な王朝としているため劉備を天子と認めてはいけないはずであるが陳寿は敢えてこの文字を用いている
他にも劉氏の妻に皇后という文字を用いており、陳寿は決死の覚悟で蜀(劉氏の主張では漢)を正統な王朝と主張している
今天下三分、益州疲弊、此誠危急存亡之秋也。然、侍衞之臣不懈於?、忠志之士忘身於外者。蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。
今天下は三分され、益州は疲弊し、これはまさに危急存亡の時であります。しかしながら、侍従する臣下が内において怠けず、忠義の士が外において自身のことを忘れます。それは先帝の厚遇を追慕し、これを陛下に報いようとしているからです。
誠宜開張聖德、以光先帝遺德、恢弘志士之氣、不宜妄自菲薄、引?失義、以塞忠諫之路也。
誠に聖徳を開き、先帝の遺徳を輝かせ、志ある士の気を押し広め、妄りに自らを劣っているとし、(誤った)例えを引いて義を失い、忠ある諌めを塞がないのがよろしいでしょう。
宮中府中?爲一體、陟罰臧否、不宜異同。若有作姦犯科及爲忠善者、宜付有司論其刑賞、以昭陛下平明之理、不宜偏私、使?外異法也。
宮の中、丞相府の中を共に一体とし、良き人を奨励し、悪人を懲罰し、相違はよろしくありませんもし罪を犯した者と忠善な者が居れば、その刑罰褒賞を論じて役人に付け、陛下のはっきりとした理で明らかにし、私心を偏らせることはよろしくなく、内外に法を違えさせてはなりません。
侍中侍郎郭攸之、費イ、董允等、此皆良實、志慮忠純。是以先帝簡拔以遺陛下。愚以爲、宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行、必能裨補闕漏、有所廣益。
侍中侍郎の郭攸之、費イ、董允らは皆誠実で、志は忠実です。これは先帝が抜擢して陛下に残されたのです。愚かに思いますに、宮中のことは、大小なく、ことごとく彼らに相談し、しかる後に施行すれば、必ず欠けたる所を補い、広く益することが出来ます。
よしっ!皇帝は臣ではないからいいな!
ワイ実は何度読んでも涙を流せへん