一番絡むのが慕容垂になるのかな?
落ちが悲惨だがハッピーエンドが存在し得ない時代の小説なんて暗すぎるだけだ
晋書あたりでも読んで、際限のない惨劇をタップリと愉しんだほうがいい
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そんで自分らの世代の役割が終わったことを知り、次はきっと成功するだろうという予感に包まれて死んでいくんだ。一応、綺麗にまとめてみた。
拓跋珪の最期も、あんまり褒められたものでもないからなあ苻堅の政治路線は、石虎の独裁政権の影響が結構影を落としていると思うんだが、口では上手くいえないが、石虎政権の盛衰無くして前秦、苻堅の政治思想は生まれなかったと思う。後趙政権崩壊時の大虐殺→民族融和の理想国家への邁進ってな感じ
好きなのは拓跋燾だけど
孫ぐらいまでは跡を継いでるからおえるけどそれ以降はよくわからん
晋ではどうなったの?
トウ艾は銀英伝のロイエンタールのような末路を迎えたよ。
劉禅とかに高い爵位を独断で与えたり、専権ふるって蜀行政の合理化やってたりしたら、ショウ会に嵌められて、失脚。護送車に乗せられて都に送られる途中で暗殺された。鍾会は鍾会で、トウ艾居なくなった後に姜維に丸め込まれてまんまと謀反の策謀に乗せられ、蜀に居た魏の武将達を纏めて監獄送りにしたまでは良いが、残った連中にクーデターされてアボーン。しかも、都にはバレバレで、クーデター失敗してても、大軍に包囲される寸前だったりした。つまり、二人とも晋の時代まで生きられなかった。
そう考えると悔しい。
国力的に無理だと思うし、何より魏の中核をなす士大夫層、それも漢代から根を張っていた貴族たちの支持を得られないだろうことが痛すぎる。
もし蜀漢に負けると、蜀の有力者(幽州・荊州出身だが家格は微妙)とか地元豪族連とかの下風に立つ、ないしは同格の人間として付き合わねばならないわけで。
もし諸葛亮が涼州・雍州を上手くゲットできてたとしても、心情的に受け入れがたいものがあったんじゃなかろうか?
引きこもるには適してるけどね。蜀出身者なんて中原から見たら異民族に近い認識でしょ?当時。
確か王朗あたりが諸葛亮に「あなたが異民族の中に埋没してしまうのが心配だ…」と手紙を送ってたような気が…
まぁ五胡とは関係ないけどね…
あれは王朗が許靖へ送った手紙ですね
姚萇はヒ水の敗北後に反乱軍の鎮圧に成功して、苻堅の子が敗死してから恐れて逃亡してるんだよね。慕容垂と比べるとやはり格下になるんだろうかな…
あれで、王猛や慕容兄弟、苻堅、桓温と比べられるのはかわいそうだよ
あの慕容恪を10回も撃破してるんだし。
まあ相性も関係あるんだろけどね。
冉閔は闘いには強かったと思うけど、将に将たる人物になれなかったという印象があるね…
延々と一人相撲をとっていたようなもんだからなぁ
もうちょっと、何とかならなかったものか……慕容恪は弟の垂よりも戦上手だろうね
寡兵で大軍を迎え撃ち、奇襲し、撃滅するのがこいつほど似合う武将もほかにはおらんだろ
王猛とのガチ対決(最強の王佐の才決定戦)が見たかった
「大きく書けば上手に見えます」って言われて、でっかく書きすぎた話か
質素な皇帝の、ささやかな紙の浪費とも解釈して笑ったよ
北方系異民族がそれなりに力を持てたのに南方系がダメだったのは何故かな?
もともとあまり侵入意欲がなかったのかな?
要因を挙げるといろいろあるんだけど、そのうちの一部として河南・徐州一帯、長江・淮水流域と四川盆地、あとは一部の海岸地帯以外を除くと点と線のような支配しかできていなかった。安定さえすれば国力の回復できた北朝と比べて そもそもの地力が低かった。ただでさえ、そうなのに宋文帝期の敗北から梁の成立まで国内は常に不安定で内戦・粛正が相継ぎ、北魏の侵攻に対処できず生産性の高い漢中一帯や淮水以北を完全に失うことになった。とか?
士気の問題で言うと、無いと言うより、「できない」状態が長かった。軍事力を統一指揮下に置いて、なおかつ政治的な安定を確保できる政権が無かった。宋文帝と梁武帝期には可能だったが、宋文帝は不運にも北魏の軍事力絶頂の時代に直面し、梁武帝期は結構締め上げたものの安定した国力のぶつかり合いになりトータルで互角以上にはなれなかった上、浮山堰の不首尾と蕭綜の反逆以後は武帝が軍事的な意欲を明らかに失った。
>>577
上ばっかり盛り上がってて、実際に戦う人間がやる気がなかったらうまくいかないような
この場合、南方系異民族のことを指しているのか?
南でも蛮人・リョウ人[僚の獣偏になった奴]・越人・テイ人なんかは自分のテリトリーとその周辺で暴れまくってる。匈奴・鮮卑・柔然・突厥は異民族というか、中原の帝国と対等の隣国って感じだし。比較対象にするには何か違うような気もす。比較対象なら羌人とか奚人とか南下した丁零人とか、そっちの方じゃね?
言葉足らずでしたm(_ _)m
南方系は南方系異民族を意図していたので578さんの言う通りで、580さんの言う通りそれなりに体裁を整えていた林邑あたりを意図してました
581さんの挙げていた南方諸族はどちらかと言えばテイを除けば生活の為に衝突してしまったという印象があります
北方系では匈奴や鮮卑は中国本土に王朝を建てようという意欲が感じられます
東晋時代の王敦以降から政治の中心と軍事の中心が別れてしまったように思います575さんの点と線の支配というお話については逆に北において起こっていた現象かと思っていました
寒くなってきたので異民族が暖かい方に移動して来た
曹操が安い労働力や軍事力になると思って拉致して来たら、何代か後にそいつらが蜂起した
石氏って今で言う何人なん
現在の中東の方の人種だって説があるけど本当かな
魏晋の漢民族と今の漢民族もほとんど別種の様な気がする
なるほど今の漢民族も他の民族との混血って事か
匈奴と羯人の違いもよく分からんが、羯人はペルシャ系の移民って説を聞いたことがある。実は絶滅してないってのも聞いたことがあるし
中国人=漢民族ってイメージがあるけど
五胡の時代は明らかに違う人種が存在してたのかな イメージが沸かんw
三国時代の劉備とか孔明とか五虎将や蜀・呉の人間はみんな漢民族だったのかな。馬超あたりは違う部族のような匂いがするんだけどどうなんだろ
羯族がイラン系であることはほぼ確かかも知れないね
羯族が建国した後趙が瓦解し石氏の養子だった漢人の冉閔が羯族に対するジェノサイトを開始した時、羯族兵3000がゾロアスター寺院(胡天)で冉閔に対し籠城したと『晋書』に書かれているらしい3000人を収容できる大寺院となるとただ単に少数の交易に来たソグド商人のためだけとはいえないと思われるからやはり羯族がイラン系であることは妥当では?
五胡~北朝では、人口の半分近くが非漢族だったという説まである。
とりあえず「興亡の世界史」シリーズの森安氏の本を読むといろいろ印象変わるかもね
おまいの顔は彫りか深いので(眼病の治療に)尿を眼にガボガボ流し込んでも大丈夫。
って皮肉を言われた羯人が激怒して石虎(?)にチクって漢人皆殺し。
ってエピソードがあったな。
沮渠氏の北涼は牧【牛建】で滅んで無諱と安周は高昌国として扱われるのは何故だろう?
牧【牛建】が囚われの身になって残党がこれを受け継いだのは夏の赫連昌から定のケースとあまり違わないように思うんだが…
無諱は一度、北魏に降伏してから再反逆してるから(北涼との非連続性)。
高昌を占拠してから、しばらくの間、高昌の主だったから(支配の実態)。
宋が安周の高昌王位(河西王位)を承認してるから(第三者からの承認)。
などなど。特に一番上は赫連定との相違点。
でも、二人とも沮渠蒙遜伝に付随されてるから、実際は北涼残党として見なされてたのは確かだと思いますよ
ありがとうございました
宋書はほとんど手つかずなので高昌王承認は知りませんでした何年か前に仏教美術展を見に行ったら涼王大沮渠安周という名が刻まれた像があったので、涼王を称していたのかと思ってましたよ
あくまで南北正統王朝側の記録だけ抜き出したので、自称や沮渠無諱・安周側の視点についてまでは何とも。彼らが涼王を称していたか、現地では涼王と見なされていたとも思われます。後、こちらの書き方が悪かったようで、宋は河西王(従来の宋側から見た北涼沮渠一族に認めた王位)を承認しただけです。ただし、拠点が姑臧から高昌に移っていることは把握・承認しているというところです。
中国側から見た高昌国王という名称は、その後の柔然を後ろ盾とした[門+敢]氏政権に始まっていますので。
重ねてありがとうございます他国から称号を受けていた勢力は自称との違いがちょっと面倒ですね南朝だけでなく北朝との両属状態だったりすると、双方で違った称号を受けたりして更に複雑になりそうですね
三国志が好きなら…諸葛氏の一族は東晋にいるよ
諸葛誕の孫だったかな
その後はどうかは自分は知らない。
諸葛京だね。
俺もその後はどうかは知らない。
人口・国力・軍事技術ともに両宋期のほうが上。
ただし戦場はナマモノだから、条件の設定しだいで戦術局面では晋が勝つこともありうる。
まがりなりにも晋には相手のミスとはいえ符堅を敗走させた実績もあるしな
西晋→東晋への流れとよく似ているし。>>666
南宋も、采石機の戦いで、金の皇帝が親征した大軍を撃退している。
あ、そうかw
宋は皇帝が率先する気概をもっているときが一番精強。
そういう軍事態勢だから。
その反面、皇帝にやる気がないと、とたんに「弱卒」と化す。
澶淵の盟の時も、嫌がる真宗のケツを寇準が引っ叩いて無理矢理現地に連れ出してっただけで、戦況が一気に宋有利になったもんなぁ。
皇帝独裁権力体制の確立が進んでいるから。
後の明朝では更にそういった面が強まるけど。
『晋書』『北・南史』『魏書』以外にある??
『資治通鑑』の他に
『北史』
史書ではないが『洛陽伽藍記』で当時の状況がわかると思うが
輯本だけど、『十六国春秋』なんかがあるよ。
ただ、標点本は元より影印本すら入手しづらいのが難点だけど。
中華書局あたりで新たに標点本を出してくれるといいんだけどなぁ。
資治通鑑でもけっこう載ってるよ
資治通鑑って負け惜しみの中華史観の権化みたいなもんだからなぁ
確かに…。
南朝の年号だけを標記したり、北朝の皇帝たちを「主」とか言ったりしてるもんなぁ。
陳の滅亡の年から、陳の皇帝を「主」と呼び、隋の文帝を「皇帝」とか呼び始めるところなんかも…。
このあたり、契丹に対して劣位にあった当時の宋の状況と、その士大夫の精神状態の反映だろうから、資治通鑑は負け惜しみの中華史観、と考えても良いかもね。
燕雲十六州問題、ということもあるし…(北宋あぼ~んの一要因)。
あなたの言っていることは正しい。
司馬光は今の世でいう、勝ち組の論理で政治および歴史を語っている。
司馬光のその姿勢は、自分も(かなり)嫌いだ。
しかし、特に散逸された史書の多い中、資治通鑑は貴重な文物となる。
壮大な歴史小説である《史記》と、その辺は同類とみなすことができる。