晋 五胡十六国 隋 唐

【六朝】魏晋南北朝4【五胡十六国】

915: 名無し 2011/05/18(水) 00:44:36.88
 唐突ながら淝水の戦いの考察 そもそも、前秦のスタンスとしては
①政治目標
東晋の併合

②戦略目標
東晋の軍事力(西府軍団・北府軍団)喪失又は首都建康の制圧

③戦術目標
淝水における北府軍8万の撃滅、上明の桓沖率いる西府軍団主力の撃滅、あるいは、これらの継戦意思の破砕

 上記の作戦計画で、東晋併合戦を進める絵図を描いていたはずなんだけれども、
初っ端から軍上層部の不和……と言うか、「やれっこないっすヨ、陛下」と思いつつ、計画を立案させられているものだから、自然、負けないような作戦計画に帰結していく。

と言うわけで、何の捻りも無い・あからさまな・バレバレの東晋侵攻計画が
出来上がっちゃいました。攻勢に出るはずなのに、奇襲も糞もない平押しで威圧していく悲壮感漂う計画、軍勢は多いが士気も練度も微妙、歴戦の勇士は居れど疲労困憊の極み。いや、戦力基盤がグラついていたからこそ、みんなして戦争なんかしたくなかったわけで当たり前っちゃー当たり前の話ではあったんですけどね。

晋の平呉戦役と似たような感じで、蜀漢からも攻めるし、関中から南下もする、徐州正面からも兵を進めるっつーオーソドックスな作戦計画、80万近い兵力を投入して行われる一大イベント、苻堅の中では否が応でも期待が高まります。苻融の中では不安が増大しまくったことでしょう。

この苻融の後ろ向きな作戦計画、個人的には同情します。何せ襄陽一城を陥落させるのに多大な犠牲を強いられた経緯があると言うのに、その上で東晋の併合を図るのです。

人口比で約2:1の国力差があったとしても、決して圧倒的優勢にあるとは言い難い状況に直面していたわけです。だからこそ、この作戦に加えなければいけないアクセントとして調略をもっての東晋政権内の不和・連携の不備を醸成していくことが必要だったと思います。しかし、この時の東晋は信じられないくらいに堅固な団結を発揮したのでした。

916: 名無し 2011/05/18(水) 01:25:58.00
 淝水の戦いの考察(第2回)

続いて東晋のスタンス
①政治目標
晋王朝(漢民族政権)の存続

②戦略目標
前秦軍侵攻の「断固」阻止(和睦は存在しない)

③戦術目標
前進軍主力を撃破、あるいは、兵站・指揮中枢を破壊しての継戦能力の喪失

戦略目標を達成するための裏づけとして戦術的勝利は必要不可欠です。
これが成り立たなかったら、そもそも戦争なんてできません。この場合、防勢作戦を採用しつつ、一部で攻撃に打って出て局地的にでも戦勝を獲得しなければ、東晋はジリ貧です。

でも、もう無敵を誇った大司馬桓温はいないのです。決定的な戦果は期待できない状況で当時の政権担当者である謝安は、博打に出ます。「大一番での勝負事に強い」のが謝安です。

益・荊北・豫・徐の四正面からの侵攻を「真面目に」受けたならば、東晋側の兵力では長期的に持久することができたとしても、最終的に待っているのは戦力の枯渇・決定的な敗亡以外ありません。華北は統一されており、連携をとるべき勢力が存在しないのですから、いくら持久しようとも、前秦の攻勢が繰り返される限りは、いずれ国力で優る前秦に趨勢が傾くのは回避できない状態です。

四経路からの分進合撃を破砕するためにはどうすれば良いか。最良の手段は敵の態勢完了の不備を突いての機動による各個撃破です。次に戦力の集中を阻害して、敵に不利な態勢を強いた上での決戦です。受動に回って、単純に敵の攻撃を待ち構えて撃退しようとするのは上記で述べたとおり下策です。

東晋の動きは迅い。益・荊北正面において攻勢に出ます。(383年5月~7月)
最終的に攻勢は頓挫して、桓沖率いる西府軍は撤退を余儀なくされます。10万を数える遠征軍は西府軍団の外征能力の限界に迫る数字か、あるいは超えていたかもしれません。桓温時代ですらここまで動員した実績はなかったのですから。この西方における攻勢作戦が、前秦の作戦計画に微妙な狂いを生じさせます。

917: 名無し 2011/05/18(水) 22:58:27.40
淝水の戦いの考察(第3回)

東晋がなぜ、益・荊北正面で攻勢を仕掛ける必要があったのか。戦力を温存して、堅固な地形で迎え撃つ方がはるかにローリスクで効果的な作戦に思えます。下手すれば、益・荊北に深く切り込みすぎて、後方連絡線を遮断される危険性さえある作戦、結局、戦果の方も芳しくありませんでした。司令官である桓沖は慕容垂の計略に恐れ戦き、呆気なく撤退してしまいます。戦術的には前秦が「良くぞ凌いだ」、「やや優勢」、といったところでしょうか。(そして、やはり慕容垂の戦術勘は他の追随を許しません。)

しかしながら、戦略的に見るのであればこの緒戦で東晋側が獲得した成果は、撤退の損耗を補って余りあるものだったと言えるでしょう。簡単に整理すると、
①前秦の益・荊北方面からの侵攻を決定的に遅滞
特に、前秦の各経路における作戦同士の連携を困難に陥れた。
②(①の結果を受けて)前秦の主作戦正面を豫・徐方面に限定させることに成功
の二点が挙げられます。「蜀漢の兵は長江に沿って下り」と晋書には記述されていますが、前秦は長江上流を押さえつつ、(西府軍団を西方から圧迫しながら)荊州を北方から攻略するという常套手段を結局実行することができませんでした。

それだけ、この正面での進軍が遅延したことの証左になります。慕容垂の軍が転用されていることを考えれば、本命は当初から寿春正面を考えていたのかもしれません。あくまで、西方作戦は支作戦に過ぎないという考え方です。前秦としては痛くも痒くも無い……わけないですね。侵攻の手の内が暴露されたようなもので、完全に「してやられた」形です。なかなか主動性を奪回できません。

この東晋の西方作戦は先制したことにより、上記の長江上流からと荊北からとの二正面作戦を回避するとともに、前秦の主作戦正面がどこかを明らかにさせたと言う点で、絶対に成功させなければならない作戦だったと言えます。もし、益・荊北正面の前秦軍の勢力が厚く、続々と東
進してくるような兆候が見られた場合なら、間違いなく主作戦正面は西方だったでしょうし、逆に、あんまり攻勢が激しくないようであれば、実は東方こそが主作戦正面と概定できるという段取りです。相当博打です。

しかしながら、謝安は桓沖の消極的な性格を酌んだ上でこの作戦を任せたのではないかなあ、とも推察できます。好機であっても深追いはしないし、これ以上の戦線の維持が困難と判断できれば即座に撤退する、一か八かの威力偵察には持って来いの人材と言えましょう。でも、まあその性格をまんまと利用されたとなれば、桓沖にしてみれば好い面の皮といったところ。(この部分はあくまで推察です。)

383年8月、苻堅は東晋征討の詔勅を下します。東晋の北伐を撃破したことで調子に乗って口を滑らせまくってたみたいです。本当に笑いたかったのは謝安の方だったんでしょうけどね。かつて江南の天下人の野心を紙一重ながらも破砕した勝負師は、次なるターゲットを華北の覇者へと狙い定めるのでした。

919: 名無し 2011/05/19(木) 00:03:15.49
 淝水の戦いの考察(第4回)

一気に、淝水直前まで飛びます。前秦軍の攻撃計画の概略は、潁水沿いに南下する前鋒(途中で蜀漢方面から一部が合流)とそれに続く主力、徐州から南下する別軍とで建康を陥れるものでした。9月の時点で項城まで進出し、10月には寿春を攻陥した前秦軍はここで大きな過ちを犯します。

ひとつは、河川障害の過大評価。もうひとつは東晋軍の過小評価、このふたつです。洛澗に到達して逸早く地域を確保した衛軍将軍の梁成は、柵を囲って築城し攻勢防御の態勢をとった。これに東晋軍は攻めあぐね、悪戦苦闘を重ねる。右脇腹を梁成にさらけ出しながら、寿春の苻堅と対峙することは不可能です。この不利な態勢を克服したのは、11月、劉牢之の精兵5千による強襲渡河突撃(しかも夜襲)及び別働隊による徐州方面軍後背への放胆かつ迅速な機動による包囲攻撃によってでした。

梁成側にも北府軍を退け続けたことから来る油断もあったと思いますが、明らかに梁成を破った際の謝玄の采配は冴えまくっています。加えて、晋書に記述されている戦闘経過とその結果が微妙にリンクしていません。(これは後述)

梁成率いる徐州方面軍が壊滅したことにより、前秦は北府軍を拘束する助攻撃部隊を喪失してしまいます。淝水をはさんで兵力で圧倒的に劣る東晋軍と決定打をことごとく失陥してしまった前秦軍との先の見えない対峙が始まることになりました。

920: 名無し 2011/05/19(木) 23:51:49.31
 淝水の戦いの考察(第4回続き)

「勝てる勝負しかしない」と評された東晋の大司馬桓温
この梟雄の傍で軍歴を重ねた謝玄にしてみれば、叔父の大博打は到底理解し難いものだったに違いありません。でも、東晋存亡の危機だし、作戦の基盤を整備する権限は与えてもらえたし、西府・北府の対立構造も若干緩和されたし、謝安も考えなしに博打に出ているわけではなさそうってことぐらいは、謝玄にも察することはできたと思います。

しかしながら、いざ戦場で敵軍と対峙してみれば、いつの間にか寿陽まで侵攻されちまってる上に敵の一部が淮水沿いに野戦陣地なんぞを構築しやがっております。戦場となり得る地域は寿陽から芍陂にかけての地域に特定できそうな感じですが……謝玄としては、ここで選択を迫られます。

「寿陽の敵と洛澗の敵とでは、どちらが自分たちに当たって来るのか。」難しい選択です。洛澗の敵は淮水を利用して東進、盱眙まで進出する可能性も孕んでいるところが不気味でしょうし、彼らを何とかしないことには、奪取された寿陽を取り戻すことすらできません。寿陽は寿陽で、陸路の交通の要衝、大部隊を展開して移動させるには、寿陽正面の方が適しています。

どちらかを攻めれば、その拘束を受けているうちにもう一方からの攻撃を受け、容易く撃破されてしまうことは必至の態勢、いや、すでに敵勢力の大部分の集結が完了している場合には最早撃破は不可能……

ゆえに、「洛澗から去ること二十五里、梁成を懼れて、敢えて進まなかった。」
となるわけです。同時並行的に苻融による寿陽の平定は進められ、寿陽の救援に向かっていた東晋の龍驤将軍胡彬は包囲されてしまいます。苻融はこれを餌にして、北府軍の主力を誘き寄せようと図るとともに、苻堅に速戦を具申します。苻堅は喜び勇んで精鋭騎兵を引き連れて、項城から寿陽まで進出しました。また、これに先立って、降伏を東晋側に勧告しています。使者は、かつて襄陽を死守し、後に降伏して前秦に仕えることになった元西府軍団の重鎮、尚書朱序

「勝てる勝負しかしない」ということは、決戦を仕掛ける際には勝つ段取りは既に出来上がっていると捉えることもできます。この降伏を勧める使者の口から出てきた「前秦軍の集結は未完」という情報が、謝玄に戦局を判断させました。梁成を駆逐する段取りが出来上がっていたことはその鮮やかな奇襲と機動から読み取ることができます。重要な要素は、寿陽の前秦主力の集結にはまだ時間的余裕が存在し得ること、即ち「打って出ない」公算が高かったという一点に尽きます。

徹底的に洛澗の敵を叩き潰さなければ、寿陽への進軍は大きく掣肘されたことでしょう。狙うは殲滅、梃子摺っていた淮水の河川障害は夜間を利用しての強襲渡河で損害を最小限に押さえ込み正面から拘束した上で主力により梁成の後方連絡線をぶった切る、包囲機動のお手本みたいな戦い方です。

決戦までの時間は限られています、最早一刻の猶予もありません。謝石・謝玄らは、時をおかず水陸から進軍して、前秦軍とついに対峙することになったのです。

921: 名無し 2011/05/20(金) 00:46:48.97
 淝水の戦いの考察(第4回続きの続き)

……何と言うか、時系列的に苻堅の動きが慌しすぎて、どこの時点で寿陽まで進出してきたのかすごく曖昧な部分があります。梁成が討ち取られた後、東晋軍がやっとこさ寿陽東方まで出てきた時点で苻堅もドンピシャで出てきたと考えると、寿陽の前秦軍は全然兵力結集されていません。

(騎兵だけ先行的にやってきた感じ)さすがに、これで8万近い北府軍を撃破するのは無謀すぎます。胡彬さんもいつの間にかいなくなっちゃってるし、寿陽正面で何があったのか、実はよく分かっていません。

朱序との接触によって、謝石は苻堅が寿陽まで来ていることを知り、甚だ懼れたという話になっていますけど、それだと苻堅は約30kmほど先で、謝玄によって梁成が攻められているのに全く気づかなかったボンクラになってしまいます。
(まあ、すでにボンクラ化の兆候が顕れ始めているようですが。)

洛澗における前哨戦のキモは、梁成と苻融の連携が全く成り立っていなかったことに尽きます。これが上手く連携して南進できていたならば、おそらく謝石・謝玄たちは戦力を分散してこれらに当たらざるを得ず、前秦主力の集結完了前に決戦を仕掛けることはできなくなっていたと思います。

しかしながら、この連携の不備が明らかになった時点(朱序の降伏勧告後)で、謝玄は先手を打って梁成を撃破しました。(これも見事な各個撃破)主動性は決して手放しません。前秦軍が戦力的には有利な状況だったのを、あの手この手で揺さぶり、智略の限りを尽くし、寸毫の好機を最大限に活用して、ついに淝水を挟んでの両軍対峙まで漕ぎ着けたのです。

923: 名無し 2011/05/21(土) 16:56:58.24
 淝水の戦いの考察(第5回)

続々と前秦の主力が集結しつつある状況にあって、謝玄は決戦を求めます。
前秦の首脳部も同様に決戦志向でした。下手に東晋側が守勢に入って、対峙が長期化すれば前秦側も軍を保持しえなくなるおそれがあったからでしょう。何より、梁成の軍を壊滅させられ形勢は東晋側に傾きつつあります。主導権を取り戻すためには、決戦で謝玄を屠り去り、前秦の威容を天下に示すほかありません。

秦将の中には、短期決戦に反対する意見もあったようです。私も、個人的な意見としては、長期戦に切り替えて、再度、東晋を両翼から包囲するように軍を再編成する必要があったと思います。(間接アプローチ戦略になりますが、京口正面及び江陵正面へ兵力を回して、圧迫を加えることができれば、北府・西府両軍にかなりのプレッシャーを与えることができたはずです。

しかし、これをやるとなると後方連絡線・策源地域からもう一度設定しなおさなければならないから相当骨が折れる話ではあります。)ここに来て、長江上流域から圧迫を与えることができないと言う状況がじわりじわりと前秦の作戦を硬直化させていきます。

苻堅は、東晋軍が想いの外精強だったことに弱気に陥ってます。ただし、ここで苻堅が心配したのは、東晋軍が決戦を回避し、防勢転移して強力に前秦の侵攻を阻止する態勢になった場合を想定してのことだと思います。(決戦自体はおそれていない。)「東晋軍の主力を逃したくなかったからこそ寿陽まで急行したというのに……。主力が到着~態勢完了してから攻撃に打って出るか否か。東晋軍は見積もりよりも遥かに手強い、攻撃が成功する公算は高くない……。」

東晋軍にしてみれば、後は頑強な防御戦闘によって前秦軍主力の侵攻を阻止さえできれば、本戦役での判定勝ちは狙える態勢に持ち込んでいます。無理して冒険する必要性はあんまりなかったりします。ただし、ここで前秦の外征能力を削れるだけ削っておかなければ、いずれ前秦軍の戦力が快復されたとき、再度の侵攻が企図されることは免れ得ません。
今次の戦役では、謝安の妙手により終始、主導権を握りつつ戦を運んでくることができましたが、果たして次の戦役でも同じく駒を進めることができるかどうか。

謝玄の脳内には、勝利への算段は既に組み立てられています。梁成を撃破した際に披露した渡河状態からの突撃による集結未完の前秦軍に対する正面突破です。彭超・梁成たちを血祭りに上げてきた水上機動による強襲、何度も何度も練成を重ねてきた東晋軍の卓越した技能です。

才知溢れる前秦の数多の将星たちにして、決して覆すことのできない東晋の軍事的優越、これを最大限に発揮するため、謝玄は彼自身にとって似つかわしくない奇策を弄すのでした。

924: 名無し 2011/05/21(土) 18:44:30.65
 淝水の戦いの考察(その6)

「君遠涉吾境、而臨水為陣、是不欲速戦。諸君稍卻、令将士得周旋、僕與諸君緩轡而観之、不亦楽乎!」

凄い喧嘩の売り方です。要訳すれば「さっさと決着を付けようか。」
華北の覇者に対してここまで挑発的な申し出をする当たり、何だかんだ言ってやはり謝安の甥と言わざるを得ません。この申し出には文面どおりの意味のほかに、もうひとつの意味が備わっています。

もし、前秦側がこの申し出を拒否した場合、東晋側によってその内容が(事の真偽にかかわらず)世間に喧伝されてしまう可能性があったことです。武力によって覇業を推し進めてきた苻堅にして見れば、そのような侮辱を甘んじて受け入れることは不可能と言ってよく、諸将が挑発に乗らない(「渡河しなければ勝てます。」)ように意見具申してきたときも、即座に退けています。東晋との決戦を回避するということは、すなわち東晋侵攻作戦そのものが、はじめから無理があったと自供するようなものでしたから。

まあ、ここでの諸将の反応もいただけません。北府軍の疲弊を待つ算段かもしれませんが、ここまで鍛え上げられた北府軍に対し、どうやって締め上げるつもりだったのでしょうか?

(精鋭を選りすぐった上に、士気・練度とも最高潮といって良いでしょう。) < br />明らかに長期戦になった場合、先に前秦軍の補給が音を上げるのは不可避、勝ちに行くのであれば、ここは決戦以外に選択肢はありません。(勝たないで良いのであれば、決戦する必要はどこにもなかったりしますけどね。一刻も早く撤退するか再編するべきだったと思います。)

苻融は怪訝に思ったことでしょう、この状況(東晋優位の態勢)でなぜ決戦に拘るのか。
①謝玄は前秦に対して連戦連勝、勝ちに乗じて(調子に乗って)戦果を拡張しようと企てた。(謝玄=勇猛果敢な猪武者)
②決戦は擬態で、その実、梁成を破った際に見せたように、主力又は別働隊により前秦軍主力の後背を叩く作戦(謝玄=巧妙な策士)
③この申し出はただのブラフであり、前秦軍の足並みを混乱させようとする小手先の計略(謝玄=狡猾なペテン師)

考え始めたらキリがありません。前秦は受けざるを得ない状態にありましたし、こんな約束守る必要なんてどこにも無いのですから、後退した振りをして逆撃を食らわせてやればいいだけです。前鋒だけでも20万近く集結しているのですから、正面決戦で負ける要素なんて皆無と言ってよいでしょう。そもそも東晋が淝水を渡らざることを憂えていたのに、向こうからまんまと渡河したいなんて言って来ること自体奇跡のようなものです。正に渡りに船、鴨ネギといったところ。

おそらく前秦首脳部の謝玄に対するイメージは、①だったと思います。「戦勝に浮かれて前秦軍を舐めてかかっているのだろう。実力相応、無理からぬことだ」と。
しかし、彼らは気づくことができなかった、自分たちが知らず知らずのうちにそのような思考に誘導されていたことに。渡河(移動)状態から突撃に移行する際の最大の問題点は渡河の出鼻を挫かれてしまうことです。ゆえに、ある時は夜陰を利用し、またある時は敵の予期しない手段で(たとえば寡兵で、あるいは渡渉地点を巧妙に欺騙して)渡河を図るのです。

前秦首脳部は目の前にぶら下げられた餌(喪失しかけていた勝機)に釣られて、東晋軍の真意を読み取ることを放棄しました。

渡河を阻むものは全て排除されました。もう謝玄に迷いはありません。この瞬間、東晋最強の武名は桓温から謝玄へと名実ともに引き継がれることになったのです。

925: 名無し 2011/05/21(土) 20:04:55.62
 淝水の戦いの考察(最終回)

長々と駄文を綴って来ましたが、結論としては、東晋側が仕掛けた心理戦がとても巧妙だったというところでしょうか。前秦軍は決して惰弱な軍ではありません、否、華北を席巻したその軍事力は十六国随一と言って良く、東晋が敗亡する可能性は十分にありました。

東晋の勝因は、「考え得るあらゆる手段を講じた」ことに尽きます。ひとつでも欠けていたらおそらく戦勝を獲得することは叶わなかったでしょう。

淝水の戦いを扱き下ろす人は多いのですが、彼らは前秦軍は負けるべくして負けたかのように評すことが多いです。(特に李衛公問対の著者、オメーだよ。)大きな敗因は、渡河突撃の威力を推し量りかねたところにあると思います。迅速さ・激烈さ、どれをとっても申し分ありません。

また、偽後退→逆撃のコンボは、熟練した技量、指揮官の卓越した統御が必要になります。寿陽まで進出した前秦軍にこの複雑な戦術を末端の一兵卒まで浸透させるには時間が足りませんでした。

軍主力の集結未完の状態で敗走に入ったことも、被害を大きくした要因のひとつです。第一線部隊は下がらなければ東晋軍の突撃を抑えきれない状態なのに、後ろでは友軍が続々と集結中だったのですから、身動きが取れなくなってしまったはずです。後ろは後ろで、何で決戦なのに退却し始めているのか、第一線の状況がほとんど理解できなかったことでしょう。

無為無策というよりも(作戦自体は妥当なものです、東晋の作戦が異常すぎるだけであって)、作戦の徹底が不十分だったことに尽きると思います。苻堅らにしみてみれば、東晋が心変わりする前に(おそらく主力が態勢完了してしまえば、東晋は申し出を反故にするかもしれないという疑念が生じたか)、さっさと決着をつけようと気が逸りすぎた部分があったのではないのでしょうか?

勝利の分水嶺となったのは、「あくまで主動を確保し続けようという執念」だったと思います。敵に合わせてどうするかではなく、敵をどのようにするか、すなわち「人を致して、人に致されず」(孫子「虚実篇」)を貫いたか否かです。おそらく、これまでも、そしてこれからも、未来永劫変わることなく多くの軍人がこの命題に悪戦苦闘し続けていくことでしょう。

937: 名無し 2011/06/25(土) 20:09:56.32
ところでこの時代の一番の名将は誰?
劉淵?石勒?慕容恪?垂?祖逖?符堅?太武帝?劉裕?簫成道?韋孝寛?斛律光?それともアレ?
938: 名無し 2011/06/25(土) 23:25:39.31
>>937
作戦・戦術レベルは相当激戦区だろうけど
戦略レベルの名将(名政治家)が不作だからな~
個人的には、バランス考えて韋孝寛を推す

あらゆる意味で異色なのは石勒だけど、凄さを表現できる手段・尺度がないのが辛い「運」だけでは片付けられない何かがある

944: 名無し 2011/06/29(水) 18:59:30.84
>>938
俺も韋孝寛かな
全て上位のオールマイティ

石勒は異色だよな、運が凄い
王弥が信じて宴会行ったり、劉曜の馬がいきなりダウンとか
あと徐々に徳のある行動し始めるのも面白い

941: 名無し 2011/06/28(火) 05:50:35.54
慕容拓跋は棚ぼたで勢力伸ばしてるから自分的に評価は低い
桓温や王猛にも瀬戸際まで追い詰められてるし守勢も弱い
942: 名無し 2011/06/28(火) 20:57:44.37
>>941
でも慕容氏の河北での勢力扶植具合は、なかなかどうして良いお手並みだったぞ。
唐代の山東貴族も、結局その源流は慕容氏の下に参画した漢人豪族たちだし。
あと、華北を普通に統一した拓跋はちゃんと評価してやれよ!w
945: 名無し 2011/06/29(水) 19:11:13.26
斛律光に戦場では敵わなかった点で、最高の名将には推し難い。
946: 名無し 2011/06/29(水) 19:54:20.29
>>945
不敗だけど戦略上の勝利を逃し続けた慕容垂みたいなのもいる。
勝ったり負けたりを繰り返していたのに、華北を制圧した石勒みたいなのもいる。
勝ち数・負け数は名将の条件ではないよ。
947: 名無し 2011/06/30(木) 17:21:09.43
>>946
不敗は兄貴のほうじゃなかったっけ?
949: 名無し 2011/06/30(木) 22:43:09.81
桓温はどうだろうか
やはり劉裕と比べると見劣りするかな
951: 名無し 2011/07/02(土) 14:31:09.81
>>949
劉裕は、黄河のラインが防衛ラインに適さないことを理解できていなかった時点で凄く格が落ちるんだけど。

オルドスを併合するか、牽制・抑留できない限り、黄河以南の地域は常続的に北方遊牧世界からの掣肘を受け続ける羽目になるんだから、無理してでも夏に対する策を講じておくべきだったと思う。(逆に言えば、オルドスを牽制できない態勢に甘んじるようであれば、いっそ江南まで防衛ラインを下げたほうがはるかに効率的)

桓温は黄河のラインでは守りきれないと言う戦略的判断が働いたために、洛陽の守備部隊をギリギリまで削減している。本気で抑えるつもりはサラサラないということだ。

コスト的には、圧倒的に桓温の方が安上がり。
そもそも、簒奪を目的とする両名において、軍事遠征の成功の可否において論ずるならば、劉裕はリスクが大きい作戦を採用しすぎている。それだけ権力基盤が脆弱だったことの裏返しなんだろうけどね。

957: 名無し 2011/10/21(金) 00:05:30.59
梁の元帝は、侯景の乱を曲がりなりにも鎮圧したので何となく評価が高かったが、よくよく読んでみると、身内殺ししまくって結構えげつない輩だった時代的に身内殺しデフォだけど、騙し討ちにするわ敵対勢力呼び込んでまで抹殺するわ。そこまでするかとちょっと引いた
958: 名無し 2011/12/17(土) 17:35:38.45
便宜的に東晋も含む南朝のうち、北伐が成功する可能性があった時期は何時なんだろう?
東晋・・・祖逖または桓温がいた時代
劉宋・・・文帝時代
南斉・・・武帝時代
梁・・・・武帝時代
陳・・・・宣帝時代
ざっと挙げてみたが、南斉と陳はまず可能性なしだろう
南斉の武帝時代は北魏の孝文帝時代と重なり、国力的に難しいし
そもそも治世が10年にも満たない
陳に関しても、宣帝時代に北斉には勝てても北周には勝てないだろう
959: 名無し 2011/12/22(木) 02:04:51.44
そもそも南朝は実効支配領域が狭いし、動員力の問題からして江北・淮北を永続的に再支配することが超ハードモードなんだよね。

最大の好機は北魏が黄河南岸を要塞化する以前の劉宋武帝~文帝初期、北魏道武帝~明元帝交代期じゃないだろかと思う。結果としては、その時期でさえ出来なかったわけだけど。

後、太武帝死後~孝文帝中後期までは北魏の上層部は一触即発の爆弾抱えてたし、南斉武帝期の北方戦線は結構、押してたと思われるので、結果を無視すれば意外と明るい未来が見えてたような気がしないでもない。

960: 名無し 2011/12/23(金) 01:03:34.60
劉宋の初期と梁武帝の中期くらいじゃないか。南朝による再統一の可能性があったのは。ほかの時期は無理だろ。
961: 名無し 2011/12/23(金) 18:49:13.51
>>960
劉宋の時期に限らずとも
東晋の劉裕率いる北伐軍でも十分可能だったと思うんだよね。

実際この当時の北朝勢力の東秦は淝水の戦いで敗れた後は瓦解して小国に分裂したし
宋も山東半島を含む黄河以南まで勢力を広げている訳で

962: 名無し 2011/12/23(金) 19:01:51.06
梁武帝の時代はなんか微妙な感じもあるんだよね。
確かに鍾離や胊(く:化け対策)山での大勝利はあるけど、梁州・荊州・襄州方面や淮水下流域では完全に押されてるんだよね。というか領土を減らしてるし。

大成果といえば元法僧の反乱に乗じた侵攻だけど、
司令官の蕭綜が「あいつ狙ってる、ヤバい!」ってのは
魏書や梁書の記述からすると周知っぽかったところもあるしね。

そもそも六鎮の乱でくちゃくちゃになってる北魏に叩き帰されてるのは結構、目も当てられない感じ。

968: 名無し 2011/12/24(土) 22:49:42.30
祖逖の頃は石勒とか劉曜とかいるし無理だろ。
特に石勒はなんだかんだいって最後に勝ってしまう粘り強さがあるし
桓温は慕容垂にボコボコにされてるし
書いてないけど東晋時代の劉裕は意外といい線行くかもしれないけど、野心有りすぎで統一どころか独立しそう
970: 名無し 2011/12/26(月) 21:19:50.69
統一劉宋帝国ができたところで
「やっぱ国号は漢にするべきじゃね?」派と
「もう決まったんだから宋でいいんだよ」派と
「楚王の子孫なんだから楚だべ?」派と
「劉家的に楚帝はまじーだろ?」派で内戦開始
971: 名無し 2011/12/29(木) 10:36:00.82
劉裕はそんな対立あったら皆殺しにしそうだな
976: 名無し 2012/01/03(火) 09:42:34.12
>>971
その頃まで劉裕の寿命が持たない
981: 名無し 2012/01/06(金) 18:21:01.35
劉裕が統一できたとしても統一を維持する基盤を築くのは難しそうだ
982: 名無し 2012/01/07(土) 09:26:24.23
>>981
それは寿命的な意味で?
対外政策なら
北朝と違い、高句麗とかとは関係良好というか高句麗は冊封受けてるし
南部は問題ないし
対北西が問題程度だと思うけど
984: 名無し 2012/01/08(日) 18:19:16.48
>>982
皇帝になった時点で60近いのにそこから統一となると相当な年齢になるし
後継者も文帝以外はろくでもない連中ばっかりだから厳しい。

-晋 五胡十六国 隋 唐
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