中国史総合

古代高句麗帝国を語ろう!

1: 名無し 03/07/06 09:35
語ろう。

2: 名無し 03/07/06 09:41
帝国じゃないだろ!

16: 名無し 03/07/15 04:59
2003/05/10 (産経新聞朝刊)
【外信コラム】ソウルからヨボセヨドラマで歴史歪曲? ( 5/10)
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韓国のテレビは時代劇が人気でいつもどこかのチャンネルでやっている。韓国では
「史劇(サグック)」といって、その舞台の多くは十四世紀から五百年間続いた李朝(朝鮮王朝)だが、最近、そのテレビドラマを見ていて気になることがある。たとえばKBSテレビの大河ドラマ「武人時代」で「皇室」とか「陛下」という言葉がしきりに登場するのだ。

つまり李朝時代の王様を皇帝に見立て皇室といっているのだ。先に高麗時代を背景にしたドラマでもそうだったが、しかし、この時代の韓国(朝鮮)には「皇帝」はおらず、みんな「王」だったはず。

中国の支配圏にあって皇帝は中国だけに存在し、韓国はその呼称を使えなかったからだ。韓国に皇帝が登場するのは、十九世紀末に中国(清)が日本に敗れ、韓国が中国の支配圏を脱してからのことである。

ドラマ「武人時代」は「わが国の歴史は一般に考えられているように文人エリート中心の軟弱なものではなく、勇ましかったのだよ」という元気づけの意味があるが、ついでに中国支配からの独立性を強調しようと「皇帝」まで登場させたというわけだ。
しかしドラマとはいえ、ここまでいくと歴史歪曲である。国営テレビが堂々とそれを放送している。(黒田勝弘)

28: 名無し 03/07/27 15:37
>>16
黒田さん、元が支配するまでの間、「皇帝」は存在したよ。

【外信コラム】ソウルからヨボセヨ 時代劇は難しい?( 5/17)
 前回のこのコラムで韓国のテレビドラマの「史劇(時代劇)」についての紹介に誤りがあった。
読者の指摘で分かったのだが、KBSテレビの「武人時代」は李朝時代(一三九二-一九一〇年)ではなく、その前の高麗時代(九一八-一三九二年)の話だった。
 したがって中国の支配を受けなかった高麗時代の初期には皇帝とか皇室とか陛下といった呼称も部分的には存在した-というのが正確なようだ。国営KBSテレビが歴史歪曲(わいきよく)をやっているのでは、という筆者の批判は的外れになってしまった。KBSおよび読者の皆さんにおわびと反省をしておきたい。

 ただ韓国のテレビ時代劇が近年、国民への元気付け(?)のためか、武人が活躍したり中国からの独自性が見られた高麗時代に注目し、その歴史の再評価に力を入れていることは間違いない。また朝鮮半島の歴史では珍しい高麗の「武人時代」は十二世紀の一時期だが、そのころ「皇帝」の呼称が一般的だったかどうかは必ずしも明らかでない。高麗王朝も途中から元(モンゴル)や明の支配下に入り「皇帝」は使えなくなるからだ。
 弁明になるが、テレビの歴史ドラマはやはり外国人には難しい。知識が必要だし、時たま見るのでは理解不足になってしまう。
(黒田勝弘)

30: 名無し 03/07/27 23:49
>>28
高麗が建国後しばらく皇帝を名乗っていたのは知っているけど、本当に元に服属するまで続いたのかい?
高麗にとって幸いなことに、モンゴル帝国が出現するまでの中国は南北に分裂していて、特に宋なんてとんでもなく弱かったけど、確か高麗はモンゴルに服属する前は金に服属させれているね。
そういつまでも皇帝を僭称できたのか疑問だよ。誰か答えて。

34: 名無し 03/07/28 20:18
高麗って
宋(北宋)→金→蒙古(元)→明
っていう風に宗主国を変えてたのに
シナ様に無断で皇帝号を使えたの?

41: 名無し 03/07/29 10:16
918年
高麗の太祖・王建、高麗を建国。その名のとおり高句麗の継承者を自認し、高句麗の旧領である満洲の地を狙っていたと思われるが、この段階では高句麗の継承国家である渤海国がまだ存在しており、半島の勢力基盤を固めた後、弱体化していた渤海国を攻め取ろうとしていたらしい。

926年
契丹(遼)、渤海国を滅ぼす。契丹皇帝耶律阿保機は旧渤海領に傀儡政権「東丹国」を設置し長子の耶律突欲(倍)をその国王に任命。

930年
契丹(遼)、東丹国を廃止して旧渤海領を一時放棄。

936年
高麗、半島を統一。満洲の地をめぐって高麗と契丹は潜在的敵対関係に入る。契丹を牽制するため、日本に朝貢するも相手にされず。

938頃
旧渤海領(満洲の地)に烈万華(在位 938頃-979頃)が「安定国」を建国。

939年
高麗国王・王建、日本に朝貢。

952年
高麗国王・光宗の后、日本の長谷寺に宝物を寄進。

963年
高麗、安定国を牽制するため、北宋の属国となる。

972年
高麗、日本に朝貢。

979頃
安定国第二代王、烏玄明(在位 979頃 -989頃)即位。

989頃
第三代国王に旧渤海国の王族である大氏が即位「後渤海国」と改名。

993年
契丹(遼)、高麗への攻撃を開始。

994年
高麗国王・成宗、契丹(遼)の属国となる。

1015年
契丹(遼)の高麗侵略開始。連年、高麗を攻める。

1016年
高麗国王・顕宗、契丹(遼)を牽制するため再び北宋の属国となる。

1018年
後渤海国滅亡。高麗、契丹(遼)を一時撃退。

1020年
高麗と契丹(遼)の間に講和なる。

1022年
高麗、再び契丹(遼)の属国となる。

1029年
渤海国太祖の七世の孫、遼国東京将軍の大延琳が満洲の地に「興遼国」を建国、天興皇帝と称す。

1030年、興遼国滅亡。

42: 名無し 03/07/29 10:17
1080年
高麗国王・文宗、日本に名医を求むも断られる。

1116年
渤海人高永昌(在位 1116)「大渤海」を建国、皇帝と称するも金に滅ぼさる。

1125年
金、遼(契丹)を滅ぼす。

1126年
高麗国王・仁宗、金の属国となる。以後、満洲・河北(金領)への高麗人の移民はじまる。

1252年
モンゴル帝国による漢人(=旧金朝支配下の住民)の人口調査。
この時、漢人は「漢八種」とよばれ、契丹人、女真人、渤海人、高麗人など八種族に分類。(つまり13世紀でも渤海人と高麗人(半島人)女真人(ツングース)は厳然と区別)

1231年
モンゴル初めて高麗に侵入。以後、連年侵入。

1259年
高麗国王・高宗、モンゴルの属国となりその太子はモンゴルに赴く。

1263年
高麗国王・元宗、日本に倭冦の禁圧を乞う。

1275年
高麗の領土だった慈悲嶺以北の地をモンゴルに編入。

1278年
高麗の忠烈王、モンゴルの服装に変更。

1302年
高麗の忠烈王、元の朝廷に参内しモンゴル女性と結婚。
モンゴル服属以前は平壌あたりが高麗領の最前線基地だったが、モンゴルに服属して以後は、歴代の高麗王は、遼東から満州あたりを管轄する(高麗本国も含む)「征東行省」の長官を兼ねるようになり、高麗人コロニーがこれらの地域に一挙に広がった。

1367年
高麗の恭愍王、日本に倭冦の禁圧を乞う。

1370年
高麗、明の属国となる。

1375年
高麗、日本に倭冦の禁圧を乞うも、その使者はかえって足利義満に逮捕勾留さる。
1380-90年代、高麗は、元明の東北アジア争奪戦のどさくさに紛れ、遼東までを一挙に本国化しようとはかり、モンゴル側について永楽と対決するため軍団を派遣したが、その軍団の長である李成桂(女真人)が裏切って明側についてしまい、引き返してクーデタを起こし、王権を則って樹立したのが李氏朝鮮。

1392年
高麗、滅亡。李氏朝鮮の建国。李成桂は明に尻尾を振って、遼東・南満州を放棄、鴨緑江までの確保で満足したせこい奴。こいつが政権欲に目がくらまず、自分の任務をきちんとはたしていれば、太祖王建の夢であった高句麗/渤海国の旧領(満洲)を奪取できた可能性がある。

43: 名無し 03/07/29 10:23
第一、>>41,>>42の通り、高麗はいつもどこかの属国であって
時々は独立していたとはいえわずかの期間。皇帝と称する暇などない。

47: 名無し 03/07/29 21:30
>第一、>>41,>>42の通り、高麗はいつもどこかの属国であって
>時々は独立していたとはいえわずかの期間。皇帝と称する暇などない。

おいおい、自分の無知を棚に上げて「皇帝と称する暇などない。」ですか?すごいねえ。
そもそも朝鮮を建国した李成桂は、どこと戦争をしようとして裏切ったのかと。

高麗は明ともモンゴルとも、戦っているよ。その間の皇帝。

49: 名無し 03/07/29 23:22
>>47の主張によれば、高麗が帝を称したのはモンゴルと明の間。

48: 名無し 03/07/29 22:33
光宗
高麗第4代王(在位 949~975).
字日華. フィ昭. 諡号大成. 太祖王建の三番目息子で第3代王定宗の実の弟だ. 妃太祖の娘大穆皇太后皇甫氏だ. 正宗の禅位を受けて即位した後にその英明限り土台で多くの政治功績を積んだ. 先に権豪強族の勢力を抑制するために勳臣・将相, 甚だしくは骨肉之親に至るまで無慈悲な首切りを断行したし, 奴婢按検法を作って奴主・奴婢 の間の紛争を裁判して多い 奴婢を解いてくれた.

958年には中国で高麗に帰化した双冀の建議を受け入れて高麗では初めて科挙制度を実施して人才を登用した. また百官の服制を制定したし, 首都開京を皇都で改称して西京, すなわち平壌を西都と言った.

そういえば反乱を起こして鎮圧された妙清が称帝建元論を主張していたから、少なくともそれ以前には廃れていたわけだ。
もしかして光宗一代だけ?
「武人時代」はそれより後モンゴルに服属する少し前だから、皇帝と呼ぶのは歪曲だと思う。

49: 名無し 03/07/29 23:22
>>48の主張によれば、帝を称したのは第4代光宗。

ぜんぜん時代があわない。47と48のどちらか一方、もしくは両方がデタラメ???
>>48が引用してる光宗の解説文は、帝号についてまったく触れてないので却下。

50: 名無し 03/07/29 23:54
山川出版社の『朝鮮史』に、高麗の光宗が皇帝を称したという記述があるよ。
軽くメモっといたのがあるんで、引用してみる。

>彼(引用者註:第四代国王光宗)は後周の衰えを察知すると、自ら中国なみに「皇帝」と称し、 開京を「皇都」を改めて、 さらに独自の年号「光徳」「峻豊」を採用し、伝統的な冊封 体制からの離脱を試みた。しかし963年、光宗は統一帝国宋の冊封を受け入れて、宋の年号を使用した。

執筆者は武田幸男氏。上記の内容について特に史料的な根拠は示されていない。気になったんで、『高麗史』と『高麗史節要』を見てみたけど、光宗のところには開京改称についてしか載ってなかった。皇帝僭称と年号施行については何か他の史料に基づいているのかもしれない。

51: 名無し 03/07/30 07:35
>>50
そうか・・・・出典はいまいち不安だが、武田幸男って日本の歴史学者の中じゃ比較的朝鮮電波に媚びる傾向ない方だったような・・・。
山川の「朝鮮史」の記述の出典は、あとで確認してみるけどとりあえず納得しますた。高麗が皇帝を称したことはない、といったのは撤回しまつ。

皇帝を称したのが開京遷都と同時なら、960年のことになる。
光宗の事績は
956年
高麗の奴婢按検法(奴主・奴婢の間の紛争を裁判し多くの奴婢を解放)
958年
高麗、中国から帰化した双冀の建議を入れ、初めて科挙を実施。
960年
後周滅び宋起こる。高麗、皇帝と称し、開京(今の開城)に遷都し
開京を皇都と改称、独自の年号「光徳」「峻豊」を採用。
963年
高麗、宋の冊封を受け入れ独自年号を廃し宋の属国となる。

(あとは、はたしてモンゴルと明の間に皇帝を称したというソースが出るかどうかだな。)

55: 名無し 03/07/30 16:20
山川の「朝鮮史」みた。ついでに翻訳もののな韓国の歴史教科書もみたが、光宗が皇帝を称したとあるだけで、実はそれすぐやめちゃったことは一切ふれてない。これじゃ韓国人は併合直前の大韓帝国までずーっと皇帝だったと思いこんでるやつ多いだろうな。

「高麗史」は事大主義全盛の李朝時代に編纂されたから、歴代の高麗王の記述も「本紀」じゃなく「世家」になってる。「本紀」は天子たる中華皇帝の記録だけで、高麗王はその臣下で諸侯だから「世家」だと。おそらく李氏朝鮮の歴史も「世家」扱いにされることを望んでいたんだろうな。そんなわけで事大主義思想からいえば「皇帝を称した」などということは口にするのも憚られるあってはならぬ事だから、記録されなかったのであろう。

61: 名無し 03/07/31 03:04
こんなのもメモしてた。

平凡社『新訂増補・朝鮮を知る事典』

>元の制圧下で高麗王室と元室との一体化が進んだ。歴代の王は元の皇女を王妃に迎え、そのあいだに生まれた男子が王となった。国王の地位は元の力によって保証された。しかし王の廟号に<宗>をつけることは禁じられて<王>の字を使い、朕は孤に、陛下は殿下に改めるなど、王に関係する用語は格下げされた。

モンゴルの支配を受けるまでは、皇帝なみに「朕」や「陛下」を使ってたみたいね。

62: 名無し 03/07/31 03:50
>>61
なるほど。
この時代は契丹人の遼朝も「皇帝」、女真人の金朝も「皇帝」だし興遼国だの大渤海だのといった短命政権の渤海人の国(満洲の一時独立)でさえ「皇帝」。日本はずっと前から「天皇」だったし。そう考えると、この頃は「皇帝」が中国人の専売特許であるという虚構が崩れてしまった時代。

モンゴル侵入以前の高麗人はまだ後の李朝人のような事大DQNに堕ちきってなかったから異民族国家の皇帝をみて「漏れも皇帝をなのるニダ!」という気持ち半分と、渤海人の満洲国家がいずれも短命で終わってるので「もし契丹や宋の属国で“国王”だったら長続きしたかも」という恐れの気持ちも半分あったろう。

それで「朕」や「陛下」を使いながらも、宗主国の年号を使って忠誠を表し称号は「王」にとどめていたと。この場合の「朕」や「陛下」はあまり意味ないね。独自年号を建てていた高句麗ほどの独立性もない。

高句麗や新羅の頃は乱世なので、属国か独立かというのは度合いの問題で多分に戦術的な振るまい。李朝の頃は事大主義がオデオロギー化して、絶対命題へと硬直。高麗時代は、この両者の中間の時代だったように思われ、まだいろいろな工夫が見られたということかと。

63: 名無し 03/07/31 06:47
>>62
意味がないってことはないでしょ。独立心の現れ。

64: 名無し 03/07/31 08:13
いや、ほとんど意味はないよ。実際「王」だったわけだし
その上、宗主国の年号使ってたんだし。これで独立心とか言われても・・・・

67: 名無し 03/08/14 17:17
高麗―朝鮮にかけて北伐論は本当にあったの?
せージョン大王が今の国境線を確立?

72: 名無し 03/08/22 22:28
>>67
セジョン大王は関係ないが、高麗は満洲へ進出しようとしたこともあるが例外的なこと。
李朝では威勢のいい意見は在野のもの。公式な政治の場では明の属国だった頃だけ。
(その頃の女真は明に従順ではなかった)

69: 名無し 03/08/22 09:18
中国が朝鮮半島の
「馬韓」「弁韓」「辰韓」地域を日本に寄越すかわりに
それら以北(高句麗)部分を寄越せって言ってきたらどうする?

70: 名無し 03/08/22 11:01
半島丸ごとやるから他よこせにきまってるだろ。

71: 名無し 03/08/22 15:07
>>70
安全保障上の理由から対馬海峡対岸に
シナーが来るのはやばくねぇか?
チョソの飼い方は連中の方が上手いが、
組し易いのは口先事大野郎の方だろ。

72: 名無し 03/08/22 22:28
>>71
今うってる月刊誌に入江隆則が地政学的にいって
半島の南半分は勢力圏か少なくとも同盟関係にないと、
海洋国家(=日本)は存続の危機に立たされるといってるね。

76: 名無し 03/08/23 01:46
>>71
中国も同じ事を考えてんじゃないの?内部に取り込み守るべき土地なのか?
台湾とは違うね、まあ彼らの中心性の問題だろ。

87: 名無し 04/01/17 21:06
高句麗王の高氏の「高」は高句麗の高の字をとったわけじゃなく
後燕の高雲と婚姻関係を結んだことから生じた姓。

これ本当なの?
高雲って高句麗王族出身で慕容氏の養子になった。
慕容雲と呼ばれることもある。
ということは後燕の「高」氏は彼だけじゃないの?
上が正しいなら「高」はどこからわいてきた名前なの?

「高姓が同時代の史料に現れるのはようやく広開土王碑が最初」という話をどこかで聞いたことがある。
広開土王高安はちょうど高雲と同時代の人物だけど。

88: 名無し 04/01/18 02:49
>>87
広開土王は中国側の史料では高安じゃなくてただの安だよ。高安は安藏王(興安)。
北燕王の高雲はもともと高氏。で、慕容氏の養子になったから慕容雲ともいう。
高雲の実の祖父である高和が高句麗の分家とはいうが、これ以前に高句麗の王が高氏を称した実例はなく、真相不明。

高句麗が北燕に使者を出して同族関係を確認したのは広開土王存命の時。まだ碑文はない。
高句麗が高氏を称したのはすべてこの後のものばかり。(三国史記のぞく)

89: 名無し 04/01/18 09:58
>>88
ありがと。
検索したらこんなものが出てきた。

晉書 載記 卷一百二十四 載記第二十四 慕容雲
慕容雲字子雨 ,寶之養子也 .祖父和 ,高句驪之支庶 ,自云高陽氏之苗裔 ,故以高為氏焉 .

晋書が正しいかはともかく
高句麗王家が高氏を名乗りだしたのは
高雲以降らしいんだね。

90: 名無し 04/01/19 15:16
>>89
そのとおりなんですが「自云高陽氏之苗裔 ,故以高為氏焉 」のところは当てにならないでしょうね。
この頃の高句麗人はまだ中国式の姓を必要としていなくて、たまたま中国化の進んだ鮮卑国家に移住していた高句麗人がその社会で生きるため、高句麗出身だからというわけで適当に「高氏」と名乗っていただけかも知れませんねー。高和の和という名前も高句麗語そのままではなく、中国式の名前を名乗る時に姓と一緒につけたんでしょうしね。
それが、はからずも孫の高雲が皇帝にまで昇りつめたんで、故郷の高句麗の王と交流が生じて、高という姓が高句麗に逆輸入(?)されることになった、と。

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