その他勢力

【曹操】官渡・倉亭の決戦【袁紹】

2020年2月6日

1: 名無し 2007/10/26(金) 18:27:00
中原の覇権を賭けた天下分け目の大戦。
200年2月~200年10月の官渡の戦と201年3月~9月の倉亭の戦いについて語りましょう 

2: 名無し 2007/10/26(金) 18:28:20
199年
曹操が袁紹の南下を防ぐために黎陽に出陣。
河内、黎陽、延津を拠点に渡河の阻止を図り、臧霸に袁紹の後方を撹乱させる。
曹操が張繍の降伏や董承の造反の対応で黎陽から許~官渡に移動。

200年
曹操が徐州の劉備を討伐。
その為に対袁紹の兵力が減り、于禁、楽進は袁紹との交戦を避けて
延津から河内に撤退。

黎陽に袁紹が入城。
郭図、淳于瓊、顔良を派遣して白馬を包囲させる。

劉備を一蹴した曹操は延津で袁紹と対峙するふりをして、白馬に急行。
援軍の関羽、張遼が顔良を斬るも
郭図、淳于瓊らに白馬を制圧され、為す術なく撤退。
延津でも追撃してきた文醜を返り討ちにするが、官渡までずるずると後退。

袁紹は陽武で郭図、淳于瓊と合流。
この頃、沮授は罷免されその手勢は郭図に与えられる。
そのまま前進して砂丘を占領、官渡の曹操に対して包囲網を敷く。

曹操は派兵してそれを妨害するが失敗。
袁紹の猛攻が始まり、しかも兵糧がやばくなる。
並行して袁紹は汝南の劉辟、劉備を動かして、
許を衝かせようとするが曹仁が何とか防ぐ。

この頃、田豊は投獄される。

官渡で100日あまり対峙。
曹操の所領の人民は次々と袁紹に帰服していた。
降伏者があまりにも多く
袁紹は淳于瓊に命じて自国から兵糧を搬出させる。
烏巣に兵糧庫を設置。

袁紹が大軍でも兵站が揺るがないのに、
曹操は寡兵にも関わらず兵糧不足に苦しんでいる。
曹操は顔良、文醜の二将を殺した以外、
袁紹の軍隊に何らの痛撃を与えていないで連戦連敗。

許を強襲する進言を却下され、
一族を処刑された許攸が袁紹に愛想を尽かして曹操に投降。
曹操は自ら兵五千を率いて烏巣を襲撃。

袁紹は報告を受けて曹洪が留守を守る官渡に張郃、高覧を攻撃させ、
騎兵を派遣して曹操を挟撃する。曹操絶体絶命。

しかし、
「背兵の陣」で死力を尽くして戦う曹操に淳于瓊は捕殺され烏巣陥落。
そして張郃、高覧が寝返る。

今まで萎縮した反動か、
狂的な勢いに乗った曹操軍は最後の力で陽武の本陣を攻撃。
あまりの急展開に袁紹の軍隊は一気に恐慌状態に陥り崩壊。
袁紹は僅かな側近を連れて本拠に逃げ帰る。

戦後、曹操は袁紹軍の捕虜数万を坑殺する。
また陽武で捕らえられた沮授は
曹操に仕えるのを肯んぜず逃亡を図って殺された。
投獄されていた田豊は逢紀の讒言で袁紹に殺された。

5: 名無し 2007/10/26(金) 18:46:48
199年
2月 曹操側の射犬城が袁紹側に寝返る
3月 袁紹が公孫サンを破り北方の脅威を取り除く
4月 曹操が袁紹の官位を剥奪
5月 曹操が射犬城を奪い返す
6月 袁術が死ぬ
?月 劉備が徐州で曹操に反旗を翻す
8月 曹操が黎陽に布陣
11月 張繍が曹操に帰順して南方の脅威が無くなる

200年
1月 曹操が董承のクーデター未遂を鎮圧する
1月 曹操が劉備を破って東方の脅威を取り除く
2月 袁紹が曹操討伐を開始官渡の戦いが始まる

10: 名無し 2007/10/26(金) 19:26:55
倉亭の戦い

200年暮~201年正月 袁紹は冀州で反乱が相次ぐも全て鎮圧する

201年
3月 袁紹が倉亭に布陣する
4月~? 曹操はこれを打ち破る
9月 曹操が兵を引き上げる

202年
5月 袁紹が死ぬ

12: 名無し 2007/10/26(金) 19:39:20
官渡の戦いの疑問点

袁紹10万vs曹操1万という数字は正しいのか?
曹操の1万はほぼ有り得ないというのが定説ならば
曹操は実際何万で挑んだのか?

田豊、特に沮授が君主の力をも揺るがしかねない大権力を持っていたとしても、
なぜ戦の最中に処断を下したのか?

袁紹は8万を失ったとされているが
その後の内乱の鎮圧と倉亭への派兵を見るに、
とても主力が80%壊滅したとは思えない。
実際に失われたのはいったいどれくらいだったのか?

倉亭の戦いでは戦死したメジャー部将の名前が無いが
明確な袁紹の敗北とある。
どれくらいの規模で、この戦がその後に及ぼした影響はなんだったのか?

14: 名無し 2007/10/26(金) 19:46:50
>>12
勢力から考えても
袁紹軍の半分以上の兵力はあっただろうね。

15: 名無し 2007/10/26(金) 20:01:35
>>14
官渡城が城都ではなく、
ほぼ100%純粋な軍事要塞だったとすると、
一般的な城壁(土壁)も貧相なものだったのかもしれない・・・

そうすると、
数ヶ月も袁紹の攻撃を耐え切ったのはハードウェアではなくて、
中の人・・・ソフトウェアとしか想像できないから、
はやり1万どころではないのでしょう。

そもそも1万だとしたら鳥巣に5千出して残りの守備は5千以下。
それで張コウと高覧を破って、
後に降伏を受け入れたというが非現実的過ぎるw

20: 名無し 2007/10/26(金) 21:39:44
>>15
それは前提にしてる「官渡は貧相」に問題があるんでは?
袁紹軍側は川が複雑に入り組んでいるようだし、
大軍の行動を阻害できる位置にある堅牢な要塞だったと思う。
そもそも曹操は劉備討伐前に各地の防備固めてるんだし、
仮に貧相だったら修復・拡張工事してるでしょ。

20: 名無し 2007/10/26(金) 21:39:44
>>12
官渡城塞に駐屯した兵力が一万なんじゃない?
曹操の動かせる全兵力は、青州兵も含めれば結構な数になる筈。
張?も降伏してるし、その手勢も少なくは無いと思う。
ただ、当時は曹と袁の他に馬と韓、劉と孫がそれぞれ相争っていた訳だが、
それでもいつ後背を突かれるか分からず、反乱も警戒する必要があるから、
兵力を分散して守備につかせてたんだろう。

もう一方の前線である青州や劉備逃亡後の徐州を統治した臧覇の手元にも、
それなりの数の兵があっただろうしね。

26: 名無し 2007/12/21(金) 22:29:39
>>12
袁紹は4州あわせて数十万、
冀州だけでも30万の動員が可能で対曹操戦へは選りすぐりの歩兵10万
騎兵2万を率いてきた。

曹操は3万と記述されてるが、
黄巾の捕虜30万から選りすぐりの青州兵を持ってるはずだし
裏切った張バクの持っていた兵、呂布の持っていた兵、
張繍の持っていた兵などを加えてそこまで少ないはずはないだろう。
如南方面に兵を割いていたとしても1,2万では別働隊が割けない。

22: 名無し 2007/10/27(土) 21:59:47
袁紹のイタさが前面に出た会戦だったな

白馬と延津では戦力の逐次投入という愚

官渡では膠着状態なのに別働隊はショボすぎて木っ端微塵

重臣の身内を処刑して逃亡を許し食料基地アボーン

トドメは最後の有力な実働部隊指揮者が裏切りw

他にも騎馬部隊の猛者キクギを処刑したり
高級参謀を投獄したり
呉では周ユに値する軍政家を罷免したり

袁紹は負けるべくして負けたのが官渡

23: 名無し 2007/10/29(月) 09:20:48
袁紹って翌年すぐに死ぬけど、
この戦いがあった頃から、
体調を崩し気味だったのかな?

24: 名無し 2007/10/30(火) 14:44:22
いくら袁紹がアホでも
200年頃に体調不全なら後継者はキッチリ決めといたはずだし
反乱が鎮圧できるとはおもえん

27: 名無し 2007/12/22(土) 12:33:51
数十万規模の大軍ってのは、倍ぐらいには誇張されていそうだな。
仮に兵数をかき集めることはできても、
兵站とか考えれば、実際に運用するのって難しいし。

28: 名無し 2007/12/22(土) 15:25:01
袁紹側は誇張され、曹操側は過少に書かれてるんだろうね。
ほんとに10対1だったら
劉備一人に任せずに普通に別働隊に許昌を狙わせてもまだ官渡で勝てる。

29: 名無し 2008/01/02(水) 22:02:13
誇張、というか。

冀州の動員兵力(要するにこれは兵役帳簿に載っている数だろう)が
三十万あったとしても、三十万全てが黄河を渡れるはずはない。

各地の最低限の守備兵力と南北を移動する輜重隊だけで
過半数をゆうに食われるだろう。
加えて黄河以南の各拠点の守兵も十分に必要だ。
曹操の部隊が来なくても叛乱は有り得るからね。
袁紹が全軍で官渡を取り囲んだというのは
その状況で前進に使用できる「全軍」だろうから、
10万を大きく下回るだろう。5万以下かも。

曹操も都合は同じで、元々総兵数自体が少なく、
離反も重なった曹操軍は結果的に
官渡においてかなりの劣勢を強いられたことは疑う必要はない。
すると1万は少ないとしても2、3万でもおかしくはない。
曹操の兵数の食い違いは、
この辺りの落差を考慮していないことも大きいんじゃないかな。

ま、兵力差10対1とか8万穴埋めとかはないにしても。

30: 名無し 2008/01/24(木) 21:17:28
魏王朝の公式記録は戦果は10倍、被害は1/10に書くのが通例なので
袁紹軍は実数1万

31: 名無し 2008/02/28(木) 13:55:41
袁紹軍1万に包囲され苦しむ曹操軍数万ワロスww

32: 名無し 2008/02/29(金) 02:39:01
>>31
曹操軍も数千とかの規模だったんだろうさ

35: 名無し 2008/08/07(木) 14:54:25
でも後漢末から大量に人口が減少した状況で
1万ってそんな馬鹿にした数字でもないと思うんだけどな。


36: 名無し 2008/08/07(木) 17:01:06
>>35 
どう考えてももっといただろう。全体で一万だけじゃどうにもならんよ。


37: 名無し 2008/11/17(月) 09:22:34
いくら戦術に長けているといっても、1万で10万に勝てるのはほぼ不可能 
だと思う。俺が思うには実際曹操は3~4万人くらいだったのでは?


38: 名無し 2008/11/17(月) 10:52:52
『号』して10万と言うのだから
『実数』では6万以上10万以下だろうな 
6万ぐらいの可能性もあるんジャマイカ? 

曹操は赤壁では100万と『号』している・・・いないだろ100万も

34: 名無し 2008/06/24(火) 22:49:46
許攸が裏切らなければ、やっぱり曹操は押しつぶされていたんかな。
裏切りを確約する手紙もわんさかあったみたいだし。
となると、やはり運の良さなのかな?勝因は。

36: 名無し 2008/08/07(木) 17:01:06
>>34
チャンスが来るまで粘った指揮と
チャンスを見切って勝負に出た戦術眼は?
迅速に作戦を遂行させた用兵もみのがせんだろう。

大体ターニングポイントをラッキーなんていっちゃうと
古今東西ほとんどの戦争がラッキー勝ちになっちゃう。

39: 名無し 2008/11/17(月) 10:56:34
>>34
裏切りを確約ってことはなかったんじゃないか?
ただ、いざ戦況が悪化したらいつでも降伏できるように、
そしてその際はそれなりの待遇を得たいがための、
「誼を通じる」というレベルでの手紙じゃないのかね?

それと張コウと高覧の寝返りを自発的なものとする見方もある。
現実に裏切り者の出た陣営と出なかった陣営。
運で片付けてよいのかどうか。

40: 名無し 2009/11/29(日) 02:00:38
つうか運が良い運が良いとは言うが
烏巣ってジュンウケイの精鋭一万が守ってた所だからね

41: 名無し 2011/04/05(火) 23:25:00.23
この戦って大きかった割に扱い小さいし
曹操軍側に立って考察する側と袁紹軍側に立つ側で
戦の経過自体が全然違うように捉えられてるよね。

曹操軍側で見ると、延津も白馬も敵将の首を挙げた上での戦略的撤退で
袁紹軍側の足並みの悪さ(沮授を退けたり許攸を罰したり)から
早晩崩れることを見越して官渡まで下がり、
兵糧を叩くなどの揺さぶりをかけると
将器の小さい袁紹は案の定正しい部下の提言を容れずに
ボロを出した為に、勝つべくして勝ったって感じ。

逆に袁紹軍側だと、顔良、文醜の二将は討たれたものの
それは曹操軍側の苦しい反撃に過ぎず、
戦いの大勢は袁紹軍側に傾いていて
官渡まで曹操軍を押し込んでいた。
烏巣失陥までは概ね袁紹の判断は間違っていないって言われる。

曹操、袁紹の将器を語る上で欠かせない戦いだけど、
どちらの意見もあれこれと根拠となる資料を持ち出したり、
推測部分があってはっきりしない。
この戦いは曹操が元からイニシャチブを握り続けていたのか
袁紹の僅かなミスを曹操が見逃さずモノにしたのかどちらなんだろう。

42: 名無し 2011/04/07(木) 18:13:40.87
>曹操軍側で見ると
 延津も白馬も敵将の首を挙げた上での戦略的撤退で
 袁紹軍側の足並みの悪さ(沮授を退けたり許攸を罰したり)から
 早晩崩れることを見越して官渡まで下がり
 兵糧を叩くなどの揺さぶりをかけると将器の小さい袁紹は
 案の定正しい部下の提言を容れずにボロを出した為に
 勝つべくして勝ったって感じ。

曹操本人が「もう勝てない、都に帰りたい」と何度も言い出して
それを参謀達に励まされてる記述を見る限り
さすがにそれは無理があんじゃね?

43: 名無し 2011/04/07(木) 21:14:33.05
兵糧問題が曹操軍に起こっていたことも考慮するとなおさら

44: 名無し 2011/04/08(金) 02:11:44.44
曹操にとっては、
むしろ敗色濃厚の非常に厳しい戦いであった事は間違いなさそうだな

袁紹の白馬・延津攻め、烏巣の備えも
記述を見る限りでは詰めの甘い戦い方はしていない

袁紹にミスと呼べるほどのミスはなかったが
苦境の中から勝機を見出だしたのは曹操の戦術の冴えだろう

45: 名無し 2011/04/08(金) 23:30:27.42
官渡は曹操側が苦戦する立場にあったと見ていいのだろうか。

でも白馬で顔良、延津で文醜と、
袁紹軍の名だたる将が相次いで斬られたり
徐晃に袁紹軍の兵糧を焼かせて
「後15日で勝つ」と曹操が言っていたという記述を見ると

兵糧の不足や曹操の弱気があったとはいえ、
主だった将の損害記録がない上
効果的な反撃までしている曹操側の戦略が、
ただ大兵力での力押しで官渡まで侵攻したものの、
兵糧に決定的ダメージを受けて敗北した袁紹の戦略を大きく上回ってると思う。

また重大機密の兵糧庫の情報を持つ重臣が進言却下によって裏切ったり、
不適切な攻撃命令で張コウ、高覧にまで離反される
袁紹の人身掌握の悪さも見逃せない。
これらを見ると、曹操が勝つべくして勝ったと言える気がするのだが。

50: 名無し 2011/11/12(土) 15:40:01.23
>>45
> これらを見ると、曹操が勝つべくして勝ったと言える気がするのだが。

曹操が弱音を手紙に添えた逸話を忘れてないか?

順当に勝つべくして勝つ状況ならわざわざ兵糧を焼くなんてマネなどせず
奪い取ってるよ
それでなくても食糧難に喘いでいたのだから

また、曹操陣営から袁紹に寝返りを希望する書が多く贈られている事からも
危機的状況は読み取れる

出鼻は挫けても、その後の展開は薄氷を踏むような
負けていてもおかしくない状況だよ

46: 名無し 2011/04/09(土) 05:16:54.45
それらの不利を加味しても
曹操は外交上ほとんど四面楚歌の状況にあった
官渡の直前に劉備が離反し、結果的に袁紹に付いている

全体的な兵力以上に、兵力を分散させなければならなかった曹操が
実際に相対した袁紹との兵力差は相当なものであったと推測出来る

食料不安も近年まで相次いだ飢饉と連戦に加え、
各方面に輸送網を張り巡らさねばならなかった故だろう
正攻法で戦っていれば、負けていたのは恐らくは確実

土壇場においての、臣下の立場を考慮しない中途半端な命令など、
袁紹の采配ミスはあったが、全体から見ればささいなものでしかない
劣勢のうちに的確な打撃を与え
勝機を見出だしたのは曹操の器量による所が大きいと思われる

49: 名無し 2011/10/18(火) 12:54:40.24
烏巣襲撃って、何で曹操が自ら兵を率いたの?

52: 名無し 2012/04/18(水) 00:31:28.66
烏巣での勝利は紙一重のものだった
並の将軍なら奇襲に手間取ってる間に敵の援軍がきた時点で
もう駄目だとなるだろう
そこらへんは曹操に戦術で戦の行方をねじ曲げる天才があった

張コウ・高覧については曹操が留守の間に攻め落とすって方針なのに
異論を唱えた程度で前線の将を入れ換えて手間をかけられるか?

だいたい軽装の騎兵を送って
ギリギリ烏巣陥落前に間に合うってレベルだったのに
それ以上遅い兵を送っても意味ねえ
袁紹の判断が正しいわ

袁紹に人を見る目はなかったかもしれないが
袁紹死後にも忠誠を尽くした奴等に比べて
張コウたちはくだらない理由で裏切り過ぎ

まあ、一番曹操に恩を売れるタイミングではあったろうけどさ

53: 名無し 2012/09/27(木) 22:09:37.91
官渡では曹操側でも常従士(?)の徐他が曹操を暗殺しようとして
許褚に阻まれた事件がある
袁紹自身の身体には関わらなかった袁紹側の内紛と違って、
こっちはガチで曹操の命そのものの危機だった
少なくとも曹操側が堅固だったというのは間違いだろう

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