足利尊氏は源氏嫡流
徳川家康はなんちゃって源氏嘘流
頼朝が嫡流というのも後付けだとも言われてるけどな。
軍人としてなら
家康>尊氏>>頼朝
政治家としてなら
頼朝=家康>>尊氏
こんなもんだろ
なにしろ京の都に幕府を開いたからナッ!!
・500年中興の祖
・250年稀な安定
好きなの選べば
それぞれ個性が違うし、時代環境も違う。
それぞれの時代にそれぞれ適応してた。
尊氏は尾張熱田神宮を参拝して祈願したし
家康も尾張熱田神宮に祈願した
みんな尾張にゆかりがあるね
んなこと言ったらみんな相模にゆかりがあるし、
みんな武蔵にゆかりがあるし、
みんな駿河にゆかりがあるし、
みんな山城にゆかりがある。
頼朝は父親が元下野守で
尊氏は本領が下野にあって
家康は下野国日光東照宮に祀られた。
頼朝だし。
当然古いほうが影響力がでかい
「いい人」であることは幕府の指導者としての資質としては必ずしもプラスではない。
やはり、最初に確固とした武家政権を築くのに力のあった頼朝が歴史気的影響としては大だろう。
一位 頼朝
流人しかも譜代の郎党は実は皆無→武士トップ&公卿、
実は存在しない清和源氏嫡流捏造成功
利害関係がドライな主従関係の時代に御恩と奉公確立
二位 家康
一応譜代がいる小土豪→武士のトップ&大臣&孫娘が皇室に嫁ぐ&死後に神格化
奇跡の260年の泰平の基礎)
三位 尊氏
有力御家人&一門多数&譜代多数&頼朝によってageられた源氏の血筋→将軍
大混乱の時代を勝ち残れたことは評価できるが足利時代は混乱の連続
譜代は土豪じゃなく山の名かにすんでた山賊崩れじゃん
土豪とは言わない
結局秀吉一門見れば成り上がりは蜂須賀みたいなリアル荒くれ集団従えて力による統治でしょ
松平も山奥の、譜代とかほざく山賊集団従えて平野に降りてきたでしょ
そもそも山奥の山中住みが土豪とか、・・・
秀吉は川並衆みたいな川賊を従えて物流や職人技で他を圧倒し
松平は生粋の山賊上がりを従えて東海を圧倒した
土豪なんて後ずけの正当化だよ
家康の先祖の出身には色々ありそうだけど
家康の頃には先祖の代からの家臣というかお仲間がいたでしょ?
(麗しの主従関係は後付けの話で実際は裏切りでもなんでもありのドロドロしたもんだと思うけど)
清和源氏嫡流は当時決まっていなかったとはいえ
頼朝の父・祖父は保元の乱に勝利して嫡流の座を武力で奪い取ってきたのだし
頼朝はその嫡子なのだから捏造といえるほどでもないよ
家康の捏造のほうが酷いだろ
そもそも清和源氏の血を引いていないのだから
義朝敗北、頼朝流刑の時点で勝ち取ったものは全てチャラ。
チャラになってないよ。
その証拠に、平家打倒を呼びかけた以仁王は諸国源氏に放棄を呼びかけ、
頼朝にも挙兵を命じる令旨を送っている。
チャラになっていたなら、挙兵できるはずもない流人の頼朝にそんなの送らないよね。
武家源氏の嫡流として平家さえ弱ればいつでも挙兵できると思っているからそんなものを送るわけで。
平家と不和をきたした後白河法皇自体、頼朝の流刑を解いて平家追討の院宣を与えている。
勿論、頼朝がすべてチャラになった庶民以下の罪人ならこんな院宣与えない。
まず令旨は頼朝にだけ出されたものではない。
近江、美濃、尾張、甲斐、義仲などの諸源氏(ちなみに義仲な倶利伽羅峠まで都では無名な存在)、八条院支配下にある藤原系武士(小山氏)などにも出されている。
頼朝はその中の一人に過ぎない。(伊豆知行主頼政に近い伊豆国人からの推挙か)
数打ちゃ当たるの中のどさくさで出されたうちの一人で、差ほど期待されていたかも不明。
ちなみ後白河院が令旨と同時に赦免したとか院宣出したというのは後の結果を知ってるフィクション「平家物語」だけの内容。
頼朝が赦免されたのは挙兵から三年後の1183年に出された「十月宣旨」の時でそれまでは都では罪人扱い。
だから、完全チャラになっていたならそもそも頼朝に令旨が届かないでしょ
絶対に挙兵できない相手になんで手間もお金もかかるのに
使者使ってそんなもん送るんだよ
送った以上は挙兵を期待していたはずなのに
それに源氏の多くは平治の乱で敗れて流人や乳母に隠されて養育されていた
そんな状態からでも挙兵できたのは
やはり清和源氏が平家に並ぶ武の血筋だったからに他ならない
憶測激しいわ
仮に源氏の血筋が根拠と言うなら、その血筋を流用して使用したのが後の頼朝だろうな
だから兄弟に情どころかいつタマとられるか気が気でなく、暴挙に出たあげく自分も消されたんだろう
頼朝が源氏の血筋を引いて無くても令旨が届いたのかい?
それをまず考えてみるといいよ
源氏の血をひいてない小山氏(藤原氏)も令旨をもらってますが。
小山氏は藤原秀郷流の武門の家だろ
もともと兵を揃えた家だよ
頼朝は平治の乱で全くゼロの状態になったというのだから
つまり、百姓以下
百姓もしくはそれ以下に令旨を与えた例を挙げろ
チャラになった=百姓以下とは極端な解釈。
チャラというのは
・義朝以前から積み上げた都の武者としての地位
(といっても武家源氏のトップに立つ棟梁を意味しない)
・義朝が入り込んだ人脈
・それらを背景に従えた利害関係むき出しの東国武士との主従関係
がチャラになったという意味だよ。
史実で挙兵後、あれだけ多くの家来が従ったってだけで、
「チャラになってない」ってことがわかりそうなもんだが・・・
頼朝は決して唯一の「清和源氏嫡流」でなく、
鎌倉幕府を開いたからこそ嫡流になった、
っていう程度なら、それは正しいけど、
「チャラになった」ってのはどう考えても言いすぎ。
言いたいことはわかったけど
あなたの書き込みは頼朝の下に東国武士が従った理由を
頼朝の血筋のみに求めようとする見方のようにも読み取れたんだよね。
頼朝の先祖と東国武士との間には累代の主従関係があったという見方は最近は否定傾向。
源氏と東国武士との間に利害関係があるうちは主従であるけど
利害関係がなくなると主従関係は抹消される。
都での地位を失い、無力となった1160年時点の頼朝と東国武士との主従関係は完全に消滅(=チャラ)
ただし、東国武士同士の対立が深まり1179年の治承三年の政変で東国での知行国主の交代で
緊張が高まったらかつて都の武者だった頼朝の利用価値が急激に高まった。
この事態は1160年時点では誰も予想できなかった事。
つまり、血筋+時代状況+頼朝の人脈と過去の履歴+頼朝の能力
で頼朝の成功をみるべきで頼朝の血筋のみに成功の要因を見いだすべきではないと言いたい。
(血筋のみに求めようとしていると読み取ったのが誤解ならばお詫びします)
江戸幕府>>>>鎌倉幕府>>>>室町幕府
政権樹立後安定させた機関
江戸>>>>>>鎌倉>>>>>>室町
長きにわたる平和が
各藩の士族の世襲による増加により財政疲弊をおこして
廃藩置県の時に、スムーズに中央集権化がなされたところを
評価するならば 家康が最強
豊臣政権があのまま続いてたら、欧米勢力に植民地化されていたであろう
といっても江戸幕府も直轄地以外は各藩が自分たちのやり方で政治していた連邦政府に近いモンだったんじゃない?
鎌倉期は武士は土地を支配する権利だけもってただけ。
しかも御家人じゃない武士も多数いたし
朝廷も武士も手出しできない寺社という厄介な存在もいたよね。
室町が一番グダグタという点には異論はない。
江戸幕府は「強い中央政府ありきの地方分権体制」だからな
各藩の自治を認めていた
大名に中央政治には関わらせないことにしたってあるけど
そもそもが地方分権論者だったし家康
大名連中も自分の領地は自分で自治したいって連中だし
この「強い中央政府ありきの地方分権体制」がよかったんだと思う
中央集権と地方分権の融合の産物=江戸幕府
徳川幕府のうまいところは
地方の藩に自治をやらせて、そのかわりに不手際があったら
その藩の藩主に責任とらせて改易することだな。
中央集権やりすぎると、怒りの矛先が中央政府に行くし
地方分権やりすぎると、中央政権の全国への統制力が崩壊するし。
新田が北条倒してただろうし家康居なかったら豊臣が幕末まで
天下握ってただろうから三人とも要らん!!
一番差がつくのは足利と新田
新田が足利に変わるのは無理
新田には運営ノウハウが無さそうだよね
100年くらい幕府中枢から弾かれてたんだろ
北条倒したのは新田だろ
尊氏は都にあって六波羅探題を攻めただけ
まさか、鎌倉攻めを指揮したのは当時4歳の千寿王
千寿王には4歳にして戦のノウハウがあったと?
当時幕府軍の主力は西国の謀反軍を鎮圧するため京周辺に集結していた
鎌倉は京周辺にいた幕府軍の主力が壊滅した段階で既に死に体だった
だから六波羅探題を陥した足利が鎌倉を陥した新田よりも評価された
兵を挙げるにも100騎くらいしかなかった
源氏嫡流の足利に対して家格も求心力を全く及ばなかったし
新田義貞自身も武将・政治家として評価は低いよね
ただ楠木や北畠と上手く共闘していれば時代は変わったかもしれない
義仲が任官したのは「征夷大将軍」ではなく「征東大将軍」とする説が有力らしい
室町幕府と鎌倉公方みたいな2大拠点をやってたらどうなっていたんだろうね
駿府で大御所やってる時は、実質的に江戸と駿府の2拠点になってたけど
江戸幕府初期は江戸と伏見が活動拠点だったし
江戸と駿府を未来も継続しようと思わなかったはず
一般的な史実は承知の上で
改めて、
京都ではなく
頼朝は京都ではなく
鎌倉に家康は何故に幕府を開いた
のかが不思議なんだよね
鳴かぬなら鳴かしてみよう時鳥 尊氏
鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥 家康
尊氏は
鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょう
では?
鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 頼朝
鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょう時鳥 尊氏
鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥 家康
各幕府初代将軍三人はこんな感じかな。これは広めたいw
個人的に頼朝も殺してしまえとも違うんだがいいのが思いつかない
あと秀吉はこれ 鳴かぬなら殺してしまえ時鳥
信長はどうしよう。鳴かぬなら鳴かしてみよう時鳥も違うしな
「鳴かぬなら・・・」って有名だけど、
信長・秀吉・家康の実態をよく示してるとは思えないんだよね。
特に秀吉。「鳴かしてみしょう」とか、そんな良いもんじゃない。
むしろ↓こんな感じだと思う。
● ある日、森を歩いていたら、水辺を散歩している美しいお姫様に会いました。
信長は
「明日から俺の側室になれ。ならぬなら殺す。
明日、嫁入り道具一式と一緒に俺の屋敷に来い」
その日お姫様は逃げだして、行方不明になってしまいました。
秀吉は何を思ったかいきなり、その場でお姫様に飛びかかり、陵辱してしまいました。
次の日、哀れにもお姫様は自殺してしまいました。
家康は丁重にお姫様に向かってこう言いました。
「もしよければ私と結婚してください」
数日後、盛大な婚儀が行われました。子孫は幸福に繁栄しましたとさ。
頼朝は屋敷に帰った後、配下に命じてお姫様の居館をつきとめ、
兵を出してお姫様を連れてこさせました。
お姫様は頼朝の側室となりましたが、子を儲けることはありませんでした。
尊氏は「ボクと結婚してくれない?だめかな?」と言いました。お姫様に断られると、
その妹を連れてこさせて結婚しました。年端のいかない娘と戯れまくっている尊氏をみて、家臣はみな、
「殿はこんなょぅι"ょ好きだったとは・・・」とドン引きでした。
チンギス・ハンは何も言わず、無言で配下に合図をすると、その場でお姫様を拉致して
家に連れ帰りました。
ルイ15世は知らぬふりをして家に帰り、次の日臣下に命じてお姫様を拉致させ、
自分の邸宅の中の密園に住まわせました。
カエサルは何を思ったかいきなり、お姫様の目の前で
「見よ、私の美しき禿頭を!私は女のあなたにとって男であり、男のあなたにとって女である!」
といって、服を脱いで踊りはじめました。
お姫様はカエサルの妻となりましたが、夜な夜な奇妙な性癖になやまされる日々でした。
201は何か秀吉に恨みでもあるのかww
晩年はあれだが凌辱は幾らなんでもやらんと思うんだがな
でもホトトギスの鳴かせて見せようよりは確かに殺してしまえのほうかな秀吉は
の鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥は家康にあってるかもw
個人的にツボったw
京を何度も追い出せれ九州迄落ち延びて復活した尊氏こそが
素晴らしい
尊氏て勝ったり負けたりで軍事能力測りにくいね
良いときは寡兵でも乾坤一擲な勝利を物にしたり、駄目なときは大軍率いても駄目だし
兄の足利尊氏と兄に殺害された有能な直義
兄の徳川家康と兄にこき使われた無能な弟達
無能な弟を待つと幕府は安定するね
松平定勝あたりは結構有能だったらしいが。