織田徳川が同盟を結んで、まだ間もない頃
家康の家来と信長の家来との間に、いさかいが起きた。
これがたちまち、徳川家と織田家との問題に発展した。
こうなると、どう裁いてもお互いにしこりが残る。そこで信長はこういってきた。
「鉄火(火起請)だ。織田家、徳川家からそれぞれ一人ずつを選び、焼いた鉄を握らせ、神前に差し出させるべし。」
それでこの件の理非の決着をつけよう。神意であればしこりも遺恨も残るまい。そう言う理屈であった。
家康は思案した。彼の判断では、これは織田家の側に非がある事件であり、公正な裁判であれば三河側が勝つものだ。それを鉄火で決めるというのは理不尽である。
しかし、これを拒絶すれば問題がさらに大きくなり、せっかくの同盟が崩れることも覚悟しないといけない。
悩んだ末、家康はこれを受け入れ、ある男を呼んだ。本多作左衛門である。
「そちに、頼む」
頭を下げそういった家康は、傍らにあった器から勝ち栗を取り出し、作左衛門の手に握らせた。
勝ち栗とは、出陣において渡される縁起物である。
作左衛門は承知した。
伊賀八幡宮と言う社の神前で、鉄火は行われた。焼いた鉄の棒を握り、神前に置いてある棚まで戻せば勝ち。途中で投げ出せば負けである。
双方、真赤に焼いた鉄棒を、同時に握った。
数歩歩いたところで、織田家のものは鉄棒を投げ出し転げまわった。
この時点で徳川の勝ちである。
が、作左衛門はそのまま鉄棒を握り続け、棚の前まで歩き、そこに、静かに置いた。
彼の手は焼け爛れていたが、顔色一つ変えなかったと言う。
面倒くさい三河のへそまがりは、焼けた鉄くらいには負けないのだ。
信長と火起請の逸話って他にもあったのかw
つーか信長本人がやってたら勝利確実だっただろうにw
自分側の負けとはいえ問題は解決したわけだし、同盟を組んだばかりの徳川にもそれなりの人物がいて信用に足ると感じたんじゃなかろうか。
では有名な、本多作左衛門の話も一つ
武田家が滅び、家康が新たに駿河を領有した頃の事。
新領地を巡回していた家康は、安倍川の川原で、巨大な鉄の大釜を見つけた。
それは「人煎り釜」と呼ばれる、人間を中に入れ焼き殺す処刑道具であった。
「信玄の置き土産か」
家康はそう言った。武田では、この大煎り釜を使った処刑が行われていたのだ。
この残酷な刑はまた、武田領内で法を厳しく守らせる事に、大いに役に立っていたとのことだった。
「これはよい物を見つけた。後で浜松に運んで置くように」駿河の奉行にそう命ずると、家康は帰っていった。
翌日、奉行は多くの人夫をそろえ、この巨大な釜の輸送を始めた。このことは既に評判になっており、街道には、多くの人々が見物に群がっていた。そこに、馬に乗った侍が駆けつけてきた。
本多作左衛門である。三河で知らぬ者のない戦場で潰したドラ声で、叫んだ。
「その釜を、何処に送る気か!?」
「殿の上意により、浜松に送るところです」奉行はそう答えた。
「何?上意だと!?いやかまわん、わしが命ずる!この釜を砕け!」
作左衛門は人夫たちに勝手に命令を下し始めた。だら、人夫も奉行も、混乱するばかりで何も出来ない。
「ええい!こうやって砕くのじゃ!」
彼は人夫の一人が持っていた鉄槌を奪うと、大釜に振り下ろした!しかたなく人夫たちもそれに従い、30分ほどでそれは、粉々の鉄くずになった。
奉行は青い顔をして家康の元にそれを報告した。
「わしの命をなんと心得ておるのだ!」家康は激怒した。作左衛門の処分は明日言い渡す!
大広間に召しだすように!家臣たちにそう命じた。作左殿も今度こそ切腹か、追放か、みなそう思った。
そこにおずおずと、駿河の奉行が口を出した、「作左衛門殿は、殿にこの様に伝えろと…
『帰って殿に申せ!釜で煎り殺すような罪人ができるようでは、天下国家を治める事は成り申さず!そう言って作左衛門が砕いたと!』
翌日
家康と左右の者たちが撃ちそろう大広間に、作左衛門が召しだされた。作左衛門は申し開きもせず、ただ押し黙っていた。家康が先に口を開いた。
「わしが、間違っていた。」
「作左衛門、その方が釜を砕いた折の口上、奉行から聞いた。わしの間違いに気付いてくれた事を、かたじけなく思う。今後もどうか、そうしてもらいたい。」
なんと許すどころか、家康のほうが作左衛門に謝罪したのだ。
この言葉に、作左衛門は、体を震わしながらこう答えたと云う。
「ありがたき上意をこうむり、面目、見に余り候!」
>>167
家康見事というほかない!
上に立つ人間が、一度強気に出たのに
間違いを部下たちが注視する前で、はっきり認めるってのは並の勇気の人間ができることじゃない
凡人は面子があるから強情に押し切るか、うやむやにするもんだからな・・・
自分が間違ってても、感情を害すると後からこっぴどい仕返しする秀吉w
恩賞に不満とかではないと信じたい
家康が納得しててもその周りで色々軋轢が起こる。