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【戦国いい話78】盲人と町民、謙信の手紙、板倉伊賀守勝重の判決

2022年11月7日

204: 名無し 2008/11/07(金) 23:37:58

農民じゃないが、盲人と町民のおはなし。

最上改易後、庄内には酒井氏が入部。
一説では四公六民をエンジョイしていた民だったが、酒井氏は増税し、えらい負担がかかることになった。
酒井氏は最上最上uzeeeeeと関係書類の焼却を指示し、
「最上がよかったと言うの禁止な?」と強い態度をとった。

そんな中、殿様が領内視察中にひとりの盲人が歩み出て歌い始めた。
「最上源五郎(義光)は役をばかけぬ 今の殿様 雑魚・かじかこまで 役かける」
これにはさすがの相手も参り、「今は入部したばかりでものいりだから」と釈明したという。
酒田の豪商・三十六人衆は武士でもないのに最上改易後は
「おらたちは二君にまみえねっス」と仕官の誘いをすべて断ったと伝わる。

山形では…鳥居忠政の早死には祟りだザマアと町民が罵ったり、怨まれまくった。
一方で最上三十六観音の由来は最上家の美少女・光姫だと伝説を作ったり、最上はえがっただなムードは地道に残った。
そのせいか代々の殿様は最上uzeeeeとけなしまくったから、旧最上家臣はとても言いづらくなったともいう。

以上、領民の殿を慕うちょっといい話でした。
有名な話だが、義光は撫で斬り実績ゼロ、一揆派生ゼロの珍しい太守。

まあ、寒河江や谷地では義光、嫌われ者なんだけどね_| ̄|○

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206: 名無し 2008/11/07(金) 23:51:13
>まあ、寒河江や谷地では義光、嫌われ者なんだけどね_| ̄|○
何でですか?

 

207: 名無し 2008/11/07(金) 23:53:31
>>206
寒河江と谷地は義光が領主を倒して領土に組み込んだから。
んなもんどこの大名もやっているんだが、義光の場合改易時期が早すぎて、
世論をいい方向に持って行けなかったのです。
谷地なんて義光の紅花奨励でがっつりうるおっておいて、そりゃないぜ…。

 

208: 名無し 2008/11/08(土) 00:10:26
>>207
そうだったんですか…タイミング?が悪かったんですね。
詳しくどうもです。

 

237: 名無し 2008/11/09(日) 11:35:28

謙信の手紙。

一向一揆の篭る朝日山城攻めの折、謙信は篭城側から撃ち掛けられる鉄砲に攻めあぐねていた。
ところで謙信の家臣に吉江与次という者が居り、彼はまだ元服したての血気盛んな若者で恐れを知らず
謙信が再三止めるにも拘らず先陣に立って攻め込もうとするので、困り果てた謙信は与次を家臣に命じて捕えて押し込め、国へ送り返してしまった。
そして謙信は与次の両親へと手紙を書き、
「与次は臆病だからではなく、あまりに勇猛であったため、若者を無下に死なせてしまっては老父母に対して面目が立たないと思い、このような処置となりました。与次を責めないでやって下さい」
と両親に対して理解を求めた。

その後、与次は中条家に婿入りして中条景泰となり、謙信・景勝の二代に側近として仕え、越中魚津城で祖父・父と共に本能寺の変の次の日に自刃して果てた。
景勝は彼の死を聞いて落涙したと言われる。

 

238: 名無し 2008/11/09(日) 16:04:13

昔、越後においてのこと。山伏がある家に宿を借りた。
ちょうどその時、その家の亭主は、国入りする領主のお出迎えに出るところだったが、
山伏のさしていた刀が大変見事だったため、亭主はこれを借り受け、腰に挿して出かけていった。

するとその留守中に、越後一国に徳政の札が立った。

亭主は「徳政が出た以上、借りた者は返さなくて良い!」と、山伏に刀の返却を拒否。
これに山伏も怒りお上へ訴え出る。双方引かず、この訴訟はついに、江戸において徳川家康の直裁を仰ぐ、という話になった。

ちょうどこの時、京都所司代、板倉伊賀守勝重が江戸に滞在していた。
家康からの「この訴訟いかがすべきか」という諮問に勝重は、「私にお任せください」という。
そして亭主と山伏を呼び出し、こう、判決を述べた。

「徳政の札により、刀が亭主の物になったことは間違いない。

ただし
同じく宿として借りた亭主の家は、山伏の物になったとする也。」

亭主は大いに慌て、謝罪し刀を返しさらに多額の金まで支払って、どうにか家を取り戻したとか。

 

239: 名無し 2008/11/09(日) 17:46:53
>>238
これはうまい裁定だな。
一休さんみたいだ。

 

240: 名無し 2008/11/09(日) 21:38:26

最上義光と天童

義光32歳のころ、彼は対立していた天童家を攻めるも決着せず。
天童家の娘を義光の側室として和睦が成立した。
が、それから僅か五年後、彼女は初産の直後亡くなってしまう。
これにより同盟は破棄され、最上天童間に緊張が高まった。

それからさらに二年後、義光39歳の頃。ついに天童頼久と対決することとなる。
義光は天童の重臣・延沢満延を寝返らせたがその際、延沢は
「頼久様は討たれませぬように」と条件に加えていた。
はたして天童城は落ち、天童頼久らは伊達領の親族を頼って落ち延びていった。

大人数での移動であり、追撃は楽なものだ。しかし義光は
「天童頼久は追わないように」と命令した。
延沢との約束のためか、それとも亡妻を思ってのことか、と現在の研究では言われている。
天童頼久は伊達家臣となって存続した。

と、ここで終わればいい話なんだけど。
山形市民から悪評高い『独眼竜政宗』では…
義光が天童の娘が美人だからと、無理矢理奪って義姫に「美人だろ」と自慢。
出産直後で天童夫人が苦しんでいる最中に、天童攻めを敢行し、
天童頼久を討ち取っている。そのため夫人はノイローゼになって死亡。
という改変を加えられていたのでした…NHK、なんてことしやがる。

 

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