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【戦国いい話97】酒と瓢箪といい夫婦、守護大名の追い払いかた、今川と断交した徳川家康

2022年11月18日

679: 名無し 2008/11/22(土) 14:12:09

酒と泪と男と女

丹羽長重の家臣、江口三郎右衛門の家来に出口という60才の老将がいた。
出口は数々の武功を挙げたが、酒乱が災いして200石の薄禄に甘んじていた。

関ヶ原の合戦で、丹羽長重が大聖寺を攻撃した際、出口は江口隊として従軍したが、歳のせいでへばってしまい暫し休憩していた。

そこに、腰に短刀、片手に瓢箪を持った老女が江口の陣に向かって歩いて来た。
よく見れば、自分の妻ではないか。
「おーい、こっちだ!好物の酒を持ってくるとは感心な妻じゃ。」ところが妻は夫を無視して、江口の陣に向かう。
妻は江口の陣につくと、陣の外でへばっている夫を指差し、
「あそこにいるじじいは私のダンナです。戦場で昼間するような男に酒を飲ませるバカはいません。あなたたちも、あんなろくでなしにならないよう、必死で戦いなさい。」と励ました。
そして、妻は浅井山によじ登り、前線にいる大将の江口に陣中見舞いの酒を届けた。
よろこんだ江口は酒を飲み干し、見事敵将を討ち取った。

さて、妻にバカにされた出口は奮起して、こちらも見事首を取った。
「ばばあ、首を取ったぞ。早く酒を飲ませろ。」
それを見た妻は笑い、
「あなたは酒飲みたさに奮起しただけでしょう。その首を取った手柄はあなたではなく、この瓢箪と言うべきでしょうが。」
とカラの瓢箪を振って見せた。
「くそ~、あのくそばばあに騙された。せっかくの首もムダになったわい。(あの古嫗に誑かされて、あだ骨を折りつる事よ)」と非常に悔しがった。

そんな夫婦のやりとりを見ていた江口たちは大笑いしたという。
(武将感状記)

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682: 名無し 2008/11/22(土) 17:58:48
これは良い夫婦ww

 

680: 名無し 2008/11/22(土) 14:16:45
いい夫婦の日にふさわしい逸話だなw

 

681: 名無し 2008/11/22(土) 17:15:07
一番手柄はその奥さんだな

 

683: 名無し 2008/11/22(土) 18:01:18
>>681
奥さん「べっ、別に私の手柄じゃないんだからねっ!褒めるなら瓢箪を褒めてあげてよねっ!」

 

685: 名無し 2008/11/22(土) 20:56:45

守護大名の追い払いかた

国人と土民が結束し、守護大名畠山氏を排除し、大名なき自治を実現したことで、
日本史の教科書にも必ず載っているほど有名な、文明十七年(1485)の「山城国一揆」

その一揆は、どのように、戦争中の畠山義就、畠山政長を追い出したのか?
その交渉の様子。

一揆代表「義就はん、長政はん?あんたら、いつまでも戦しとっても、金ばっかりかかるやろ?わしらも迷惑しとるわけで。で、どうやろか?今引けば、出しまっせ、金。示談金を一揆の方で用意させていただきますよって、ここで双方、引き下がってもらえまへんか?

ただ、もしどちらかが嫌だとおっしゃれば…、わしら、もう片方にお味方して、その人を攻め滅ぼします。

さ、金か滅亡か、どっちになさいます!?」

両畠山、ほうほうの体で南山城より撤退。守護大名相手に、飴と鞭で巧みな交渉をする一揆衆であった。

 

686: 名無し 2008/11/23(日) 01:14:50
うめぇw
その一揆のブレーンは、生まれが違えばあるいは名将として知られていたかもしれんな。

 

687: 名無し 2008/11/23(日) 01:21:06

つーか、この山城一揆の中心にいた三十六人衆は、全員細川京兆家の被官だったわけで、この交渉も、京兆家の力をバックに成立しているんだよね。

ただの国人、土民の集まりじゃ不可能。

 

689: 名無し 2008/11/23(日) 19:13:54

>>687
官位だけでもダメだろうし、金と権力揃って出来たことだよな。
でも、それを効果的に運用(?)するのにも頭が必要なわけだし
良い手腕してたんだなあと思うわ。

そしていつの世でも金は最高の武器の1つだな・・・

 

690: 名無し 2008/11/23(日) 20:11:02

永禄5年(1526)、徳川家康はついに今川と断交する。

これに怒った今川氏真は、二万余という大軍を率い、徳川家譜代、本多百助の籠もる東三河、一ノ宮城を包囲した。
岡崎城の家康はすぐに駆けつけようとしたが、家臣たちの猛反対を受ける。

「敵は大軍、それに対して我が方は三千しかおりません。それに酷な話ですが、一ノ宮城は今の徳川家にとって重要な城とは申せません。
本多のかたがたも、百助を見捨てる事は納得しておられます。どうかここは、涙をのんで諦めて下さい!」

しかし家康は言った

「一ノ宮城を落とし、あの城に百助を入れたのはわしだ。そうしておいて今更、敵が大軍だからと言う理由で見捨てるような、そんな道理があるか?

主君が危機の時は家来が助け、家来が危機になれば主君が助ける。これが武門の習いではないか。百助を救いに行く事でこの家康が斃れるなら、むしろ本望である。」

これを聞いて岡崎衆は、心を一つにした。
一ノ宮城を囲む今川の大軍に、錐のような突撃をかけ、その壁を突き破り一ノ宮城にたどり着いた。
そうして百助ら籠城衆を回収すると、城を捨て一目散に岡崎城へと帰って行った。

徳川家康、この時22歳。

家康はその後の人生の中で、家臣を見殺しにせざるを得なくなることも、また、あえて見捨てる事もする。
だが、家臣たちは、こういった家康の姿を知っていたからこそ、彼に付いて行ったのだろう。

ちなみにこの本多百助、後世、「上杉には川田監物信親あり、福島正則には長尾隼人、武田信玄には山県三郎兵衛尉昌景、そして徳川家康には本多百助正広あり」と、呼ばれ
勇将として天下に名をはせ、良く家康の覇業を助けた。

 

691: 名無し 2008/11/23(日) 20:16:19
>>690
つ・・・突っ込まないぞ!

 

692: 名無し 2008/11/23(日) 20:19:10

>>690
すいませんすいません

永禄七年でしかも1564年です。間違いすぎorz

 

917: 名無し 2008/11/30(日) 23:55:52
>>690
上杉、武田、徳川に福島を並べるのか

 

693: 名無し 2008/11/23(日) 22:50:46
というか見たことある。

 

694: 名無し 2008/11/24(月) 07:57:50
>>693
長生きしてるんだね。

 

695: 名無し 2008/11/24(月) 08:00:14
リアルタイムで見てんのかwww
朝から声上げて笑っちまったじゃねーかwww

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