ローマ帝国と戦ったカルタゴのハンニバルだよね
アルプス越えは有名だけど
【日本と世界の「歴史的な戦争」を語りましょう!古代戦争の戦術について学ぼう!】
の続きです
>>204
いや…まあ、なんつーかな…
確かに、今や、ハンニバルといえば、ハンニバル・レクター博士の方が有名かもしれないがな…。
それと、必ずしも、軍オタであることが、世界史的教養の深まりとは直結しないのかもしれないがな…。
塩婆の著作でいいから、いっぺん、本当のハンニバルの事績には、触れておいた方がいいぞ。
「アルプス越え」だけじゃないから、有名なのは…。
ハンニバルとハンニバルと争ったローマのスキピオを評して、塩婆は、
「古代史上の名将を五人あげろと言えば、二人とも必ず入り、
現代までの名将を十人あげろと言っても、入る可能性が高い」
と評価している。彼女の著作は色々問題もあるが、この言は正しかろう。
因みに塩婆とは塩野七、読むべき著作は『ハンニバル戦記』(ローマ人の物語というシリーズものの第2巻)
ハンニバルが使った象さんは、いまは絶滅しているペルシャ象だったな。
人間の戦争に巻き込まれた挙げ句殺されるなんて可愛そうだ罠
>>205
スキピオは入るのだろうか・・・
>>211
入ると思うぞ。
スキピオの場合、単にハンニバルを破ったってだけじゃない。
武具の改良、そして、軍団の戦列の運用方式を一新して、柔軟な展開が可能な戦術革新をもたらしていると思うが。
ザマの会戦における勝利は、従来からの三戦列方式を基礎にしながらも、何度も戦列歩兵の展開を変化させ、三方向からの半包囲態勢を作り上げて、最後のとどめに騎兵が背後から襲い掛かったというもの。
騎兵戦力の優越が切り札にはなっているが、ハンニバルよりも寡兵をもって、そうした状況に持っていったというのは、そうした戦術革新がベースにあったからと思うが。
さらには、不名誉な失脚に至るまで、ローマの外交方針を元老院の第一人者として長きに渡りリードし、大過なくローマの覇業を確定させたという点から、戦略家としても一級と思うが。
ニュース
カエサル、ポンペイウス?
うーんローマに偏っているな・・・・・。
ザマの戦いは兵力に関しては確かにハンニバルの
ほうが多かったようだが、寄せ集めもいいとこで
信頼できる部隊はイタリアからつれてきた部隊のみ
それに対してスピキオは自ら訓練して実戦を経験させた
精鋭、さらに騎兵戦力も優越していて・・・・・。
やっぱ名将ですな
>>216
スキピオは、イタリア本土やスペインに配置された精鋭部隊を連れて行くことはできず、
シチリアで自ら募兵する羽目になった。
シチリアでスキピオのまず配下になったのは、カンネの敗兵たちで、シチリアでの戦勝を経験してベテランぞろいの強兵となったものの、数は数千。
後は、スキピオのクリエンテスに連なる者や義勇兵同然で、戦意過大、戦闘経験過少の兵ばかり。
それを、訓練して、ほとんど実戦経験もないまま、カルタゴ本土に渡っている。
騎兵の優越はあったにせよ、戦列歩兵がロクでもない状況だったら、どうにもならない。
強兵を仕立て上げる…なるほど、やっぱり名将だ。
ハンニバルが負けたのはローマとカルタゴの海軍力の差。
ポエニ戦争に対する両国の認識の違いが大きかったと思う。
現代までの名将10人と言った場合、スキピオは入れられないと思う。
スキピオはハンニバルの影響を受けて戦術を変えた面がある。
古代の名将と言えば入れられるが現代まで入れるとスキピオを入れるスペースはなくなると思う。
アレキサンダー、ハンニバル、カエサル、ベリサリウス、チンギス汗、サラディン、グスタフ=アドルフ、ルイ14世、フリードリヒ、ナポレオン
これで10人超えちまったよ。
中国の将軍、現代の将軍入れたら何人くらいになるんだ。
ルイ14世は勘弁してくれ。こいつは実際に軍を指揮して戦った経験がない。
二次大戦最高の名将は?と聞かれて、ルーズベルトって答えるようなもんだ。
この時代のフランスからなら、ヴォーバンを選ぶべきかと。
どれもクセの多い司令官ばかりだ。こんな連中を集めたらまとまるものも、まとまらないような気がするが
まず、誰がトップになるかっていう権力闘争で半分はあぼーんだな。
で、その後も主導権争いがあり、あるいは、敵に分裂につけこまれて、
あと4人もあぼーん。
最後に残った一人が、絶望的な戦況の中で芸術的戦術を見せるが、
最終的に衆寡敵せず、壊滅させられるって具合になるんじゃないかな。
何を基準に名将とするかだ、問題は。
それ以降の戦争を変えてしまうような戦い方を開発した人を選ぶのか
それともその使い方がうまい人を選ぶのか。
>>226
戦術の革命ってのは、日本の場合はやはり元寇だな
他にも戦車から騎兵を中心とした戦闘に移った騎馬民族の侵攻
戦術の革命が始まるのは異民族の侵攻がきっかけの場合もあれば
新しい兵器によるものもある。
名将一人がどうのとは必ずしも言えないと思いますが。。
まあ、山本五十六あたりは航空戦術の優位性を確立した意味で、戦術に革命をもたらせた名将と言えるかもしれないが
それにしても欧州戦線での前例があったからことのことだ
グスタフ=アドルフも個人的には入れたいのだが
他の面子がすごすぎる
>>227
確かに。ルイ14世とフリードリッヒはゲームの達人という感じなんだよね。
それに対してグスタフ=アドルフはそれ以降、野戦軍に対して大砲を運用するという考えを普及させたからな。
>>228
>>名将一人がどうのとは必ずしも言えないと思いますが
時に奇抜な考えを持ちそれ以降の戦争を変えてしまう人間は存在すると思う。
異民族の使っている戦法、新兵器の運用法、それらを受け入れ、体系化出来る人間は少ない。
いや、古代日本にとっては白村江の大敗は、特筆すべき。
一説には、古代日本の歩兵戦術が、大陸の騎馬戦術に大敗したうえ、海戦も大負けして、戦略的力を失ったらしいが。
孫武ははいると思うけど。
>>231
孫武は有名な孫子の作者であり。孫鬢の先祖だ。
それだけに知名度は高いが、実際に何をやったかとなれば、逸話が一つ二つ残っているだけだよ。
孫鬢の方も孫鬢兵法書を残しているが、近年遺跡から発見されるまで失われており
歴史的にほどんど影響を与えていない。
もっとも中国も戦乱の歴史だから、その時代その時代に記載のある名将がいるが。
>>231
楽毅(がっき)
祖国・中山の滅亡に際し、寡兵で超大国に徹底抗戦し王を守りぬき、
斉に痛めつけられた燕に迎えられてからは、燕王に報いるために、斉を滅亡寸前までに侵攻した名将。
諸葛孔明の尊敬する一人。
孫ピンは後世の「軍師」に相当する。 孫子の2人とも、自身の手による兵法書をのこしていない。
兵法書として残っているのは、門下の弟子や、後世の曹操などの研究家によるもの。
特に孫ピンの功績として挙げられるのは、2000年以上前に「戦争」「戦闘」論から迷信を排除し、
科学的・軍事的要素のみで理論化・体系化したこと。
さらに、斉の軍政や兵器・戦闘を改革し、対秦連合の核とならしめるほどの基礎を築いた功績は大きい。
また、楽毅の燕軍による大侵攻から巻き返しを図った田単も孫子の門弟の一人。
霍去病 かくきょへい
実際のところ。武帝は皇妃の血族である霍去病に対して精鋭部隊を与えたので、必然的に功績を立てただけ。
それが本当のとこらしい。
まあ。それでも精強な部隊を与えられながら、まったく功績を立てなかった将軍もいたのだから
それなりの能力がないと功績も得られなかったでしょうが。
霍去病の能力に関しては、割り引いて考えた方が良いな。
衛青と霍去病
どちらも名将だが霍去病がいなくても
対匈奴ではさほど影響が無い気がするが
逆に衛青がいないと下手をすると大敗
してた気がする・・・・。
>>240
霍去病は、若いだけにかなり傲慢な気性だったようだ。
霍去病は、母親の姓を名乗っていることで分かる通り。奴卑の生まれだが、
彼が成長した頃には、武帝の姉の踊り子だった叔母は後宮に入り
皇后になっていたから、彼は最上級の貴族としての生活を行っていた。
それだけに戦場でも、横暴な態度が目立った。
戦地で兵士を酷使したし、武帝に対してもぞんざいな口を利いた。
皮肉なことだが、それだけに武帝は彼を気骨のある青年と評価したようだ。
ハンニバルが負けたのは、アルプスを越えてから約十年も戦い続けてから。
最初30代だった兵隊もカルタゴに戻った時には40代。体力とスタミナは
若い者に劣り始めている罠。・・・・と、がっこの先生が言ってました。
所で、ローマからカルタゴに戻るのを拒んだ(反対した)兵士を
結構かなり、処刑したらしいと聞いたんだけどホント?
逆ですな
>>241
>>243のいうように、逆でね…
船のキャパとかもあって、4万くらいの兵のうち、
1万5千のベテラン中のベテランだけ、連れ帰ったんだよ。
ガリアやハンニバルに転んだイタリア半島内での徴募兵を中心に、
置き去りにすることにした。
というか、置き去りにせざるを得なかったんだな。
で、ハンニバルとベテランたちが船に乗って出航しようとする。
置き去りにされる方はたまったもんじゃない。
ハンニバルがいるから、ローマ軍とも戦えて来たわけだし、
復讐心にたぎるローマ軍の中に取り残されたら、もうお終いだと思うわな。
で、残されることになった兵隊たちは、海に飛び込み、
船にしがみつき、舷側を這い登ろうとするものさえ続出した。
船のバランスも崩れかねないので、
ハンニバルはそれらの兵隊たちを射殺すように命じた。
惜しむらくは戦場で散るのが早すぎた。
生きていれば、もっと多くの会戦で勝利を掴んだだろう
ただ、あのまま生きてても30年戦争に勝ったかどうかは疑問。
そういう意味ではハンニバルに似ているかも・・・・・・
あの戦争の勝者ってどこよ?
>>252
自国を戦場とせず、国威を伸ばしたという点では、フランス。
あと、独立を獲得したということで、ネーデルランドとスイス。
神聖ローマ帝国は、この戦争で一気に破局への道を進み始める。
ドイツ諸侯は、自治権を大幅に伸ばしたとはいえ、戦争のダメージが大きく、勝者とは断じ切れない。
他の参加国は、痛みわけ…つーとこ?
フランスは普仏戦争以来、常に負け続けている
それでもおいしい思いをしているのだから。
あの外交センスには負ける
そのくせ、ナポレオンがいたときは
外交が全然だめだったんだよなあ。
やっぱ、何事もほどほどがいいんですかね
日本の歴史上の戦争では、もっとも劇的なのは関ヶ原の戦いでしょうな。
あの戦いは、戦術的に見れば、石田三成の側が圧倒していてもおかしくはない
高地に陣を取り。戦力も拮抗していたのだから。
しかし徳川側の圧勝だった。これは石田側大名の裏切りによるものだ。
もちろん偶然ではなく徳川側が、石田側の大名を密かに切り崩していた裏工作が功を奏したものだ。
戦争の勝敗を決めるのは、戦場だけではないって良い証だな
>>257
しかし、あの戦い、小早川の内応と、吉川による毛利全体の抑え込みが上手くいってたから良かったというシロモノでもあった。
家康は、秀忠に花を持たせるつもりで、徳川家の譜代の将のほとんどをつけて、中仙道に送り出した。
障害になりそうなのは真田家だけ。豊臣恩顧の大名が転ぶ危険性があった東海道よりも、安全かつ迅速に、
岐阜~近江の主戦場に展開できる可能性があったからだ。
ところが東海道の豊臣恩顧の大名は上げて、豊臣家の君側の奸を除くという態度をとった。
一方、秀忠は、真田昌幸・幸村親子の篭城にてこずって、戦場に大遅刻。
結局、西軍を叩いた家康の主力は、黒田、福島ら、豊臣恩顧の戦場経験豊富な将の部隊だった。
また、毛利家の万一の攻撃に備えたのは、豊臣家の親類筋で旧五奉行の浅野。
さらには、九州での黒田如水、加藤清正の大活躍…。
そして、彼らがその後、秀頼の後見に回った結果、彼らの発言権を何らかの形で封ずるまで、一気に豊臣の取り潰しに動けなくなってしまった。
そして、家康は、一連の大阪の陣まで、豊臣の排除は遅れに遅れ、ああいうなにふり構わないという手段をとらされる羽目になった。
勝ててよかったが、という戦いでもあったわけだ。
しかし家康方に内通していたのは、吉川広家だけではなかった。
小早川秀秋など家康に寝返ったし。
中枢を担った大名の大部分が、家康と通じていたと言っても過言ではない
これは秀吉の正室、ねねを家康が説き伏せたことも大きい。
実際に西軍で戦った兵士は半分程度、残りは戦況を傍観したり
最初から寝返ったりのどっちかだ。
これは老獪な秀吉に対して、もともと文官肌で軍人肌の他の大名とはそりの合わない光成。
人望の差の面も大きいだろう。
名目上の総大将 毛利
副将 宇喜多
実際の総指揮官 石田三成
とこんなに複雑な指揮系統じゃ
たとえ関が原で勝利しても最終的な勝利は不安。
前田利家、秀長のどちらかが長生きしてくれていれば・・・・・・。
しかもそれに淀君や豊臣秀頼も加わっている。
指揮命令系統を一本化出来なかったことも関ヶ原の戦いの敗因の一つ
そのことは確かに以前から称えられている
そういう伝説はあるね。。
まあ。実証のしようがない永遠の伝説だが
いや伝説じゃなく、研究でも認められてきているよ。
大坂の陣後の家康の変わりようとかから確認されてきている。
確かに影武者が成り代わったとの説もあり。
その説に基づく小説もあるけど、私は否定しています
いや、実権とっても陣後で変わっている。
あまり影響は無いような気がする。
すでに、秀忠がいるしね。
もし、秀忠が死んでたら・・・・
それ以前の指導者は、信長にしても秀吉にしても、個人の才覚によるとこが大きかった。
それだから彼らの死後は、簡単に倒れたのです。
それ以前の指導者は、信長にしても秀吉にしても、個人の才覚によるとこが大きかった。
それだから彼らの死後は、簡単に倒れたのです。
しかし家康は違っていた。組織の確立に成功したから江戸幕府は260年も続いた。
これだけしっかりと安定した政権があった時代は、日本の歴史上、江戸時代しかなかったからね。
それ以前は、天皇家にしてもお飾りの形になって、実権はコロコロと代わっていたからな。
>>272
あと、信長→秀吉と続いた検地と刀狩りによる兵農分離路線の完成も大きい。
戦国時代中から徐々に進められてきたわけだが、
それまでは、武士の大半=足軽は武装し、土地を与えられる農民だった。
信長の時代から検地が進められ、それに秀吉の太閤検地でそれが全国化し、
これに秀吉の刀狩が重なって、武士階級と農民階級の完璧な峻別が可能になった。
社会階層の安定化は、秩序維持に役に立つ。
さらに、本当の意味での農民は武装するチャンスを完全に失った。
一揆は起こるにしても、それはより容易に鎮圧可能なものになった。
農民反乱は、社会を根こそぎ転覆させる可能性を持つ。
少なからず大名の支配領域くらいは引っくり返し得る。
それが極小化した。
深刻な飢饉が起こる中期まで、大きく統治機構をいじる必要がなかったというのは大きい。
つか、刀狩、検地、そして法度による統治を、近世の始まりと見るらしいぞ。
それまで、地域地域の経済力に応じて、相応の軍事力と政治発言力をもった集団が、討伐したりされたり、合従連衡したり、連盟連合支配されたりしたのが、中世体制の最終末期=戦国だったらしい。
それが、卓越した軍事集団によって、その権威を否定されたと見ていいらしい。
以後、外国と自力通商が再開した幕末まで、地方は独自の能力で、全国体制に歯向かえなかったわけだ。
中国で長期安定政権だった時代、秦漢と隋唐。
二つの政権をくっつけて呼ぶことが多い。
これらの特徴として、前政権が必要なことを全てやってくれていた。
だから次の政権は長期安定政権を作ることが出来た。
秦がやった改革は、何れにしても必要なことだったが、秦は無理に無理を重ねて続けた結果。
民衆の恨みを買い滅亡。その後で続いた漢が、長期安定政権を作った。
隋唐も同じで隋がやるべきことを全てやってくれていたから、唐が長期安定政権を作れた。
豊臣政権と徳川政権にも同様の論理が成り立つ可能性は否定できない罠
まあそのとおりだろう。
ゆえに(?)徳川は豊臣を滅亡させる必要があったのだろうか
かなり以前から称えられていた異説ではある罠。。
しかし決定的な証拠ってのがないので、歴史学者のほとんどは無視していたはず
お話としては面白いけど。
ただ、家康ってあの年であんなに有利な状態でも
戦死する可能性がある場所に陣を張っていたのだから
戦人だよなあ。
まあ、家康って老獪な政治家ってイメージが先行しちゃうけど、
元々、若い頃は、今川配下で勲功抜群の戦術指揮官だったわけで。
それにプラスするところの三河家中の結束の強さ・士気の高さも手伝って、
小牧・長久手の戦いを見るように、「海道一の弓取り」「戦上手」だったわけで。
その辺、激戦となりそうな戦場で、どうすれば人が動くか、
つぼを心得てるってことでしょうなあ。
>>283
言われたのは後世かもしれんが、内紛・粛清(嫡男信秀の粛清など)を経て
>>281の小牧・長久手あたりは、ピークだったと思われるが……
あ、秀吉との和解直後、重臣の石川数正の出奔とかもあったか…(w
かなりの苦労人だからな。
多分、人の顔色を見て育ったのでしょう。
それだけ用心深かったのだとは思うよ。
一向宗の争乱など、家康の家臣達の内紛はけっこうあったからね。