1: 名無し 2008/02/15(金) 14:40:03
龍造寺隆信について語るスレ
スレタイの五州太守には突っこむな
8: 名無し 2008/02/17(日) 20:56:04
竜造寺隆信はもっと評価されるべき
24: 名無し 2008/03/01(土) 22:04:49
子供少ないの??
25: 名無し 2008/03/04(火) 09:29:24
政家しか居ない?
29: 名無し 2008/03/10(月) 17:36:28
>>25
政家の下に二人だかいる。江上家種と後藤家信。三男の子孫が佐賀藩内の武雄領主
32: 名無し 2008/03/11(火) 00:19:01
長信も家種も家信も子孫はある程度残ってる。
家名は残せず血統は残った奇妙な家ではあるね。
78: 名無し 2008/05/14(水) 00:50:23
馬に乗れないとは異常
80: 名無し 2008/05/14(水) 00:55:30
でも輿じゃなくて
馬に乗っていたという説もあったような
確か有馬・島津側の記録だったと思うんですが…
85: 名無し 2008/05/19(月) 00:17:52
島津ってあれだけ釣り野伏やってて情報広まってなかったのかな
大将が釣り看破できてても兵卒を統率できなけりゃやっぱり引っかかってしまうんだろうけど
102: 名無し 2008/07/13(日) 21:49:37
鍋島直茂は謀将
103: 名無し 2008/07/13(日) 23:55:34
クマーといっしょに残虐冷酷な謀略や暗殺を嬉々として練って実行してたのに
悪いイメージは全部クマーに押し付けて智謀に富むイメージだけはほとんどクマーから取り上げて自分のものにしてしまったナベちゃん
111: 名無し 2008/08/07(木) 07:47:34
>>103
政家に「お恨み状」を送付したり、自己正当化に長けてるね、鍋ちゃんは。
まあ龍造寺一門のほとんどが政家に駄目出しして鍋ちゃんを担いだ訳だが。
115: 名無し 2008/08/28(木) 19:39:15
残虐冷酷なイメージがついて回るが、残虐冷酷にならざるを得なかったが正解だろうな
116: 名無し 2008/08/29(金) 13:33:52
>>115
でも譜代や国人に愛想尽かされてる。
宇喜多直家の方がうまくまとまってるような・・ やりたい放題なのに
119: 名無し 2008/08/29(金) 22:36:10
龍造寺隆信蝋燭と董卓蝋燭
燃焼時間が多いのはどっちだろうな
>>116
宇喜多直家は何だかんだでオヤジと一緒に生活してたからな
龍造寺隆信は天涯孤独に近い状態で本家継いだ上で、味方からの謀反だろ
・・・なんつーか、宇喜多直家はボンボン臭がする気がする
龍造寺隆信は野生の熊って感じだな
強い殻で身を守っているみたいな
121: 名無し 2008/08/30(土) 19:42:21
>>119
流石に董卓には負けると思う。隆信の方はまだ普通の人間のイメージだが
董卓は化け物という感じだ。
隆信の場合は家兼が復讐を済ませておいてくれたけど
直家は自分でじいさんの敵を取らないといけなかったから
その辺は大変だったかも。
122: 名無し 2008/08/30(土) 23:00:28
>>121
董卓が上か
だが、董卓には「肥満で乗馬出来なかった」という記述はないんだよな
家督を継ぐ為とは言え、胤栄の未亡人を引き取る辺り
並の男には出来ない事だよな
く~まくまくま 肥前の子~♪も確かにいいな
117: 名無し 2008/08/29(金) 20:31:51
幼少期に父親、祖父、大叔父、叔父etc……一族ほとんど皆殺しにされた訳で
トラウマめいたものはあったと思われ。
宇喜多は家臣の操縦には長けていたようでめぼしい家臣の離反はないね。
118: 名無し 2008/08/29(金) 22:22:40
そこで総帥たる曽祖父が生きていたのが悪運だよな。
・・・直茂の。
121: 名無し 2008/08/30(土) 19:42:21
>>118
家兼は隆信、直茂両者にとって曾祖父だね。このあたり非常にややこしいw。
125: 名無し 2008/10/05(日) 23:35:13
イワクマー
126: 名無し 2008/10/11(土) 12:26:42
イワクマ21勝おめ!
143: 名無し 2008/11/12(水) 06:40:37
信長の野望ではコンピューターのデモプレイを見ていると
あっさり大友にやられて滅亡してしまう場合が多いが、
自分でプレイするとけっこうやりやすい大名。
西と北は海しかないので守りやすい。南は島津が北上してくるまでは
大丈夫。東の大友だけ注意しておけば基本はオケ。
大友を防ぎつつ大友家臣を捕らえて配下に加えてから勢力拡大が基本。
龍造寺の所領は豊かな城が多いが、内政向きの武将が少ないのが難。
武闘派は十分揃っているが。一番頼りになるのは史実通りに鍋島直茂。
長文失礼。
157: 名無し 2008/12/15(月) 20:50:47
のぶやぼで松永・宇喜多・藤堂たちが智謀で評価されるのなら
熊さんはもっと評価されてもいいよね
158: 名無し 2008/12/16(火) 08:51:56
天翔記あたりは政治、知謀も並よりは上の評価。無論戦闘は高レベル。
鍋さんは政、戦、智と三拍子揃った全国でもトップレベル。
168: 名無し 2009/01/10(土) 13:39:32
>>158
しかも暗殺もちだから
いつの間にか智謀が限界まで上がっているのな
171: 名無し 2009/01/18(日) 22:15:30
ヒャクタケという日系ブラジル人夫妻と知り合いになってちょっと鬱。
174: 名無し 2009/01/22(木) 22:19:41
>>171
おお!あきらかに末裔だなw
178: 名無し 2009/01/27(火) 15:58:17
>>171
佐賀工のラグビー部が全国準優勝した時のメンバーに百武君がいたよ。
子孫だろうか?と思った。
180: 名無し 2009/02/04(水) 15:51:06
佐賀だと百武って名字の人はそこそこいるなあ
高校にも同級生にいた
181: 名無し 2009/02/04(水) 18:30:46
血縁だろ
百人の武勇があるって事で新造した苗字らしいからな
183: 名無し 2009/02/06(金) 22:23:00
いいなあ、武将の末裔って
191: 名無し 2009/02/26(木) 21:17:20
沖田畷を駆ける熊さん
193: 名無し 2009/03/04(水) 09:58:25
虎とか龍ならともかく、「熊」だもんな
多分ツキノワだろうし
194: 名無し 2009/03/05(木) 19:40:01
頭にうけた鉄砲傷が元で成長がとまらず
あまりの巨躯で乗れる馬がなかった
肥前の熊は赤兜
205: 名無し 2009/04/04(土) 20:21:44
ゲームで隆信が5ヶ国持ってるシナリオにいまだかつて出会ったことがない
206: 名無し 2009/04/08(水) 00:16:44
そりゃそうだwww
208: 名無し 2009/04/13(月) 07:29:46
一国丸ごと完全支配していたのは肥前だけだよね、ぶっちゃけ。
あとは肥後、筑前、筑後あたりの一部分。
239: 名無し 2009/06/27(土) 19:03:58
龍造寺って苗字を捨てたのはもったいないな
多久やら諫早やら締まらない苗字になってしまった。
249: 名無し 2009/07/14(火) 23:46:19
>>239
諫早はかっこいい
240: 名無し 2009/06/27(土) 22:46:14
両方とも充分珍しいな。
代ゼミで漢文教えてた多久先生はたぶん子孫なんだろうな。
241: 名無し 2009/06/28(日) 05:35:22
そりゃまあ鍋島さんちにしてみたら、家中に旧主の苗字がウジャウジャいるのは
対外的にバツが悪いだろうし。
242: 名無し 2009/06/28(日) 23:47:34
佐賀人としては、ただの地名名字かーという気分になってしまう
龍造寺ってかっこいいのにねぇ
254: 名無し 2009/07/22(水) 23:07:28
竜造寺政家って暗殺されたの?
255: 名無し 2009/07/25(土) 23:38:12
んなこたあない
257: 名無し 2009/07/29(水) 11:49:40
隆信の実弟からも支持されるほど人望のある鍋に、そんな事をする理由がない
271: 名無し 2009/08/26(水) 20:40:43
クマーの全盛期って、九州仕置きの大名配置で計算すると石高130万いってないか?
1578年で31万石だから六年で頑張りすぎだろw
272: 名無し 2009/08/29(土) 08:45:45
猛将だからな
勢いに乗るとすごい
382: 名無し 2010/03/13(土) 15:24:59
すいません、佐賀県民だけどつい最近まで鍋島の殿様は知ってたけど龍造寺は知りませんでしたごめんなさい
383: 名無し 2010/03/14(日) 21:09:34
>>382
佐賀は龍造寺を消そうとしてる部分はあると思うよ。
龍造寺の末裔も苗字変えさせてるし。
386: 名無し 2010/03/21(日) 22:14:23
鍋島にとっては主家乗っ取りだからね
徳川の世で豊臣を消そうとしたのと一緒でしょ
387: 名無し 2010/03/22(月) 11:06:13
でも龍造寺の偉い人たちもノリノリだったんだろ?
500: 名無し 2010/09/09(木) 00:08:08
そういや鍋島直茂って文禄慶長ではどのくらい活躍したん?
宗茂や義弘は大活躍なのに一人だけ李三平連れてきただけみたいになってて情けない
501: 名無し 2010/09/09(木) 12:04:04
李朝への帰属意識が低い東北部に侵攻して、統治にも少し成功した。
502: 名無し 2010/09/09(木) 12:14:57
主役でなくてもいいので竜造寺隆信が登場する小説知りませんか?
510: 名無し 2010/09/13(月) 16:56:11
>>502
「竜造寺党戦記」
隆信還俗から沖田畷合戦までの小説化
518: 名無し 2010/09/23(木) 17:31:10
たかのぶ最盛期、「最大版図」の南端はどこ?
519: 名無し 2010/09/23(木) 20:29:27
>>518
肥後かな?
520: 名無し 2010/09/26(日) 14:19:56
肥後北部か?
522: 名無し 2010/09/27(月) 22:25:11
肥後一国
523: 名無し 2010/09/29(水) 15:11:17
>>522
んなわけないやろ
524: 名無し 2010/10/01(金) 21:58:22
御船の甲斐、八代の赤星を制覇。
人吉の相良と同盟したろ
525: 名無し 2010/10/01(金) 22:31:57
天正9~10年時の天草とか八代ぐらいまでは龍造寺の勢力圏と捉えていいんじゃないの
526: 名無し 2010/10/01(金) 22:54:45
>>525
相良義陽が島津家との戦で戦死したのが天正九年だったな
527: 名無し 2010/10/01(金) 22:55:35
あれ、相良が島津家の軍門に下って、それからの阿蘇家との戦だったか
528: 名無し 2010/10/01(金) 23:01:22
相良、島津に攻められるも龍造寺援軍送らず→相良、島津に降伏→相良、島津の先鋒として阿蘇を攻める→
相良敗北、当主戦死の流れ
529: 名無し 2010/10/01(金) 23:32:18
龍造寺の肥後攻略は天正8年3月、肥前、筑後勢5万
その折、龍造寺本陣へ馳せ参じた肥後の武将は小代、隈部、大津山、辺春、甲斐、
合志、城、赤星、相良、阿蘇、志岐などで肥後一国
天正11年10月、龍造寺後退して肥後を島津と半国づつ分け合う
838: 名無し 2010/12/23(木) 01:12:30
龍造寺の各国の旗頭は、
肥前…龍造寺隆信・政家親子直轄
肥後…龍造寺家晴
筑前…秋月種実
筑後…鍋島信生
豊前…龍造寺信周
こんな感じでOK?
839: 名無し 2010/12/23(木) 01:31:15
>>838
筑前の国人衆は長信の麾下へ入る事になってたから
龍造寺的には筑前は長信の管轄でしょ
840: 名無し 2010/12/23(木) 01:56:14
天正八年時点だと龍造寺の一族も一城の主程度の所領しか無いけど
それ以降は柳川の件で代表されるように難癖つけては外様を潰して一族と譜代の直轄領を増やし続けてんだよな
842: 名無し 2010/12/23(木) 19:37:11
方分も城督も一国に数人いて、国単位の政治や軍事を共同で取り仕切ってたはず。
843: 名無し 2010/12/24(金) 14:27:29
方分→豊後からの指示を執行する方面軍指揮官
城督→敵中に突出した最前線にある拠点城の防衛で豊後からの指揮の許可はいらず臨機応変に独自判断可。
こんな感じじゃないの?
850: 名無し 2010/12/25(土) 11:53:40
隆信が指揮しての会心の戦いと言えば何?
851: 名無し 2010/12/25(土) 14:03:25
丹坂峠の戦いを推す人が多いかな
家老達が出陣した時の戦果と、隆信が出た後の戦果があからさまに違うので
隆信の際立ちぶりが分かりやすい
肥前一の勢力が隆信の龍造寺だと決定したのはここだろうし
852: 名無し 2010/12/25(土) 14:49:28
参考までに聞きたいけど、この時戦果を挙げられなかった家老って誰だ?
納富あたりだったら、素直に「隆信スゲー」って思えるんだけど。
853: 名無し 2010/12/25(土) 15:06:00
鴨打胤忠・徳島道可・持永盛秀
初戦の頃は長信が陣頭に立ってたみたいで、対陣の膠着状態が長く続いた結果両方退くっていうのを繰り返してた
855: 名無し 2010/12/25(土) 19:31:47
龍造寺一門は長信と信周はどんくらい功績があったんだ?
860: 名無し 2010/12/28(火) 18:55:42
>>855
佐賀藩の格式に合わせると長信は三家で信周は親類
家晴は親類同格で鍋島は本藩家老といったとこか
長信は常に龍造寺のNo.2、草創期は隆信と長信2人で龍造寺の主と言っていいぐらい
信周はご意見番って感じかな、交流が広くて外交面での功績が多い
858: 名無し 2010/12/27(月) 19:37:36
倉町信俊の名前がここまで出て来ない。
隆信の娘婿で重鎮で功績も多いはずなのに、なんでこんなに地味なんだ?
859: 名無し 2010/12/28(火) 17:56:02
だってなにしたかよくわからないんだもの
861: 名無し 2010/12/28(火) 22:21:22
龍造寺家内で大内派の「隆」信が追放されて大友派の「鑑」兼が据えられた件
時代を感じられて燃える
862: 名無し 2010/12/28(火) 22:39:59
しかし、隆信の復帰に手を貸したのも蒲池「鑑」盛なんだよね
863: 名無し 2010/12/28(火) 23:44:10
大友さんはまた放任主義か……
頼りがいのない主君ですこと
864: 名無し 2010/12/28(火) 23:58:06
付け加えれば蒲池鑑盛は、大友の無二の忠臣って言われてたんだよな。
865: 名無し 2010/12/29(水) 00:07:03
龍造寺が少弐に仇なしたからまぁよし?
866: 名無し 2010/12/29(水) 00:27:05
土橋にとっちゃたまったもんじゃないな。
867: 名無し 2010/12/29(水) 08:35:38
鑑の孫の統が政家に島津を一緒に攻めようぜって書状出してた
868: 名無し 2010/12/29(水) 18:35:42
島津からも共闘提案されてるし、さすが第三勢力。
政家は鎮賢だから、ちょうど佐賀城包囲前後に元服かな。
政って誰かからもらったんだろうか。
870: 名無し 2010/12/29(水) 19:11:59
>>868
政は少弐が使用する通字の一つ
少弐の責務を継承するっていう、独立を志向しての改名だろう
869: 名無し 2010/12/29(水) 18:40:53
秋月を見放してでも大友と同盟して
肥後で守戦なり再決戦なりをしとけば
また面白かったんだけどね
871: 名無し 2010/12/29(水) 19:46:17
>>869
耳川以降の大友と手を組んで、何か得るものがあるか?
養分にした方がいいだろ?それに沖田畷の後なら、さらに大友と組む理由がない。
豊後確保できるかどうかすら怪しいのに、同盟しても役に立たない。
873: 名無し 2010/12/29(水) 20:21:05
実際の龍造寺首脳陣も隙あらば領地拡大の機会が高そうな島津の北上作戦に乗っかって大友方を攻撃したんだろうけど
時勢的にあれ以上武力制圧での拡大は不可能だった訳で
だったら北九州の分国領域を大友と相互認証で確定しとけば、豊臣との交渉次第では佐賀以外の領地も確保出来る筈
874: 名無し 2010/12/29(水) 20:54:42
大友と組んでたら、肥前も島津に取られてたわ
875: 名無し 2010/12/29(水) 21:20:00
隈部を落とせない島津に南関→柳川→筑後川→佐嘉の防衛線を抜けるとは思えない
876: 名無し 2010/12/29(水) 21:35:25
>>875
隈部ってそんなに堅城持ってたの?
880: 名無し 2010/12/29(水) 23:24:05
穏当に島津に降って秀吉軍が来たら即座に寝返るのが一番損失が無かった
んじゃないの。
>>875さんの防衛ラインは確かに頼もしいけど、筑後の国人が協力しなけ
ればその維持も難しくなるし、船の準備できてまた有馬の方から来るかも
しれないし。
882: 名無し 2010/12/30(木) 00:18:35
>>880
確かに史実通りの流れが島原で大損害を被った龍造寺にとっては兵力的損耗が一番少なくて済むベター流れだけど
積極的に攻勢をかければ、ある程度領地の削減は防げたのではないかという想定で話を進めてる
肥前に至るまでの玉名から柳川大川路線の有力な国人は領地を佐賀近辺に移されているか身柄が佐嘉城に在る
それでそこに詰めるのは南関の家晴を先頭に一族譜代ばかり
それに島津と事を構えるとなると家晴の南関退去は無くなる
原田や筑紫が離叛しようが単独だと怖くもなんとも無いが
ここで怖いのがこの筑前方面の離叛者が大友を呼び込む事、それを防ぐ為の大友との同盟
877: 名無し 2010/12/29(水) 21:45:18
隈部には龍造寺が赤星からとった菊池十八城があった
878: 名無し 2010/12/29(水) 21:50:09
隈部は結局島津に降ったじゃん。
倒せなくても臣従させりゃ問題ない。
879: 名無し 2010/12/29(水) 22:00:29
島津が肥前をとるって話で臣従も何もないでしょ
881: 名無し 2010/12/29(水) 23:31:25
肥後国人が龍造寺方に付いてなくて、家晴が柳川に退いた後なら、
南関の突破はそんなに難しくないだろうし、柳川も筑後国人が島津に付いてたら無視しても構わないし、
沖田畷で主力を喪失して各国の国人の離反ラッシュが起きた龍造寺なら筑後川のラインを維持するのも難しいだろうよ。
883: 名無し 2010/12/30(木) 13:07:39
最終的な佐嘉の領土は、龍造寺が島津に、秀吉にとその時点での最大勢力に
従ったからこその大きさだと思う。すぐ島津に従ったから肥前筑前の多くの
国人は龍造寺と一緒に(家臣のままで)島津に従ったし、秀吉に従った。
島津と戦って国人たちが寝返った場合、秀吉軍が来たらその国人たちは個別
に秀吉に降ることになる。個別に降るということは独立した大名になるとい
うことだ。
肥前筑前の国人が独立した大名になるだけで史実より龍造寺の版図は小さく
なるかもしれないし、島津の侵攻で削られていればその分も減るかもしれな
い。
ところであの時点での大友ってそんなに怖い?豊後側で手一杯じゃないのか。
884: 名無し 2010/12/30(木) 14:55:43
道雪が柳川侵攻するも堅城を力攻めするほどの大兵はなく体調不安もあり一次撤退。
実際、調略を使わないと柳川は落ちないだろう。
道雪死後は秋月が高橋と和睦すると聞いた筑紫が恐怖のあまり、
紹運のトコに娘を送りゴリ押し婚姻同盟を結び島津に徹底抗戦。
秀吉の来援を受け脱走に成功した筑紫が旧領奪回。
秀吉に抗戦した秋月は日向へ転封。
宗像は改易。
885: 名無し 2010/12/30(木) 17:45:21
柳川は関ヶ原の後の北部九州全部敵みたいな状況でも落ちなかったもんな。
887: 名無し 2010/12/30(木) 18:13:21
柳川は八院合戦で小野和泉が鍋島軍に敗北した後、開城したけど。
888: 名無し 2010/12/30(木) 18:57:54
隈部や阿蘇を見放して島津と大友を攻めるのが本当によかったのか
また(大友の出方によっては)秋月や城井を切り捨て
大友と共同で島津と戦っていたらどうなっていたか
889: 名無し 2010/12/30(木) 19:35:12
大友を味方にするメリットを教えてほしい
秋月の方が兵力多いし、道雪が死んだ後は筑前の中でも守勢一辺倒じゃん
890: 名無し 2010/12/30(木) 20:41:46
大友には中央権力に泣きつくっていう最終奥義がある
龍造寺には無い大きな強み
891: 名無し 2010/12/30(木) 23:11:57
島津と龍造寺が全面戦争になって柳川を無視して北上してくれれば、
筑後川合戦の再現が出来そう。
892: 名無し 2010/12/31(金) 10:20:50
龍造寺と大友が組んで島津とやるっていう状況なら反大友の急先鋒である秋月の扱いは難しいとこだよな。
案外、龍造寺に完全隷属するんじゃないか。
島津につくにしても孤立した状態だし。
893: 名無し 2010/12/31(金) 12:53:26
そもそも島津が紹運を討ちに北上するちょい前の頃の秋月は長野を従えた
完全な独立勢力で龍造寺に従ってないだろ。
秋月は毛利や龍造寺や島津を利用してたに過ぎんかったように見える。
しかも岩屋城も宝満城も秋月が手に入れ、
立花城では島津に「立花は責任をもって落とすから、島津は体制を整えるために一旦、薩摩に帰った方がいい。」
などと立花城と博多までちゃっかり秋月が手に入れようとしてた。
その後に宗茂に奪回されるものの
豊前で豊後からきた大友全軍と戦い続けてたので、
島津が背後のがら空きの豊後侵入のチャンスを与えたりと
対大友では主導権を持っていたと思う。
秀吉の命令でやってきた毛利の南下も遅滞させるなど秋月の頑張りは異常。
894: 名無し 2010/12/31(金) 14:27:44
隆信の死が84年3月。義統が政家に共闘を持ちかけたのは4月末。
龍造寺と島津の停戦は5月。
島津が筑前まで来るのは86年。
龍造寺と大友が同盟を組むとしたら84年の5月中までには決まる事なので、
86年の出来事を持ち出しても、この場合あまり意味がない。
895: 名無し 2010/12/31(金) 17:22:29
84年3月隆信戦死の後の情勢は
義統と政家の和睦の動きを知るや破談するようにし
政家と島津の和睦の話を進めて成功させたのが
あくまで筑前での西の大友と呼ばれた立花を潰して支配を確立したかった秋月だったような。
秋月の斡旋で政家から島津に質子が出されたとか。
島津は柳川へ進出したりと筑後情勢を好転させようとする道雪との戦闘はひたすら回避してたよね。
そういや84年6月には志賀親次8000が黒木攻めをしたので倉町信光を派遣したって話もあるね。
それが85年9月に道雪死去した事でパワーバランスが変化する。
しかし10月に秀吉から島津への大友との和睦命令
さらに12月には秀吉から大友のことは見放さないから安心しろと言質を取るのに成功。
86年3月末臼杵より大坂城へ向かい4月に宗麟は秀吉に会い秀吉の勢威に驚嘆してる。
7/27紹運戦死するも立花城で島津撃破成功。
11月島津の豊後侵攻開始
87年3月頭に秀長が豊後入り
3/28には秀吉も九州入り
5/6神に感謝し安心して宗麟死去
896: 名無し 2011/01/02(日) 00:34:53
反大友の秋月の思う壺に
毛利も龍造寺も島津も操作されたと言うのは
あながち間違ってはいないと思う。
しかしその結果、秋月は秀吉に踊りを強要され辱めを受けた挙げ句に日向高鍋へ飛ばされた。
だがこのどうやっても生き残る精神で関ヶ原の敗北を聞くや大垣での西軍への謀反で生き延びるしぶとさを見せたのはさすが。
かたや柳川の宗茂は義を尊び改易されるものち義を買われ大名に復活し、
汚い秋月に対する清風の立花として永遠のアンチテーゼな存在になってしまった。
897: 名無し 2011/01/03(月) 00:39:13
群雄割拠の時代は裏切りが許容、推奨された。全ての城が玉砕まで戦ったら
100年たっても統一なんてできないからな。でも統一されるとそんな風潮は
困るから、義という倫理観を普及させるためにそれにそぐう人物を顕彰しな
くてはならない。
立花が顕彰されるまで時間がかかったのは、裏切ってくれた統一事業を手助
けしてくれた人たちに気兼ねしてだろうな(笑)
898: 名無し 2011/01/03(月) 11:27:11
がんばって動乱の時期を生き残ったのに、直後に継嗣なくて断絶、なんて
こともたまにあるよね。
899: 名無し 2011/01/03(月) 19:38:56
もっと悲惨なのは、動乱の時代で必死こいて生き残ったのに、
自分の代で偉いさんの不興買って改易食らうことだな。
900: 名無し 2011/01/03(月) 20:15:37
不興買ったなら不興買ったっていう立派な理由があるじゃない。
901: 名無し 2011/01/03(月) 20:47:43
中には不興買った理由が、後世から見ても虫の居所が悪かった以上の解釈ができない場合も結構ある
902: 名無し 2011/01/03(月) 21:44:38
せっかくだから例を出そうぜ。
905: 名無し 2011/01/07(金) 14:10:43
>>902
福島正則とか明らかにイチャモンつけられて改易されてね?
908: 名無し 2011/01/08(土) 13:58:22
>>905
江戸幕府が無茶苦茶な理由を作って大大名を潰すのは計算。虫の居所
ってのはその場の気分。
907: 名無し 2011/01/07(金) 19:40:52
龍造寺軍は九州征伐以降、上方の奴らに「軍制がめちゃくちゃで数だけの烏合の衆」って馬鹿にされてるけど、
異様に充実した武装と勇猛な将兵がいてなんで烏合の衆扱いなんだ?
908: 名無し 2011/01/08(土) 13:58:22
>>907
行軍がバラバラで見苦しかったんじゃなかったっけ。
とりあえず、武装と将兵の勇猛さと「烏合の衆」はべつに矛盾しないよな。
909: 名無し 2011/01/09(日) 12:27:17
フロイスは三会から島原へ行軍する龍造寺軍を見て書いているね。
「いずれも高貴で華麗な将兵が金色の鎧をまとい、同じ色で飾られた槍を携え、
無数の工夫を施した黄金色の兜をかぶり、大小の刀剣の鞘も、あるものは金、
または銀を用いており、若い元気撥刺とした兵士達が満ちている」
この後沖田畷で壊滅的打撃を食らったけど。
917: 名無し 2011/01/18(火) 13:41:07
そもそも五州二島の太守なんてだれが言い出したんだ?
人によっては「自称した」なんて書いてるが、隆信はそんなイタい子だったのか?
918: 名無し 2011/01/18(火) 17:12:16
隆信の法号は法雲院殿前五州太守泰巌宗龍大居士
他には印判で五州太守を使っていたから信長の天下布武とほぼ同じノリ
922: 名無し 2011/01/22(土) 21:31:03
初出は肥陽軍記・北肥戦誌・歴代鎮西誌あたりじゃないの
龍公の権勢が及ぶ範囲は~という見出しでさ
隆信がただ自分をデカく見せたいなら肥前・壱岐・対馬を傘下に治めた時点で
三州制覇とか三国太守とか無理やりでも言えるし
923: 名無し 2011/01/23(日) 15:17:07
つーか五州だって制覇してないんだから大友の傘下から出ればいつでも
言えばいい
924: 名無し 2011/01/24(月) 12:55:52
大友から見た龍造寺というのは面白い視点だと思うな
義鎮の隆信に対する態度とか
925: 名無し 2011/01/24(月) 13:34:20
>>924
大友の家老の吉弘鑑理が隆信を攻めた時に、
隆信が降伏しようとしたら「おまえは信用できないから降伏認めない」って吉弘に言われて、
代わりに道雪に降伏の仲介頼んだ手紙の中で「鑑理みたいなあてにあらないひとはいやいや」って泣きごといってる。
926: 名無し 2011/01/24(月) 20:40:18
戸次にもふられて蒲池を仲介に和睦するも、半年程で協定が破綻し今山の戦いへ
という流れ
927: 名無し 2011/01/24(月) 21:43:44
結果的に隆信にとって最良で宗麟には最悪のパターンになったのか。
930: 名無し 2011/01/25(火) 16:37:19
逸話だとだいたい
宗麟「〇〇したいんだけど」
大友家臣「龍造寺山城は油断ならぬ男。必ずや□□策を講じ牙を向く筈。ですが、私の策で対処します」
宗麟「それはもっともだ。よきに計らえ」
こういう構成になってるよね
932: 名無し 2011/01/26(水) 12:01:41
龍造寺軍は残減迎撃・浸透襲撃が得意な元祖日本軍的な軍
933: 名無し 2011/01/26(水) 14:03:52
漸減な
935: 名無し 2011/01/26(水) 16:56:54
69年の龍造寺はそれなりに漸減迎撃やってたように見える
筑肥の国境辺りから東は鍋島や百武・北は納富や成松の部隊が迎撃に出ていて
強襲→大友の反撃態勢が整う前に撤退→また襲撃を繰り返してる
植木も田布施口でも龍造寺は鉄砲斉射→突撃かけた後はさっさと引っ込んでるし、戦術としては一貫してた
それでも怯まず進軍してきた大友3万と決戦するだけの戦力が無いから最後は篭城降伏になったけど
70年でのエラく遠まきな大友の佐嘉城包囲も69年の戦闘での反省をいかした包囲陣だと思う
936: 名無し 2011/01/27(木) 10:05:16
そろそろ龍造寺四天王十六将の出番だな。
937: 名無し 2011/01/27(木) 13:00:07
龍造寺十二神将
龍造寺家就
龍造寺家晴
納富信景
福地家盈
小河信安
小河信俊
広橋信了
鍋島清房
鍋島信房
鍋島信昌
執行種兼
秀島家周
人選は隆信の兄弟や子息を除いて軍功があった指揮官
938: 名無し 2011/01/27(木) 13:32:39
>>937
倉町信俊と鴨打胤忠も追加で。
939: 名無し 2011/01/27(木) 14:21:44
倉町は順当にいけば筑前方の司令になれそうな立場だったみたいね。
940: 名無し 2011/01/27(木) 14:27:19
娘婿だもんなぁ……
順当にいかない事件でもあったの?
941: 名無し 2011/01/27(木) 14:46:41
戦死したじゃない。
倉町の所領は那珂川か大野城辺りにあったんだろうけど。
942: 名無し 2011/01/27(木) 17:02:01
順当にいけばって、沖田畷がなければってことか?
943: 名無し 2011/01/27(木) 17:14:00
倉町が戦死しなければって意味だったけど、
それでも大して変わらないかな。
944: 名無し 2011/01/27(木) 17:30:34
1580年辺りからは西筑前にも龍造寺の家臣が相当数入り込んでいたいたから、
現地に赴任している隆信の娘婿倉町の権限もその規模に準ずるものだったんだろう、と想像はできる。
立花との境界の最前線に居るわけだし。
945: 名無し 2011/01/27(木) 18:43:00
>隆信の娘婿倉町の権限もその規模に準ずるもの
ごめん、意味がよくわからない
946: 名無し 2011/01/27(木) 18:58:56
筑前に入った龍造寺系の家臣の数に準じた権限が(龍造寺親類になった)倉町にあったのではないか、という事。
倉町が生き残って佐賀と別に立藩してくれてたら、膨大な家臣を抱えずに済んだかも。
947: 名無し 2011/01/27(木) 19:26:44
倉町クラスの奴が立藩できたら、それより格上の家晴と鍋島は龍造寺の家臣じゃなくなってるだろうな。
948: 名無し 2011/01/27(木) 19:36:17
3万6千人のプー太郎を36万石で養うぐらいなら、
20万石6千人の家臣団で収まって、残りは出ていってもらった方が龍造寺には都合が良いだろ。
949: 名無し 2011/01/27(木) 20:09:29
残り3万を倉町が一人で食わすのか?
誰が倉町にその食いぶち出すんだ?
950: 名無し 2011/01/27(木) 20:15:29
鍋島や家晴に頑張って一万人以上はまともに養える藩を作ってもらうしかないね。
その為に是非とも朝鮮の役は成功させたいところ。
951: 名無し 2011/01/27(木) 23:19:08
三万六千は島津攻めで龍造寺が出した兵数だっけか
952: 名無し 2011/01/27(木) 23:22:45
なんかホント人は多いよな、肥前
953: 名無し 2011/01/27(木) 23:46:03
肥前に限らず龍造寺の制圧してた九州北部の平野部は鎌倉時代からの二期作二毛作地域だからな
人口の収容力なら日本屈指の土地
954: 名無し 2011/01/28(金) 00:34:14
でも仕事が無いから職に炙れた奴は兵士になるしか無いわけね。
955: 名無し 2011/01/28(金) 11:01:38
隆信が最初から使えたのは水ヶ江系の龍造寺党3000と西千葉党の与力が2000ぐらい
956: 名無し 2011/01/28(金) 12:06:47
あの時点で5000も動かせたら相当恵まれてる部類じゃね?
957: 名無し 2011/01/28(金) 13:14:33
千葉党は自由に動かせる勢力でもないし、龍造寺の周りも全部同じ様な規模で割拠しているので相対的に有利も不利もないでしょ
当時の情勢は大内と懇意な事を除くとほぼ周りが敵だらけ、強勢力有馬とは犬猿の仲
親大内に傾倒し過ぎて肥前から叩き出される始末
958: 名無し 2011/01/28(金) 14:21:55
>周りも全部同じ様な規模で割拠
だから縁組が一気にバランスを崩すチャンスなんだよな。
959: 名無し 2011/01/28(金) 20:00:22
龍造寺の猶子や縁組みは戦闘後のトドメの一発、というかほとんど恐喝外交な印象
有馬とか松浦のはコネ作りって感じなんだけど
960: 名無し 2011/01/28(金) 20:39:45
それは戦争をうまく政治の道具にしてるってことかな。
961: 名無し 2011/01/28(金) 21:12:06
> 戦争をうまく政治の道具に
隆信は土下座外交も軍を使っての恫喝外交もハッタリや冗談かますのも出来る人だよね
直茂は完全に自家の戦力は外交の1カードとして割り切ってるイメージがある
962: 名無し 2011/01/28(金) 23:55:57
隆信の外交ミスと言えば大内義隆が陶に討たれそうなのを事前に察知してた臭いのに
親大内路線の方針を変更しなかった事
963: 名無し 2011/01/29(土) 15:36:53
なんか陶の謀反って周知のことだったみたいね
964: 名無し 2011/01/29(土) 20:40:55
>>962
どうしたらよかったって言いたいの?
965: 名無し 2011/01/29(土) 23:09:42
大友派の東肥前諸将に一応は顔立つように大友に鞍替えして
この時点では大友と縁の薄い松浦をすぐ様叩く
アクロバット過ぎて実現性が低いのは承知してる
968: 名無し 2011/01/30(日) 10:50:22
二年間の捨て扶持生活は戦国乱世の世だと痛い損失
969: 名無し 2011/01/30(日) 18:12:29
なんか大内義隆に思い入れでもあったのかな。
父の愛に飢えていたから烏帽子親を実の父のように……
970: 名無し 2011/01/30(日) 19:51:52
1546年 龍造寺家兼死去、円月坊が龍造寺胤信と称して水ヶ江家継承 隆信18歳
1547年 少弐冬尚を筑後に追放 隆信19歳
1548年 龍造寺胤栄死去、東肥前十九城主の反対を押し切り胤信が村中家も継承 隆信20歳
1549年 ザビエル薩摩上陸、翌年には肥前を拠点として布教開始 隆信21歳
1550年 大内義隆と結び肥前代官となる。偏諱により胤信から隆信に、大友に二階崩れの変が起こる 隆信22歳
1551年 大内義隆が陶隆房に討たれる(大寧寺の変)龍造寺に対して土橋栄益等が謀反、隆信は筑後に追放される。少弐冬尚が肥前に復帰し龍造寺鑑兼が龍造寺当主に擁立される 隆信23歳
猶予とか暇とか色々足りないからどう動いても難しい
972: 名無し 2011/01/31(月) 16:33:34
二階崩れの変って親大内(肥前)派vs親肥後派の抗争だっけ。
975: 名無し 2011/01/31(月) 21:08:33
>>972
大友内の反大内派閥がほぼ自滅の形で一掃され親大内の旗手義鎮が担ぎ出された事件、と自分は認識してる
大内と争っていた大友義鑑も死に
肥後にはこれまた大内と親しい菊池義武
肥前にも義隆に偏諱された隆信が2人ばかり居るという状態
盤石に見えるよね、一見したら
977: 名無し 2011/02/01(火) 12:37:17
やっぱり大友が隆信の復帰を黙認(?)したのがひどすぎる。
結局、隆信追放は対外姿勢の問題じゃなくて完全に内部の事情で、追放派が
親大友を標榜したものの大友とは連携も取れず、大友も内政不干渉を決め込
んで放置したのでは。
大友が何かで忙しい時期というわけでもないよな?
979: 名無し 2011/02/01(火) 17:26:36
>>977
黙認というか隆信の佐賀城及び周辺諸城への強襲を察知出来ず後手に回っただけだと思う
組織として形骸化しているとはいえ大内はまだ存在していたから
だから大友は肥前へ遠征は出来無いだろうし、少弐や神代への援助が精一杯で連携と呼べる程の事も出来ない
肥前介入の大義名分は1554年に麦生鑑光が肥前守護職に補任された事で得ているみたいだけど
980: 名無し 2011/02/01(火) 17:47:04
蒲池に口出しできなかったのか
981: 名無し 2011/02/01(火) 18:24:08
大友と蒲池の関係は守護と地頭の延長まんま
982: 名無し 2011/02/01(火) 23:30:55
おお、分かりやすい定義をありがとう。
983: 名無し 2011/02/02(水) 09:12:31
蒲池は隆信に100騎だか150騎だか貸したんだよな
義勇軍的なもんだったんだろうか
986: 名無し 2011/02/03(木) 07:50:23
>>983
義勇兵は往々にして出す側の既得権を守る為に派遣されるものだし
蒲池にとって家兼→隆信の流れが佐賀を抑えてくれていた方が都合が良かったんだろ
987: 名無し 2011/02/03(木) 18:35:44
佐賀藩って周辺で一番税率が低かったみたいね
それでも二公一民だけど
989: 名無し 2011/02/04(金) 17:11:10
税率高くても生産量が大きければ生存はできるよな