神聖ローマ帝国は大空位時代以降諸侯が事実上独立し、
その後帝位を得たハプスブルク朝の領土への野心も主に帝国の外へと向けられ統一に向かうことはなかった
一方フランスにもアンジュ―帝国やブルゴーニュ公、トゥールーズ伯など王国に属していながら統一を脅かした勢力があり
王領がほんのわずかでしかなかったにもかかわらずそれらは全て駆逐され
更にその後ユグノー戦争をも乗り越えて再統一を果たした
どうして同じフランク王国から分裂したのにこれほどまでに違う歴史を辿ったのか?
カペー系の系統がどんどん相続していくから
王領が巨大化した
同じ頃に始まった神聖ローマ帝国のリウドルフィンガー家が5代100年余りで途絶えるのに対しカペー家が初代ユーグカペー以降250年も続いたのが大きい
皇帝はオットー2世、ハインリヒ3世、ハインリヒ6世、コンラート4世、と大物を壮年で嗣いだ皇帝が悉く若死にして後継者が幼かったり断絶して集権化をぶち壊しにしてきたのがなあ。
ヵぺー朝はそうした後戻りはルイ9世の最初の一回だけやったし。
全く相続が発生していない、ゼロから再出発になる
フランスは全て男系でつながってるから前王朝の王領を全て相続できた
ザクセン朝からハプスブルク朝まで同一男系で相続が可能だったと仮定すると
ザクセン朝からニーダーザクセン、ザーリアー朝からフランケン、シュタウフェン家からシュバーベンの所領をひきつぎ
それにハプスブルクのオーストリアが加わればフランスみたいに統一的な方向にいけただろうね
でもカペー朝やヴァロア朝が地方豪族との婚姻で獲得した領土を
その地方豪族の血をひかないブルボン家が相続できるのはおかしい
その地方豪族も途絶えてるからね
ブルターニュはいたけど完全に黙殺した
それぞれの継承システムが採用されるにあたって何か民俗的背景が?
フランスも断絶したら神聖ローマと似た感じになった可能性もある
フランスの国王は、世襲制なのに、なぜか有能な人物が多かった
とくに中世のフィリップ尊厳王と、ブルボン朝を創始したアンリ良王の評判はいい
フランソワ1世を追加
シャルル5世も
そもそも、神聖ローマ帝国は「ドイツ」じゃなかったからなあ
ボヘミア王カレル、シチリア王フェデリーコ、スペイン王カルロス
歴代のベスト皇帝ランキングでTOP5入りしそうな3人の大皇帝の本拠地が、ドイツ・オーストリアの外
フランク王国の初代クローヴィスが、パリに都を定めて1500年
フランス王国の初代ユーグ・カペーが、パリに都を定めて1000年
大昔からずっとパリが都だから、時が経つにつれて求心力が高まる
それに比べてドイツには、首都と呼べるようなとこがなかった
現在のチェコ共和国の領域
現代の国民国家の概念では理解しにくいが、
彼はボヘミア王も兼ねていたから
それ以外の有力貴族家系が弱い
最初からそうだったわけではない
>>14
トゥールーズ伯、アンジュー伯、シャンパーニュ伯、ブルターニュ公、極め付けはアキテーヌ公とノルマンディ公(からのイングランド王を兼ねたアンジュー・プランタジネット帝国)
その後にもブールゴーニュ公やフランドル伯など王家に対抗しうる大諸侯はフランスにも多く存在したよ
(王家に寄生する形の大貴族しかいない)イングランドとは状況は違う
それはお互いさま
イギリスはフランスと、フランスはイギリスとの争いを通じて国民国家を形成
ドイツとイタリアは、オーストリア・ハプスブルク帝国との争いを通じて国民国家を形成
こんなに広かった、アンジュー帝国の領土
イングランドの国王がこれだけの勢力を持っていたから、「打倒イングランド」が即、「フランス統一」といっても言いすぎではないほどだった
ある意味、本当にバラバラなドイツと比べたら、まとまった状況と言えなくもない
>>21
とはいっても、アンジュー帝国内に封臣がいて、彼らはフランス諸侯としてフランス王の名目的な臣下(封建契約上の臣下じゃないけど)だったから
プランタジネット家との間で諍いがある場合、フランス王に頼って仲介してもらうって手続きがあるから、そこから切り崩されるのよね
実力が多少見劣りしても、権威の使いようで決定的に優位に立てる場面があるってことではなかろうか
しかし、アンジュー帝国における「イングランド王位」って添え物に過ぎなくて、アンリからしてアンジュー伯としての地位のが大事だったのよね
リシャール(リチャード)の主要な活動拠点は、主に母親からの相続地であるアキテーヌだったし
その意味で、アンジュー帝国の時点ではあくまでもフランス王国内での勢力争いであって、「イングランド対フランス」的なものではなかった
それがイングランド対フランス的に変化するのは、もっとずっと後、百年戦争の末期からだろう
当時のアンジュー伯領には、メーヌやトゥーレーヌもその領地に含んでいたから、面積だとその3倍くらいはあるかな
ノルマンディとブロア方面に拡張する感じで
リシャール・ド・プランタジュネは、在位期間の大半を大陸ですごした
イングランドは3百万人しかいなかった
プランタジネットとトゥールーズ伯は違ったけど
俺はシチリアの方と思って買いてしまった
シチリア系はハンガリー・ポーランド王にもなってる
カペー系とヴァロア系はシチリア王位めぐって争ってるな
北方ルネサンスなんてものも生まれたし
>>41
中世においてはブリュージュ、近世にはアントワープが海洋貿易の中心
ライン川を通じてケルン商人、北海を通じてハンザ同盟都市、大西洋を通じてジェノヴァ商人と交易する物流センター
さらに、イギリスから羊毛を輸入して毛織物を生産する加工貿易
(後には、イギリス製の毛織物を輸入するようになった)
毛織物産業が盛んだったから。羊毛はイングランドから輸入。
イギリスから羊毛を輸入して、毛織物を生産する。
それをライン川の船で輸送して、ドイツ・フランスの内陸部に売る。
これが、フランドル繁栄の黄金パターン
ていうか、百年戦争当時の勢力図
まさに三つ巴、いずれ劣らぬ三強の激突
「天下の3分の2は魏」といわれた三国志よりも、よほど三国鼎立と呼ぶにふさわしい状況
もともと、フランドルとブルゴーニュは別の国だからな
2つの国をくっつけただけ
どっかにほしかったな
ワロン地域とロレーヌとフランシュコンテがくっついてユグノーになればよかったのに
ラテン系かはともかく、フランス語話者でプロテスタントの国というとジュネーブ
ワロンはユグノーだが、他の二つはカトリックだからどうしようもないな
隣国のドイツは氷河期にかなりの部分が氷河に覆われていて
地味が痩せているのに。
19世紀とかヨーロッパの主要国でロシアとフランスだけ穀物の単収図抜けて低いぞ。どっちも土地広いからそこそこだったけど。
けど農耕可能地はめちゃ広いからな
昔はイギリスの国土を見て「これじゃ恵まれすぎだ」とボヤくフランスの知識人がいたほど、フランスの国土はじつはあんまり良くない
近世まで大きな森林地帯が残っていた
中世なら国土に森林の占める割合はもっと大きかっただろう
農業国というイメージのあるフランスだが、そうなったのは20世紀の後半か
でかくても砂漠や荒れ地だらけじゃね
世界でも稀有な国じゃないかな。
>>89
あのとき負けていれば、イギリス王室によってフランスが統一された可能性もある
当時はイギリス王室もフランス人だから問題ない
つっても、フランス王家はサリカ法典に縛られてるんで、女王が登位した時点で、ハノーヴァーと同様に王統分裂したと思うよ
国王にしては、領地が異常に小さかった
カペー朝の王は、フィリップ2世以降は割と優秀な人が、ちゃんとした年齢で即位してることも大きいんだよね
ルイ9世は幼少の君主だったけど、あの時は摂政王母がめっちゃ優秀だった
長じたルイも、当時としてはかなり優秀な王だったし
都市から貨幣を調達するのが容易であった
また、経済力があるからこそ可能だったが、法律の専門訓練を受け
「レジスト」(法曹家)と呼ばれる新しい知識人を王の側近として登用し、
イデオローグとして、またテクノクラートとして王政の発展に貢献させた
カペー朝の強大化を警戒した皇帝オットー4世、フランドル伯、イングランド王ジョンの
連合軍を、1214年、フィリップ2世がリール近くのブーヴィーヌの戦いで撃破し、
ついで皇帝フリードリヒ2世の死後、ドイツが大空位時代に入ったため、
東からの脅威は消えた。
皇帝フリードリヒ2世の後継者をイタリアで打倒し、帝国に大空位時代をもたらしたのは、フランスの聖王ルイ9世の弟シャルル・ダンジュー
日本でいえば、皇室から分かれて臣籍降下してた源氏が、天皇に抜擢されたような感じかな
>>104
ブルボン=ヴァンドーム家はずっと王族待遇だった上、母系からナヴァラ王位まで継承している大層な名家なので
臣籍降下した遠縁レベルではない
長く続いていて、かつ有力であり続けた宮家みたいなもん
着実に拡大していったが、その一部を親王領としてブルゴーニュ公や
オルレアン公などの王族たちに領有させていた。
百年戦争後、今度は王族が王権を脅かす存在となり、
とくに経済最先進地フランドルをも領有するブルゴーニュ公は
本家の王をしのぐ勢力を誇った。
ブルボン家が分岐したのはヴァロア家が分岐する一代前だから血筋が近くやはり特別なのだろう
フランスが内紛してる時にブルボン家は常に王に忠実だったし
それとフリードリヒ2世の子孫たちがシャルル・ダンジューに敗れて帝国の重要な拠点であるシシリア王国を取られたのも大きいかな
大空位時代を経てそれ以降のイタリア政策がショボくなった
それに対してアナーニ事件→アビニヨン捕囚で教皇庁にマウントとれた事も大きい
>>113
ブールゴーニュ公国が仮にロートリンゲンも制圧して中フランク王国の復活状態になったら
イタリアとの連携でフランスとドイツの双方に圧力かけられる面白い存在たりえたと思うけど
まあ、あの地域全体としてナショナリズムを喚起させられなそうだから無理よな
ブルゴーニュって王国もあったし公国もあったし自由伯領というのもあったのだがこれらの支配者ってみんな血縁的な繋がりってあったのかな?
ブルゴーニュ公国は西フランク王国の豪族が自立して成立し、
ブルゴーニュ伯国はブルゴーニュ公のアンリ一世の妻の連れ子がブルゴーニュ公国の隣(神聖ローマ帝国内)に建国したものみたい
なお、その連れ子は一時ブルゴーニュ公国も継いでいたらしい
>>120
ブールゴーニュは、語源が「ブルグント」だって言えば理解できる?
大元まで辿れば、ブルグンド族の部族大公、または王だったって話
ただし、血族的にはブツギレです
一時期、皇帝はドイツ、イタリア、ブルグンド(アルル)の王を兼ねて称していたよ
>>120
>ブルゴーニュって王国もあったし公国もあったし自由伯領というのもあったのだがこれらの支配者ってみんな血縁的な繋がりってあったのかな?
ブルグント王国は、中世初期の民族大移動でできたブルグント族の国で、フランク王国に滅ぼされて消えた。中世後期のブルゴーニュ公国とは別モノ。
ブルゴーニュ伯国は、神聖ローマ帝国のブルグント地方で、フランス王国に属するブルゴーニュ公国とは別の国。
この図で水色がブルゴーニュ伯国、ピンク色がブルゴーニュ公国。
ベルギーでは両方の戦争を防ぐには荷が重い
言語も割と似てるのに
>>117
オランダ国歌の歌詞
余はナッサウ伯ウィレム一世
ドイツの古き血筋なり
余は永久なる忠誠を
祖国に捧ぐるものなり
余はオラニエ公にして
大胆かつ不羈なるぞ
余はスペイン王に対し
生涯の忠誠を誓いたり
ナッサウ伯って聞いた事があるな
ローマ(ドイツ)王にもなったアドルフ・フォン・ナッサウか?
そういえばシュタウフェン朝時代の対立王でホーランド伯のヴィルヘルムというのもいたな
>>118
>余はスペイン王に対し
生涯の忠誠を誓いたり
オランダ代表は、サッカーの試合前の国歌斉唱でこれを歌って、スペイン代表にボコボコにされて負けた
ちなみに、オランダ国歌のメロディは、フランスの古い民謡
ドイツ・フランス・スペインの3大国を折衷したような国歌
イタリア王子のオットーギョームというのが
イタリアを追い出されて父の故郷のブルゴーニュに逃げてきて建国したらしい
で、母から受け継いだ所領がブルゴーニュ伯国の原点とも。
わけわからん国がいっぱいあるよな
ブルゴーニュ王国→ブルグンド王国の歴史
411年 ブルグンド族のグンダハールにより建国(第一ブルグンド王国)
443年 第二ブルグンド王国 ローマ帝国の将軍アエティウスによりブルグンド族はサパウディア(上ローヌ川)に移動させられる グンディオク(グンダハールの子)により建国
534年 第二ブルグンド王国、フランク王国により滅亡
534-855 ブルグンディア分王国
841年 フォントノア戦い
843年 ヴェルダン条約 ブルグンディアの大部分はロタール1世の皇帝領(中フランク王国)に属す
855年 皇帝ロタール1世死去
皇帝領は長男ロドヴィコ2世のイタリア王国、次男ロタール2世のロタリンギア王国、末弟シャルルのプロヴァンス王国に3分
ブルグンディアはアルプス山脈を境として北部はロタリンギア王国、南部はプロヴァンス王国に属した
855-933 プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)
863年 プロヴァンス王シャルル死去 イタリア王(兼皇帝)のロドヴィコ2世がプロヴァンス王位を継承(イタリア王国領)
870年 メルセン条約 プロヴァンス王位は西フランク王シャルル2世(禿頭王)が継承 但し、この時点ではプロヴァンス王国旧領の東半分はイタリアの皇帝ロドヴィコ2世の領土
875年 皇帝ロドヴィコ2世死去 シャルル2世(禿頭王)によりイタリア王国は占領され、皇帝位につく それと同時にプロヴァンス全域は統一される その際プロヴァンスは王太子ルイ2世(吃音王)の後見人であるボソ(ボゾン家)を伯に任じ治めさせる
876年 シャルル禿頭王のイタリアの軍事行動に従軍し、パヴィーア議会でボソはイタリアの首位の大臣および総督に任命され、公に格上げされた
プロヴァンスの支配を託され副王として振る舞い、ローマ皇帝ロドヴィコ2世の唯一の娘エルマンガルドと結婚することで、ますます威信を高めた
877年、ボソはシャルル2世のイタリアへの二度目の軍事行動に賛同せず、同じ意見を持つ貴族達と共謀してシャルル2世を打倒しようとした
同年10月 シャルル禿頭王死亡 共謀した貴族達はシャルル2世の息子に強制して、彼らの権利と特権を承認させた
879年4月 ルイ2世(吃音王)死去 息子ルイ3世とカルロマンにより分割相続され、プロヴァンスはカルロマンが担当
同年7月 プロヴァンス公ボソはルイ3世、カルロマンに対する忠誠を拒否し反乱を起こす
880年 リブモント条約により領土を画定、首都を下ブルグントのヴィエンヌとし、ここにキスユラブルグント王国、別名プロヴァンス王国が成立した (下ブルグント王国、低ブルグント王国ともいう)
ボソの王国はアルル、エクス=アン=プロヴァンス、ヴィエンヌ、リヨン(ラングルを除く)、ブザンソンの各大司教管区、そしてタランテーズ、ユゼス、ヴィヴィエの各司教管区から構成される
882年 カルロマンの臣下であるリシャール正義公(ボソの実弟)により攻撃され領土を大幅に失う
※後のブルグンド公国はこのリシャール正義公の流れを汲むものである
884年 イタリア王と東フランク王を兼ねる皇帝カール3世(肥満王)が西フランク王位をも相続してフランク王国が統一されたが、ボソだけは従わなかった
887年 ボソ死去 寡婦のエルメンガルドと幼い息子のルイは皇帝カール3世(肥満王)の元に身を寄せ、ルイはカール3世の養子となる
888年 カール肥満王死去 フランク王国は再び分裂し、プロヴァンス王位にルイが就き(ルイ3世)、プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)が復活
同年、東ローマ皇帝レオーン6世ソフォスの娘アンナを娶り、産まれた子供に西ローマ皇帝のカール大帝と東ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝にちなんだシャルル・コンスタンティンと名付ける
(のちのヴィエンヌ伯)
901年 ローマ皇帝位に就く
905年 マジャール人傭兵を率いたベレンガーリオ1世に反撃され、捕らえられたルイ3世は目を潰され(盲目王)、プロヴァンスに追放された
911年 ルイ3世盲目王はプロヴァンス王を名乗り続けたが、又従兄で義兄でルイの首席顧問兼摂政であるアルル伯ウーゴがプロヴァンス公、ヴィエンヌ公となり、
王国の実権を握る(王国の本拠地はアルルに移り、これ以降のキスユラブルグンド王国はアルル王国と呼ばれるようになる)
923年 ユーラブルグンド国王のルドルフ2世と皇帝ベレンガーリオ1世がフィオレンツオーラ・ダルダ(ピアチェンツァ)で衝突 ルドルフが勝利しイタリア王位に就く
(924年皇帝ベレンガーリオ1世は暗殺される)
925年 ベレンガーリオ派の貴族によりウーゴはイタリア王に推戴される
928年 ウーゴ不在のプロヴァンスにおいてプロヴァンス王ルイ3世盲目王はヴィエンヌの領地を(ウーゴに無断で)息子のシャルル・コンスタンティンに与える
(同年6月に盲目王死去、プロヴァンスに戻ったウーゴとシャルル・コンスタンティンはプロヴァンス王位を巡り対立するが、両者共に王位に就くことはなかった)
930年 シャルル・コンスタンティン、ヴィエンヌを完全に掌握
931年 フランス王ラウールはヴィエンヌとリヨネーの宗主権を要求
931年 ウーゴは息子のロターリオ(2世)を共同統治者としてイタリア王に戴冠
931年 ウーゴは異父弟のトスカーナ辺境伯ランベルトが自分にに対し陰謀を企てていると非難し、トスカーナ辺境伯位を剥奪し、弟ボソに授ける
(ウーゴはマロツィアとの再婚に際して障害があったため、ランベルトを排除したと言われている)
932年 マロツィアとの結婚式最中に、マロツィアの前夫(スポレート公アルベリーコ1世)との間に出来た子アルベリーコ2世のクーデタにあい、逮捕されるが幽閉先のサンタンジェロ城から脱出し命からがらプロヴァンスに逃亡
933年 ランベルト派の貴族はユーラブルグンド王のルドルフ2世に支援を求めたが、それを阻止したいウーゴはヴィエンヌとリヨネーを譲り、その見返りとしてルドルフはイタリアにおける権利を一切放棄した
(>>933年はキスユラブルグンド王国(プロヴァンス王国)の終焉を意味する)
936年 ウーゴの息子ロターリオ2世とユーラブルグンド王ルドルフ2世の娘アデレードの結婚
936年 ウーゴは弟トスカーナ辺境伯ボソの後に、自身の庶子ウベルトをトスカーナ辺境伯位に就ける
彼は、ヴィエンヌのオクタヴィオンをユーグ・タイユフェルに与えるなどし、プロヴァンスにおける影響力を保持するためシャルル・コンスタンティンとの関係を修復した
941年 イヴレーア辺境伯ベレンガーリオ2世をイタリアから追放、イヴレーア辺境伯位を取り上げる
945年、ベレンガーリオの反撃を受けてウーゴ敗走
ベレンガーリオがミラノで開いた帝国議会によりウーゴはイタリア王を廃位されたが、名目上の王位を保持することで彼はそれを受け入た
息子のロターリオを名目上の王として残してウーゴ自身はアルルに戻り、すべての事実上の権力はベレンガーリオ二世の手に渡った
(ロターリオはベレンガーリオにより950年毒殺され、寡婦となったアーデルハイド・フォン・ブルグンド(ブルグンド王国ルドルフ2世の娘) は951年保護を求めた東フランク王のオットーと結婚し、神聖ローマ帝国の皇后となる)
947年 ウーゴ死去
プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)及びユーラブルグンド王国の歴代の支配者はイタリア王国の政情に介入して全て痛い目にあっている
これはユーラブルグンド王国のルドルフ二世の娘アデレード(Adelheid von Brugund)を通じ神聖ローマ皇帝にも受け継がれている
ブルグンド自由伯(フランシュコンテ)の創始者オットー・ギョームはプロヴァンス王国最後の支配者ウーゴを倒したイタリア王ベレンガーリオ2世の孫でそのベレンガーリオ2世の妻ウィラ(つまりオットー・ギョームの祖母)はウーゴの姪にあたる
むしろわかりやすい
その後のブルゴーニュ諸国は相互に血縁関係とかあるから分かりにくい
これがのちに神聖ローマ皇帝をも出したヴェルフ家にどう繋がるのか調査してみたいと思う
低地ブルゴーニュ王国は、西フランク王国から分離した小国のひとつ
低地ブルゴーニュ国王ルイは、トスカーナ辺境伯などイタリア王国の
有力諸侯の一部によって、イタリア国王ベレンガーリオ1世の
対抗馬としてかつぎだされた
ちなみにルイは女系でカロリング家の血を引いている
900年、パヴィーアでイタリア国王に、翌年、ローマで皇帝に
即位したルイは、勢力を回復したベレンガーリオに敗北し、
905年、盲目にされたうえで故国に送還された
高地ブルグンド王国の国王ルドルフをかつぎだした。
ルドルフは、翌年、パヴィーアでイタリア国王に選出され、923年、
ベレンガーリオを戦いで打ち破った。
翌924年、ベレンガーリオは家臣によって暗殺され、以後962年まで、
西方では皇帝の称号を持つ人物が不在となった。
イタリア北部と低地ブルゴーニュ(プロヴァンス)に進入した
マジャール人を撃退した。
しかし、同年、ルドルフと対立するに至ったイタリア諸侯が、
このユーグをパヴィーアでイタリア国王に選出したので、
ルドルフは高地ブルグンドに帰国した。
ユーグは、928年、ルドルフに低地ブルゴーニュを移譲し、
その見返りにイタリアでの地位を確保した。
933年、高地ブルグンドと低地ブルゴーニュが統合されて、
ブルグント王国が成立した。
そしてアルドゥイーノに敵対するイタリア諸侯の求めに応じたハインリヒ2世が、
1004年、ローマに遠征し、パヴィーアでイタリア国王に即位。
しかし住民の反乱に出会ってドイツに帰還したので、アルドゥイーノは権威を回復。
そしてハインリヒ2世は、1014年、ローマで皇帝戴冠を挙行したが、
ドイツ人支配に反発するアルドゥイーノ派の諸侯、とりわけトスカーナ辺境伯と
ミラーノ司教との反抗に出会った。
ベレンガーリオ2世の孫のオットー・ギョームのことだね
この人は義父のウード・アンリ(フランス王ユーグ・カペーの実弟; オットーギョームの母ジェルベルジュ・ド・マコンの再婚相手)から
ブルグンド公位も短いながら2年だけ受け継いでいるんだよね
ブルグンド公位の方はその後ユーグ・カペーの息子、フランス国王ロベール2世に持っていかれたが
オットーギョームの母親のジルベルジュは
ブルゴーニュのマコンの出身だということ。
オットーギョームの父親はイタリア王だったのに
その父の故郷のブルゴーニュ出身の妻を迎えたのか
オットー1世以来、東フランク国王が連続して皇帝となるが、
それは当時の西方世界にザクセン朝以外の有力な政治権力がなかったという
特殊な歴史状況によって規定された偶然の結果
東フランクにおけるオットーの後継諸王が、途切れることなく、
こうした皇帝の任務を実際に担い続けた結果、東フランク=ドイツ王位と
皇帝位とが切り離しがたく結びつくという伝統が形成された
オットー1世は若い頃、弟に反乱され、負ける寸前まで追い込まれた。
その後は、息子に反乱され、これまた負ける寸前まで追い込まれた。
962年に、オットー1世は皇帝として戴冠した。
苦労に(962)めげず、オットー戴冠
シュヴァーベン大公リウドルフは、953年に父に反旗をひるがえしたな
反乱側は、侵入していたマジャール人とさえ結びついたが、955年に鎮圧された
大公が部族と結びついて、王国内の王国となるのを避けるためである。
だが、彼らもまた結局は部族大公化し、自立を目指した。
彼らは公、伯といった世俗の封建諸侯に比較して教養があるし、基本的に子がいないという建前になっているので封土を世襲するという事もない(帝国教会制)
しかし、これが後々聖職叙任権闘争の原因となり、ローマ教皇と激しく闘う事になる
しょせんフランス王家の分家なんだからあまり意味はないな
ボゾン家かアンスカリ家が続いてほしかったよ
そこで国を樹立できたのは
ボゾン家の君主を期待する人間がいて、担ぎ上げてくれたから?
プロヴァンスにはボゾン家に代わって当時は古ヴェルフ家(オットー大帝妃アーデルハイドの兄コンラート王)が支配していたよ
イタリア王国の諸侯の一部がフランスのアキテーヌ公を国王に選出しようとした
この時期はまだイタリア諸侯とフランス南部の大諸侯との連携が存在していたらしい
アキテーヌ公ギョーム5世(偉大公)の妻はブルゴーニュ公オットー・ギョームの娘アニェス・ド・ブルゴーニュだな
イタリアのイヴレーア家=ブルゴーニュのアンスカリ家と姻戚関係にあったようだが、偉大公はドイツ王コンラート2世(ザリエル王朝)との政争を避けるためにその申し出を断ったらしい
>>157
そりゃ、北イタリアから見れば、南フランスは仲間に思えるだろうな
パリが南仏を征服してからは、その関係はなくなった
1046年、トリーノ伯領の相続者と婚姻関係を結び、それを契機に、
アルプスのこちら側のイタリア王国にも、もうひとつ伯領を得た。
アルビジョワ十字軍さえなければ…
その後のフランスの歴史は変わっていたんだろうか?
変わってなかったと思う
ポルトガルのボルゴーニャ朝や、アンジュー・ハンガリー家がフランス本国の歴史にほとんど関係なかったのと同じに
>>165
変わっただろうな
何が変わったかといえば、懲りずにまた十字軍を海路で送っただろう
南イタリアが、スペインでなく、フランスの延長になる意味は大きい
フランスは、もっと早くイタリア支配に乗り出しただろう
90年間続いた「シチリア晩祷戦争」は、ナポリ王国とシチリア王国の
国力をともに消耗させた。
結局この戦争で利益を得たのは、莫大な戦費を融資し、商業特権を得た外国商人。
ナポリ王国では、トスカーナやヴェネツィアの商人が優勢であり、
シチリア王国では、トスカーナ商人に替わってしだいにカタルーニャ、とりわけ
バルセローナの商人が優勢となった
なんだか南イタリアは何をやっても報われないという感じだな
一つのまとまった領土と考えていた。
そして、このまとまりを確かなものにするために、代々、
オクシタニアの諸侯と姻戚関係を結ぶなどして外交政策に
心を砕いていた。
南フランスも南イタリアも、アラゴン・カタルーニャの傘下か
アラゴンは西地中海の支配者だな
アラゴン海上帝国の歴史的異称は伊達じゃないですよ
もともと南フランスとのつながりが強いんだよな
海洋国家と大陸国家の違いだな
南仏プロヴァンス伯のドルサだった。
この結婚は、その後長らく続くカタルーニャの南仏支配の始まりとなる。
連合軍が勝っていたら、南仏はスペイン領になっていたんだろうか
>>184
むしろピエモンテ=プロヴァンス=カタルーニャ・アラゴン王国爆誕で、スペイン誕生せず、ってなるんでは
イタリア王国も結果的に生まれなそう
しかしもはや双方の合意に基づかずに国境線を変更することはできない
無理やりにでも今の国境線を引いたもん勝ち