2(遊) 山葉寅楠(ヤマハ)
3(中) 井深勝(Sony)
4(捕) 本田宗一郎(本田技研)
5(右) 早川徳治(???)
6(一) 安藤百福(日清食品)
7(左) 松下幸之助(パナソニック)
8(三) 出光佐三(出光興産)
9(投) 田中久重(東芝)
【学歴】大阪工業大学 (現在の大阪大学工学部)
【職種】ウィスキー製造エンジニア
【功績】日本初の国産ウィスキー製造
【前職】寿屋(現在のサントリー)山崎蒸溜所初代所長
【解説】
朝ドラ「マッサン」で有名になったニッカの創業者である。
第一次世界大戦バブル期にイギリスに留学してウィスキー製造業を学び、
後に寿屋(現在のサントリー)で日本初のウィスキー製造を始める。
なお「マッサン」ではサントリーの創業者である鳥井信治郎が
竹鶴に無償で融資したかのような描写があったがこれは大嘘である。
ドラマでは生活が苦しいような描写があったが
実際には国内唯一の蒸留技術者である竹鶴の給与は非常に高く
下町住まいなどはしていない。
※全体的にドラマは史実と異なる無意味な改変が多いため、
竹鶴を知るには適さない作品である。
後に独立し、イギリスの醸造所に似た気候である北海道で
リンゴジュース製造を始めながら、ウィスキー製造を開始する。
なお、リンゴジュース製造には色や形も関係なく買い取る仕組みのため、
地元のリンゴ農家からはずいぶんと感謝されたそうである。
なお、
中学の先輩はとある有名人であり、布団の上げ下げをした仲だという。
この有名人との交流は生涯にわたり、
この有名人は国際的なパーティーでは
国産ウイスキーを使うように指示していたという。
この有名人こそが、第58・59・60代 内閣総理大臣 池田勇人である。
【名言・エピソード】
昭和37年、英国のヒューム副首相が来日した際、
当時の池田首相に、こう話したと言われる。
「50年前、頭の良い日本の青年がやってきて1本の万年筆とノートで
英国のドル箱であるウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」
これは日本のウイスキーの品質を誉めた上でのユーモアでありながら、
実は日本のウイスキーの品質の良さに対する本音であった。
これを聞いた“頭のよい日本青年”は冗談まじりにこう言った。
「世間には、スコットランド専売のウイスキー造りを持ち帰った私に、
英国人がよい感情を抱いていないのではないか、と危惧する人がいる。
とんでもない。
スコットランドでしかできないウイスキーを日本で造ったおかげで、
今ではどんな田舎でもウイスキーが飲まれている。
日本はスコッチの大きな市場となったのだから、
私の方こそエリザベス女王から勲章をもらってもよいくらいだ。」
本田宗一郎の口癖やでー。
浜松の言葉で「やろうじゃないか」だそうな
ほーん静岡弁なんやね
【学歴】長崎留学で時計修理を学ぶ
【職種】オルガン製造技師
【功績】日本初の国産オルガン製造
【前職】医療器具の修理工
【解説】
幼いころから機械いじりが得意だった寅楠少年は、
長じて長崎に留学し、時計修理を学ぶ。
そして大阪で医療器具店に勤めながら医療器具の修理工として働いた。
1887年にアメリカから輸入されて寄付されたリードオルガンは45円であったが、
寅楠はそのオルガンの仕組みをすぐに理解して模写し、
「自分は3円で売る自信がある」と言ったという。
当時浜松で飾り職人をしていた河合喜三郎と協力し
2ヶ月後にオルガンを完成させたが、
浜松の小学校や静岡の師範学校での評価は低かった。
そこで東京の音楽取調所(現東京藝術大学)まで徒歩でオルガンを担いで運び、
伊澤修二に評価を聞いたところ「調律が不正確」であることが解った。
そこで寅楠は1ヶ月音楽取調所で音楽理論を学び、オルガン第2号を製作した。
山葉の共同経営者は河合喜三郎と言い、
後にその息子がヤマハから独立して河合楽器製作所を創業した。
なお寅楠という名前は、
南方熊楠(みなかたくまくす、植物学・民俗学者)や、
横井小楠(よこいしょうなん、儒学者・政治家)に習い、
楠木正成にならって付けられたものである。
【名言・エピソード】
・最初は輸入オルガンの修理
→楽器関係作る
・楽器やってた流れで電子楽器も作る
→LSIも作る
・LSIを作ったからパソコンも作る
→他にも利用しようとしてルーター作る
という流れで、楽器、電子機器、ネットワーク関係の製品を作るようになった。
じゃ、なんで発動機や家具とかも作ったのかというと、
・オルガンやピアノ作りで木工のノウハウが蓄積される
→家具を作る
→住宅設備も作る
・戦時中に軍から
「家具作ってるんだから木製のプロペラ作れるだろ」といわれて
航空機のプロペラ作る
→終戦後にGHQから返してもらった設備でバイクとエンジン作る
・ヤマハ発動機を立ち上げる
→設立9日後に初めて作ったバイクでレースに優勝
・社長が弓道やってたからFRPでアーチェリー作る
→FRPあるから船も作る
・社長が自分で使ってたアメリカ製の船外機がよく故障するので船外機作る
・FRPを利用してプールを作る
→ついでにウォータースライダーも作る
・インドネシアの駐在員の家族から
「水道水が汚い」ってクレームがきたから浄水器作る
・バイクから出る二酸化炭素を何とかできないかと思ってバイオ事業化
3(中) 井深勝(Sony)
【学歴】早稲田大学理工学部
【職種】電子工学
【功績】トランジスタラジオの製造・ウォークマン
【前職】写真化学研究所の社員
【解説】
世界に名だたる企業、ソニーの創業者である。
祖先は会津藩の家老であり、
この打線の中では最も裕福かつ高学歴な戦後型企業者である。
創業者としては名パートナー副社長である盛田昭夫も有名である。
軍需電子機器の開発を行っていたことが縁で海軍技官である盛田昭夫と出会う。
技術は井深が、営業は盛田が担当し、ソニーの二輪を支え続けた。
この関係はホンダにおける本田宗一郎と藤沢武夫の関係に酷似しており、
また互いに戦後一代で大企業を作り上げたことから
本田と井深は生涯の親友であったという。
戦後、日本で初めてとなる
トランジスタラジオの量産に踏み切り、世界を驚かせた。
池田勇人はシャルル・ド・ゴール大統領から
「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されたが、
この時のトランジスタラジオこそがソニーの主力商品であった。
幼児教育の重要性を説いていることでも有名であり、
「幼稚園では遅すぎる」などのベストセラーを出している。
存命中に発売したプレイステーションについては
どう考えていたのか気になるところである。
※ワープロをマスターしている最中に
本田宗一郎が亡くなったのは有名な話であり
新しもの好きではあったはずである。
・他人がやらないことに全力を注げ。
・中小企業の社長になったつもりで考えろ。
・なぜ、そういう考え方をするのか。そんな数年後ではない。
1990年や、2000年でもなく、2010年、2020年にはどうなっている、
どうなるべきだから、という考え方をしないといけない。
・技術革新のネタは企業や大学でなく市場にある。
・企業にとって重要なのは発明より革新なのだ。
その革新は実はたわいのない夢を大切にすることから生まれる。
・人がやったというニュースだけで
日本では同じものがすぐにできるという不思議な性質がある。
これはそれをつくるだけの技術力は十分持っていながら、
これを思い切って企業化しようという
勇気に欠けていることを証明しているようだ。
すべての分野で日本の技術力に自信を持ち、
思い切った決断を下せるようになったときこそ真の日本の暁は訪れるだろう。
・私からソニーを引き去ったら何も残らない。
また残らなくても少しも悔いないどころか大変満足に思っている。
私のやりたいこと、私の夢を実現させる場がソニーだったのだ。
また幸いそれを実現させることが
今日までソニーにとってはプラスになってきた。
夢とわがままは当分続くことだろう。
・creative failure(創造的失敗)を、恐れるな。
・人生で出会う出来事は、すべて何かを教えてくれる。
生きている限り、学ぶべきことがある。
・社会をリードしていく人間の、基本的能力とは何か。
それが「人徳」であると私は思います。
・我が社には組織がない。今日の組織は明日の組織ではなく、
明日の組織も明後日はどうなるかわからない。
だから組織づくりといえば、毎日が組織づくりである。
いや毎日、会社そのものをつくっている。
4(捕) 本田宗一郎(本田技研)
【学歴】二俣尋常高等小学校
【職種】バイク・自動車エンジニア
【功績】国産バイク製造・低公害エンジンの開発
【前職】自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)
【解説】
世界的に有名な技術者である。
徹底的で妥協しない開発姿勢で有名であり、
また口よりも手が先に出るような困ったオヤジである。
ホンダ創業当時は技術者として有能であり、様々なバイクを世に送り出した。
しかし晩年は空冷式・水冷式をめぐる論争では
既に技術的についていけなくなっており、老害を晒してしまった。
しかし本田宗一郎のすごいところは、
この自らの技術力の衰えを真摯に受け止め、勇退したことである。
これが技術者出身の創業者にはなかなかできないことなのだ。
「女遊び」も公言するほどのお調子者感があったが、
社員・そして社会からの人気は絶大であり、
まさしく「技術者のカリスマ」と呼ぶにふさわしい。
様々なエピソードは数々の書籍やドラマになっている。
※一冊本が出せるぐらい名言がたくさんあることで有名。
その中でイッチが大好きなものを紹介したい。
・創業当時、私が「世界的視野に立ってものを考えよう」
と言ったら噴き出したヤツがいた。
・社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。
要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。
・芸術でも技術でも、いい仕事をするには、
女のことが分かってないとダメなんじゃないかな。
・企業で一番怖いのは社長の無知です。
問題は持っている知恵が古くなることです。そうすると、
過去がどんなに偉かった経営者でも、会社をつぶすことになります。
・人真似をするな。楽をしたければ人真似をするのも自由だが、
そうなると企業は転落と崩壊の道をたどり始める。
・技術者だからそこ自重してはならない。
技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ。
※作業着で受勲式に出ようとしたが社員に停められて断念
・通産省に言われたことと全部反対のことをやってきた。
だから、ホンダの今日がある。
・資本がないから事業が思わしくないとの声をよく聞くが、
それは資本がないからではなく、アイデアがないからである。
・こんなところで遊んでないで、さっさと帰って油まみれになって働け!
(企業向け勉強会に講師として呼ばれた時に)
・日本人は、失敗ということを恐れすぎるようである。
どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである。
・これ(クルマ)は、箪笥だの呉服を売るのとは違って、
人間の生命に関することなんだから、その点に一番気をつけなければならない。
・金のことは任せる。交通手段というものは、形はどう変わろうと、
永久になくならないものだ。
けれども、何をつくりだすかということについては一切、
掣肘(せいちゅう=干渉、口出し)を受けたくない。
俺は技術屋なんだから。(盟友の藤沢武夫に)
・藤沢(武夫)は自分にないものを持っている。
考え方は違うけれど、違うからこそ組む価値がある。
世界には45億も人間がいるが、みんなとつきあうわけにはいかない。
藤沢と僕の出会いはその代表みたいなもので、
藤沢はいわば45億の代表ですから。
・輸入規制などはとんでもない。オートバイを輸入しろ。
輸入して外国製品と競争していくと
日本のオートバイ・メーカーがちゃんとしたものを作れるようになる。
・(F1レースでホンダターボエンジンの圧勝を受けて、
FIAがターボエンジンの禁止を発表したことについて、
ホンダのチーム監督が宗一郎に直訴したときの名言)
ホンダだけがターボ禁止なのか?違うのか、馬鹿な奴等だ。
ホンダだけに規制をするのなら賢いが、
すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。
で、なんだ話ってのは?
5(右) 早川徳次(???) ※名言・エピソードで明かされます。
【名言・エピソード】
1893──東京の下町に生を受けたが、母親が病弱
1895──口減らしのため養子に出されるが、養母にいびられまくる
1900──養母が「お前は小学校には行かせない」宣言。
超重労働家事をミスると飯抜き
1901──ある盲目の女性の紹介により丁稚奉公に出るが、養母がタカリに来る
1911──18歳で独立、ここでようやく両親が他界していたことを知る
1912──実の兄と対面、兄弟で会社を設立。独立資金50円の内40円は借金
1922──働きすぎによる過労で倒れる。血清注射による治療であやうく命拾い
1923──関東大震災発生。ここでも九死に一生を得るが、妻と二人の子供は死亡、
工場も焼失。債務返済のため各種の特許を売却。再び一文無しとなる
1924──新天地・大阪で会社設立。旧従業員数名が手弁当で無理についてきた
「給料を払えるかどうか分からないんだ、
東京のほうが復興需要で仕事があるぞ」
「社長、誰が給料欲しいなんて言いました?」
1948──物不足と金融引き締め政策により経営悪化
「可愛いお前たちのクビを切ってまで、会社を存続させられない。
再就職先は死んでも俺が見つける。心配するな」
「社長、この会社が無くなるぐらいなら、
それこそ死んだほうがマシです」
1950──倒産の危機。なのに盲人を雇うための会社を設立。
「あのときあの盲目の女性から受けた恩を忘れたら、
俺は人でなくなってしまう」
従業員もなぜか賛成
「それでいいんです、社長。それでこそ社長とこの会社です」
1962──まだ会社は油断できない状態なのに福祉会館を設立。
「人を愛することは、自分を愛することと同じだ」
従業員もなぜか賛(ry
1970──社 名 を 「 シ ャ ー プ 株 式 会 社 に 変 更 」
シャープ株式会社創業者・早川徳次(1893 - 1980)
【学歴】尋常小学校中退
【職種】発明家
【前職】錺屋(かざりや:金属細工業)
【功績】シャープペンシル・徳尾錠の発明
【解説】
世界的に有名な「シャープペンシル」を開発したことで有名な人物である。
そしてベルト穴のいらないバックルである徳尾錠を開発したことでも知られている。
しかしそれらの発明財産は
関東大震災によってすべてライセンスを失ってしまい、
震災後はゼロからのスタートとなってしまった。
その後の社員からの忠誠度についてはエピソードの通りである。
社員から愛されている度としては、この打線随一である。
6(一) 安藤百福(日清食品)
【学歴】立命館大学専門学部経済科
【職種】食品発明家
【前職】繊維商社・光学機器や精密機械の製造・飛行機エンジンの部品製造
【功績】チキンラーメン・カップラーメンの発明
【解説】
若い頃はあらゆる業種に手を出し、そして、それなりの成果を上げたが、
戦後とある信用組合の理事長に就任した直後に信用組合が倒産したため、
無一文となってしまった。
チキンラーメン(即席めん)の開発は40代後半であり、
再起をかけるにしてはずいぶんと遅い年齢であるが、
それゆえに熟年層に人気の高い経営者である。
連合赤軍あさま山荘事件のテレビ中継放送で、
厳寒の中、湯気の上がるカップヌードルを食べる機動隊員の姿が映された。
何を食べているのか興味を持った視聴者からの問い合わせが殺到し、
これが事実上の宣伝となって、爆発的な売れ行きを伸ばした。
この時、日清食品は
警視庁に通常小売価格(100円)の半額でカップヌードルを提供した。
96歳まで生涯現役で、波乱万丈の実業家人生を終えた。
長寿・健康の秘訣を聞かれると必ず
「週2回のゴルフと毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」
と答えるのが口癖だった。
同年1月9日付の米紙ニューヨークタイムズは社説でその死を悼み、
「ミスターヌードルに感謝」という見出しを掲げ、
即席麺開発の業績により
「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」と絶賛した。
【名言・エピソード】
・みずからの足で歩き、みずからの目で確認しなさい。
そうでなければあなたの話には、重みも説得力もない。
・経営者の落とし穴は賛辞の中にある。
偉くなればなるほど身の回りに甘い言葉が集まり、
英雄的気分にひたっていると必ずつまずく。
苦言に耳を貸さない経営者は、必ず会社に危機を招く。
・即席めんの開発に成功した時、私は四八歳になっていた。
遅い出発とよく言われるが、人生に遅すぎるということはない。
五〇歳でも六〇歳でも新しい出発はある。
・ベンチャー精神とは、無から有を創造することである。
先手を取るから成功するものであって、後手、後手じゃ勝つわけがない。
・単なるモノであることを超え、ひとつの文化として
受け入れられる商品を生み出すことは、
利益だけを求める姿勢からは生まれません。
7(左) 松下幸之助(パナソニック)
【学歴】関西商工学校夜間部予科(関西大倉高等学校)
【職種】発明家
【前職】大阪電灯(現:関西電力)の技師
【功績】二股ソケットの発明
【解説】
やはり世界的に有名な経営者である。
丁稚奉公や電灯技師時代のエピソードをよく語り、
自伝を通じて道徳的な経営を世の中に説いた。
これは今の目線では非常に説教臭く、つまらないものに感じることがある、
しかし幸之助が生きた時代の経営者は、
金儲けのみにしか興味がない人間がほとんどであった。
成功した経営者としてのあるべき姿を後世に残したことが最大の功績であろう。
二股ソケットは大正三大発明に数えられる革新的な製品であり、
松下最初のヒット商品となった。
晩年は社会起業家としての功績が高く、多くのテレビ番組のスポンサーとなった。
この中で最も有名な番組は「水戸黄門」であろう。
世の中の悪や不正を憎み、正しい道を説く松下の意向が、
この番組を方向づけている。
また「松下経営塾」も有名であり、
ここから後に首相となる野田佳彦が輩出されている。
「下請けではなく共栄企業」という信念のもと、
他社よりも有利な条件を提示して中小下請け企業を囲い込んだ。
ただし「説教臭いし話が長い」と言われることも多く、
特に本田宗一郎は松下を毛嫌いしていたという。
【名言・エピソード】
・人と比較をして劣っているといっても、決して恥ずることではない。
けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、
もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべきことである。
・商売とは、感動を与えることである。
・「それは私の責任です」ということが言い切れてこそ、責任者たりうる。
・部下に大いに働いてもらうコツの一つは、部下が働こうとするのを、
邪魔しないようにするということだ。
・失敗の多くは、成功するまでにあきらめてしまうところに、
原因があるように思われる。最後の最後まで、あきらめてはいけないのである。
・十のサービスを受けたら十一を返す。
その余分の一のプラスがなければ、社会は繁栄していかない。
8(三) 出光佐三(出光興産)
【学歴】神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)
【職種】石油エンジニア
【前職】小麦粉や石油・機械油を商う零細商店
【功績】不凍機械油の調合製造
【解説】
海賊と呼ばれた男である。
徒手空拳で大きな敵に立ち向かうドン・キホーテのような人物である。
福岡県門司市(現・北九州市門司区)に出光商会を設立。
日本石油(現・JXエネルギー)の特約店として機械油を扱った。
当時、機械油の販売は細かく縄張りが決められており、
自由な商売は見込めなかった。
そこで佐三は、販路を広げるために海上での販売を開始し、
石油小売り業界に喧嘩を売った。これ故彼は「海賊」と呼ばれたのである。
満州の極寒地で凍ってしまう恐れのある機械油の代わりとなる
不凍機械油の調合製造を行い、大陸に販路を広げた。
戦後、あまりの販売力を恐れられて石油を回してもらえなくなるものの、
GHQへの直訴でなんとか首の皮一本でつながることとなる。
国内では初となる巨大タンカーを製造し、独自に石油を輸入していた。
しかしメジャーはの介入により石油が輸入できなくなってしまう。
この時に英国と揉めていたイランでの石油の買い付けに成功したのが
「日章丸事件」であった。
この事件は「英国海軍に喧嘩を売った事件」として報道された。
【名言・エピソード】
・(終戦直後に社員を全員集めて)愚痴をやめよ。
世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ
・四無主義
(1)クビを切らない (2)定年を設けない
(3)出勤簿を作らない (4)労働組合をつくらない
・海外から帰ってくる社員をクビにするだと?
社員は家族だ。そんな薄情なことができるか。
仕事がないなら探せばよい。安易に仲間をクビにして
残った者だけで生き延びようとするのは卑怯者の選ぶ道だ。
みんなで精一杯やって、それでも食っていけなくなったら、
みんな一緒に乞食になろうじゃないか
・出光の仕事は金もうけにあらず。人間を作ること。経営の原点は人間尊重です。
世の中の中心は人間です。金や物じゃない。
その人間というのは、苦労して鍛錬されてはじめて人間になるんです。
金や物や組織に引きずられちゃいかん。
そういう奴を、僕は金の奴隷、物の奴隷、組織の奴隷という手攻撃している。
9(投) 田中久重(東芝)
【学歴】近代教育以前
【職種】発明家
【前職】天文学・蒸気技師・
【功績】国産初の蒸気船製造
【解説】
江戸末期最高の発明家である。
8歳で「開かずの硯箱」を作ったのを皮切りに、
ゼンマイ仕掛けのからくり人形、アームストロング砲、
蒸気機関、電話機など生涯を通じて発明に没頭。
なかでも万年時計は「江戸期最高」とまで言われ、
幕末から明治にかけて発明家としてその名を世に轟かせた。
万年自鳴鐘は1000点を超える部品
(ほとんどが田中による手作り)から作られており、
当時の世界水準を考えても十分すぎるほどのオーパーツである。
十干十二支、月齢の表示、二十四節気、曜日・時刻、などの
とんでもない仕様を盛り込み、後世を驚かせた。
これは田中に十分な天文学の理解があったことを示している。
2004年に復元されたレプリカはその後、「愛・地球博」で展示された。
日本初の民間機械工場「田中製作所」を創設したのが1873年、実に75歳の時。
これが東芝の発祥とされる。
【名言・エピソード】
・「そう言うべからず。これも国のためであり、人助けにもなることたい」
注釈:久重は機械について相談されると誰が相手でも気さくにアドバイスをした。
現場からは「これでは儲けにならない」という声があがった。
その時に発したのが上の言葉である。
久重はボランティアで相談に乗ることをやめなかったという。
・「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、
忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」
・「国家に有用なる機械をせいぞうして奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん」
存命だしこのラインナップでスタメン入れるかと言われるとなぁ
営業マンというなら分かる。
ほかも発明家と技術者をごっちゃにしてない?
満州鉄道に不凍機械油を下すために一生懸命努力したんで技術者としたんや。
ここの打線の人間は生涯現役技術者ばっかりというわけではないので、
このあたりの線引きは微妙なんやが
出光佐三はどうしてもこの打線にいれたかったんや