今日は董卓伝の解説や
董卓、字仲穎、隴西臨?人也。
董卓は字を仲穎といい、隴西郡臨?県の人である。
若いころから侠を好んだ。羌族(異民族)の中で旅をし、有力者と交わった。後に野に戻り畑を耕した。羌族の有力者たちの中で董卓の元へ来る人が居れば、農耕用の牛を殺して宴を催した。有力者らはその意気を感じ、家畜千余りを董卓に送った。
※農耕してる董卓に草
漢の桓帝の時代の末期、六郡から良家の子を選び羽林郎に任命した。董卓は武術の才能があり、力が凄く、二つの弓袋を身に着け、左右に騎射することが出来た。軍の司馬となり、中郎将の張奐の?州征伐に伴って功を立て、郎中になり、絹布九千を賜ったが、董卓は悉く兵士に分けた。
広武令となり、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉となったが、辞めさせられた。
韓遂等起涼州、復爲中郎將。
召し出されて?州刺史、河東太守となった。中郎将に昇進し、黄巾討伐をしたが、軍は敗れてそれは罪に抵触した。韓遂らが涼州で決起すると、再び中郎将となった。
卓偽欲捕魚、堰其還道當所渡水、爲池。
西に韓遂を拒もうとしたが、望垣硤の北で羌族数万に包囲された。糧食は無くなった。董卓は魚を捕まえる振りをして、その帰り道の渡りのところで堤防を築き、池を作った。
水が滞ること数十里であり、敵が堤防の下を進軍するのを黙って通過させたところで堤防を決壊させた。
羌族はそれを聞き追いかけてきたが、水は深く渡れなかった。
屯住扶風。拜前將軍、封??侯、?爲?州牧。
その時、隴西に行った六軍が五軍敗亡した。董卓だけは全軍損なわず帰還した。扶風に駐屯した。前将軍に任命され、?郷侯になり、?州牧となった。
太后不從。進乃召卓使將兵詣京師。
霊帝が崩御し、小帝が即位した。大将軍何進と司隸校尉袁紹は共に謀って、宦官を誅殺しようとした。太后は従わなかった。そのため何進は董卓と将兵を都に召し寄せた。
中常侍段珪等劫帝、走小平津。卓遂將其衆迎帝于北芒、還宮。
中常侍の段珪らが小帝を連れて、小平津に逃げた。董卓らは将兵を率いて小帝を北芒に迎え、都に帰った。
卓又使呂布殺執金吾丁原、?其衆。故京都兵權唯在卓。
その時、何進の弟の何苗は、何進の手のものに殺された。何進と何苗の部下はみな所属が無くなり、皆董卓軍に加わった。董卓はまた呂布を使って執金吾丁原を殺させ、その軍を吸収した。都の兵権を持つ者はただ董卓だけになった。
※天下人になる人は運も必要っていうけど本当やね
そういやこれ何苗が兄貴の手のものに殺されてるんだけど
どんだけグダっとんねん肉屋軍団
於是以久不雨。策免司空劉弘。而卓代之。俄遷太尉、假節鉞虎賁。
このとき長期間あめが降らなかった。
司空の劉弘は罷免され、董卓がこれに変わった。
すぐに太尉に昇進し、節と鉞を貰い受け近衛兵を率いた。
遂に小帝は廃され、弘農王になった。また王(誰かは不明)と何太后が殺された。霊帝の子の陳留王が献帝として即位した。董卓は相国となり、?侯に封ぜられた。拝謁の時に名前を名乗らず、帯剣したまま殿に上がる特権を得た。また、董卓の母親は池陽君に封ぜられ、家令・丞が置かれた。
董卓は既に精鋭を率いて来て、
ちょうど帝室が乱れたときに、
皇帝の廃立を専断した。
睚眦之隙必報、人不自保。
武器庫、兵士、国家の珍しい品があったため、天下に威を震わせた。董卓は性格が残忍で仁愛がないため、厳しい刑罰で皆を脅かした。睨まれたくらいの小さな恨みでさえ必ず報復したため、人々は自分の安定すら保てなかった。
かつて軍を遣わして陽城に行ったことがあった。時は二月の祭のときであった。民衆は皆社(やしろ)に居り、そこにいた男子の首をことごとく刎ねた。そこにあった牛車に乗り、婦女や財物を載せた。刎ねた男子の首を車輪に繋げ、洛陽に帰った。
※横山三国志では女を牛裂きにしとったな
あれはトラウマや
甲兵爲婢妾。至于姦亂宮人公主。其凶逆如此。
賊を攻撃して戦利品を獲得したといい、万歳をした。陽城の門を開いて入り、その頭を焼いた。婦女を兵士に下女や妾として与えた。さらに宮人や公主に乱暴を働いた。董卓の凶悪さはこのようであった。