鍾会、字士季、潁川長社人、太傅?小子也。少敏恵夙成。
鍾会は、字を士季といい、潁川郡長社県の人で、太傅の鍾?の末子である。若い頃から明敏で早熟であった。
中護軍蒋済、著論、謂「観其眸子、足以知人」会年五?、?遣見済、済甚異之、曰「非常人也」
中護軍の蒋済は、論文を著して、言った「その瞳を見れば、その人がわかる」鍾会は五歳で、鍾?に遣わされて蒋済に会ったが、蒋済は彼をとても素晴らしいと思い、言った「並々ならぬ人物だ」
いろんな人の子供時代の謎高評価の取ってつけた感
及壮、有才数技芸、而博学精練名理。以夜続昼、由是獲声誉。正始中、以為秘書郎、遷尚書中書侍郎。高貴郷公即尊位、賜爵関内侯。
成年に達すると、才能と技芸を有し、博学で論理学に精通した。昼夜学び続け、そのために名声を獲得した。正始年間(240-249)、秘書郎となり、尚書中書侍郎に昇進した。高貴郷公(曹髦)が帝位につくと、関内侯の爵位を賜った。
おそらく後付けだろうね
?丘倹作乱、大将軍司馬景王東征、会従、典知密事。衛将軍司馬文王、為大軍後継。
?丘倹が反乱を起こすと、大将軍の司馬景王(司馬師)は東征し、鍾会はそれに従軍し、参謀を担当した。衛将軍の司馬文王(司馬昭)は、大軍を率いて後に続いた。
景王薨於許昌、文王総統六軍、会謀謨帷幄。時中、詔勅尚書傅?「以東南新定。権留衛将軍屯許昌、為内外之援。令?率諸軍還」
景王が許昌で亡くなると、文王は六軍を統べ、鍾会は帷幄(本営)で謀を立てた。このとき、詔で尚書の傅?に命じた「東南は定まったばかりだ。仮に衛将軍(司馬昭)を留めて許昌に駐屯させ、内外の支援をさせよう。傅?は諸軍を率いて帰還せよ」
鍾会?
うん
なんかの小説で見たから史実かどうかはわからん
関係あったかな
罠にはめてたような
確か鍾会の讒言受けて誰か殺されたような
?康
呂印だかに連座させて殺した
会、与?謀、使?表上、輒与衛将軍?発、還到?水南屯住。於是、朝廷拝文王為大将軍、輔政。会遷黄門侍郎、封東武亭侯、邑三百戸。
鍾会は、傅?と謀り、傅?に上表させ、ただちに衛将軍とともに出発し、帰還して?水の南に行って駐屯した。こうして、朝廷は文王を大将軍とし、政を助けさせた。鍾会は黄門侍郎に昇進し、東武亭侯に封じられ、邑は三百戸であった。
※司馬師・昭の父の懿の時代から彼ら親子は魏の権力を壟断しており、鍾会のこの行動は司馬師死後の権力を昭に帰さんとするためのもの
これは成功して鍾会は上記の待遇を受けたのである
ワイの私見ではブチ切れて突発的な犯行に走っただけだと思うわ
野望説ならいくらなんでも鍾会にしてはガバガバすぎる
唆した大戦犯姜維か
しかし大概な歳なのに何がやりたかったんやろ
鄧艾が調子乗って喧嘩売りまくったのと司馬昭の采配ミスでブチ切れた可能性
甘露二年、?諸葛誕為司空。時会、喪寧在家、策誕必不従命、馳白文王。文王、以事已施行、不復追改。
甘露二(257)年、諸葛誕を召して司空にしようとした。このとき鍾会は、服喪のために家にいたが、諸葛誕が決して命に従わないと考えた、馳せて文王に申し上げた。文王は、その事(諸葛誕を召したこと)はすでに行ってしまったので、改めようとはしなかった。
及誕反、車駕住項、文王至寿春、会復従行。
諸葛誕が反乱するに及んで、車駕(高貴郷侯。監視のため連れていった)は項に留まり、文王は寿春に到り、鍾会はふたたび従軍した。
初、呉大将全琮、孫権之婚親重臣也、琮子懌、孫静、従子端、翩、緝等、皆将兵来救誕。懌兄子輝、儀、留建業。与其家内争訟、攜其母、将部曲数十家、渡江、自帰文王。
当初、呉の大将の全琮は、孫権の姻戚(孫権の娘婿である)で重臣であり、全琮の子の全懌、孫の全静、従子(おいの)全端、全翩、全緝らは、みな兵を率いて諸葛誕を救いに来た。
全懌の兄の子の全輝、全儀は、建業に留まった。その一族内で訴訟を起こして争い、彼の母を連れ、数十家の私兵を率い、長江を渡り、文王に帰順した。
会建策、密為輝儀作書、使輝儀所親信齎入城告懌等。説、呉中怒懌等不能抜寿春、欲尽誅諸将家、故逃来帰命。
鍾会は策を案じ、密かに全輝・全儀らに書を作り、全輝・全儀が信頼する者に持たせて城に入れて全懌らに告げさせた。その話は、呉では全懌らが寿春を攻略できなかったことを怒り、諸将の家の者をすべて誅殺しようとしており、そのため逃げて来て帰順したとのことだった。
懌等恐懼、遂将所領、開東城門出降。皆蒙封寵。城中由是乖離。寿春之破、会謀居多。
全懌らは恐懼し、ついに部隊を率い、東の城門を開いて降伏しに来た。全員(爵位を)封じられて寵愛された。城内はこのために内輪揉めが起こった。寿春の攻略は、鍾会の謀略によるとことが大きかった。
親待日隆、時人謂之子房。軍還、遷為太僕、固辞不就。以中郎、在大将軍府、管記室事、為腹心之任。以討諸葛誕功、進爵陳侯、?譲不受。
(司馬昭の)待遇は日に日によくなり、時の人は彼を子房(西漢開国の功臣。子房は字。姓は張、名は良)と呼んだ。軍が帰還すると、太僕に昇進することになったが、固辞して就任しなかった。
中郎として、大将軍府におり、書記を担当して、腹心の任務をこなした。諸葛誕を討伐した功により、陳侯に爵位を進められたが、その都度謙譲して受けなかった。
晋にとっての子房ってだれやろ
鍾会ではないな(断言)
賈充やろ
やっぱそこかな
西晋ならワイも賈充に一票や
詔曰「会、典綜軍事、同計策、料敵制勝、有謀謨之勲。而推寵固譲、辞指款実、前後累重、志不可奪。夫、成功不処、古人所重。其聴会所執、以成其美」
詔にいう「鍾会は、軍事を総轄し、策略の立案に参加し、敵をはかって勝ちを制し、謀略の勲功がある。
恩寵を与えても、固く謙譲し、言葉は誠実で、前後で何度繰り返しても、考えを変えさせられなかった。そもそも、功を成しても留まらないのは、古人が重んじることである。鍾会の考えを聞いてやり、美事を成さしめてやろう」
遷司隸校尉。雖在外司、時政損益、当世与奪、無不綜典。?康等見誅、皆会謀也。
司隸校尉に昇進した。外の職にあるとはいえ、当時の政治や、世の賞罰で、管轄しないものはなかった。?康らが誅殺されたのも、すべて鍾会の謀であった。
文王、以蜀大将姜維?擾辺陲、料蜀国小民疲資力単竭、欲大挙図蜀。惟会亦以為蜀可取、予共籌度地形、考論事勢。
文王は、蜀の大将の姜維がしばしば辺境を騒がせていることから、蜀は国が小さく民が疲弊し資源も尽きていると考え、大挙して蜀を攻略しようとした。ただ鍾会だけが蜀を取れると考え、あらかじめともに地形を量り、事勢を論じあった。
景元三年冬、以会為鎮西将軍、仮節都督関中諸軍事。文王勅青徐?豫荊揚諸州、並使作船、又令唐咨作浮海大船、外為将伐呉者。
景元三(262)年冬、鍾会を鎮西将軍、仮節都督関中諸軍事とした。文王は青・徐・?・豫・荊・揚諸州に命じ、揃って船を造らせ、また令唐咨に海に浮かべられる大船を造らせ、表向きには呉を討伐すると思わせた。
この時鄧艾が征西よな
鎮西大将軍の誤植説
ちょいと確認してみる
ウィキ文庫や中国哲学書電子化計画でも同様だったで
さんがつ
でも鎮西の指揮下に征西って違和感
魏の官制やと四鎮は四征より下やったはず
別の伝でその目的が語られてたりするんかな
四年秋、乃下詔、使鄧艾諸葛緒、各統諸軍三万余人。艾、趣甘松沓中、連綴維。緒、趣武街橋頭、絶維帰路。
景元四(263)年秋、かくして詔を下し、鄧艾・諸葛緒に、各々諸軍三万人余りを統率させた。鄧艾は、甘松・沓中に赴き、姜維と対峙した。諸葛緒は、武街・橋頭に赴き、姜維の帰路を断った。
会、統十余万衆、分従斜谷駱谷入。先命牙門将許儀、在前治道。会、在後行、而橋穿、馬足陥。於是、斬儀。儀者、許?之子、有功王室、猶不原貸。諸軍聞之、莫不震竦。
鍾会は、十万余りの兵を統べ、分かれて斜谷・駱谷から侵入した。まず牙門将の許儀に、前方で道を整えさせた。鍾会は、後方を進んだが、橋に穴が開き、馬の足が落ちた。そこで、許儀を斬った。
許儀は、許?の子で、王室に功があったが、それでも許されなかった。諸軍はそれを聞き、竦み上がらない者がいなかった。
ここだけ見ると目先の事しか判断出来ない阿呆とも見えるわね
処罰をなあなあで済ませるのは兵法家が忌むところだったり
孫武子や田穰苴は命令違反した人容赦なく処刑してる
蜀令諸囲皆不得戦、退還漢楽二城守。魏興太守劉欽、趣子午谷。諸軍数道平行、至漢中。蜀監軍王含、守楽城、護軍蒋斌、守漢城、兵各五千。
蜀は諸囲(すべてに戦わないように命じ、漢・楽二城に撤退して守った。魏興太守の劉欽は、子午谷に赴いた。諸軍はいくつかの道から並行して、漢中に到った。蜀の監軍の王含は、楽城を守り、護軍の蒋斌は、漢城を守り、兵はそれぞれ五千であった。
※姜維の作った防砦。蜀の末期、彼の建言によって劉備の漢中盆地に侵入させない態勢から盆地に引き込んで撃退する方針に変更された。詳しくは姜維伝参照
会、使護軍荀愷、前将軍李輔各統万人、愷囲漢城、輔囲楽城。会径過、西、出陽安口、遣人祭諸葛亮之墓。
鍾会は、護軍の荀愷、前将軍の李輔にそれぞれ一万人を統率させ、荀愷に漢城を囲ませ、李輔に楽城を囲ませた。鍾会は小路を通過し、西に向かい、陽安口を出て、人をやって諸葛亮の墓を祭らせた。
使護軍胡烈等行前、攻破関城、得庫蔵積穀。姜維、自沓中還、至陰平、合集士衆、欲赴関城。未到、聞其已破、退趣白水。与蜀将張翼廖化等、合守剣閣拒会。
護軍の胡烈らを前に行かせ、関城を攻め破らせ、倉庫の穀物を入手させた。姜維は、沓中より帰還し、陰平に行き、兵士たちと合流し、関城に向かおうとした。
到着しないうちに、すでに破られたと聞き、撤退して白水に向かった。蜀将の張翼・廖化らと合流し、ともに剣閣を守って鍾会を防いだ。
姜維の帰路を絶ちにいった諸葛緒と鄧艾は何やってるんですかね・・・?
姜維の陽動作戦で諸葛緒は進軍を取りやめてるのが鄧艾伝にある
鍾会の檄文があるが長いので省略
商の微子が周に降伏し、楚の陳平が漢に逃亡した故事を引き、裏切り者であった文欽の二人の子や唐咨が許されていることを伝え、投降を促している
鄧艾、追姜維到陰平、簡選精鋭、欲従漢徳陽、入江由左?道、詣緜竹、趣成都。与諸葛緒、共行。緒以本受節度邀姜維、西行非本詔、遂進軍前向白水。与会、合。
鄧艾は、姜維を追撃して陰平に到り、精鋭を選別し、漢徳陽から、江由・左?道に入り、緜竹に行き、成都に赴こうとした。諸葛緒と、共に進んだ。諸葛緒はもともと姜維を迎え撃つ命令を受けており、西に行くのは詔を違えるので、軍を前身させて白水に向かった。鍾会と、会合した。
これ一番ヤベーのは上司の鍾会に一切の報告せず独断で実行してることだわ
会遣将軍田章等、従剣閣西、径出江由。未至百里、章、先破蜀伏兵三校。艾、使章先登。遂長駆而前。
鍾会は将軍の田章らを遣わし、剣閣の西から、江由へと出させた。百里も行かないうちに、田章は、まず蜀の三つの伏兵を破った。鄧艾は、田章を先鋒とした。こうして長駆して前に進んだ。
会、与緒軍向剣閣。会欲専軍勢、密白緒畏懦不進、檻車?還。軍悉属会、進攻剣閣、不克、引退、蜀軍保険拒守。
鍾会は、諸葛緒軍と剣閣に向かった。鍾会は軍勢を独占しようとし、密かに諸葛緒が恐れて進軍しないと申し上げ、檻車に入れて召喚させた。軍はすべて鍾会に属し、剣閣に進攻したが、勝てず、撤退し、蜀軍は険阻に依拠して守った。
艾遂至緜竹、大戦、斬諸葛瞻。維等聞瞻巳破、率其衆東入于巴。会、乃進軍至?、遣胡烈、田続、?会等追維。
鄧艾は緜竹に到り、大いに戦い、諸葛瞻を斬った。姜維らは諸葛瞻がすでに破れたと聞くと、兵士を率いて東に向かい巴に入った。鍾会は、そこで軍を進めて?に行き、胡烈、田続、?会らを遣わして姜維を追わせた。
艾、進軍向成都。劉禅詣艾降、遣使勅維等令降于会。維至広漢?県、令兵悉放器仗、送節伝於胡烈、便従東道詣会、降。
鄧艾は、軍を進めて成都に向かった。劉禅は鄧艾に会いに行って降伏し、使者を遣わして姜維らに鍾会に投降するよう命じた。姜維は広漢郡?県に到ると、兵士に武器をすべて放棄させ、符節(軍権の証である)を送って胡烈に渡し、ただちに東の道から鍾会に会いに行き、投降した。
鍾会の上言があるが省略
姜維らを破ったことを報告し、敵国を全うするのは徳であるから、罪過を犯すべきではないと述べている
『三国演義』では諸葛亮の墓を祭ったあと、諸葛亮が鍾会を直接訪ねて来て、彼に略奪をしないでほしいと頼み込んだことが理由となっている
実際はこのとき魏から独立を考えており、国力を保っておきたかったのだろう
鍾会于是、禁検士衆不得鈔略、虚己誘納以接蜀之群司、与維情好歓甚。
鍾会はそこで、兵士に禁令を出して略奪させず、自らへりくだって蜀の役人たちに接して受け入れ、姜維とはとても親密に交際した。
※姜維伝が引く『漢晋春秋』によれば、姜維は鍾会の独立の意図を悟り、謀反を持ちかけたことがきっかけで親密になったとされる
また『華陽国志』によれば、姜維は初めから鍾会を利用し、のちに鍾会も殺そうとしていた
この年の十二月に詔があるが省略
鍾会の勝利を称賛し、司徒に任じ、県侯に爵位を進め、邑一万戸を増やし、さらに二人の子を亭侯に封じ、邑はそれぞれ千戸にするのとこと
当然これは鍾会の謀反によってうやむやになる
これの最大のやらかしは地位が鍾会>鄧艾なのに昇格で同格にしたことやろな
これはキレてもしゃーない
会、内有異志、因鄧艾承制専事、密白艾有反状、於是詔書檻車?艾。
鍾会は、内に異心があり、鄧艾が承制(>>0�によって専断したことにより、鄧艾には反逆の行いがあったと密かに申し上げ、そこで(司馬昭は)詔書で檻車に入れさせて鄧艾を召喚させた。
※将軍が皇帝の命令を待たず専断する制度。鄧艾はこれによって劉禅以下を勝手に官職につけ、また自分の配下に蜀の各郡を統治させた。詳しくは鄧艾伝を参照
しかも呉攻めようぜ!攻めないなら勝手に攻めるわとかぬかしてたんやっけ
なら逮捕は残当だわ、叩かれる理由がわからん
鄧艾割とやべーやつなんだよな
功臣ということを差し引いてもいかんでしょ
司馬文王、懼艾或不従命、勅会並進軍成都、監軍衛?在会前行、以文王手筆令宣?艾軍。艾軍皆釈仗、遂収艾入檻車。
司馬文王は、鄧艾が命令に従わないかもしれないと恐れ、鍾会にはともに成都に進軍するよう命じ、監軍の衛?には鍾会の先を行かせ、文王の親筆の命令書で鄧艾軍に(武装解除を)諭告させた。鄧艾軍は全員武器を置き、こうして鄧艾を捕らえて檻車に入れた。
会、所憚惟艾、艾既禽而会尋至、独統大衆、威震西土。自謂功名蓋世、不可復為人下、加猛将鋭卒皆在己手、遂謀反。
鍾会は、憚っているのは鄧艾だけで、鄧艾が捕らえられてからは鍾会が次いで到着し、一人で」大軍を統べたので、威は西土を震わせた。自ら功名は世を覆い、二度と人の下にはつけないと言い、加えて猛将や精鋭がすべて自身の手の内にあることから、ついに謀反した。
欲使姜維等皆将蜀兵出斜谷、会自将大衆随其後。既至長安、令騎士従陸道、歩兵従水道順流浮渭入河、以為五日可到孟津、与騎会洛陽、一旦天下可定也。
姜維らにすべての蜀兵を引き連れさせて斜谷から出させ、鍾会自身は大軍を率いてその後に続こうとした。長安に到着したら、騎兵を陸より進ませ、歩兵を水より流れに順じて渭水に(船で)浮かべて黄河に入らせれば、五日で孟津に到着し、騎兵と洛陽で会合し、一朝で天下は定まると考えた。
なんやこのガバガバプラン
ほんとに作戦立てたのあの姜維なんか・・・?
中国は皇帝の権力が重いから頭さえ潰せばってのはある
かくいう蜀だって姜維や霍弋の兵がいたのに頭潰されて降伏しとる
会得文王書云「恐鄧艾或不就?、今遣中護軍賈充将歩騎万人径入斜谷、屯楽城。吾自将十万屯長安。相見在近」
鍾会は文王の手紙を受け取るとそれには「鄧艾があるいは召喚に応じないかもしれないから、今中護軍の賈充に歩兵・騎兵一万人を率いさせてまっすぐ斜谷に入らせ、楽城に駐屯させる。私は自ら十万を率いて長安に駐屯する。近日会えるだろう」
会得書、驚呼所親語之曰「但取鄧艾、相国知我能独弁之。今来大重、必覚我異矣。便当速発、事成、可得天下。
鍾会は手紙を受け取ると、驚いて親密な者を呼んで語った「ただ鄧艾を捕らえるだけなら、相国(司馬昭)は私が単独でできるとわかっているだろう。
今は来るのに重きをなしているのは、必ず我が異心を悟っているからだ。ただちに速やかに進発しなければならず、事が成れば、天下を得られよう。
鍾会は鎮西将軍やけど仮節都督関中諸軍事なんよな
ガバガバ指揮権なんとかしろ
なるほど
これは鄧艾の独断専行にもつながりますわ
不成、退保蜀漢、不失作劉備也。我、自淮南以来、画無遣策、四海所共知也。我欲持此安帰乎」
成らなければ、撤退して蜀・漢を保ち、失敗しても劉備にはなれるだろう。私は、淮南よりあとは、計画に失策がないと、四海(天下)のみなが知っている。私がこれ(才能)を持ちながら安全に過ごせる場所などない」
会、以五年正月十五日至。其明日悉請、護軍、郡守、牙門騎督以上、及蜀之故官、為太后発喪于蜀朝堂。
鍾会は、景元五(264)年正月十五日になった。その翌日、護軍、郡守、牙門騎督より上の者、及びもと蜀の官僚全員に要請し、太后のために蜀の朝堂で喪を発表した。
何があったん?ストレスためんなやって気持ちになるのは自分だけかな…
蜀は守れば固く豊穣な土地で独立は十分にできそうと思えてしまう魔力あるわ
①鄧艾の作戦ミス&独断専行で手柄を全て取られた
②しかも鄧艾がもともと総大将だったかのように振舞われる
③征蜀支持は鍾会のみ
④そして昇格で鍾会と鄧艾が同格になる
そらキレるわ
キツい…これ姜維とか関係なくね…もう謀反以外は怒りの隠居しか思い付かん…
矯太后遺詔、使会起兵廃文王。皆班示坐上人、使下議訖、書版署置、更使所親信、代領諸軍。
太后の遺詔と偽り、(それには)鍾会に兵を起こして文王を廃すように(とあった)。座の上にいたすべての人に示し、議論させ、部署を板に書いて定め、改めて信頼している者に、諸軍を代わりに統率させた。
所請群官、悉閉著益州諸曹屋中、城門宮門皆閉、厳兵囲守。
招いた(自分に味方しない)官僚たちは、すべて益州の諸曹(各部署)の建物に閉じ込め、城門・宮門はすべて閉ざし、兵に厳しく周囲を見張らせた。
会帳下督丘建、本属胡烈、烈薦之文王、会請以自随、任愛之。建、愍烈独坐、啓会、使聴内一親兵、出取飲食。諸牙門随例各内一人。
鍾会の帳下督の丘建は、もともと胡烈に属しており、胡烈が彼を文王に推薦し、鍾会が要請して随行させ、新任していた者であった。
丘建は、胡烈だけが罪に座しているのを憐れみ、鍾会に申し上げ、一人の従卒を中に入れ、飲食を運ばせることを許可してもらった。諸牙門もその例に倣ってそれぞれ一人を内部に入れた。
烈、紿語親兵、及疏与其子曰「丘建、密説消息。会、已作大坑、白?数千、欲悉呼外兵入、人賜白?、拝為散将、以次?殺坑中」
胡烈は、従卒に偽りを語り、また子に手紙を送って述べた
「丘建は、密かに情勢を伝えてくれた。鍾会は、すでに大きな穴を作り、白い棒数千を用意し、外の兵をすべて呼び入れ、人に白?(四隅が欠けた頭巾)を渡し、散将(官職上にない仮の将軍)を任命し、順次棒で殴って穴の中で殺すそうだ」
諸牙門親兵、亦咸説此語、一夜伝相告、皆?。或謂会「可尽殺牙門騎督以上」会猶予未決。
諸牙門の従卒も、またみなこの話を語り、一夜にして伝わって互いに話し合い、あまねく(知れ渡った)。ある者が鍾会に言った「牙門騎督より上の者を殺し尽くせばよいでしょう」鍾会は躊躇して決断できなかった。
劉備には関羽、張飛、簡雍が最初にいたし
劉邦だって蕭何、曹参、樊?、夏侯嬰、周超と周苛の兄弟とか
人材に恵まれてたのに...
鍾会伝読んだ感想としては才子才に倒れるの典型だと思ったわ
諸牙門親兵、亦咸説此語、一夜伝相告、皆?。或謂会「可尽殺牙門騎督以上」会猶予未決。
諸牙門の従卒も、またみなこの話を語り、一夜にして伝わって互いに話し合い、あまねく(知れ渡った)。ある者が鍾会に言った「牙門騎督より上の者を殺し尽くせばよいでしょう」鍾会は躊躇して決断できなかった。
十八日日中。烈軍兵与烈児雷、鼓出門、諸軍兵不期皆鼓譟出、曾無督促之者而争先赴城。
十八日の正午。胡烈の兵士と胡烈の子の胡雷は、太鼓を叩いて門を出て、諸兵士も期せずしてみな太鼓を叩かせて騒ぎながら出て、統率する者がいないのに先を争って城に向かった。
時方、給与姜維鎧杖。白外有匈匈声、似失火。有頃、白兵走向城。会驚、謂維曰「兵来、似欲作悪。当云何?」維曰「但当撃之耳」
このときちょうど、姜維に鎧と武器を与えていたところだった。(ある者が)外で騒ぎ声がして、失火かもしれないと申し上げた。しばらくして、(ある者が)兵が城に向かってくると申し上げた。
鍾会は驚き、姜維に言った「兵が来て、悪事を働こうとしている。どうすべきか?」姜維は言った「攻撃するのみです」
会遣兵悉殺所閉諸牙門郡守、内人共挙机以柱門。兵斫門、不能破。
鍾会は兵を遣わして閉じ込めていた諸牙門や郡守を全員殺そうとしたが、(建物の)内側にいた人は共同で机を持ち運んで門の支柱にした。兵は門を斬り破ろうとしたが、破れなかった。
斯須、門外倚梯登城、或焼城屋、蟻附乱進、矢下如雨。牙門、郡守、各縁屋出、与其卒兵相得。
しばらくして、門の外から梯をつたって城に登り、あるいは城の建物を焼き、蟻のように壁に張り付いてやみくもに進んだが、矢は雨のように降った。牙門、郡守は、それぞれ屋根にすがって脱出し、自分の兵士と合流できた。
姜維、率会左右戦、手殺五六人。衆既格斬維、争赴殺会。会時年四十、将士死者数百人。
姜維は、鍾会の側近を率いて戦い、手ずから五・六人を殺した。人々は格闘して姜維を斬り、争って鍾会を殺しに行った。鍾会はこのとき四十歳で、将士の死者は数百人にのぼった。
評曰。(省略)鍾会、精練策数。咸以顕名、致茲栄任。而皆、心大志迂、不慮禍難、変如発機、宗族塗地、豈不謬惑邪。
評にいう。(省略)鍾会は、熟練し策謀があった。みな(王?・?丘倹・諸葛誕・鍾会)名を顕し、栄誉ある任務についた。しかしながらみな、心に大きな野望を抱き、災いを考えず、変事がばねのように引き起こされ、宗族は殺され、混乱していたとしかいいようがない。
姜維は五丈原以降孔明の理想という名の悪魔に取り憑かれてたけど
鐘会と戦う内に自分の後継者として欲したのかもしれんし
62やからね、この時…
師匠よりも長生きな弟子
三国志が引用する地方史の『華陽国志』には謀反に成功させたあとで
鍾会殺すつもりとあるで
ただ姜維がそう考えてた可能性もなきにしもあらずや
魏の将が蜀のトップってのも面白くはないやろうし
鐘会さえ殺れば蜀の領土も取り返せる可能性はあるとは考えたんやろうね
タイムマシンはないから当時の人の心中は妄想するしかないけど
姜鍾が死んだ後にも司馬昭の逸話があるんやがカットさせてもらってる
先月まで忙しくてなんとか三月に間に合わせようとした結果や
司馬昭は部下に「鍾会謀反しますよ」と言われると
「ワイわかってるねん、でも諸将は勝てないと思ってるやん?
そう思ってたら勝てないやん?すでに対策は考えてあるねん」
と返答したりとか
戦術は得意やったけど戦略は駄目だった説
でもどうせならもうちょっと盛ったらどうなん
これ書いた陳寿はリアルタイムで生きてた人なんや
この話めっちゃリアリティあるし
もしかしたらその場にいた人に直接取材したのかもしれない
本当に五人殺したんちゃうかと考えとる
そう考えるとロマンあるな
ミスター机上の空論割とすこ
鍾会「失敗しても劉備にはなれる」
ワイ「無理やろ」
↑初見の感想
昔ワイ「アホかな?」
↓
今ワイ「同情の余地はあるけどアホやな」
お前に兵力があるんか
お前にこの地域で従う人望があるんか
お前に呉が攻めてこない保障があるんか
のフルセットやし
そらブチ切れやけくそ蜂起としか思えんよ
昨日もあれこれ議論されてたけどほんとなんでこうなったんや
鄧艾排除できたから大人しくしとったら
功積一番間違いないのになあ
司馬昭に対してもキレたからやろなぁ・・・
素直に鄧艾失脚に追い込んで満足してたらよかったのにな
でも最終的にいらん事言って島流しになりそう
ストックは黄権、王平、張嶷、荀攸、于禁、満寵とあるから
希望あったらどうぞ
荀攸!
リクしたのワイだと思う
よっしゃ荀攸伝をやろう
さんがつ
死に場所を求めた説もある
割りとこっちっぽい気はするが
典型的な忠臣タイプやしありそうやな
成功したらそのまま、失敗したらここで死ぬぞ!的な感じで
しっくりくる
こちらこそ深夜にお付き合いありがとうやで
鍾会程度の反乱なんて掃いて捨てるほどある事やな
どんだけ淘汰凄いんや