満寵、字伯寧、山陽昌邑人也。年十八、為郡督郵。時郡内李朔等、各擁部曲害于平民、太守使寵糾焉。朔等請罪、不復鈔略。守高平令。
満寵は、字を伯寧といい、山陽郡昌邑県の人である。十八歳にして、郡の督郵となった。このとき郡内の李朔らは、各々私兵を擁して平民を害していたので、太守は満寵に糾弾させた。李朔らは謝罪し、二度と略奪しなくなった。高平令を代行した。
県人張苞為郡督郵、貪穢受取、干乱吏政。寵、因其来在伝舍、率吏卒出収之。詰責所犯、即日考竟。遂棄官、帰。
県人の張苞が郡の督郵となり、貪欲にも賄賂を受け取り、官吏の政治に干渉して混乱させた。満寵は、宿舎に来ているときを狙い、吏卒を率いて出て彼を捕らえた。犯した罪を厳しく問い詰め、即日処刑した。こうして官職を捨て、帰郷した。
どこかわからないとこあった?
いや張苞出てきたから同じ世代だったかなと
別人やで
いわゆる軍師とは違うで
しかし有能さはこれからわかる
太祖臨?州、辟為従事。及為大将軍、辟署西曹属、為許令。時曹洪、宗室親貴、有賓客在界数犯法。寵、収治之。
太祖(曹操)が?州に入ると、召されて従事となった。大将軍になるに及び、召して西曹の属官に任じ、許の令とした。このとき曹洪は、宗室の親戚で、賓客がこの地におりしばしば法を犯していた。満寵は、彼らを捕らえて処罰した。
太祖臨?州、辟為従事。及為大将軍、辟署西曹属、為許令。時曹洪、宗室親貴、有賓客在界数犯法。寵、収治之。
太祖(曹操)が?州に入ると、召されて従事となった。大将軍になるに及び、召して西曹の属官に任じ、許の令とした。このとき曹洪は、宗室の親戚で、賓客がこの地におりしばしば法を犯していた。満寵は、彼らを捕らえて処罰した。
洪書報寵、寵不聴。洪白太祖、太祖召許主者。寵知将欲原、乃速殺之。太祖喜曰「当事、不当爾邪」
曹洪は書で満寵に(自分の賓客であることを)伝えたが、満寵は聞き入れなかった。曹洪が太祖に申し上げると、太祖は許の責任者を召した。満寵は許そうとしているのだと悟り、そこで速やかに処刑した。太祖は喜んで言った「事に臨むのであれば、こうあるべきだ」
故太尉楊彪、収付県獄。尚書令荀彧少府孔融等並属寵「但当受辞。勿加考掠」寵一無所報、考訊如法。
もとの太尉の楊彪が、県の牢獄に入れられた。尚書令の荀彧や少府の孔融らは揃って満寵に頼んだ「ただ話を聞くだけにしてほしい。拷問はしないでやってくれ」満寵は一言も返事をせず、法規に従って拷問した。
こういう人物が一方面を鎮してくれれば安心だよね
知れば意外とね…
数日、求見太祖、言之曰「楊彪考訊、無他辞語。当殺者、宜先彰其罪。此人有名海内、若罪不明、必大失民望。竊為明公惜之」太祖即日赦出彪。
数日後、太祖に会見を求め、言った「楊彪を拷問しましたが、何も言いませんでした。人を処刑するのであれば、まずその罪を明らかにするものです。彼は天下に名が通っておりますから、その罪が明らかでなければ、きっと民心を大いに失いましょう。明公のために残念に思います」
太祖は即日楊彪を釈放した。
初、彧融聞考掠彪、皆怒。及因此得了、更善寵。
当初、荀彧と孔融は楊彪を拷問したと聞くと、ともに怒った。このようになったため、改めて満寵を素晴らしいと思った。
むしろ物語序盤で死ぬようなタイプやしな
すぐ死んで悪い教訓にされるタイプやな
時、袁紹盛於河朔。而汝南紹之本郡、門生賓客布在諸県、擁兵拒守。太祖憂之、以寵為汝南太守。
このとき、袁紹は河朔で勢いが盛んであった。汝南は袁紹の出身の郡で、門人や賓客が諸県におり、兵を擁して守っていた。太祖はそれを憂え、満寵を汝南太守とした。
文官としては実務能力に長けているし
合肥の危うさを指摘して少し離れた場所に合肥新城作って
呉を防いだりしてるからどちらで評価するのが正しいのやら
両方でいいんじゃないか?
別に武官が政治に精通してて不都合なこともないだろうし
それもそうやね
寵募其服従者五百人、率攻下二十余壁。誘其未降渠帥、於坐上殺十余人、一時皆平。得戸二万兵二千人、令就田業。
満寵は付き従う者五百人を募集し、率いて二十余りの壁(のある防御施設)を攻め落とした。
降伏しようとしない渠帥(悪人の頭目の意味だが、ここでは袁紹の門人や賓客を指す)を誘い、(宴)席で十人余りを殺したので、一時ですべて平定された。二万戸・二千人の兵を手に入れ、農業につかせた。
建安十三年、従太祖征荊州。大軍還、留寵行奮威将軍、屯当陽。孫権数擾東陲、復召寵還為汝南太守、賜爵関内侯。
建安十三(208)年、太祖の荊州征伐に従軍した。大軍が帰還すると、満寵を留めて奮威将軍代行とし、当陽に駐屯させた。孫権がしばしば東を騒がせたので、ふたたび満寵を召して汝南太守に戻らせ、関内侯の爵位を賜った。
関羽囲襄陽、寵助征南将軍曹仁屯樊城拒之、而左将軍于禁等軍以霖雨水長為羽所没。羽急攻樊城、樊城得水、往往崩壊、衆皆失色。
関羽が襄陽を包囲すると、満寵は征南将軍の曹仁を助け樊城に駐屯して守り、そのとき左将軍の于禁らの軍が長雨の水のせいで関羽に全滅させられた。関羽は樊城を厳しく攻め立て、樊城は水に囲まれ、どこもかしこも崩壊し、人々はみな色を失った。
或謂仁曰「今日之危、非力所支。可及羽囲未合、乗軽船夜走、雖失城、尚可全身」
ある人が曹仁に言った「今日の危機は、力で支えられるようなものではありません。関羽の包囲がまだ固まらないうちに、早船に乗って夜に逃走し、城は失いますが、それでも身体は無事でいられましょう」
寵曰「山水速疾、冀其不久。聞羽遣別将已在?下、自許以南、百姓擾擾、羽所以不敢遂進者、恐吾軍掎其後耳。
満寵は言った「山の水は早く引きますから、長引くことはないと期待できます。聞くところによれば関羽は別に将軍を?のあたりに送っており、許より南は、百姓が騒がしくなっているそうで、関羽がそれでも進軍しないのは、我が軍が背後を突くのを恐れているからです。
なるほど
満寵は合肥で呉と睨み合いをしていたイメージしかないな
あとでこのスレのどこで誰の伝やったかまとめておくわ
そのイメージが果たして合っているかも楽しみにしてクレメンス
今若遁去、洪河以南、非復国家有也。君宜待之」仁曰「善」寵乃沈白馬、与軍人盟誓。会徐晃等救至、寵力戦有功、羽遂退。進封安昌亭侯。
今もし遁走すれば、洪河より南は、二度と国家のものではなくなりましょう。君(曹仁)はここを動くべきではありません」曹仁は言った「善し」満寵はこうして白馬を沈め、軍人と(逃げないという)誓いを立てた。
おりよく徐晃らの救援が到着し、満寵は力戦して功があり、関羽はついに撤退した。安昌亭侯に爵位が進められた。
文帝即王位、遷揚武将軍。破呉於江陵有功、更拝伏波将軍、屯新野。
文帝(曹丕)が王位につくと、揚武将軍に昇進した。呉を江陵で破るのに功があり、改めて伏波将軍に任じられ、新野に駐屯した。
満寵がいなかったらマジメに魏なかったかもしれんな
襄樊の陥落を期に曹操が遷都
→つけ込めるとみた呉が北伐なんてのも考えられないわけでもないしな
そうしたら歴史は大きく変わっていただろう
大軍南征、到精湖、寵帥諸軍在前、与賊隔水相対。寵勅諸将曰「今夕風甚猛、賊必来焼軍、宜為其備」諸軍皆警。
大軍が南征し、精湖に到着し、満寵は諸軍を率いて前におり、賊と水を隔てて対峙した。満寵は諸将に命じた「今晩の風はとても強いので、賊(呉軍)はきっと軍を焼き払いに来るだろうから、備えをせよ」諸軍はみな警戒した。
夜半、賊果遣十部伏夜来焼、寵掩?破之、進封南郷侯。黄初三年、仮寵節鉞。五年、拝前将軍。
夜半に、賊は果たして十部隊を遣わして夜に紛れて(軍を)焼き払いに来たが、満寵は挟撃してこれを撃破し、南郷侯に爵位を進められた。黄初三(223)年、満寵に節と鉞を貸し与えた。五(225)年、前将軍に任じられた。
于禁はわざと降伏して関羽を略奪に走らせたとかいうでたらめな説すこ
まあそのせいで本当に関羽死んだが
于禁「私が降伏すれば敵の食料は圧迫され
周辺の略奪に走り呉の食料も分捕るはず!」
そこまで相手を読めてたら違う方法で勝利を手にできるのでは…?
正論やな
明帝即位、進封昌邑侯。太和二年、領豫州刺史。三年春、降人称「呉大厳、揚声欲詣江北獵、孫権欲自出」寵度其必襲西陽、而為之備。権聞之、退還。
明帝が即位すると、昌邑侯に爵位を進められた。太和二(228)年、豫州刺史となった。三(229)年春、降伏した人が言った「呉は大々的に装備を整え、江北に行って狩りをすると揚言し、孫権は自ら出陣しようとしている」
満寵は西陽を襲おうとしているに違いないと考え、そのために備えをした。孫権はそれを聞くと、撤退して帰還した。
秋、使曹休従廬江南入合肥、令寵向夏口。寵上疏曰「曹休雖明果而希用兵、今所従道、背湖旁江、易進難退、此兵之窪地也。若入無彊口、宜深為之備」
秋、(明帝は)曹休に廬江から南に行かせて合肥に侵入させ、満寵を夏口に向かわせた。満寵は上表した
「曹休は賢明で果断とはいえ兵を用いたことが少なく、今進んでいる道は、湖を背にし長江に沿い、進むのは簡単で撤退するのは難しく、これは兵家にいう窪地です。もし無彊口に入ったならば、厳重に備えをしておいてください」
あら忘れてた
曹叡やで
寵表未報、休遂深入。賊果従無彊口断夾石、要休還路。休、戦不利、退走。会朱霊等従後来断道、与賊相遇。賊驚走、休軍乃得還。
満寵の上表に返事が来る前に、曹休は深く侵入した。賊は果たして無彊口より夾石を遮断し、曹休の帰路を遮った。曹休は、戦っても勝てず、敗走した。
たまたま朱霊らが後方から来て道を遮り、賊と遭遇した。賊は驚いて逃げ、曹休の軍は帰還することができた。
是歳休薨。寵、以前将軍、代都督揚州諸軍事。汝南兵民、恋慕、大小相率、奔隨道路、不可禁止。護軍表上、欲殺其為首者。詔使寵将親兵千人自隨、其余一無所問。
この年に曹休は亡くなった。満寵は、前将軍とまま、都督揚州諸軍事を代行した。汝南の兵士や民は、(満寵を)慕い、老いも若きも互いに連れだって、道をついて来て、止めきれなかった。
護軍が上奏文を奉り、彼らの筆頭の者を殺したいと願い出た。詔で満寵に側近の兵千人を随行させ、その他は一切不問にした。
千里先の戦況を間近で見た如く把握する判断力もすばらしい
なお土木
あの年齢で土木狂ははよ死んで正解やろな
曹叡ははやく死んでなかったらもっと評価下がってただろうね
最悪安史の乱のような大きな問題引き起こしたかもしれんわ
それだけ孔明の存在は曹叡にとって脅威だったってことなんやろうね
第一次北伐では曹叡が自ら長安まで赴く羽目になっとるしな
よく孔明の北伐は地方反乱程度と言われるが重大事件な気がする
四年、拝寵征東将軍。其冬、孫権揚声欲至合肥、寵表召?豫諸軍、皆集。賊尋退還。
黄初四(230)年、満寵は征東将軍に任じられた。その冬、孫権は合肥に行くと揚言したので、満寵は上表して?・豫の諸軍を召し、すべて集合させた。賊はすると撤退して帰還した。
被詔罷兵。寵以為「今賊大挙而還、非本意也。此必欲偽退以罷吾兵、而倒還乗虚、掩不備也」表不罷兵。
詔で兵を解散させよとあった。満寵は思った「今賊は大挙しながら帰還したが、本意ではないだろう。これは偽の撤退で我が兵を解散させ、引き返して虚を突き、備えていないところを急襲しようというのだろう」上表して兵を解散させなかった。
後十余日、権果更来、到合肥城、不克而還。其明年、呉将孫布遣人詣揚州求降、辞云「道遠不能自致、乞兵見迎」
十余日後、孫権は果たしてふたたび来て、合肥城に到着したが、勝てずに帰還した。その翌年、呉将の孫布は人を揚州にやって降伏を願い出て、その言葉には「道は遠く自ら行けませんから、兵を出して迎えに来てください」
刺史王凌、騰布書、請兵馬迎之。寵以為必詐、不与兵、而為凌作報書曰「知識邪正、欲避禍就順、去暴帰道、甚相嘉尚。
刺史の王凌は、孫布の書を届け、兵馬を出して迎えたいと要請した。満寵は偽りに違いないと考え、兵を与えず、王凌への返書を作って述べた「邪と正とを知り、禍を避け正しいものに付き従い、暴虐から離れて正道に戻ろうとするのは、とても嘉すべきことだ。
今欲遣兵相迎、然計兵少則不足相衛、多則事必遠聞。且先密計以成本志、臨時節度其宜」
今は兵を出して迎えたいところだが、しかしながら兵を少なくすれば守るには足りず、多くすれば必ず遠くにも知られよう。まずは密かに計って本来の志(孫布の投降)を成し遂げてほしく、その時に臨んだら適切に行動しよう」
その想定でどうなるか見てみたいわ
特に呉の動き
寵、会被書当入朝、勅留府長史「若凌欲往迎、勿与兵也」凌、於後索兵、不得。乃単遣一督将歩騎七百人往迎之。布夜掩?、督将迸走、死傷過半。
満寵は、ちょうど入朝せよとの文書を受け取っていたので、留府長史に命じた「もし王凌が(孫布を)迎えに行こうとしたら、兵を与えてはならぬぞ」
王凌は、そのあと兵を求めたが、貸してもらえなかった。そこで単独で一将と歩兵・騎兵七百人に迎えに行かせた。孫布は夜に急襲し、将軍は逃走し、兵の半分が死傷した。
敵対賊(国家)が大進行してくりゃそりゃ…パニックよ
その通りやな
それで冷静に対処したんだから曹叡はたいしたもんや
初、寵与凌共事不平。凌支党、毀寵疲老悖謬。故明帝召之。既至、体気康彊、見而遣還。
当初、満寵は王凌と共同で事に当たって不和となっていた。王凌の一党は、満寵が疲れ老いてでたらめになったと毀損した。そのために明帝は彼を召した。到着すると、身体も気力も健康だったので、会うと戻らせた。
寵?表求留、詔報曰「昔廉頗、彊食。馬援、拠鞍。今君未老而自謂已老。何与廉馬之相背邪。其思安辺境、恵此中国。」
満寵はしばしば上表して(都に)留まりたいと願い出たが、(明帝は)詔で答えた
「昔廉頗は、無理に食べた。馬援は、鞍に跨った。今君はまだ老いていないのに自分で老いたと言っている。廉頗や馬援と違うではないか。辺境を安定させ、この中国に恩恵を与えるように考えてくれ。」
※廉頗は戦国趙の将軍。罷免されたことを恨んで逃亡するが、趙王が彼を呼び戻すに当たって使者を送ると、その目の前で老いてないと証明するために大量の飯や肉を食らってみせた。
馬援は東漢初期の将軍。光武帝に老齢を理由に出陣を止められると、馬に乗って元気な姿を見せた。光武がそれを「矍鑠」と表現したことから、老壮な人物をこう呼ぶようになった。
明年、呉将陸遜向廬江。論者以為宜速赴之、寵曰「廬江雖小、将勁兵精、守則経時。又賊、舍船二百里来、後尾空県、尚欲誘致。今宜聴其遂進、但恐走不可及耳」
翌年、呉将の陸遜が廬江に向かった。議論した者は速やかに行くべきだと考えたが、満寵は言った
「廬江は小さいが、将は強く兵は精鋭で、守れば時間を稼げるだろう。また賊は、船を捨てて二百里を来ており、後方の間隔を空け、誘おうとしている。今は進軍させておくのがよろしく、逃げたら追いつけないことを心配するだけでよい」
せやな
こういう老将が活躍するの結構すき
廉頗は藺相如との逸話もすきなんでのちのち紹介したいと思ってる
廉頗の過ちを認める潔さってとてもスカッとするわ
整軍、趨楊宜口。賊聞大兵東下、即夜遁。時権歳有来計。
軍を整えて、楊宜口に赴いた。賊は大軍が東に来たと聞き、その夜に遁走した。このとき孫権は年々来攻の考えがあった。
やる気あんのか
国力の差があるし…(震え声)
どうでもいいけど青龍元年とか暦妙にカッコいいやつあるよな
神獣系はそれが現れた記念としてとかが多いね
かっこいいは同意
現れるんか……
普通に情勢が悪い時はやらせで見つけて改元してそう
青龍は井戸に青龍が見つかったからという覚えがある
まあほとんど偽りの報告かやらせだろうね
陳渉、王莽、武則天等それ利用した人もいっぱい知ってる
錚々たるやらせしてそうな面子で草しか生えない
みな軍事的基盤がなかったからしゃーない
元手なく皇帝になるには人を引きつける何かが必要よ
ほくろでも手長でもなんでも使うで
◆
青龍元年、寵上疏曰「合肥城、南臨江湖、北遠寿春。賊攻囲之、得拠水為勢。官兵救之、当先破賊大輩、然後囲乃得解。賊往甚易、而兵往救之甚難。
青龍元(233)年、満寵は上表した「合肥城は、南は江湖に近く、北は寿春に遠くございます。賊はこれを包囲するのであれは、水を使って勢いをつけられます。
官軍はこれを救おうとすれば、まず賊の大軍を破り、それから包囲を解かなければなりません。賊が行くには簡単ですが、(官)軍が救いに行くのは極めて難しくございます。
宜移城内之兵、其西三十里。有奇険可依、更立城以固守。此為引賊平地而掎其帰路、於計為便」
城内の兵を、西三十里に移したほうがよろしいでしょう。依拠すべき険阻な場所がありますので、改めて城を建てて守りましょう。これは賊を平地に誘い込んで退路をつけますから、計としてよいものです」
護軍将軍蒋済、議以為「既示天下以弱、且望賊煙火而壊城。此、為未攻而自抜。一至於此、劫略無限、必以淮北為守」帝未許。
護軍将軍の蒋済は、議論した「天下に弱さを示すことになり、さらには賊の煙火を望んで城を壊すことにもなります。これは、攻められていないのに自ら(城を)落とすのと同じです。一度でもそのようにすれば、略奪はやまなくなり、淮北を守備する必要に迫られます」明帝は許可しなかった。
寵重表曰「孫子言『兵者詭道也。故、能而示之以弱。不能、驕之以利示之以懾』此為、形実不必相応也。
満寵は重ねて上表した「孫子には『兵は詭道である。そのため、能力があれば弱さを示しておくのである。能力がなければ、有利さにおごり高ぶって怖がらせる』とあります。これは、外形と内実とが決して一致しないことを表しております。
読み返すと
「驕之以利示之以懾」を
「有利さにおごり高ぶって怖がらせる」はしっくりこないな
弱ければ強そうに見せてビビらせる的な意味
又曰『善動敵者、形之』今賊未至而移城却内、此所謂形而誘之也。引賊遠水、択利而動、挙得於外、則福生於内矣」
また『よく敵を動かすものは、(弱い)外形を示す』とあります。今賊がまだ到着しないうちに城を移して内部に退けるのは、いわゆる外形を示して誘うというものです。
賊を水より離れた場所に引き込み、有利な時期を選んで動けば、外は利益を得られ、内には福が生じます」
前線に幾度となく赴いた満寵の言うことの方が正しいように見えてしまう
結果的に呉は合肥を抜けなかったわけやしな
やる気あるんか
尚書趙咨以寵策為長、詔遂報聴。其年、権自出、欲囲新城。以其遠水、積二十日不敢下船。
尚書の趙咨は満寵の策を優れているといい、(明帝は)詔で承諾したと伝えた。その年、孫権は自ら出陣し、新城を囲もうとした。水から遠かったため、二十日が過ぎても船から下りようとしなかった。
寵謂諸将曰「権得吾移城、必於其衆中有自大之言。今大挙来、欲要一切之功。雖不敢至、必当上岸耀兵以示有余」
満寵は諸将に言った「孫権は私が城を移動させたことで、きっと人々の中で(城ごと逃亡したと)大言壮語しているだろう。今大挙して来たのは、少しばかりの功績を立てようとしているのだ。(城まで)進もうとはしないが、必ずや岸に上って兵力を誇示し余裕を見せるだろう」
乃潜遣歩騎六千、伏肥城隠処以待之。権果上岸耀兵、寵伏軍卒起?之、斬首数百、或有赴水死者。
そこで密かに歩兵・騎兵六千を遣わし、肥城の隠れられる場所に伏せさせて敵を待たせた。孫権果たして岸に上って兵力を誇示したが、満寵は伏兵を出して攻撃し、数百人を斬首し、逃げて水死した者もいた。
明年、権自将号十万、至合肥新城。寵馳往赴、募壮士数十人、折松為炬、灌以麻油、従上風放火、焼賊攻具、射殺権弟子孫泰。賊於是引退。
翌年、孫権は自ら十万と号する兵を率い、合肥新城に到来した。満寵は馳せて行き、数十人の壮士を募り、松を折って松明にして、麻油を灌ぎ、風上から火を放ち、賊の武具を焼き払い、孫権の弟の子の孫泰を射殺した。賊はそのため撤退した。
三年春、権遣兵数千家、佃於江北。至八月、寵以為「田向収熟、男女布野、其屯衛兵去城遠者数百里、可掩撃也」
青龍三(235)年春、孫権は数千家の兵を遣わし、江北で田を作らせた。八月になると、満寵は考えた「田は収穫の頃合いで、男女が野に広がっており、その駐屯兵は城から遠く数百里も離れているだろうから、急襲できよう」
遣長吏督三軍循江東下、摧破諸屯、焚焼穀物而還。詔、美之、因以所獲尽為将士賞。
長吏に三軍を率いさせて長江に沿って東に行かせ、諸所の駐屯地を打ち破らせ、穀物を焼き払わせてから戻らせた。詔で、これを称賛し、手に入れたものをすべて将士のための恩賞として与えた。
景初二年、以寵年老?還、遷為太尉。寵不治産業、家無余財。詔曰「君典兵在外、専心憂公、有行父祭遵之風。賜田十頃、穀五百斛、銭二十万、以明清忠倹約之節焉」
景初二(238)年、満寵は老齢を理由に呼び戻され、太尉に転任させられた。満寵は産業を行わず、家には余分な財産がなかった。
詔にいう「君は外に在っては兵を率い、心を尽くし公事を憂え、行父・祭遵(春秋魯の季孫行父と東漢の祭遵。清廉な人物)の風がある。田十頃、穀物五百斛、銭二十万を賜り、清廉かつ忠義があり倹約である(満寵の)節義を明らかにしよう」
満寵前後増邑、凡九千六百戸、封子孫二人亭侯。正始三年薨、諡曰景侯。子偉嗣。偉以格度知名、官至衛尉。
満寵は前後で邑を増やされ、おおよそ九千六百戸となり、子と孫の二人が亭侯に封じられた。正始三(242)年に亡くなり、景侯と諡された。子の満偉が後を継いだ。満偉は品格と節度によって名を知られ、官職は衛尉までになった。
評曰。満寵、立志剛毅、勇而有謀。
評にいう。満寵は、志を立てて剛毅で、勇敢で智謀があった。
親が悪名高いか子がやらかすの方が際立って残りやすいせいだけど
諸葛一族「せやな」
お付き合いありがとうございました
訳してほしい人物いたらリクエスト聞くで
何もなければ
個人的に興味ある中国の名将と呼ばれる人物を翻訳していくつもり
あと説唐全伝の翻訳も考えてるがこれは十年単位になりそうやな
十年単位は草、ヒエッ
要望は晋書の桓温でオナシャス
桓温了解や
大宋宣和遺事?
あれめちゃくちゃ短いうえにつまらんぞ
気になってきたわ
ほかに当時有名だった話をつぎはぎで入れてる
酔翁談録には石頭孫立や青面獣、花和尚、武行者と
水滸伝の元ネタっぽさそうな講談が残ってる
(タイトルのみで内容はわからない)
名将の伝ぜひ
誰が訳されるのか興味あるわね
王猛、韋叡、李靖・李勣、秦叔宝、薛仁貴、郭子儀、王彦章、李存孝、
周徳威、楊延昭、狄青、韓世忠、劉錡、郭侃、戚継光、岳鍾琪
今調べたら桓温は6500オーバーみたいね
これは大変そうや
流石東晋の英雄ですわ
あとでどこから誰の伝が始まるか貼っておく
ほな、また