麋竺、字子仲、東海?人也。祖世貨殖、僮客万人、貲産鉅億。後、徐州牧陶謙辟為別駕従事。謙卒、竺奉謙遺命、迎先主於小沛。
麋竺(※)は、字を子仲といい、東海郡?県の人である。代々貨殖に努め、下僕は万人おり、資産は莫大だった。後に、徐州牧陶謙が招聘して別駕従事とした。陶謙が亡くなると、麋竺は陶謙の遺命を奉じ、先主(劉備)を小沛から迎えた。
※正史では「麋」、三国演義で使用される「糜」の字とは違うので注意
財産増やしたのと劉備に先行投資したので商人のイメージあるわ
建安元年、呂布乗先主之出拒袁術、襲下ヒ、虜先主妻子。先主転軍広陵海西、竺於是進妹於先主為夫人、奴客二千、金銀貨幣以助軍資。于時困匱、頼此復振。
建安元年(196年)、呂布は先主が出陣して袁術を拒んだのに乗じて、下ヒを襲い、先主の妻子を捕虜にした。
先主は軍を広陵の海西に転じ、麋竺はそこで妹を先主に進めて夫人とし、下僕二千と、金銀貨幣を出して軍需の助けとした。この時困窮していたが、これによってふたたび振るうようになった。
後、曹公表竺領?郡太守、竺弟芳為彭城相、皆去官、随先主周旋。
後に、曹公(曹操)は上表して麋竺を?郡太守、麋竺の弟の芳を彭城の相にしたが、皆官職を棄て、先主に従って巡り回った。
そういや曹操に任命されたことあったな
先見の明すごいわ
落ちぶれた劉備を助けたわけやし
先主、将適荊州遣竺先與劉表相聞、以竺為左将軍従事中郎。
先主は、荊州に行こうとして麋竺をやってまず劉表に上聞させ、麋竺を左将軍従事中郎とした。
益州既平、拝為安漢将軍、班在軍師将軍之右。竺、雍容敦雅、而幹?非所長。是以、待之以上賓之礼、未嘗有所統御。然、賞賜優寵、無與為比。
益州が平定されると、安漢将軍としたが、序列は軍師将軍(諸葛亮)の右(上位)にあった。麋竺は、柔和で誠実であったが、統率の才には長けていなかった。そのため、上賓の礼で待遇されたが、統率を任されなかった。しかし、恩賞や寵愛で、比肩するものはなかった。
芳、為南郡太守、與関羽共事。而私好攜貳、叛迎孫権、羽因覆敗。
麋芳は、南郡太守となり、関羽とともに事に当たった。私情から二心を懐き、謀叛して孫権を迎え入れ、関羽はそのため敗北した。
これかなりの衝撃やろ
譜代の臣がここぞで裏切るなんて
譜代ではないな
糜芳に関しては記述にぶれがあるけど
ワイはミスして関羽の処置恐れてた説推す
処罰云々というか
呉への備えほぼゼロやったし
勝利の見込みが万に一つもなかったんちゃうか
誰の伝か忘れたけど
あらかじめ孫権と通じてたという話もあるし
少しも抵抗しなかったのは
やっぱり関羽の処置に対する反感からと思うんや
あーそんなんあったな
どこやっけ
呉主伝か呂蒙伝の注やったと思うけど
調べないで適当なこと言えないから後で探してみる
徐州時代ならわかるけど
落ちぶれたときに
妹嫁がせて再起させたのはまじで謎
よっぽど有能な人物に見えたんやろか
竺、面縛請罪。先主慰諭以兄弟罪不相及、崇待如初。竺、慚恚発病、?余、卒。
麋竺は、面縛(両手を後ろで縛り顔を突き出す)して罪を請うた。先主は兄弟の罪は及ばないと慰め諭し、待遇は初めと同じであった。麋竺は、慚愧して発病し、一年余りで、亡くなった。
許してもらえたとは言え
気持ちはボロボロやろなぁ……
子威、官至虎賁中郎将。威子照、虎騎監。自竺至照、皆便弓馬、善射御云。
子の麋威は、官職が虎賁中郎将にまでなった。麋威の子の麋照は、虎騎監となった。麋竺から麋照にいたるまで、みな弓馬が上手く、よく射(弓を射る)と御(馬を御す)をしたという。
余談だが『三国演義』で糜竺が神に家を燃やされた話は正史にもあり、裴松之が『捜神記』から引用している
内容は演義とまったく同じなので割愛する
あっさり処刑されたのって演義だけやったけ
演義やで
糜芳は呉で潘濬のもと異民族征伐で手柄上げとる
有能な将軍やったんやろなぁ
あっさり降伏した奴として
他にも于禁がおるよな
あっさりではないぞ(憤死)
戦わないで降伏する←うーん
氾濫で軍勢ボロボロやぞ
次は孫乾やります
評はあとでまとめてやる
孫乾、字公祐、北海人也。先主領徐州、辟為従事。後、随従周旋。
孫乾は、字を公祐といい、北海の人である。先主(劉備)は徐州を領有すると、招聘して従事とした。後に、(劉備に)従って巡り回った。
先主之背曹公、遣乾自結袁紹。将適荊州、乾又與麋竺?使劉表、皆如意指。
先主は曹公に背くと、孫乾を遣わして袁紹と結んだ。荊州に行こうとすると、孫乾はまた麋竺とともに劉表への使者となり、すべて(劉備の)意にかなった。
後、表與袁尚書、説其兄弟分争之変、曰「毎與劉左将軍、孫公祐、共論此事、未嘗不痛心入骨、相為悲傷也」其見重如此。
後に、劉表は袁尚に手紙を届け、兄弟が分かれて争ったこと※
について、述べた
「劉左将軍(劉備)、孫公祐(孫乾)と、ともにこの事を議論するたびに、骨に徹するまで心を痛ませなかったことはなく、君たちのために悲しまないことはなかった」(劉備が孫乾を)重んじることはこの通りであった。
※袁紹の長男譚と三男尚が後継者争いをしたこと
初め袁尚が有利であったが、袁譚が曹操と結んで反攻に転じると袁尚は敗北、最後は遼東の公孫康の所に落ち延びるが公孫康に殺された
しかし袁譚もまた曹操に攻められて敗死、共倒れの結果である
袁紹伝参照
先主定益州、乾自従事中郎為秉忠将軍。見礼、次麋竺、與簡雍同等。頃之、卒。
先主が益州を平定すると、孫乾は従事中郎から秉忠将軍となった。礼遇は、麋竺に次ぎ、簡雍と同等であった。しばらくして、亡くなった。
孫乾伝の評も後で
簡雍、字憲和、?郡人也。少與先主有旧、随従周旋。
簡雍は、字を憲和といい、?郡の人である。若いころから先主(劉備)と旧交があり、従って巡り回った。
先主至荊州、雍與麋竺孫乾、同為従事中郎。常為談客、往来使命。
先主が荊州に行くと、簡雍と麋竺孫乾は、ともに従事中郎となった。常に(先主の)話し相手となり、往来して使者となった。
三国志全人物事典によると参謀副官らしい
この本三国志の官職網羅してるから
かなり便利
先主入益州、劉璋見雍、甚愛之。後、先主囲成都、遣雍往説璋。璋、遂與雍同輿而載、出城帰命。先主拝雍為昭徳将軍。
先主が益州に入り、劉璋は簡雍に会うと、とても彼を愛した。後に、先主は成都を包囲すると、簡雍を行かせて劉璋を説得させた。劉璋は、こうして簡雍を同じ輿に乗せ、城を出て降伏した。先主は簡雍を昭徳将軍にした。
優遊風議(※)性簡傲跌宕。在先主坐席、猶箕踞傾倚、威儀不粛、自縦適。諸葛亮已下、則独擅一榻、項枕臥語、無所為屈。
のびやかで気ままな議論をし、性格は傲慢で細かいことにこだわらなかった。先主が座にいても、両足を出して座りもたれかかって、威儀を正さず、思いのままに振舞っていた。
諸葛亮以下に対しては、ひとりで長椅子を独占し、首を枕にのせ寝たまま話し、へりくだろうとしなかった。
「風議」には「気ままな議論」と「風刺の議論」の両方の意味がある
簡雍伝を見れば後者の方が相応しいが、この巻の評に「麋竺、孫乾、簡雍、伊籍、皆雍容『風議』、見礼於世。」とあり、「優遊」の語もあるので今回は前者で訳した。もちろん後者でも意味が通じる
こういう人だから劉璋を説得できたんかなぁ
劉璋さん意外と意固地やもんね
劉備のやり方もちょっとアレやったしな……
時、天旱禁酒、醸者有刑。吏於人家索、得醸具。論者欲、令與作酒者、同罰。
あるとき、干ばつがあって(先主は)酒を禁じ、醸した者に刑罰を科した。吏が人家を捜索すると、酒を醸造する道具が見つかった。これを論じた者は、酒を造った者と、同じ刑罰を科そうとした。
それが簡(おろそか)とはこれ如何に
それ確か注釈にあったぞ
発音が近いから変化したとかだった気がする
知ってる
漢字の意義で追うと
簡雍の性質もあいまっておもろいなってだけ
名は体を表すというが「簡」と「雍」ってのは面白いな
簡雍→おろそかに、なごむ
そのまんま簡雍さんやんけ!
雍、與先主遊観、見一男女行道、謂先主曰「彼人欲行淫、何以不縛?」先主曰「卿何以知之?」
簡雍は、先主と遊覧に行き、男女一組が道で歩いているのを見かけると、先主に言った「彼らは淫行しようとしているのに、どうして捕縛なさらないのですか?」先主は言った「卿はどうしてそれがわかるのだ?」
雍対曰「彼有其具。與欲醸者同」先主大笑、而原欲醸者。雍之滑稽、皆此類也。
簡雍は答えた「彼らにはそのための道具があります。醸造しようとした者と同じです」先主は大いに笑い、醸造しようとした者を許した。簡雍の滑稽(巧みな弁舌)は、みなこの通りであった。
※
道具を持っているだけで処罰しようとした者を簡雍は弁舌で救った
この巻には弁舌によって相手をやり込めた者として伊籍や秦?の逸話も残っている
簡雍さん渾身の下ネタ
評曰。(中略)麋竺、孫乾、簡雍、伊籍、皆雍容風議、見礼於世。(後略)
評にいう。(中略)麋竺、孫乾、簡雍、伊籍は、みな寛容で気ままな議論をし、世間で礼遇された。(後略)
三国志中でも数少ない武芸に関する記述が
麋竺にあるのは意外やったな
士大夫の教養やから
それっぽいといえばそうやけど
弓と馬は演義の印象とまるで違う
いやたしなみなんやろうけど
わざわざ記述してる人物って少ないから
余程うまかったやろうなと
三代にわたってやってたのが珍しかったのかもしれん
または名スナイパー麋竺説
馬良、字季常、襄陽宜城人也。兄弟五人、並有才名。郷里為之諺曰「馬氏五常、白眉最良」良、眉中有白毛、故以称之。
馬良は、字を季常といい、襄陽郡宜城県の人である。兄弟五人は、みな秀才との名声があった。郷里ではそのため諺があった「馬氏の五常、白眉最も良し」馬良は、眉の中に白い毛があったので、こう称賛されたのである。
先主領荊州、辟為従事。及先主入蜀、諸葛亮亦従後往。良、留荊州、與亮書曰「聞、?城已抜、此天祚也。
先主(劉備)は荊州を領有すると、招聘して従事とした。先主が蜀に入ると、諸葛亮もまた後から続いた。馬良は、荊州に止まり、諸葛亮に手紙を届けた「聞けば、?城はすでに攻略したそうですが、これは天の幸いです。
記録にないから本当にわからんな
説明不足やったけど
「五常」は五兄弟の字にすべて常がついてるからだと思われる
弟謖の字は幼常
多分字は
伯常・仲常・叔常で間違いないとは思うけど
それ以外は推測すらできんからな
尊兄、応期賛世、配業光国、魄兆見矣。夫、変用雅慮、審貴垂明。
尊兄は、時期に応じて世を救い、興業に加わって国を輝かせましたが、(その)予兆は見えております。そもそも、変には優れた思慮を用い、つまびらかにするには明察を貴びます。それゆえ才を選んで、その時に適うべきなのです。
於以簡才、宜適其時。若乃、和光悦遠、邁徳天壌、使時閑於聴、世服於道、斉高妙之音、正鄭衛之声、並利於事、無相奪倫、此乃管絃之至、牙曠之調也。雖非鍾期、敢不撃節」
もし、光に和し(=才徳を隠し)遠くを喜ばせ、徳を天地に及ぼし、時(の人)に命を聞かせ、世人を道に服させ、(以下、音楽に例えている)絶妙な音を並べ、鄭衛の(淫らな)音を正し、
事に利し(良い音を出し)、倫を奪わなければ(音を邪魔し合わせなければ)、これこそ管絃の至妙、伯牙・師曠(琴の名手)の調べです。鍾期でなくとも、拍子を取らずにはいられないでしょう」
先主辟良、為左将軍掾。
先主は馬良を招聘して、左将軍掾にした。
後、遣使呉。良謂亮曰「今銜国命、協穆二家。幸為良介於孫将軍」亮曰「君、試自為文」
後に、呉に使者として行かせた。馬良は諸葛亮に行った「今国家の命を受け、二つの家(劉・孫)を睦まじくさせます。良(馬良の自称)のために孫将軍に仲介していただきたく存じます」諸葛亮は言った「君は、試しに自分で文を書いてみてくれ」
馬統仲常
馬安仁叔常
馬良李常
馬謖季常
やぞ
なお出典
多分やけど
この時代2字名なんてほぼおらんよな
郭攸之しか思いつかなかった
周不疑とか皇甫堅寿とか
郭攸之がおったか
そういえば戯志才はどうなんやろ?
字なのか名なのか
「志」の字が桓帝の諱を犯してるから
実在したんかなとさえ思う
新唐書あたりか?
隋代の地方人物記やで
なお
馬玄 伯常
馬康 仲常
馬津 叔常
馬良 李常
馬謖 幼常
の説もある模様
はえ~
隋代なら捏造の可能性もあるけど
子孫が残ってる可能性も否めんしな
捏造の可能性じゃなくてほぼ適当やろ
ソースとしての信憑性は皆無やな
だろうなぁ
良即為草曰「寡君遣掾馬良、通聘継好、以紹昆吾豕韋之勲。
馬良はすぐさま草稿を作った
(以下、馬良が諸葛亮の立場で草稿を書いていることに注意)
「寡君(劉備のこと、謙遜の表現)は掾の馬良を遣わし、訪問させ誼を続かせ、昆吾、豕韋(どちらも夏の諸侯)の勲功を受け継ぐつもりです。
其人吉士、荊楚之令、鮮於造次之華、而有克終之美。願降心存納、以慰将命」権敬待之。
この人(馬良のこと)はよき士、荊楚の令で、見た目の華やかさはあまりないものの、有終の美を飾れます。どうか御心に留め置かれ、ご命令を果たさせてください」孫権は彼を礼遇した。
漢文だからよくわからんけどいい感じなのは伝わる
先主称尊号、以良為侍中。及東征呉、遣良入武陵招納五溪蛮夷。蛮夷渠帥皆受印号、咸如意指。會先主敗績於夷陵、良亦遇害。先主拝良子秉、為騎都尉。
先主は帝号を称すと、馬良を侍中とした。呉を東征するに及んで、馬良を武陵に送って五溪の蛮族を招かせた。蛮族の首領はみな印と称号を受け、すべて思い通りになった。たまたま先主が夷陵で敗北し、馬良もまた殺害された。先主は馬良の子の馬秉を、騎都尉にした。
このあと弟の馬謖の事績があるが
以前訳しているのでそちらを参照
馬良は死んだ時三十六歳、馬謖は三十九歳であったとされる
評曰。(中略)馬良、貞実、称為令士。(中略)董允、匡主、義形於色。(中略)皆、蜀臣之良矣。(後略)
評にいう。(中略)馬良は、篤実で、よき士と称賛された。(中略)董允は、主を正し、義が顔色に表れていた。(中略)みな(董和・劉巴・馬良、陳震・董允)、蜀臣のよき人物であった。(後略)
馬謖の代わりに良を使えればと思うと
ついつい馬謖を使ってしまう
蜀の大戦犯なのになんか嫌いになれん
わかる
猛威を振るってた11では相棒やった
あれだけ北伐しながら
国を崩壊させんくらいには
すごかったんじゃないかと
人物は二通りあって
管仲や商君のように具体的な政策が残っていれば
蕭何みたいに全く残っていないけど
やたらすげーと言われるタイプもおる
諸葛亮は後者なんだけど
信賞必罰が行き届いてて
諸葛亮に廃されたものすら怨みを持たないという
チートっぷり発揮してる
ずっと外征してるし
もっと蜀は長持ちしてたやろなぁ
大儀名分を失って
政治が急速に腐敗する可能性もあると思うわ
諸葛亮がゴーンにならんとも限らんわけで
これはある
秦がまさにそうなんやけど
晋楚斉が強かった時代乗り切って
周りがだんだんと弱くなったころに勢力強化して逆転
漢の後継を自称した蜀にとって魏は罰するべき対象だから
蜀の国家としての意味が揺らいでしまいそう
劉性でもあらへんし
孫家の為よ
それで国をまとめられるのは孫権もすごいなぁ
構成員に地方豪族多いから天下よりも
安定というので孫権と一致したんやないかな
結構グダってるぞ
孫家が権力拡大しようとすると
豪族が阻んだり、その逆も然り
悪い部分ばっか叩かれてるけど英雄や
領土も二倍にして長期に渡る国家支配もしてる
北伐が正解や(暴論)
なお関羽
ワンチャンあったかもしれんけどなぁ
呉も北伐開始してくれんとな…
結局あの局面でキーになるのが呉というのがなんとも
李厳が北伐で諸葛亮が補給の方がうまくいきそうな気が
まあでも李厳野心が強いし無理か
あいつ絶対独立するで
孔明は戦術レベルで最強やけど
李厳は未知数やしなぁ…
もしも李厳が孔明と同等の才あったら
それはそれで面白い展開
劉備が軍事で李厳は使ったけど諸葛亮は使ってないのがな…
死の直前でも李厳を都督中外諸軍事にしてるし…
少なくとも劉備の眼には
将軍としては李厳の方が上と映ってたんやないかと
益州攻めで張飛趙雲率いて出陣してるぞ
李厳の軍事思い出したけど数万の盗賊を五千人で撃退したのあったわ
誰だっけか忘れた
あれほんまに張飛趙雲を率いてるんかな…?
あとあとの官職考えると
劉封の軍師的立場についたんではないかという気もするんやけど
代表として名前出されただけで
率いてないかも…
長安奇襲くらいの賭けはやるべきだったやろなぁ
なお維持できない模様
でも死ぬ気で守りぬいたら
一気に形勢変わりそう
洛陽からの親征軍と涼・雍からの地方軍の挟撃に堪えられるとは思えんわ
魏を青・徐・冀・并・幽・豫州くらいまでの大きさに出来たんだろうか?
多分豫徐は怪しいと思う
合肥が抜けると
豫と徐は落ちると思うけど
合肥が問題なのよね
蜀建国の時点で半ばゲームオーバーやし
まあ劉表死んだときに
荊州とってればワンチャンやないかな
無理やろ
劉表軍を構築する豪族勢力はみんな降伏派やし
徐州のようにはいかんわ
その後に押し寄せる大軍を長安で迎え撃ち、
千切っては投げ千切っては投げしまくって
長安以西を蜀に塗り替えることが出来たら
三国最強名乗ってええんか?
白起を越え韓信に並ぶ名将扱いになるわ
主に南の異民族相手してるからか地味なんよねぇ
なんだかんだ孫堅は孫和を選んでたのかな
孫堅→孫策→孫権→孫和→孫晧
完璧なリレーの完成やな
養子にならん方が良かったんちゃうかってくらい
悲しい扱いやんな
諸葛亮に嫌われた+関羽見殺しやからな…
関羽の件はしょうがないと思うの
救援のふりをするだけでも違ったんやないかな
酒癖悪いだけやろ
実際即位の経緯的にもやさぐれるわ
劉禅はまだマシとかいう風潮
この人の評価は本当に難しい
どう頑張ってもマイナスにしかならないんだけど
もっと酷い人がいるから
それよりはマシという位置づけ
今後も何かしらやるかもしれないからその時はどうぞよろしく
ほな、また
乙やで
乙です