中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。
英語では「Empress Dowager(寡婦女帝)」という呼称がよく使われる。個人名は杏貞。
紫禁城内における二人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第二夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。なお「せいたいごう」という読み癖は正式の読みではない。
「中国の三大悪女」として漢代の呂后、唐代の武則天とともに名前が挙げられる。
西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。 西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。
1852年、数え十七歳のとき、三年ごとに紫禁城でおこなわれる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、十八歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となり、序列第三位の妃となる。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。
西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば「西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った」、「最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した」、 「いわゆる『葉赫那拉(エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった」などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。
1856年、西太后は咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、皇后に次ぐ二番目の地位である貴妃に昇進。次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強めた。
1874年同治帝の大婚を機に親政を行おうとしたが、天然痘のため若くして崩御。一説によると真の死因は梅毒で、西太后が皇帝と皇后(嘉順皇后)を離間させたため、同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという。天然痘か梅毒か、学者のあいだでも意見は分かれている。 同治帝は子供を作らずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。
この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り他の皇帝候補者よりも血縁の近い、妹の息子である載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
同治帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては李鴻章らと結び、彼らの推進する洋務運動を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間を同治中興と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、整備用の海軍予算を西太后が私的に流用していたとい
われる。
日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為・梁啓超を取り込み、1898年に真の光緒帝親政を開始した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意した。改革に好意的と見られていた袁世凱が一部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変)。わずか三ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。さらに将来光緒帝を廃位すべく、端郡王載漪(サイイ)の子溥儁(フシュン)を大阿哥(清朝では立太子の制度を廃止した為、普通は皇長子もしくは皇嗣子を指す)に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の廃位は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女はフラストレーションを蓄積させていった。この点が後の義和団支持へとつながっていくことになる。
このため、清朝内にはこれに支持を与え、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする動きがあった。その中心人物の一人が西太后である。しかしこれは西欧列強の実力を過小評価したものであり、すぐさま日本を中心とした八ヶ国軍が派兵される事態を招いた。その結果、首都北京が陥落、西太后自らは側近を伴い西安へ逃走を余儀なくされた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる事を命じたといわれる。
義和団の乱終結以後、遅まきながら西欧風の政治改革の必要性を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を手本に所謂「光緒新政」を開始した。しかしその新政も、辛亥革命への流れを堰き止めることはできず、遅きに失した観は否めない。
1908年光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」溥儀を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御した。光緒帝と西太后の亡くなった日が近いことから、自らの死期の近いことを悟った西太后が帝を手にかけた、という流説が飛び交った。
権力欲と人を巧みに操る感覚は並外れたものを持っていたが、それ以前に皇太后という身分では外界の情報が届きにくく、かつ、国体(王朝)の保持を第一義としてしまったために、人民を顧みない政治を行い続けたことは当時の中国人にとって不幸以外の何物でもなかった。また諸外国との戦争処理の際に安易な妥協や講和をし続けたことで清朝そのものを疲弊弱体化に導いてしまった事については後世の歴史家たちから批判されている。
他方で西太后が君臨する前から中国の疲弊弱体化は進んでおり、西太后が現れなかったらもっと早く中国の分割・植民地化は進んでいた、という学説もある。 もっとも、現代中国においては清朝が存続するより、早急に滅亡して中華民国が早く成立したほうがよかったとする意見もある。
武則天は女性だっただけで普通に英雄だと思うし、
呂后は権力争いを宮廷外に持ち出さなかったので俺としては権力者として合格。
3人で比べるとどうしても・・・・・。
まあ、後の二人が優秀なだけだって話は普通に有るけど。
中国史上の名君の一人に数えてもいいぐらい。
まあ、上の二人とは時代が違いすぎた
垂簾の奥から宦官通して命令していればいい時代ではなかったからなあ
劉暁慶主演・李翰祥監督の作品だよね?それであれば、アラレちゃんの小山まみさんだったようなキガス。
則天武后と西太后はやってないよね?
3人ごちゃごちゃにされていて、彼女たち全員がやったようにされているような気がする。
西太后は東太后暗殺を疑われてはいるが定かではない、他の后とは問題ナシ
ライバルを棒叩きの上、「骨まで酔わせておやり」と酒甕に漬けたのが則天武后
西太后の話は、この二人のエピソードを足して2で割ったみたいだね
則天武后の残虐エピソードは史書にあるの?
西太后の話は完全に作り話っぽい。東太后暗殺疑惑もあくまで疑惑だし。
いや、呂后の話も史記ではなかったように思う
そのあたりは、ぜんぜん知らないが、まあ、二人とも筆誅の可能性は
大きいよね
確か史記だったような。
史記や漢書に載っていないのは、虞姫の自決の話
則天武后は後から入った上に自分の息子のライバルも多かったんで片っ端からそれらを始末しなくちゃならなかった。
呂后は戚夫人が積極的に呂后の息子を太子から引きずり下ろそうと画策した報復として残虐行為に出た。(他の夫人に出来た男子は一応無事)
西太后は唯一の皇子の生母として、東太后に継ぐ地位にあったし
女児しか産まなかった麗妃よりも立場も待遇も上なんで地位を脅かされる心配もない。
息子の嫁はいびったけどね。
紫禁城に珍妃の井戸があるけど、あんな小さい穴に本当に人間が入るのだろうか?
日本の井戸とは全然違うからね。
ボットン便所の穴よりもっともっと小さかった。
三人のどれにしても中国の女は嫉妬深い。
西洋勢力が進出してくる時期に権力握ってたのが間が悪い
西太后程度に権力を握った皇太后は他に何人かいそうだしね。
それをそのまま日本に適用する市民団体は激しくウザいが
所謂現代に残された「宮廷料理」の大半は彼女の賞賛によって、
普及されてきたものだ。まあ、そのためにかなり浪費した。
現共産党政権の中国で旧世界のシステムを、ましてや満州民族の国家を徹底的に悪にするのが常道である。
彼女の生家は確か汚職に巻き込まれた中堅官僚で責任を取らされて給料を国家に賠償した経歴がある。
東太后の死に関しても当時彼女は病気を患っており東太后が薨去したときも臣下たちはてっきり西太后が亡くなったと勘違いしたぐらいである。
珍妃の死に関しても宦官が勝手に暗殺したらしい。
あとは彼女は美に関して大変興味をもっており薔薇のクリームを自ら監督して作らせたり、当時化粧は身分に応じてしていたが皇帝の死後自分にあった化粧法を編み出した。
洗髪する習慣のないところに医者に命じて漢方に基づくシャンプーを作らせたり歯磨き粉を調合させて使用していたという。
まあ、別に共産党でなくとも、次の政権は、自分の政権を正当化するために、前政権を否定するのが常だよな
女であることと、前王朝であることで、不当な扱いを受けているのも事実だろうが・・・
といって、浅田次郎の「蒼穹の昴」までの力量の持ち主かと言えば、ちょっとねえ。
まあ、小説はフィクションだが。
ありゃ中国好きがこうであったらいいなあという理想の西太后をかいたんじゃないか?
彼女がなりたかったのは権力者ではなく優雅な未亡人。康熙帝母親だったか忘れたけど息子である皇帝が相当母親に散財したらしい。
酒が目に漬け込まれてた麗妃は19歳で死んだ娘より長生きしてるし。
慈喜○○みたいな名前がついてたりする。美食はともかく
残ってる写真見た限りではそれほどの美女とも思えないが、
アンチエイジングのイメージで売ってる名前なんだろうか。
清朝は、明が皇后を「色」で選んだがため、だんだん皇帝がアホになりだしたことを考慮し、皇后・側室は本人の品性や父親の能力で選ぶようにして、その結果、清朝は名君ぞろいになったが、後宮がチト寂しくなったという話があるからなw
ただ、光緒帝を殺めたのは明らかに間違いだったな。
まあ、一日違いで死んだというのはどう見てもおかしいw
でも、そんなに光緒帝に権力を持たせたくなかったのかねえ
死後、批判されたり、后位を剥奪して庶人に落とされたりするのを
恐れたのかね?
実際光緒帝って政治能力はどうだったんだろう
変法派の康有為あたりは異常に持ち上げてるけど。
無能な皇帝を選んだのは自分だから、その責任を取ったということかねえ
歴史の参考書で光緒帝の写真を見たときは、びっくりしたよ
こんな憂いにみちた気品というものがあるのかとオモタ
肖像画で見るご先祖様のワイルドぶりとは偉い違いでw
ただ・・・当時は誰がやっても失敗したときだし、あの繊細さではいくら素質があっても
駄目だったような気がする。案外、連れて行ったのは光緒帝では、これからの難局はのりきれまいと思った西太后なりの「慈悲」だったりしてねえ
>無能な皇帝
ちょと待てぃ。光緒帝は無能ではないだろー
それなら同治帝と嘉慶帝の方が余程だよ
ごめん、この書き方だと誤解を招くなあ、とうpしてから思ったんだけど・・・
西太后の目から見て、の意味だよ
時代に適した器じゃないが光緒帝は、西太后から見ても、無能とは言えないじゃないか??
時代が時代なら、皇帝として君臨し続けても、おかしくないと思うが。
在位が最盛期にあたっただけで、実際は、本人の力量によるものじゃない
――そんな奴も、歴史の中には存在する。
光緒帝は実行力とか策もないのに理想を追うからある意味始末に終えないよ。
おまけに人を見る目もなかった。
10歳にもならない溥儀ならともかく、立憲君主制やりたかった光緒帝を
袁世凱あたりが放っておいたかどうか。
表立って手を下さなくとも結局同じ運命を辿った気がするね。