力は素手で猛獣で渡り合うほどの怪力に頭脳明晰、弁舌さわやか。
その素質をひたむきに悪のみに邁進させた稀代の悪王、紂。
妊婦の腹を割き胎児を眺め、賢人の心臓には七つの穴があると称して胸を裂く。
諌める者は焼いた銅の柱に抱きつかせて殺し、その死体は塩辛や干し肉に加工・・・
まさに悪の英雄ではございませぬか!
ニュース
史書の姿は周の情報操作の結果で、甲骨文などの資料は商王としてはそれほど酷い王ではなかったんじゃ?
と言われつつある。
あの太公望は遊牧異民族出身だったからというからね。
夏の桀王とかぶってる部分多いと聞いたが
愛妾の名前も似てれば倒した奴らもなんとなく似ている
つまりどちらかの所業が架空
もしくはどちらの所業も創作の可能性ありってか?
宮崎市定先生の言う加上説だね。
>>18
今の時代でいえば源義経が死ぬとき光の柱出て白馬が空に舞うようなもんか
そうかんがえればほとんどが創作って考えれるな
この時代もそれ以前もやはり創作の部分は多いかもね。
資料の少なさから考えると致し方ないかも。ただ、最近の殷帝の悪業はその辺を考慮してかなりマイルドに書かれているのだとか…。
後の、紫禁城とかを知っている今から見たら、
かなりしょぼかったんだろうな。
『太公望伝』だな、だが俺は同じコミックに収録されている『無面目』のが好きだ。
ネタ入れまくりで駄作
一巻から妲己が妖怪に取りつかれたり2巻では雲中子が宙に浮いたり・・・
10巻から後は土行孫(辺りの景色に溶け込める人間)とか出てきてむちゃくちゃ
正直、藤崎封神を読んでるとあまりキャラに感情移入できません
横光本人も楽しんで描いてたのかな?
あれは妲己に身体改造されてたから
紂王に仕えた悪来についてだが、素手で虎をボコッたとか、戦場で一騎駆けかましたとか、こんな風な武勇伝は無いの?
ただ腕っ節が強いだけの告げ口野郎?
「手で虎やジ(水牛)で裂いた」というのがあるが。
太平御覧で引用されてる尸子の中にも似たような話がある。
ありがとう!!!
安能版「封神演義」じゃこれといった武勇伝がなく、典韋のあだ名にしては意外に思ってた。
帝辛
帝辛(ていしん いわゆる殷の紂王 紀元前1100年ごろ)は、殷の30代目の帝であり、最後の帝。名は辛、或いは受と呼ばれる。帝乙の末子。異母兄に微子啓と微子衍らがいる。子に武庚禄父ら。暴虐な政治を行なった帝王とされ、周の武王に滅ぼされた。『史記集解』によれば「義を残(そこ)ない、善を損なうを紂と曰う」と。
帝辛の伝記
帝辛は弁舌に優れ、頭の回転が速く、力は猛獣を殺すほど強かった。それゆえ臣下が馬鹿に見えて仕方なく、諫言を受けても得意の弁舌で煙に巻いてしまった。帝辛の増長はつのり、神への祭祀をおろそかにし、重税をかけて天下の宝物を自らの物にし、尤渾や費仲と言った佞臣を重用し、妲己と言う愛妾の言う事ならば何でも受け入れ、日夜宴会を開いて乱交にふけった。この時、帝辛は肉を天井から吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立て、欲しいままにこれらを飲み食いした。ここから度を過ぎた享楽の事を酒池肉林と呼ぶようになった。
帝辛の親戚に箕子と比干と言う賢人がいた。箕子は帝辛が象牙の箸を作ったと聞き、「象牙の箸を使うなら陶器の器では満足できず、玉の器を作る事になるだろう。玉の器に盛る料理が粗末では満足できず、山海の珍味を乗せる事になるだろう。このように贅沢が止められなくなってしまうに違いない。」と危惧し、贅沢をやめるように諫言したが、帝辛はまったく受け入れず、誅殺を恐れた箕子は狂人の振りをして奴隷の身分になった。
比干は当時行われていた炮烙と言う残酷な刑罰をやめるように諫言した。帝辛は怒り、「聖人の心臓には七つの穴が開いているという。それを見てやる。」と言い、比干は心臓を抉り出されて死んでしまった。
当時、殷の最も重要な地位三公には諸侯の中の実力者である西伯昌(後の文王)、九侯、鄂公が就いていた。九侯に美しい娘がいたので、帝辛はこれを妾にしたが言う事を聞かないので娘を殺し、父の九侯まで殺して塩辛にしてしまった。あまりにもひどいと鄂公が文句を言うとこちらは乾肉にしてしまった。それらの話を聞いた西伯昌がため息をつくと、これを聞きつけた帝辛は西伯昌を羑里と言う所に幽閉した。その後、西伯昌は財宝と領地を帝辛に献上して釈放された。
西伯昌が死に武王が立つと、ついに天下の諸侯は帝辛を倒すために立ち上がった。武王は文王の位牌を掲げ、軍を起こした。一旦武王は退いたが、その二年後再び武王は軍を起こした。両軍は牧野で激突した。この時殷軍は70万を超える大軍であったが、その軍は奴隷が多く占め、戦意は無いどころか武王がやってくるのを待ち望んでいたほどであったので殷軍は大敗した。
首都に逃げ帰った帝辛は鹿台に上り、焼身自殺した。その死体は武王により鉞で首を断たれた。
後世、夏桀殷紂(かけついんちゅう)と呼ばれ夏の桀と共に暴君の代名詞となった。
帝辛の評価
帝辛の伝記はまさしく悪事のオンパレードであり、ここまで並べられると逆に怪しく思われる。論語の中で、孔子の弟子の子貢が「殷の紂王の悪行は世間で言われているほどではなかっただろう。」と述べたとあるから、春秋時代後期には既にそうとうの悪評があり、当時の有識者もまた疑問を持っていたと思われる。
実際甲骨文によれば、帝辛は神への祭祀をする事厚く、東の人方と言う部族を討ち国勢は盛んになったと書かれている。熱心に祭祀を行ったために生贄を多く必要とし、そのことが周によって残された史書に、帝辛の悪事として誇張されたであろうし、後世、文王と武王が聖人化されたため後世の人間が色々と悪事を付け加えた事も考えられる。殷周革命は衰えた殷に周が取って変わったというわけではなく、殷が東方の経略に夢中になっていた隙を突いて周が殷を滅ぼしたとする説が最近で
は有力視されている。
帝辛と桀の最期は酷似している。美女(末喜と妲己)に溺れ、諫言をする臣を殺して回り、次代の王(湯王と文王)を幽閉し、名臣の補佐(伊尹と太公望)を受けた英雄に滅ぼされる。これは帝辛の最後から桀の伝説に欠けている部分を穴埋めしていったのではないかと思われる。
そうだね。東方の征伐は何度も繰り返されていたらしいから或いは国が貧困にあって領土拡大を謀らなければならなかった為のかもしれいし…。
また戦争が多くなれば民が苦しむのは当然で、しかし永く平和が続いていたが為に平和ボケしてた人が歴史を伝えたとすれば、たくさんの歴史を知っている人たちからすれば大袈裟に聞こえるとも考えられる。
商売という行為を初めて行なったからと本に出てました。
昼間でも見えるものらしいけど、どんな感じだったんだろう。
実際に殷が何らかの理由で疲弊して周を中心とする連合軍に負けたのは事実だろうけど
夏 殷 周 で言えば
殷の統治が最も安定してたと思うんだがここまで叩かれるのはやはり
王権簒奪した周が徹底的に殷を貶めたからだろうね
紂王こと帝辛の時代にはむしろ国力が伸びていたんだけど東方の経略に気を取られている隙を突かれた。
生贄というより殉死かな
殉死をやめて埴輪にしたのは日本の話だろう。
いや殉死やめさせたらしいよ
殉死の停止、というより帝辛代の甲骨文に
「祭祀の犧牲の羌の数を減らしてもおK?」
というのが発掘されていて、帝辛こと紂王はそれまでの人間の犠牲を全廃は無理だけど数の削減をしようとしていたらしい。
ただ、その分帝辛時代の祭祀の回数はその占いの卦辞甲骨文の出土数から先代までよりも増えているそうなので、単に犠牲の羌が祭祀の回数に間に合わなくなって足りなくなり、それで数を減らして祭祀していいか神に問うた可能性もある。
因みに周に入ってから人間の犠牲は止めたという俗説があるけど、実際には成王の治世頃(周公旦の時代)の地層から数十人の人間の犠牲の痕があり周初期は周でも人間の犠牲を捧げていたのが最近では判明している。
殷の庶民生活自体が考古学上からもよく解らないから、庶民の祭祀で人牲を捧げてたか自体分からない。
少なくとも犠牲の大量発掘されるのは王墓など王家関連らしいと見られる所のみだから、人牲は王家専祀の供物だった可能性が高いけど。
でも殷があった頃はそんな案配だから差別意識程度は庶民もあったかも、というかそもそも「羌族を人間と思ってなかった」かと。