見つかった書状は、戦国時代の永禄年間(1558年~70年)に、上杉謙信が自分の領土だと考えていた、今の長野県北部、北信濃の7人の武将に宛てたもので、新潟大学名誉教授で、郷土史に詳しい冨澤信明さんが、およそ15年前に骨とう品を扱う関係者から購入し、保管したままになっていました。
冨澤さんが上杉謙信研究の第一人者で、上越市公文書センターの福原圭一上席学芸員に調査を依頼したところ、花押と呼ばれる、謙信のサインなどから、原本であると確認されました。
北信濃をめぐって謙信と信玄が戦った「川中島の戦い」は、通説では5回あったとされています。
学芸員の福原さんによりますと、近年の研究で、謙信と信玄の対立がその後も続いていたことは明らかになっていましたが、見つかった書状は、明治時代に残された写しの原本で、5回目の戦いの3年後の永禄10年に、謙信が出したものだということです。
書状では、信濃を北進する信玄の侵略を防ぐため、7人の武将に対し「皆々在陣あり、堅固の仕置専一に候」。つまり、「みんな、陣所のそれぞれの持ち場でしっかり守るように」と指示しているということです。
福原学芸員は、ほかの研究の成果も合わせて考えれば、5回目の合戦のあとも、合戦があったと考えるべきだとしていて「戦国時代の人は、今回が何回目の合戦と思って戦っているわけではないが、江戸時代に軍記物として書かれたときに、5回までをセットにし1冊にして残された。しかし、永禄10年にも戦っているということを念頭に見直したほうがよいのではないか」と話しています。
書状の持ち主の冨澤さんは「本物だと思って購入したわけですが、謙信の書状で間違いないということが確認できてうれしいです」と話していました。
4: 名無し 2019/09/07(土) 20:07:25.56
「お前、なかなかやるな」
「お前こそ。見直したぜ!」
とか言ってマブダチになるのかと思った
あいつら、実際そんなようなもんだったと思う。
信玄が勝頼に「困ったら謙信を頼れ」って遺言したとかしないとか。
心のなかではあったかもね。
謙信も喜んだとも聞くけど。信玄の死
おもむろに喜んではいないだろうけど信長に共闘しようぜ!でも勝頼もなかなかやるから慎重にな!言うくらいは益を得たと思ってたろうね
それは前から否定されてるらしい
川中島の合戦場跡には、馬に乗った謙信が馬上から斬りつけ、信玄が軍配で防ぐ銅像まで建っている。
史実より伝説の方が面白い。
こういうロマンあふれるエピソードを「史実ではない」「それは物語」とか言っちゃうから、 歴史がつまらなくなるんだよな。
巌流島の武蔵と小次郎みたいに、「川中島の決闘」としてもっとどんどん盛り上げていけばいいのに。
それやり過ぎて史実まで歪められかけたから
ちゃんと検証しましょうってことだよ
どうでもいい北関東や川中島や木曾とかにこだわって何十年も無駄にした
上野下野とかはともかく川中島は重要戦略拠点やろ
門前町の収入はかなりあっただろうしな
信玄も謙信もどっちも譲りたくないわな
信長が上洛とか考えれたのは自国とその近隣が滅茶苦茶豊かだったから
尾張と伊勢くらい収めた時点で
信玄が一生かけて盗った石高に大体匹敵する
だな
加えて畿内には謙信や北条氏康のような有力大名は存在せず
三好と松永も分裂状態で本願寺と一向一揆さえなければ各個撃破が可能な情勢だった
父の代から手を出していたけど、
三国同盟結んだ時点で拡大は信濃方向しかないだろ
信濃も甲斐も広いけど山ばかりで石高は大きくない
石高がほぼ動員兵力なんだから、北の義理堅い特攻隊長を潰さないと、
留守を置いたまま長大遠征もできないし、上洛しても一時だけ
生まれた場所の限界ってのがある
甲斐国は不毛の地だが
信濃国は全体でみれば石高上位の大国
海が無い事を考えればかなりの穀倉地帯
石高の絶対量は確かにそうなんだが、
あの広さながら濃尾伊勢近江それぞれ一国と比べても負けるからねその甲信の兵を率いて、北に助けを求められたら絶対に出てくる強兵国家を北に抱えつつ、
その豊かな(=兵の多い)濃尾伊勢近江を併呑か抱き込むかしないといけないわけで、普通に考えればちょっと無理ゲー
先に地歩を固めるでしょって話
信玄としては信濃から日本海に出たかったと思うんだけどな
そこに難敵謙信がいたのが不運であり、歴史の面白さでもあるんだろうけど
謙信がまとめるまでは
越後もバラバラだったしな
当時の善光寺や直江津港の扱い、
春日山と北信との距離など調べるほど
信玄の方針しかないと思える
川中島など謙信と戦争してたころは
信玄は信濃を後背地にして関東や駿河に対抗しようと考えていたのであって
西に進むなんて考えてなかっただろ
そうだよ
あくまで信濃や北関東で時間を無駄にしたって話への回答だからね
信玄の認識じゃ自分の国周り堅めて地盤強化して上洛しても将軍の補佐、やっても傀儡化みたいな応仁の乱の守護大名の思考まんまだと思うよ
今川義元も同じ倒幕して天下統一みたいな考えしてたの信長位でしょ、広がった領地に合わせて本拠地を移動するとか当時じゃキチガイの域だよ
信長んとこは祖父の代から本拠地は便利なとこに移転してるからな
信定 津島→勝幡
信秀 勝幡→那古野→古渡→末森当時としては珍しい家風
守護大名と戦国大名の一番の違いは室町幕府の権力や法に頼らずに自国を治めるというところにあるので、武田信玄も今川義元も間違いなく戦国大名。そして天下という言葉には2種類ある。
京周辺の近畿=天下
現代人が思い描く全国制覇=天下
この点に関しては将軍家を傀儡にした細川京兆家も三好長慶も京周辺の天下人になって満足したので、日本全国を天下として一統しようとしたのは織田信長だけということになる。
今川、武田、北条のせめぎ合うこの地域は北条早雲、今川氏親という最初の戦国大名が誕生した地域だからな
戦術的には信長謙信義弘元就らとら比べるとはるかに劣るのが信玄
半分の兵力の村上にフルボッコにされているし北条上杉にも勝ったことがない
雑魚相手にイキっていただけだが
圧倒的兵力で家康に勝ったからその後神格化されただけつーかぶっちゃけ家康との戦いなら勝頼の方が戦績いいんだけどな
信玄が勝てなかった北条もボコボコにしているし
長篠に関しては勝頼がダメだったというよりは信長が凄すぎただけだよ
その信長も信玄より勝頼の方を評価しているし
勝頼って北条に勝ったっけ?信玄は1569年の戦役で、決戦は回避されたものの(三増峠は決戦ではない)
好き放題暴れまくってるし十分だと思うが
北条から上野奪っているし伊豆方面でも攻勢に出ている
北条が勝頼にやられすぎて
「やばいこのままじゃ滅亡するよ
北条はお前らに良くしてやったじゃん
今こそ御国に恩返ししようよ;;」と、小田原征伐に先立って最初の総動員令を出したのが対勝頼戦
まあ勝頼は北条が弱すぎて戦線伸び切ったせいで高天神を失うんだが
信長に関しても本能寺までは結果的に良い方向に転んでただけで
過大評価だと思うけどね
稲生桶狭間天王寺と数倍の敵を打ち破っているから過大評価じゃないよ
天下を取るなら運が無いとダメだよ
だからウンを漏らす程に持ってた家康が最終的に天下人に成ったじゃん
家康ってラッキーマンなのか
そーだよ
秀吉が自らの手で秀次を排除しなければ、家康の天下なんて無かったと思う。
そもそも本能寺が無ければ、信長にいいように使われ最後は難癖つけて徳川家お取り潰しかな…
だが桶狭間が無ければ
今川幕府のNO2(氏真の補佐)
からの乗っ取りでやっぱり天下が取れた可能性w信長さん身内や恩人には駄々甘だからなあ
金ヶ崎の戦いで体張ってくれた家康には相当甘くなりそう
あれには受信料払いますわ
第1部というか、第一次上田合戦に至るまでは最高でしたね。
雰囲気は邦画の中ではトップクラスに素晴らしかったなあの謙信に比べたらガクトなんか学芸会以下だわ
同意
ガクトの謙信なんか小物すぎて
見れないレベルやで
GACKTのはそれはそれで悪くはなかったぞ
好き嫌いは別に構わんが俺は嫌いではない
再現ではなくドラマだからね
ワロタwww
なんだよそれ
しかも夜中に外でなw
笑ったw
現代に生まれてよかったわ
状況証拠が弱すぎてファンタジー
あるから言われてるんだよ。
月に一度、不調があったらしいが
生理痛じゃないかと言われてる。
たくさんあるぞ
教科書にも載ってる僧侶みたいなおっさんの絵
あれは謙信の死後、江戸時代に描かれたもので
生前に描かれたとされるものとは別人
それは江戸時代に修正が入った、ってだけの話だろ
髭が描き加えられただけ
あの時代に正室も側室も持たなかったのは不思議
まあ出家レベルというか
かなり思い込みの激しい仏教徒だったからな
上杉謙信女性説って、
作家の八切止夫という人が言い出した
昭和の話じゃないの「本能寺の変で織田信長を殺したのは、明智光秀ではない」という本を出して受けたから、
なんかデタラメな本を次々と出して、信用を自らどんどん落として行った人だそうな
なんでそんな人の説が今も唱えられてるんだろう
「信長殺しは秀吉か」これはなかなかリアリティがあって面白い。
特に、京都番役の光秀が近衛にそそのかされたというのは、実際に書状や親交もあって、間違いなさそう。「先右大臣」で叙勲は受けない、安土城に天皇の家を作る、天守閣も神道より上、パーデレ達への傾倒と世界情勢への意欲。更に、光秀の洛入りも、音を立てずに行軍など不可能な兵数であることから、派手に閲兵式やって天下取り最後の戦いの出陣式おじゃる共の前で やろうとしていたってのが最新の説。本能寺外構や正門での係争跡がないのも後押し。
謙信女説は、八切が言い出したわけでもなく、例えば上杉家伝承の家宝にも、
謙信の着物というのがあって、それが女の着物だったりする。
土地は貧弱、海は無い、北条と今川に挟まれて
勢力伸ばせそうなのは信濃のみで、伸ばした先には謙信
義信死なせて今川と対立
景虎死なせて北条と対立
上杉は内乱で力を失い、
織田、徳川、北条に囲まれた挙げ句に滅亡全部裏目に出てるな
郷土史に詳しい名誉教授が15年も放っておく程度の興味しかない物を買って保管
それが今頃歴史的発見扱いとかどうなのよ個人保管のまま埋もれてる貴重な資料なんてザラにあるんだろうな
趣味で集めていた旦那が亡くなり価値の分からない妻に焼却された書物とかもあるかもな。残念だよな。
せめてどこかに売って欲しいわ
女は燃すんですよ
うちの叔母もいとこがとっておいた
昔の雑誌を躊躇いなく燃したから
几帳面な性格なんで美品だったのに
売れば良かったのにって言うと
そうよねーって一応言うけど
女は自分の価値観を絶対に譲らん
ちょっと違うけど龍馬の妻のお龍が
新しい旦那と結婚するときだかに
龍馬から貰った手紙全部燃やしたらしい
もったいない
なんでなんだろ
女だけど全く理解できないわ
何でも鑑定団で
夫のものを捨てろっていう依頼者の妻の何と多いことか(´・ω・`)
邪魔という気持ちはわからないでもないんだけど
捨てたり燃やしたりせずに売れば必要な人のとこにいくのになぁ…と
男だって自分に興味はないものは捨てちまえ的なとこあるけど、
その前に売れるかな?どこかで価値あるかな?って考えるもんね
女はそこが完全に欠如してる
凄く納得できる
元嫁も母親も自分の価値観で価値のないものはとにかく燃やす
多数の味方と敵の武将を把握して戦ってた戦国武将ってすごくね
三方原の家康って後世の我々から見たら間抜けの極みだけど
あんな大軍が即座に反転して待ち構えてるなんて
普通は有り得ないんだよな
無線とかある訳でもないんだし
秀吉の大返しなんて
現在の軍隊でも難しいって
聞いた事あるな
目撃した人の文書が出てくるまでは
神話だかフィクションと思われてたみたいだしな
昭和だっけ
甲相駿三国同盟するより
甲相越三国同盟してたら天下統一できてたのにな
北条と今川は仲良かったから実現不可能だったとしても
甲越同盟だけでも十分天下取れてるはず
越後の守りのために北信濃と深い繋がりがあったのに
そこと敵対する武田とどう同盟を結ぶのさ
同盟を結べばそれが備えじゃないか
そもそも武田にしても今川北条と同盟結んでるから信濃、越後へと領土拡大目指したわけで
越後と同盟なら信濃全域に拘らなくとも駿河に標的を変えるのも早かっただろう
ウィンウィンなんだよ。
当時駿河は今川の支配下じゃね?
確かに義元が生きてる間はちょっと手強いし
甲相駿三国同盟が実現してないなら
上洛して桶狭間の戦いでその義元が死ぬこともないので
手強いというパラドクスはあるな
川中島周辺は謙信の叔父の領地
身内を蔑ろにしたら、間違いなく内乱が起きて越後が大混乱になる
同盟は不可能だ
長尾政景?そんな関係ないでしょ。同盟結ぶ言ってんだから
そもそも政景って川中島の戦いに参加したっけ?留守番してなかった?
政景じゃなくて、
謙信の父の妹が嫁いだ高梨氏っていう北信濃の領主が居るんだよ
川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。 第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。 一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いである。
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。
自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。 妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。
武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。
なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。
実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。
これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、
29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。
更に膠着状態が続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。 政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。 山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。
この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るため、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。
9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。
しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。
政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。
政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。
10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。
政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。
武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなど、非常に劣勢であったと言われる。
政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。
形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走し、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げた。
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。
武田軍(20000人)
旗本本隊(8000人)
総大将:武田信玄
武田信繁、武田義信、武田信廉、
武田義勝(望月信頼)、穴山信君、飯富昌景(山県昌景)、
工藤祐長(内藤昌豊)、 諸角虎定、跡部勝資、
今福虎孝、浅利信種、山本勘助、室賀信俊
妻女山別働隊(12000人)
春日虎綱(高坂昌信)、馬場信房、飯富虎昌、
小山田信有、甘利昌忠、真田幸綱、相木昌朝、
芦田信守、小山田虎満(昌辰)、小幡憲重
上杉軍(13000人)
総大将:上杉政虎
柿崎景家、斎藤朝信、本庄実乃、
色部勝長、五十公野治長、山吉豊守、
安田長秀、長尾政景、加地春綱、中条藤資、
村上義清、高梨政頼、北条高広、
宇佐美定満、荒川長実、志田義時
直江実綱(小荷駄護衛)
甘粕景持(殿しんがり)
武田信玄の家臣は強者揃いだけど
謙信は直江か柿崎くらいしか知名度あるのがいない。
信玄に土をつけた唯一の男、村上義清が何気にいる
でも武田家家臣団は余所者が多いから
信玄が死んだら瓦解したね
謙信死んだ途端にとんでもない内乱が起きる越後よりはまだマシかな勝頼の最後=小山田の寝返りが悲惨なだけに印象としては残りやすいけど、なんせ初期の裏切りが一門衆の穴山だし、他の寝返り武将も四方向から鬼のような数の軍団が押し寄せて来ての裏切りだからどうしようもないよ
真田なんて外様なのに最後まで残ってるしね
5回も戦うとかおかしいし。
別におかしくはない
戦国時代ではよくあるケースだ
5回としてるだけで
小競り合いはあるんじゃないの
他の武将に比べて桁違いに多く残ってると歴史番組で見た
いかに自分の方に正義があるか という情報戦だな
特に武田は守護職を得るまでは必死だったろうねぇ
諏訪でクソみたいなことやってるし
だから偽書も流行った
研究者が川中島の戦いの感状をきちんと精査したら
全部偽書だったって話がある
そう考えるとなかなか貴重と分かる
家康が大負けしたから天下とった後やたら持ち上げたんや
典厩殿や勘助が討ち取られた4回目の戦いはどっちが勝ったかで議論が盛り上がるけど、 結局どうなのかね?
井沢元彦なんかは「領土防衛に成功した武田の勝ちに決まっとるわ」と言ってる。
謙信贔屓で信玄嫌いの海音寺潮五郎の武将列伝を読んだら、「後世の人間が勝敗を決めたがるのは言葉遊びみたいなもんで、どうでもいい話だ。川中島はロマンなのだ」みたいなことを言ってて、なんか苦しそうで笑ってしまったw
やっぱ武田優位のまま終わったということなのかえ?
鍵は善光寺だと考える、もしくはそもそも信濃に上杉の領地は無い、以後の越後への進軍無し。と考えるなら上杉の勝ち領地を守り抜いた、局地戦での最終勝敗だけを考えれば武田の勝ち引き分けだろうw
なるほど。
実は母方の先祖が死んでるらしいのですよ4回目の時に。「本陣が危機に瀕した時、御屋形様を守って討ち死にしたのは天晴れだ」とかいう感状?みたいなものが甲州の爺さんちにあるところをみると、まんざら嘘ではないんじゃないかと。ちなみにそうした武田武者の末裔たる甲州人の爺さんは、「あれは負けだった」という認識でした。連枝・重臣が何人もやられて、本陣まで迫られたからだそうで。これはちょっと意外でした。越後人がどう捉えているのか気になりますな
延々田舎球場の地方大会で全国優勝候補が潰し合いw
武田にとっちゃ当初から当てはまるかもだけど
もう片方の長尾さんには
そんな考えが毛頭無いんだからどうしようもない
関白さんと将軍さん大事だしそもそも当時、天下統一なんて考えに至るのは
現在で言えば世界統一くらいの夢物語なんで信長の脳内が異常だっただけ
その信長だって当初の「天下」は畿内周辺のみだったろうしな
湊があるのはめちゃくちゃ大きい
米の収穫なんぞ二の次なくらい
謙信もそこで戦銭こさえてる
謙信が中央に異常に関心もっていたのは
アオソとい衣服の原料を売っていたから
戦だけの脳筋武将じゃないんだよね
昵懇にしていた山科家や近衛家はその座の関係者
でも官位はしょぼかったよね従五位とか
信玄は上洛したことも天皇に会ったこともないのに
大納言にしてもらえたのに
悪い話になってきたな
筋道を重んじる義の人のイメージが
公家とつるんで何が悪い話でどこが筋道違うんだ?
繋がりは金なんだっていうね
これがクロカンとかなら別に
???
義を重んじるからこそ朝臣・幕臣としての金銭的サポートだろ
当時の朝廷も幕府、というか義輝も困窮してたからこそ
越後の守護代なんぞを頼りにしてるわけで
若狭や敦賀の港が使えないと困るからな。
それと共通の敵、一向一揆
祖父以来の敵
上洛する際は朝倉氏は歓迎してたみたいね。
親父が織田と敵対して戦線広げまくったところで家督相続。
北条まで敵に回したのは勝頼とはいえ、
ほったらかしで親父が死んで逝ったんだから。
なんで景勝取ったんやろか。金が欲しかったんかな
まあ北条敵に回さんでも、どっちみち織田との和解はムリだから詰んでるかw
近現代でいうと、
上杉とのいざこざはまだ極東地域限定の日中戦争の段階。
ところが信玄が西上作戦(太平洋戦争)を企画して中途で死亡。
大戦争を始めた信玄は山本五十六みたいなもんで、後世まで名将と仰がれ
ているが、尻ぬぐいに失敗した勝頼はボロクソ・・・みたいなことですかね。。。
山本五十六は開戦に消極的で
「一年、二年なら…」と前フリを入れたからすこし違う
各武将の戦の生涯データ
上杉謙信 70戦45勝1敗19分
武田信玄 49戦33勝11敗3分
織田信長 23戦11勝9敗0分
1敗は臼井城の戦いな
謙信は野戦最強
信玄や信長が負けとされてる戦が謙信では引き分けに入れられてるだけだわ
野球の同一チームのローテーションに例えると
謙信=江川 信玄=西本 信長=定岡みたいなもんか
我ながらヘンな例えだな
ヘンというか古い
謙信の家臣・長尾顕長だったな
謙信不在
1対1で無類の強さを発揮したから上杉軍の装備を見ると、
武田軍・織田軍・北条軍と比較して「手槍の数が2倍多かった」
謙信の神懸かりな采配もあるけど、
越後兵は最初から1対1で相手を倒すことを想定してる
タイマンしか考えてないとか
何なの、その不良軍団
「常に敵地で戦ってること」
自軍にとって圧倒的不利な戦場で勝利する
しかも越後から他国への長距離遠征だぞ?
周囲は武田信玄や北条氏康といった当時最大の激戦区
暴れるだけ暴れて
さっさと帰っていっただけだけどね
リーダーの責任のひとつが後継者選び
ここで失敗してる戦国武将は多いな
謙信の男気と言うか公平さが悪い方に出たね。
北条一族の景虎も平等に扱って厚遇した
そして急死とw
体系的に組織を管理して、活躍すれば褒美とかくれんじゃん。
謙信って義ととか言いながら、あっちこっちに兵出すじゃん。
家臣はたまんないよwそれでも戦勝っちゃうし、家は維持していくもんなあ
謙信の生き方が
日本人的情念にマッチしているから人気があるという感じがしますな。
有名無実でも関東管領の地位を獲得し、名分を得て戦いを繰り広げる。
義理人情を重んじる大親分というか。義理人情?そんなの関係ねぇ!という信長も人気者ですが
あちらは
「さすが信長!おれたちにできない事を平然とやってのけるッ!
そこにシビれる!あこがれるゥ!」
みたいな盛り上がり方というかw
謙信はの場合、治安維持、旧体制の権威回復の側面が強いからなあ。
家臣はあんま美味しくないよなw
越後の家臣団や国民はクレイジーだ家臣に知行与えなかったのに動員できたのは
謙信くらいのもので。。。紙切れ一枚で死んでくれる
途中で引き上げたのは謙信が生理だったから、
それで生理の日は毎月毘沙門堂に籠ってた
死因は婦人病の大虫か
北条は謙信が戻るまで篭城・撤退するのが基本方針だった