足利将軍家の権威を復活させようと尽力した
足利義輝について語り合おう!
家康だって武芸の達人だったんだが、終わってるか?
ウンコちびっても天下獲ってるからな
結局、勝ったものが正義
いやマジな話だけど、義輝について
「将軍が武芸の達人でどうするよ?www」って
下らん殿様趣味みたいにバカにする人が結構多いんだよね。
でもそういう人でも、武芸の達人だった家康はおろか、
猿楽気狂いで自分を主人公にした謡曲を作らせ、
自ら能を舞った秀吉なんかは
特に批判したりしない。
要は、同じことしてても、勝っていれば批判しないし、
負けてれば批判する人ってだけの話。
現役の将軍が自分で刀振るう状況が悪いと言ってるんだと思うが
この場合、剣を振るうかどうかは関係ないな
攻め込まれても刀一つ振るわなかったらそれはそれで叩かれるだろ
大坂城に攻め込まれているのに最後まで出陣せず
刀も振らなかった秀頼は馬鹿殿扱いだし
どっちのタイプもアリで刀を振るう事が悪いって事は無いな
どっちのタイプでも有能な将軍もそうじゃ無い将軍もいる
権威を回復させつつあったことは評価されてもいいんじゃない?
三好長慶が将軍に対してかなり融和的だっただけで
義輝側が何かしたから将軍家の権威が回復してたって事はない
大体全部
大河の主役になってないのは不思議
一年引っ張るのは難しいのかな?
死に様が曹髦に通じるものがあるんだよな
天皇にも改元の際に無視されるなど室町殿の権威を下げただけの
無能に過ぎんがな。
朝廷はこの時代は改元申請は室町殿の権限だと見なしてる
永禄改元の際は将軍の京不在が長期化していたので
三好からの改元申請をイレギュラーな形で認めただけ
逆に義輝が将軍として在京していた長慶晩年に
三好が再び改元申請した時は朝廷は要請を完全無視して却下している
1564年の改元なら、あれは三好側ではなく松永側から出されたもの。
この時代の松永久秀は独立して行動していたという説と、
三好家の家臣として、三好家の意向の元に動いていたという説があるから
その説に乗っとれば三好側と言えなくもないが。
他に将軍家の意向の元に動いていたという説もあるが。
ぶっちゃけ派手に死んだこと以外はパッとしないよね、この人。
逆に言えば、死に様さえ派手で中二受けするなら、
それなりにファンをつくし擁護もしてもらえるってことだけど。
時流が圧倒的に下剋上に追い風で室町的な権力の衰退期に
その伝統勢力の当事者ができることなど当初から限られてるわけで
むしろ誰がなってもパッとしようがない末期の将軍家に生まれて
義輝はいろいろと頑張った方だと思うけどね
京兆家が落ち目の時代に管領になった細川高国や晴元が
なんだかんだと20年以上畿内政権維持したのももっと評価されていい
そら死に様は大切よ
松永久秀とかまさにその中二コースで不動の人気獲得だし
本能寺なしで老衰で死ぬ信長はもはや信長じゃない
三好長慶も最期派手に死んでたら
いまより知名度・人気がもっとあったはずたぶん
通説よりフロイスの日本史の方がまだ現実的に感じる。
現実離れしとるというほどでもないが
というか、リアルタイムの記録が、
フロイスの手紙(最初薙刀で、次に剣で戦って死んだ)と
言継卿記(自害した、とだけで戦ったかどうか記載なし)の二つだから、
信憑性って意味では、この二つが一番高い。
あとのは誰がいつ書いたかもわからんようなのか、
日本外史みたいに200年以上後に書かれた小説同然のものだし。
>>30
他にも記録だけなら
事件の7日後に書かれた樊噲も及ばないほどの働きを見せて
自害という梅仙軒霊超のものや、
御所は黒土となったという御湯殿上日記など無数にあるよ。
というかなぜ日本外史をわざわざ挙げるか解らないな。
あれは信長公記や信長記などの無数の書物の記述を集めて
こうだったであろう歴史を漢文で書いた本で、
各巻末や初めの論の部分を除けば
日本外史には著者のオリジナルな箇所はないよ。
まあ全く無いことはないが。
そこは成立時期不明の永禄記や、足利季世記、
後年の軍記物である小瀬甫庵の信長記や後太平記などを挙げて
信憑性を疑うべきところだろう。
山科言継の記録では、将軍は討ち死にしたとある。
戦って自害という記録も大覚寺や信長公記や永禄記にある。
反三好・松永派に大義名分を与えるだけで
何のメリットもない悪手だったな
>>31
結果的に義輝殺したために義昭擁立した織田が正統性を獲得して
三好滅亡の主要因のひとつになったから
まぁ因果応報ってかんじはする
天正年間に毛利が義昭擁立したときでさえ
まだ西国では鞆ノ浦幕府が「公儀」として信長の「公儀」と対抗できる
それなりの政治的権威があったわけだから
足利将軍家の政治的権威って実にしぶてぇ…ってのが実感だわ
そういう意味では三好による義輝殺害は三好にとっても利するところが
なかったし、時期尚早だったとしか思えないわ
実は、北条や徳川と違って 【倒幕】はされなかったしな
足利義昭は1588年まで将軍だったしな
実は室町幕府第六代将軍足利義教の崇拝者って説があるが
この剣豪将軍義輝への入れ込みぶり見てると
まんざらではなさそうな
信長は義教を悪い将軍の見本と言ってる
>>42の割には同じ
渾名で呼ばれると
大喜びで戦術丸パクリな信長様
どんだけ足利義教が好きだったのやら
転々としてたがな
そんなん庇護先も亡くした南朝残党に比べたらまだマシ。
南朝残党は征夷大将軍じゃないから
水戸黄門のお陰でな。
しかも跡形もないから後腐れもないから。
どんだけ濃い人生だよ
まあ親父の義晴も39歳で病死してる割に語ること腐るほどあるけど
もともとそんなに長生きしたイメージはない
美談としてよく信長と心を通じていたことにされるが
傀儡であることをよしとしない誇り高い性格は弟と同じ
信長はどっちが将軍でも一切遠慮はしなかっただろうし
結局衝突はしたであろう
違いといえば信長包囲網を築き上げた弟ほどの調整能力は見られないので
割とあっさり追放されたかもしれない
つか剣豪だったという確たる証拠もなしに
剣豪将軍とか嘘広めたら駄目だろw
一応、卜伝の直門だったというのは確かだし
上泉信綱を招いて兵法披露をさせたのもおそらく間違いないから
剣術好きで、自分でも相応にやってたことは事実だろうな
あと、最後に自ら戦って討ち死にしたのも多分事実
でもそれだけで剣豪呼ばわりってやっぱ無理があるだろ
結局、こいつを持て囃してる奴って、事実とか一切興味なくて
「剣豪将軍」って言葉の響きが好きなだけなんだろうな。
戦って討ち死にする前にまず一度逃げようとしてるからなぁ
刀を取り替えながら奮戦し~とかいうのも捏造だから
剣豪というにはショボすぎる
当時はこういう場合、逃げるのが普通。
むしろ無謀な戦いを挑んだ無能将軍。
通説では母や家臣に逃げる事を勧められたが
武家の棟梁たる自分が逃げ出しては元も子もないと言って
敢えて残ったってことになってるが
まあ死んだら結局意味ないんだけど
大覚寺義俊の記録では、外から囲みを突破してきた幕臣が
将軍が一人で馬に乗って東河原に逃げることを勧めてはいる
しかし将軍は
家臣全員を犠牲にして主君一人が助かるなどあってはならないことだと
その案をありがたいことだと感じながらも即座に捨て去り
主従全員での脱出を目指して最後の戦いを開始したとある
この記録においても、将軍の戦いは脱出を目指したものであり
一人で馬で駆け抜けるか
主従一体となって戦って血路を切り開くかの方法論の違いにすぎない
実際、彼らの戦いで何人か脱出できた幕臣もいるようだが
早足の馬を一人で走らせても
厚い囲みを突破して京都郊外まで脱出できたかどうかは
難しいところだろう
後年に書かれた後太平記などの軍記物では
これで最後なので、地獄への道連れに一戦して
一人でも多くの敵を倒そうというような描写だが、
これにも母や家臣に
「逃げることを勧められた」とは書いてないようだが。
>>77の「通説」というのは
信長公記などに記された織田信忠の最期と混同しているんじゃないかな。
「母や家臣に逃げる事を勧められた」という
その「通説」が何に書いてあるのかわからないが
フロイスらの記録によれば
戦いに赴こうとする将軍を母親が抱きしめて止めようとしたが
将軍は
「自分は、どこかで隠れて腹を切って死のうとは思わない。
最後は雑兵に打たれることになろうとも、戦うことを選ぶ」
とあり
家臣らと戦って脱出することを選択したと記録されている。
永禄記やフロイスの記録では
将軍の母は逃げることを勧めたというよりは
大将は最後の一兵が討たれるまでそれを見守るべきだ、というもので、
戦わないことを勧めるものだが、逃げることを勧めたわけではないよ。
こいつは何してたんだよw
上でも出てたけど土壇場で役に立たないなんちゃって剣術か?
あれは弟のが賢いというよりは、
安宅冬康を殺し、将軍も殺した三好三人衆が
織田信長と比べて後の考えが無さ過ぎただけだろう。
もちろん信長とて
義昭を討ち取ったり切腹に追いやること自体は造作もないことだし
その後の展開は、義輝死後の三好三人衆が追い込まれていった展開よりも
はるかに楽なものであったとは思うが。
過小評価されてるくらいで丁度いいわ
政治能力カリスマともに皆無だし
最期の話は捏造だし
「剣豪じゃなかった」というのはよくわからないな。
落語家じゃなかったとか
弁護士じゃなかったとかいうのならまだ解るのだが。
剣豪や酒豪などの呼び名は、剣や酒が強いというエピソードがある人物に、
他人があとから勝手につけるものだ。
剣豪と呼ばれるために満たせなければならない厳密な条件があるわけでもないので、
>>84が足利義輝のことを剣豪と呼びたければ、
勝手に剣豪と呼んでもどこからも文句は来ないと思うよ。
>>84は足利義輝は剣豪ではなかったと言いたいわけか。
剣豪と呼ばれるための厳密な条件があるわではないから、
この程度のエピソードでは俺は剣豪とは認められないというのなら、
それもやっぱりどこからも文句は来ないと思うよ。
しかしあるだけで奮戦したという説の方が今の所通説だろう
第一、塚原卜伝から剣の技を学んだのは事実なのだから
一般人よりは腕は立った筈
義輝が剣で戦って強かったというエピソードを完全に否定するのは難しい。
死去して間もない頃に書かれた書状や、
同時代人たちの複数の記述を全部嘘だと否定するためには、
その記述に矛盾するような別の史料が必要になるが、
義輝が剣で戦って強かったというエピソードを否定するような矛盾する史料が存在しない。
仮にそれらの記録が全部嘘だったとしたら、
義輝のために嘘までついて最期を飾って讃えようとした人間が当時、
異国のバテレンから、仏僧、儒学者、他所の大名家に仕える武将に至るまで
複数いたことになる。
なかには幕府がとっくに滅んだ慶長年間に書かれた軍記物や
寛永年間に林羅山が書いたものまである。
これらを全部嘘だとすれば、
義輝のカリスマが皆無という主張のほうが揺らぐ。
おそらく捏造だろうと否定できるのは、
何本もの刀を次々と取り替えたという足利季世記や
永禄記などの軍記物が記すエピソードくらいだが、
これも実際に完全に否定しようとなると、
もしそんな面白い話があったのなら、甫庵が信長記とかに採録したよね
くらいだしなあ。
まあ、この刀を取り替える話は軍記物以外では確認できないと思うので
自分はそんな同時代の書状や
日記類で確認できない話は受け入れないと主張しても大丈夫だろう。
同時代人の記録でフロイスの日本史には
長刀から打刀に持ち替えたという若干近い話はあるが。
江戸時代初期に松永久秀の子孫の松永貞徳が、
義輝などは深夜に路上で刀をふりまわして
人を斬り殺していただけの悪御所だった、
あんな悪御所のために死んだ人間は一人もいなかったと
戴恩記で書いたのも、
義輝=刀で戦って強い将軍
というイメージが当時すでに確立していたことを前提にして言い始めた悪口だろう。
このエピソードも、足利季世記等の刀を取り替えるエピソードと同じで、
もしそんな面白い話があったのなら、同時代人の書状や日記類や、
安土・桃山以降に大量に書かれた軍記物のどれかに収録されただろうという点で
やはり捏造だろうと考えられるものだが、
まあ、これも辻斬りの部分は、
完全に否定できる同時代の記録も多分存在しないと思うから、
肯定する同時代の記録も存在しないが
信じたい人は信じても良い話だろう。
義輝や義昭を主役にしても面白いと思うけどな
ラストの格闘(創作)以外
あらゆる権力者の傀儡にされてるだけの義輝の大河とか見たい?
だからといって活躍ねつ造して盛りまくったファンタジー大河とか見たくないわ
あと、兄弟仲はどうだったの?
誰か詳しい人教えてください
義晴 25年
義輝 19年
無駄に長い間将軍やってるけど実績はゼロ
逃げ回ってるだけ
あまりに逃げ回りすぎて義輝とか正親町天皇からも見限られてるからな
こいつじゃ駄目だと思われたんだろうね
12歳で将軍になった義輝に何を望んでいるのか…
堀越公方で傍流なら誰に変えても傍流だろ
細川半将軍家のほうがマシだな
織田信長の縁で三春秋田の国家老として直系残ったようだからな
細川家がそもそも足利の分家なんだから
足利が直系は残らなかったが傍系は残ったってことだろ
>>158 >>159
傍系も含めれば
細川最強
細川幕府(足利に勝利)
細川連立政権(自民に勝利)
二度も日本史に衝撃を残した。
ならその細川を傍系に持つ足利の方が上ではないだろうか
自爆しただけだろうが。周りを悪人にすんな
その点同じく暗殺された義教なんかは完全に自分が悪人扱いだな
義教治世の前半は善政を試みようとしたがいくら号令かけても
既得権益層の壁にぶつかり挫折して専制に走ったのだが
その後半の政治だけ取り上げて
恐怖政治とか言われるのは少し可哀そうな気もする
これに尽きるっつーか久秀や三好三人衆ファン以外にも
足利家ファンや義昭ファンにも嫌われとるよな
久秀については義輝の悪事について
しかもそれを六角家の家臣に送ってる
よっぽど腹に据えかねてたんだろうな
永禄の変自体起こってないんだよなぁ…
しかも単なる一大名とはわけが違う征夷大将軍という
天下に号令できる立場でこの有様ってどんだけ無能だよ
「さほどのものでもない」
というにべもない評価を下してたのには笑った
司馬といい宮本昌孝の小説をコミカライズしてた漫画家といい
当たり前の様な気もするけど
義輝嫌われまくっててびびった
でも人となりとか盛られまくった逸話の真偽調べてみたら
成程と思った
草生えるどころの話じゃねえ
経歴詐称したの誰だよ
過大評価取ったら何も残らん義輝は嫌い
足利家の面汚し
体的にこいつが何をしたのかさっぱりわからないのが問題だよなぁ
永禄の変で天下五剣で大暴れ=創作
以外になんかエピソードあんのか?将軍親政もちっともパッとしないし
結果はどうあれ少しは見所もあるが義輝には何もねぇな
武芸だったら同じ将軍でも家康や義植の方が上だし
義晴義輝義昭の三代が
あまりにも無能続きだったからだし足利家好きからもイメージ悪いわ
剣豪将軍なんて舌が真っ赤になるくらいの大嘘じゃん
盛れば盛るほど史実から外れて齟齬が出るってみっともないな
>>225
義昭はなんだかんだで知名度高いし
意味不明な過大評価もされていないし
義晴
少なくとも政治手腕は義輝よりはるかに手馴れてる
義輝
活躍の九割が創作
周囲の人物を悪人や暗愚に描くことでしか大物感が出せない雑魚
義昭
クズで小物な兄をよく見せるために無能にされた哀れな弟
こんなイメージ
ラスト三人は華やかな経歴0の貧乏イメージしかないわ
多分細川のほうがずっと金持ってた
少なくとも「華やか」という言葉からは程遠い
藤孝が様々な文化や芸術に親しんで
人生楽しんだイメージがあるから余計にそう感じる
>>233
足利ラスト3代を主役に大河やったら面白そう
義輝はNHK大河太平記で言う足利貞氏みたいな役回り
でも色々と可哀相だから忘れていたほうがいいのかもしれんな
一番足利義輝に頭が上がらないのは上杉(長尾)だと思うぞw
足利義輝が変な課題気味になったのは間違いなく
上杉も一枚噛んでると思う
確か上杉謙信関連だと結構義輝持ち上げてなかったっけ。
まあ実際一番恩恵受けた大名だと思うよ
上杉と大友だな
義輝はゆくゆくは上杉が関東、大友が九州を制圧して、
幕府再興の軍事力になってくれると期待したのだろう
上杉は兎も角
大友が何時迄も義輝の臣下に留まるなんてあり得ないだろう。
普通に松永の二の舞になったと思うが。
上杉博物館で謙信宛ての書状(本物)を2つほど見ました。
長尾平三どのとなっていました。
謙信に期待していたのは間違いないと思います。
真偽はともかく、国宝の上杉本洛中洛外図屏風は
義輝が発注して謙信に送ろうとしていたが、
暗殺で中断し、その後それを知った信長が
あらためて送ったとする説もあるそうです。
征夷大将軍である足利義輝の権威が通用してるね。
覇気のある将軍として語り草になっただろうけどなあ。
言い方を変えると、それほど重要人物ではなかったと思います。
かりにも将軍であり、でも権力はないという立場では、いろいろ工作したり
時には悪だくみをしたりは、普通ではないでしょうか。