人の生死で嘘は駄目
それも、すぐバレる浅はかな嘘
実朝はよりによって西の勢力を導き入れようとしている
ここまで築き上げてきたものを崩すに等しい行為
政子までそれをバックアップして怒りと共に虚しいんだろう
だから許さない
これまで築き上げたものって朝廷との協調路線は初代頼朝から続けていた幕府の基本路線だよ
皇族将軍だって困るのは将軍の代理として幕府の権力者になった北条氏やこれから幕府でのし上がろうと考えてる弱小御家人だけで
小山千葉足利みたいなある程度領地を持っている御家人にはそれほど拒絶反応はなかったと思うよ。
理想とはもう全然ちがうとこに来たって自覚があるってことだよね
ニュース
後鳥羽は実朝が殺されたら親王を鎌倉にやるのを中止した
実朝ならともかく義時と協調路線はありえないよ
実際、実朝が死んだ後、政子と義時で後鳥羽院の対応が全く違う
政子に後鳥羽院が送った手紙
「右府が薨御の事、叡慮殊に御歎息之由、仰せ下被るに依て也」
訳
この度の右大臣の死は大変残念だ。二位尼も気を落とさないように
義時に後鳥羽院が送った手紙
「攝津國長江、倉橋の兩庄の地頭職を改補被る可き事已下の院宣の條々也」
訳
執権に命ずる、摂津国の長江と倉橋の地頭を改めろ
義時かなり舐められている
りくが歩けなくなった時政を見捨てたということはなく
大船建造の後に伊豆で過ごしてる時政が亡霊だったということね
牧の方(りく)は吾妻鏡にある1205年の牧氏事件で時政と一緒に伊豆へ追われて以降
明月記で1227年に時政の十三回忌を都で行っているところまで記録に出てこない
前回(時政が亡くなる1215年)牧の方がどこにいたかは分からない
時政は都ではなく伊豆で死んでいるし牧の方が生前から別居して時政の十三回忌だけ行っているのは変なので
時政が死ぬまでは一緒に伊豆にいたんじゃないの
>>446
時政の葬儀に「来た」記録がないから同居してたっていう意味だよね
記録は北条方に都合よく書かれていると考えれば
実際にはドラマのように早々に都に帰っていたけど記録に残さなかった
と解釈しても悪くはないんじゃないの
>>447
吾妻鏡は義時や泰時は徹底的にageるけど
北条得宗家と血の繋がりのない牧の方など悪役以外の何物でもないから
時政見捨てて都に行ったならはっきり書くと思うよ
のえが本当は遠江の生まれで都には前世いたと思うんです~と仲章に言ってたけど
牧氏も遠江の豪族で牧の方も本当は遠江で生まれて伊豆に嫁いだっぽいけどね
頼朝挙兵前の時政の身分ではそれが妥当
義盛が死んでいくのをバックに、歩き去っていく義時の表情が一瞬曇るのが、このドラマでの義時像をあらわしてるね
まあ「何かしら救いを持たせないとな」っていう、大河特有の性質、又は三谷幸喜の作風によるんだろうけど
あれは演出だったみたいよ
脚本には書いてなくて撮影時に決まったとインタビューで出ていた>小栗義時の泣き顔
そうなんだ、ありがとう
三谷本人が公言してたらしいけどね
出典不明だけどツイから
>「ストレートに義時を冷徹な独裁者にしてもつまらないので、葛藤しているところに政子により『鎌倉のため』の欺瞞を自覚させ、時房の言葉で(ああ俺は和田殿を殺したくなかったんだなあ……)となった直後に否応なく和田合戦に突入して曇らせます」
・大河って演技力を見せつけたやつはとんでもない栄誉が得られるよな
・義時が何もかもを犠牲にして守り抜いた鎌倉の末路
・中川大志くん、明治座で座長公演やってるんだな。あの若さで凄いわ
・日本史上、鎌倉黎明期が一番ドロドロしてんじゃね?
・実朝穏やかで良かったのにな。頼家がこんな性格なら揉めなかったのかな
・平六に唆されて公暁が実朝をやるのは史実通りなの?
・山形の大江町も子孫がいた場所だな。毛利ばかりが有名だが
・天智・天武・持統天皇の基礎知識は里中満智子の天上の虹からや
・今作で評価上げた俳優、坂東彌十郎、梶原善、ティモンディ高岸、中川大志、堀田真由