春秋戦国時代の中華料理はどんなものだったのか。
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餃子は春秋時代にはあった
宋ですら和食みたいだとか
古代は生魚を食べない村をおかしいと書いた記録があったり
孔子がナマスは細ければ細いほどいいとか
羊とか牛とか豚の生肉?
君主は行使に子供が生まれた時に鯉を贈ったとか
陸の民なので、川魚ですな
川魚といっても、日本の川とはスケールが異なり
イルカも棲んでるくらいだが
酒池肉林の頃は、
茹で肉を馬鹿食いして燗酒をガブ飲みすればそれで贅沢だったのかな?
殷の青銅器って基本、肉を茹でる容器と酒を燗する容器だよね。
まだ繊細な料理文化がないから量で贅沢さを誇示する路線で。
殷の紂王が、はじめて象牙の箸を作った。
それを知った家臣の箕子が恐れを抱いた。
象牙の箸を何故そこまで恐れるのか分からない周囲の者たちに
箕子が語った。
象牙の箸を使うとなれば、
(今まで用いていた)素焼の器などではなく
玉の器や犀の角の杯を用いたくなるだろう。
象牙の箸に玉の器で食事をするとなれば、
(今まで食していた)豆の葉や藜の汁などではなく
水牛や象や豹の肉が盛られるだろう。
豪華な食器に豪華な食事をするとなれば、
粗末な衣服と粗末な家屋では満足できずに
錦の衣服と豪華な宮殿が欲しくなるだろう。
象牙の箸に釣り合うものを集めていけば、
いずれ国中の財物を集めても足りなくなる。
私が怖いのはその行きつく先だ。
だから象牙の箸を恐れるのだ。
このエピソードだと王族でも普段の食事は大したこと無かったのかも
このエピソードはどう見ても後世の中国の価値観を反映したものだからなあ
ディテールまでは信用しないほうが
考古資料の裏打ちとかあれば別だが。
後世といっても韓非子が出典だから戦国時代末期よ
このエピソードがもろにこういう思想に裏付けられてるのを見ると、どうも起源をあまり遡らせるのは難しいんじゃないか、という気がする。
エピソード内の料理の記述は当時の反映では?
解決済の質問
春秋戦国時代の中国の食事はどのようなものだったのでしょうか?
ベストアンサーに選ばれた回答
かなりあっさり系の食事です。
羹(スープ系)や膾(肉と野菜をスライスしたのを和えたもの)が中心で今日のような食事になったのは元以降です。中華料理の原型は北宋の時代に完成しました。
また、穀物も北と南で大きく異なります。雨の少ない華北は雨が少なくても育つ麦がメインで、雨の多い江南は米がメインです。
なので酒も麦から作るのと米から作るので別れました。
調味料も今と違い塩と梅のみで
「塩梅」という言葉は春秋戦国時代の味加減の調節から生まれました。
一般的な料理の形態としては「煮る」「焼く」「蒸す」がありますが春秋戦国時代は「煮る」が大半で「焼く」と「蒸す」は殆どありませんでした。
これは漢の時代まで強く火を起こすと家の構造上あっさりと火事になるので低火力の料理が中心にならざるを得ず、自然と「煮る」がメインになりました。
酒の度数も今と比べるとかなり低く、糖のアルコール転嫁の技術が今よりもかなり低かったので度数はかなり低く酒の中に糖質がかなり残っていました。一説には当時は2~3%が一般的だといわれました。
具の多いスープのようなもので、日本で言えば豚汁などである。
また、肉や野菜を細切れにしたものを酢につける膾(なます)もよく食べられた。
また古代には、野菜や野草は塩漬けかひたしで食べたとされる。
油脂は古代から宋代(10~13世紀)までの料理ではあまり使われず、さっぱりした料理が主流であった。
この2つこそは、古代中華料理のメインディッシュ
古代中華料理では、調味料としては、塩と梅しかなかった。
「塩梅」という言葉は、ここから生まれた。
もっとも、膾は酢の物だから、酢の味がする。
羮は、肉野菜を煮込むのだから、ダシが出て旨くなる。
これ面白かった
美味求真 周代の八珍
http://bimikyushin.com/chapter_5/05_ref/hatsuchin.html
①淳熬(肉醬油澆飯)
②淳母(肉醬油澆黄米飯)
③炮豚(煨烤炸炖乳猪)
④炮羊(煨烤炸炖羔羊)
⑤擣珍(燒牛、羊、鹿里脊)
⑥漬珍(酒糖牛羊肉)
⑦熬珍(類似五香牛肉乾)
⑧和肝遼(網油烤狗肝)
① 淳熬じゅんごう
淳熬という料理は、肉醤(醢)に火を通してご飯の上に乗せ、その上から動物の脂肪を加えて混ぜ合わせた料理である。肉醤というのは肉から作る発酵食品で「醢」という字が当てられている。淳熬は肉と脂をまぜたご飯を想像すると分かりやすいだろう。
これなんか、オーブンがないのでアースオーブン式調理なんだろうな。
石蒸し調理とかにも近い
③ 炮豚
豚の腹を割き、内臓を取り出して、腹腔内を洗って汚物を取り除き、その中に棗を詰め込んで腹を縫い合わせ、萑すいと呼ばれている茅に似た草で編まれたもので、その豚を丸ごと巻き、その上から粘土に香草を混ぜたもので全体を塗り包み、火で蒸し焼きにする。
その全体を包んだ粘土が、十分に焦げた時を見計らって、火から取り出し、その土を取り除き、手を水に浸しながら豚の身体を擦って、毛の焦げ付いた上皮をすり落して、
完全に丸むきにして、上皮が綺麗に取れたものに、米の粉をかけて葛かけのようにして、牛の脂を入れてヒタヒタになるまで煎り、これに香物を入れる。
別に大鍋に熱湯を入れ、先の丸豚を浸した鍋そのままをこの熱湯の中にいれ、小鍋を覆さないように注意しつつ、三日三夜の間、絶え間なくこれを煮る。
そして後、醯と醢で味を調えるものとする。醯と醢などの肉醤の製法は前ですでに述べたとおりである(王の饋食参照)
これも面白い
http://bimikyushin.com/chapter_5/05_01.html#section_ref_05_01
「朝事の籩」に麷とあるのは麦のことである。蕡とは麻の事である。白とは米、黒とは黍の事である。形鹽とは虎の形に作った塩のことである。膴とは生魚の切身、鮑とは燻製魚、
鱐とは干した魚の事である。以上八種を籩に供えて、豆(肉皿)の方には韮のおひたしに、動物の血液と糀と酒で作った肉醤。昌本つまり菖蒲の根の和え物に、麋肉の肉醤、
菁(かぶら菜)のおひたしに鹿の肉醤、茆つまり茅の若芽のおひたしに麋肉の肉醤を添えたもの八品が供えられた。
「饋食の籩」には棗、栗、桃、乾橑(干し梅)、榛の五種が供えられ、皿には葵のおひたしに蠃(カタツムリやサザエの類)の肉醤、
脾析(牛の脇肉)と蠃の肉醤、蜃(大蛤の類)の和え物に蚳(白蟻)の肉醤、豚拍(豚の肩肉)の和え物に魚の肉醤の八品が供えられた。
「加籩の實」は菱、芡、栗、脯、菱、芡、栗、脯と同じものを二重に、都合八品を供え、皿には芹のおひたしに兎の肉醤、
蒲の若芽の和え物に血汁の肉醤、箈(シノブ竹の子)のおひたしに、雁の肉醤、筍のおひたしに魚の肉醤を添えて八品が供えられた。
「羞籩の實」に糗餌、粉栥とあるのはすべて米と黍の粉で作られたものである。捏ねて混ぜた団子を餌と言い、餅にしたものを栥と言う。
これらはいわゆる現在の餅菓子の類のことである。食皿に酏食とあるのは犬の肝と、狼の脂肪と、米で作った一種の炊き込みご飯のようなものである。
八珍の中に肝膋とあるのはこの料理である。糝食さんしょくとあるのは牛羊豚の肉をそれそれ等分にして、細く刻んで米二、肉一の割合で混ぜて煮た雑炊に似たものである。
一般庶民は竪穴式住居に住んでいた
日本でいえば、「弥生時代」のイメージ
一部ではね
中国といっても広いからな
春秋時代には呉で鉄器文明が始まったが、
華北では漢代になっても青銅器が広く使われていた
それと同じで、家屋もあったけど、漢までは、一般人は基本的に竪穴式住居
「竪穴式住居」といっても偃師商城の時点ですでに磚(レンガ)の使用が確認されていて
日本人が連想する「竪穴式住居」とは外観が大分ことなっている
また鋳鉄制の農具も春秋時代には華北を中心に広まっていて
日本で普及したのはようやく平安時代になってのことだから
約2000年ぐらいの開きがある
>>45
陝西省あたりのコチコチに固まった黄土は、ほとんど天然の干乾し煉瓦だ
現代でも、穴を掘って地下に住居を作って住んでいる人たちもいる
毛沢東も習近平も、不遇な時期はそこで暮らしていた
>>38
鉄の利用は燕と斉が最も早い、それに次ぐのが楚
鉄器と青銅器わ用途が別、青銅器が農機具に使われた時代なんて無い
住居も北部は土間の平屋木造建築、南部が高床建築
既に陶器が広く使われ土器の利用は終わってる
紀元前というと、中国にはすでに高度な文明があったが、
日本には原始人が住んでいたというイメージが強い。
でも実際のところ、本当はそこまでの違いがないんだな。
しょせん、同じ古代人のレベルだ。
土器や石器、竪穴式住居が広く使われていた。
ローマだけは別格。街道に上下水道に住居も紀元前に完備
蒸気機関に似たものすら紀元後には表れている
彼らから見ればアジアは土人にしか見えないだろう
街道も上下水道も春秋期から既にある、抑々街道に技術は不要
大都市の遺跡からわ大抵上水道が見付かってるし下水道の無い都市なんぞ無い
影響を受けたのわ仏教位で他に西方ガラスとマニ教が入って来た程度
しがない都市国家レベル
楚漢戦争の頃でようやく現代日本と同レベルの領土面積
古代帝国の中では後発もいいとこだぞ
>>48
それは言える
古代帝国といったって、ペルシャ帝国やローマ帝国との差は大きい
宋や元あたりになると、
中国のほうが西方より文明度が高いと思うんだが、
古代だと西高東低だねえ
唐がペルシャやインド・中央アジアから受けた文化的な影響の大きさは
日本が唐から受けた影響と大差ないほどのレベル
中国大陸の文化をガラリと変えた
唐って言うより五胡十六国の北朝政権が正しいんじゃね。
仏教が儒教とフュージョンしたのが典型
>>52
まあ、そうでしょうな
唐の文化には中華風な要素も多いが、北朝は思いっきり西域っぽい
やっぱり、南朝が中国文化を受け継いでいたんだねえ
唐はその北朝政権の流れを汲んでるから唐も同じだけどね
しかし、その北朝でさえも、
北斉の優美な仏像などを見れば、かなり中国化している
そもそも、仏様の顔つきが、インド風の濃い顔とは違いすぎるというのもあるが
日本は唐よりも朝鮮半島三国から受けた文化的な影響のほうがよほど大きい
竈や須恵器や字形鋤先や無床犂といった日常生活レベルのものから文字の使用に至るまですべて朝鮮半島を通して伝わった
建築においても7世紀半ばである皇極天皇の治世ですら屋根を精々板で葺いたぐらいで「板葺宮」と名付けて尊んでいたぐらい原始的な段階でとどまっていた倭国に
瓦、土壁、礎石や中国南朝の寺院建築を伝えたのも百済である
まぁ建築学的には日本の伝統建築はあくまで中国建築のマイナーチェンジで「日本建築」というものは厳密に言うと存在しないらしいがな
>>57
百済は、倭の属国だよ
形式的な中国への朝貢とは異なり、実質的な支配を及ぼしていた
>>60
そうその属国よりはるかに文明が劣っていた
だから技術者を連行してくるために支配したわけだ
契丹、女真、モンゴルのように
元々未開人だった部族が自分より武力の劣る文明国を支配して
文明化することは世界的にはよくあること
>>65
契丹は、中央アジアやペルシャの文化とダイレクトにつながっていた
もちろん、
陶磁器や絹織物などの工芸技術で中国にかなうはずもないが
文化的に劣っていたわけではない
倭国と中国南朝は、古来から盛んに直接交流していた
倭は、その通り道である朝鮮半島南部の諸国を支配し、
彼らが反抗の動きを見せたときは軍隊を送りこんで鎮圧した
あの小さな粒で腹を膨らませるにはどのぐらい生産量が必要だったんだろう?
ネコジャラシ並に放っておいても勝手に生えてきたんだろうか?
>>59
水分を吸収して、それなりに膨らむ
粥にしたりして食べていた
それはともかく、春秋戦国時代の歴史というのは、どこまで信用できるのか?
「史記」を初めとする、後世の伝聞による記述に依存するところが大きい
司馬遷にとっての管仲は、現代人にとっての足利義満くらい大昔の人
どこまで本当に分かっていたのか
>>72 74
清末民初の擬古派の学者たちもそう考えて「ほとんど後世の作りごと」「孔子も本当はいなかったんじゃね?」と主張し、日本でもそれを受けて「西周なんか無かった」と唱えた学者もいたくらい。
ところが甲骨文の解読が進んで殷の王系が判明すると、それが司馬遷の記録したものとほぼ同じであることがわかって、みんなひっくり返って驚いたわけだ。
司馬遷からみて千年以上前の史実をそれだけ正確に記録し得たのは、口承のみに依拠したのではなくて、何らかの記録や史料が存在して、それを参照したのだと考えられる。六国の史官が編纂した記録も当然あったろうし。
もちろん、たとえばツキジデスの「戦史」の登場人物がしばしば行う大演説みたいな、ディテールを盛った部分までは信用する必要はないけど。古代の歴史家はこういうディテールを盛ることを職業的義務と感じていたようでもあるし。
逆に司馬遷の間違いや嘘も出土史料から明らかになったりしてるから
全く疑わないわけにもいかないし、
かといって全部嘘ってわけにもいかないのが悩ましいところ
>>77
清代は、客観的な研究が進んだ時代だな
まあ、18世紀や19世紀だから、ほぼ近代国家なわけで
逆、元よりマシなだけで清は科学の衰退期
>>86
科学じゃなくて、人文系
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