ワイが
正史三国志の劉禅伝の意訳と解説をしていくから
興味あったら見てクレメンス
ニュース
陳寿は劉氏を皇帝扱い出来ないが、諱を呼ぶのは憚られるということで、劉禅を後主と呼んでいる。後出の先主は劉備を指す
ちなみに曹氏は帝または王(例外として司馬昭の皇帝暗殺事件が絡むため、曹髦のみ高貴郷公)、孫氏は諱、司馬氏は王で表記されている
『魏略』に異説が載せられており、それによると、小沛で生き別れ、各地を放浪した挙句、益州でようやく劉備と再会したことになっている。しかし、小沛にいた時点で生まれていれば即位時の年齢が十七にならない、後主は荊州で生まれた(甘皇后伝)等の矛盾が生じる
よく劉禅から生まれたと思うわ
劉備のこと考えるとむしろ劉禅の方が変異体?
劉備が即位した際に冊(皇太子任命の詔)が出ているが省略
内容は「私は皇帝になるので、お前も努めるのだ」といった内容
◆
三年夏四月先主?于永安宮。五月後主襲位於成都、時年十七。尊皇后曰皇太后。大赦、改元。是?魏?初四年也。
章武三(223)年夏四月、先主は永安宮において?(>>0�した。五月、後主は成都で帝位を継ぎ、この時は十七歳である。皇后を尊んで皇太后と呼んだ。大赦し、改元した。この年は魏の黄初四年である。
※「?」は天子の死を意味し、陳寿は劉氏の正当性をこのようなところで暗に仄めかしている。後の皇后、皇太后呼びもその一例。ちなみに孫氏には「薨」の字を用い、明らかにランクを落としている
◆
以下、劉禅の事績がほとんど見られないので、原文のみとする
劉禅伝より諸葛亮、蒋エン伝、費イ、姜維伝に詳しいのでそちらを参照
また、大赦の多さについて陳寿、裴松之の指摘があるので、そこには注目してほしい
建興元年夏
朱褒、擁郡、反。先是、益州郡有大姓雍?、反。流太守張裔於?、據郡、不賓。越?夷王高定、亦背叛。是?、主皇后張氏。遣尚書郎鄧芝、固好於?。?王孫權與蜀和親、使聘、是?通好。
二年春
務農殖穀、閉關息民。
三年春三月
丞相亮、南征四郡、四郡皆平。改益州郡爲建寧郡。分建寧永昌郡、爲雲南郡。又分建寧??、爲興古郡。十二月亮還成都。
四年春
都護李嚴、自永安還、住江州、築大城。
五年春
丞相亮、出屯漢中、營?北陽平石馬。
劉諶はあれやな、儒教に酔っちゃったタイプ
ホントに忠なら突撃死しろやとはおもう
劉諶の墓に「劉禅の子」じゃなくて「劉備の孫」って記されてるの草
当時の価値観やと不名誉やからしゃーない
>>98
殉じた戦死って不名誉なのか?
傅父子涙目やんけ
いや
劉禅の子って書かれるのが不名誉
◆
六年春
亮出攻祁山、不克。冬、復出散關、圍陳倉、糧盡退。魏將王雙、率軍追亮、亮與戰、破之、斬雙、還漢中。
七年春
亮遣陳式、攻武都陰平、遂克定二郡。冬、亮徙府營、於南山下原上、築漢樂二城。是?孫權、稱帝、與蜀約盟、共交分天下。
八年秋
魏、使司馬懿由西城、張?由子午、曹真由斜谷、欲攻漢中。丞相亮、待之於城固、赤阪。大雨道?、真等皆還。是?、魏延破魏雍州刺史郭淮于陽谿。徙魯王永、爲甘陵王。梁王理、爲安平王。皆、以魯梁在?分界故也。
九年春二月
亮復出軍、圍祁山。始以木牛、運。魏司馬懿張?、救祁山。夏六月亮糧盡、過軍。?、追至青封、與亮交戰、被箭死。秋八月、都護李平、廢、徙梓潼郡。
十年
亮、休士勸農於?沙。作流馬木牛畢。教兵講武。
◆
十一年冬
亮使諸軍、運米、集於斜谷口、治斜谷邸閣。是?、南夷劉冑反、將軍馬忠破平之。
十二年春二月
亮、由斜谷出、始以流馬運。秋八月亮卒于渭濱。征西大將軍魏延與丞相長史楊儀、爭權不和、舉兵相攻。延、敗走。斬延首、儀率諸軍、還成都。大赦。以左將軍?壹、爲車騎將軍、假節督漢中。以丞相留府長史??、爲尚書令、總統國事。
十三年春正月
中軍師楊儀、廢。徙漢嘉郡。夏四月、進??位爲大將軍。
十四年夏四月
後主、至?、登觀阪、看?水之流、旬日還成都。徙武都?王苻健及?民四百餘?、於廣都。
十五年夏六月
皇后張氏薨。
本当に大したこと書いてないからあとで読んでもいいし
ぶっちゃけ読まなくてもいい(暴論)
◆
延熙元年春正月
立皇后張氏。大赦、改元。立子?爲太子、子瑤爲安定王。冬十一月、大將軍??出屯漢中。
二年春三月
進??位爲大司馬。
三年春
使越?太守張嶷、平定越?郡。
四年冬十月
尚書令費?至漢中、與??、諮論事計、?盡還。
五年春正月
監軍姜維督偏軍、自漢中還、屯?縣。
蒋?武官やなく文官系や思うてたわ
蒋?は孔明死後すぐに北伐立案した辣腕の政治家やぞ
いや、大将軍て書いてるから武官なんかと
将軍職なんてほぼほぼ名士やぞ
名士=政治家=将軍=知識人の図式や
ふむう
そもそ古代中国って文武分離してないからなぁ
全部スーパー知識人の名士が請け負ってる
張飛も演技ではアル中ヒゲ肉だるまやけど実は賢かったと聞くしなぁ
張飛はバチバチの庶民ですぜ
劉巴に見下されまくってる
張飛が肉屋だったのは演義やっけ?
劉邦のハンカイエピソードパクったんやろなあ
まあ劉邦は初期メンバーヤバイけど
近所の人とか幼馴染が全員綺羅星のごとくの名将とか死ねる
武官肌はやっぱ姜維なんかな
そら(世紀末涼州の出身やし)そうよ
姜維が孔明の後継ってのは演義の設定やけど正史でも武官メインやね
蒋費みたいに漢中で事を治めてたみたいな表記はなかったはず
◆
六年冬十月
大司馬??、自漢中還、住?。十一月大赦。以尚書令費イ、爲大將軍。
七年閏月
魏大將軍曹爽、夏侯玄等、向漢中。鎭北大將軍王平、拒興勢圍。大將軍費?、督諸軍、往赴救、魏軍退。夏四月、安平王理卒。秋九月、?還成都。
八年秋八月
皇太后薨。十二月、大將軍費?至漢中、行圍守。
九年夏六月
費イ還成都。秋、大赦。冬十一月大司馬??卒(>>0�。
十年
涼州胡王白虎文、治無戴等、率衆降。衞將軍姜維、迎逆安撫、居之于繁縣。是?、?山平康夷、反。維往討、破平之。
※『魏略』によると劉禅が自ら政治を行ったことになっているが、本伝には書かれていない
◆
十一年夏五月
大將軍費イ、出屯漢中。秋、?陵屬國民夷、反。車騎將軍鄧芝、往討、皆破平之。
十二年春正月
魏、誅大將軍曹爽等。右將軍夏侯霸、來降。夏四月大赦。秋、衞將軍姜維、出攻雍州、不克而還。將軍句安、李韶、降魏。
十三年
姜維、復出西平、不克而還。
十四年夏
大將軍費?還成都。冬、復北、駐漢壽。大赦。
十五年
?王孫權薨。立子琮、爲西河王。
◆
十六年春正月
大將軍費イ、爲魏降人郭循所殺于漢壽。夏四月。衞將軍姜維、復率衆圍南安、不克而還。
十七年春正月
姜維還成都。大赦。夏六月、維復率衆出隴西。冬。拔狄道、河閒、臨?三縣民。居于綿竹、繁縣。
十八年春
姜維還成都。夏。復率諸軍出狄道、與魏雍州刺史王經、戰于?西、大破之。經、退、保狄道城。維、卻住鍾題。
十九年春
進姜維位爲大將軍、督戎馬。與鎭西將軍胡濟、期會上?。濟、失誓、不至。秋八月。維、爲魏大將軍鄧艾所破于上?。維退軍還成都。是?、立子?爲新平王。大赦。
二十年
聞魏大將軍諸葛誕據壽春以叛、姜維復率衆出駱谷、至芒水。是?大赦。
◆
景耀元年
姜維還成都。史官言、景星見。於是大赦、改年。宦人?皓、始專政。?大將軍孫?、廢其主亮、立琅邪王休。
二年夏六月
立子諶爲北地王、恂爲新興王、虔爲上黨王。
三年秋九月
追諡故將軍關羽、張飛、馬超、?統、?忠。
四年春三月
追諡故將軍趙雲。冬十月、大赦。
五年春正月
西河王琮卒。是?、姜維復率衆出侯和、爲鄧艾所破、還住沓中。
ほんこれ
真面目にやったら多分つまらないって不評くる
◆
六年夏
魏、大興徒衆、命征西將軍鄧艾、鎭西將軍鍾會、雍州刺史諸葛緒、數道並攻。於是、遣左右車騎將軍張翼、廖化、輔國大將軍董厥等、拒之。大赦。
景耀六(263)年夏。魏は大いに軍勢を起こし、征西将軍鄧艾、鎮西将軍鍾会、雍州刺史諸葛緒に、数ヶ所の道から並進して攻撃するよう命じた。そこで、左右の車騎将軍張翼、廖化、輔国大将軍董厥らに、それを拒ませた(※)。大赦した。
※当初、劉禅は鬼神や巫の言葉を信じた黄晧の言葉を取り上げ、援軍を出さなかった。この増援は鍾会が駱谷に向かい、鄧艾が沓中に入るに及んで出されたもの。相当後手に回った挙句、諸葛緒の動きに合わせて待機したため、敵を拒んだ時には剣閣まで侵略されている(姜維伝)
もしも記録どおり1人の人物が生きてるなら
90代くらいになるんやっけ
それって黄巾からの計算?
それは演義設定やで
正史やとまた違うんか
>>140
廖化の初登場は荊州失陥の時やで
関羽と一緒に捕らえられたのを脱出してきたのがデビューや
関羽千里行のは
やっぱ演義だけなんやね
なぜか黄巾の乱に参加したって間違えられて
それから計算しておかしなことになってる
これウィキペディアですら間違ってるんだよね
正史での年齢は宋預伝から70余歳くらい
それでも当時70代ってすげぇわ
軍内では長老扱いやったやろなぁ
せやな
この爺さんスゲーみたいになってたらうけるわ
◆
改元爲炎興。冬、鄧艾破衞將軍諸葛瞻於綿竹。用光祿大夫?周策、降於艾。
改元して炎興とした。冬、鄧艾は衛将軍諸葛瞻を綿竹で破った。光禄大夫?周の策(※)を用い、鄧艾に降伏した。
※鄧艾が陰平に到ると、劉禅は群臣を集めて議論させた。ある者は呉に逃れるべきだと言い、ある者は南中の七郡に逃れるべきだと言った。
?周だけは「呉に降れば、後に魏に併合された時に二度目の屈辱を受ける。南方に逃げるなら早めにしておくべきだった。今、逃れようとしても、小人の手にかかるかもしれず、危うい」と主張し、
魏が降伏を受け入れないかもしれないという批判をする者がいると、「呉がいるので、状況からして受け入れないわけにはいかない。受け入れぬようであれば、私自ら説得に行く」と言った。
劉禅はなおも南方に逃れることを考えていたが、「税を取り立てて怨みを買っていること、魏の追撃は結局逃れられないこと、軍事費や皇帝の使用する物の経費を賄おうとすれば、異民族が不満を抱くこと、降伏は天命であって仕方のないこと」を理由に反対した。
ちなみに陳寿は「劉氏が安全を確保し、民が安泰であったのは、?周の謀のおかげである」と評価しているが、孫綽、孫盛は皇帝を降伏させたこと、及び甘んじて降伏した劉禅を批判している(?周伝)
降伏を求める書があるが省略
「大いなる魏に降伏し、印綬を差し出すので、いかようにもお裁きください」といった内容
◆
是日、北地王諶、傷國之亡、先殺妻子、次以自殺。紹良、與艾相遇於?縣。艾、得書、大喜、?報書、遣紹良先還。
この日、北地王劉諶は、国が滅亡するのを傷んで、まず妻子を殺し、次いで自殺した。張紹、鄧良は、鄧艾と?県で会った。鄧艾は、書を受け取ると、大いに喜び、すぐに返書を作り、張紹、鄧良を先に帰らせた。
◆
艾至城北、後主輿?自縛、詣軍壘門。艾、解縛焚?、延請相見。因承制、拜後主爲驃騎將軍。諸圍守悉被後主敕、然後降下。艾使後主止其故宮、身往造焉。
鄧艾が城北に到ると、後主は輿?自縛(※)し、軍の塁門に赴いた。鄧艾は縛を解き柩を焼き、招き入れて会見した。承制(専断権)により、後主を驃騎将軍とした。諸所の陣営は全て後主の勅命を受けた後に降伏した。鄧艾は後主をもとの宮殿に留め、自身もそこに移動した。
※降伏の儀礼で、柩を担ぎ、自らを縛って出向くこと。孫晧も降伏の際に行っている。しかし、『晋諸公賛』によれば騾馬の引く馬車に乗っており、亡国の礼儀を具えていなかったとある
◆
資嚴未發、明年春正月、艾見收。鍾會、自?至成都、作亂。會既死、蜀中軍衆鈔略、死喪狼籍。數日乃安集。
旅装を用意して出発しないうちの、翌年の春正月、鄧艾は捕らえられた。鍾会うは、?から成都に行き、反乱を起こした。鍾会の死後、蜀中の軍の多くが略奪を働き、死者が出る騒ぎとなった。数日して収拾した。
鍾会「劉備程度にはなれる」
諸葛恪「反乱とかアホやなあ」
諸葛恪虹現れて犬に咥えられてるぞ
この後、劉禅は洛陽に移される。辞令があるが省略
「降伏の判断を褒め、安楽県公とし、領土を与える(遥任であるが)」といった内容
>>156
姜い「こいつを利用して復興や!」
なお
◆
食邑萬?、賜絹萬匹、奴婢百人、他物稱是。子孫、爲三都尉封侯者、五十餘人。尚書令樊建、侍中張紹、光祿大夫?周、祕書令郤正、殿中督張通、並封列侯。公、泰始七年薨於洛陽。
食邑は万戸、絹一万匹、奴婢百人を賜り、他の物もこれに比例した。子孫のうち、三(奉車・?馬・騎)都尉となり侯に封じられたれた者は、五十余人もいた。
尚書令樊建、侍中張紹、光禄大夫?周、秘書令郤正、殿中督張通は、揃って列侯に封じられた。公(劉禅)は、泰始七(271)年に洛陽で亡くなった。
普通に大食客レベルやな
よく殺されんかったわ
昔やから天命受けて皇帝になれるくらい偉大な者を
族滅させたら呪われるって概念あったらしい
いわゆる二王三格でとにかく勢力滅ぼしても末裔は生かしておくとか
特に劉禅の場合、まだ孫氏が降伏してないのに殺すのは得策でもないしな
◆
有名なため『漢晋春秋』の逸話を引用
司馬昭が劉禅のために宴を開き、蜀の歌舞を行わせると、他の人は悲しんでいたが、劉禅は笑って泰然自若としていた。
このため、司馬昭が賈充に「人はこれほどまでに無情になれるのか。諸葛亮が生きていても輔佐していつまでも安泰にすることは出来なかっただろう。ましてや姜維では」と言うと、賈充は「そうでなければ、殿下は(蜀を)併呑出来なかったでしょう」と答えた。
後日、司馬昭が劉禅に「少しは蜀を思い出されるか?」と尋ねたところ、劉禅は「この地は楽しいので、蜀を思い出すことはありません」と答えた。
郤正はこれを聞いて劉禅に会い、「もし、(司馬文)王が今後お尋ねになったら、『先祖の墳墓が隴・蜀にありますゆえ、西を向いては悲しくなり、一日として思い出さないことはありません』とお答えになり、目を閉じられますよう」と言った
さらに後日、偶然司馬昭が同じ質問をしたので、教えた通りに答えたところ、司馬昭は「なんとまあ郤正の言葉そっくりなことよ」と言った。劉禅は驚いて目を見張り、「まことにおっしゃるとおりです」と言ったので、側にいたものは皆笑った。
・演技説
・空気読めない発達障害説
・ただのアホ説
どれやろなぁ…
発達障害説考えたことなかったけど
それ面白そう
バカ素直なのは伝わってくる…
◆
評曰。後主、任賢相則爲循理之君、惑閹豎則爲?闇之后。傳曰「素絲、無常、唯所染之」信矣哉。
評に曰く。後主は、賢人に任せる時は道理に従う君主であったが、閹豎(宦官)に惑わされる時には昏迷な君主であった。ことわざに「素糸、常なし、ただこれを染むる所なり(白い糸に常態はなく、ただ染められたままになる)」というが、その通りである。
これは陳寿さん寝ずに考えた精一杯のフォローやろなぁ
知らんけど
陳寿「主君やった人やから・・・せや糸にしとこ」
ありそう
◆
禮、國君繼體、踰年改元。而章武之三年、則革稱建興。考之古義、體理爲違。又、國不置史、注記無官、是以行事多遺、災異靡書。
礼では、国君が継いだ時には、年を越えて改元するものである。しかし、章武の三年に、建興と改めている。古の義を考えると、道理に違えている。また、国に史官を置かず(※)、注記官(?)が無く、そのため行事に遺漏が多く、災害も書に残っていない。
※本伝の景耀元年に「史官言、景星見」とあり、矛盾している
豪族の寄り合い所帯だった呉を
中央集権的国家に移行しようとして
恐怖政治を行ったってフォローどっかで見たゾ
一応聡明で知られてやんやけどな
なお
最初から暗君よりも
名君から途中で暗君に変貌するほうが
遥かに害悪なんだよなぁ…
暗愚差で比較するなら孫権・孫晧・曹叡のほうが
遥かにヤバイから必要以上に陥れられてる感もある
曹叡はええやろ
その三人はプラスもあるけど
劉禅はマイナスしかないから評価難しいね
◆
諸葛亮、雖達於爲政、凡此之類、猶有未周焉。然、經載十二而年名不易、軍旅?興而赦不妄下、不亦卓乎。自亮沒後、茲制漸虧、優劣著矣。
諸葛亮は、為政に熟達していたが、おおよそこれらのことは、なお周到ではなかった。しかし、十二年を経ても年号を変えず、軍勢をしばしば起こしても恩赦を妄りに下さなかったのは、卓越しているとはいえないだろうか。
諸葛亮の死後、その制度はだんだんと欠落していき、優劣ははっきりとしている(※)。
※裴松之は「恩赦を妄りに下さなかった」は称賛に価するが、「年号を変えず」については、それで称賛された例を前代に見ないとして、疑問を呈している。
また、「その制度はだんだんと欠落し」について、延熙は二十年も続いており、当てはまらないと述べている(「その制度はだんだんと欠落し」が恩赦のことのみを指すのであれば、陳寿の言葉は間違いではない)
悪評もそんなないという風潮
于禁いじめて孟達贔屓したやつがなんだって?
>>191
孟達贔屓はええやろ
降伏者への態度はあれが最適解やないか?
食べ物に興味津々な詔勅かわいい
なに? 夷陵がなんだって?
呉も二宮事件でいっぱい死んだからセーフ
原因が敵の女にうつつ抜かしてたからとか
残当ですわ
田豊「ウチのボスも女にかまけて、天下逃しましたわ」
正史訳すシリーズも一旦完結にするけど
また機会あったらたまにやるわ
お付き合いしてくれた人サンガツ
・3大昔の人が多分パニクっただろう現象「皆既日食」「突然死」
・日本の最盛期って「鎌倉時代」か「大正時代」だと思う
・ジャンヌ・ダルクと百年戦争
・韓国のネットユーザーが選んだ「アジアの5大名将」5位は徳川家康、4位はグエン・フエ
・大人になったらコーエーの信長の野望とか三国志のゲームが面白く感じるの?
・教科書に載っていた「何だか間抜けな世界史用語」って何が思い浮かぶ?