最上義光と家康のお話
天正18年(1590)、秀吉の小田原攻め。伊達への監視などから参陣の遅れた、最上義光をはじめとする
最上勢が小田原への道を急いでいると、徳川勢が、酒匂川まで出迎えに来ていた。
彼らの歓迎を受けた義光は驚いた、なんとそこに、駿河大納言、徳川家康自身がいたからだ。
「よく参られた。ここからは我らがご案内いたす。」
家康はかねてからこの、最上義光という武将に、好感を持っていた。義光は家康の心遣いに恐縮し、感謝した。
さてこの時、義光は上杉景勝との間に紛争を起こしていた。庄内の領有をめぐる問題である。
かの、「豊臣惣無事令」以前に最上領となっていた庄内だが、上杉の援助を受けた本庄繁長の不意打ちにより、最上から奪われた状態になっていた。
「これは惣無事令違反である!」秀吉の前でそう主張した義光であったが、早くから秀吉に従い、また石田三成など、秀吉側近の多くを味方とする上杉の影響力は強く、新参者に過ぎない義光の言い分を、誰も取り上げようとはしなかった。
そんな中、たった一人、義光の弁護をした者がいた。徳川家康である。
「義光殿の言い分こそ正しいではないか!このような仕置きは禍根を残す!」
これにより、本庄繁長の処分だけは行われたものの、それと引き換えのような形で、庄内は結局、上杉領とされた。
しかし義光は、家康を深く信頼した。
慶長元年(1596)、近畿に大地震が起こった。「地震加藤」の逸話などがあった、あの地震である。
諸侯は真っ先に、秀吉を見舞いに行った。
最上義光ただ一人は、秀吉の元ではなく、家康の屋敷に駆けつけた。
関ヶ原はまだ5年ほど先、と言う頃であった。
>>273の補足というか
義光の娘・駒姫が秀次の事件に巻き込まれて処刑されたのがこの話の1年前、1595年。
外交とかもそつなくこなしそうな鮭様が、秀吉じゃなくて家康のところへいったってのは(家康への敬意や尊敬の念を持ってたっていうのもあるんだろうけど)
よっぽど悲しくて、秀吉のことが許し難かったんだろうな。
ニュース
>>273
補足。
秀吉最晩年、家康は秀吉から茶の湯に招かれた。
断るわけにもいかないず、家康は出掛けたが、茶にかこつけて暗殺するつもりではないか、との声があがった。
徳川家中はなすすべもなく、おろおろするばかり。
と、茶席の最中に急な来客があり、中の間に家康が呼び出された。
なんとそこには義光がいるではないか。義光はそっと耳打ちした。
「風流や人付き合いも大切ですが、今は御身こそが大事ですぞ、ご自愛くだされ。もっとも今日は義光がこれにおりますゆえ、何の心配もござらん」
家康は義光に感謝した。茶席は無事終わった。
もう義光、このあたりあからさまに豊臣政権に喧嘩売ってるよな。
こんなに家康大好きなのに、なのに某ゲームでは義理2なんだぜ_| ̄|○
もう義理=西軍贔屓値にすべきだと思うんだ
そのセリフで畏怖を撒けるのは暗殺を専らとしてきたからかな
できるとすれば義光のほかに松永弾正、宇喜多和泉守くらいか
義光が確実に暗殺したと言い切れるのは、実は白鳥長久だけ。
あとは離反ついでに家臣が主君の首を持参したケース。
義康暗殺は義光実行犯説に最近疑問符がついている。白鳥の件も、勝手に出羽探題を名乗っていたり、義光自ら斬っていることや、周囲からおめでとうコールまであるので、当事者としては暗殺よりも「成敗!」のつもりだったろう。
まあ、暗殺っちゃ暗殺だが。
正直事件以降は最上義光がどんなに豊臣政権に喧嘩売るような行動とってもしょうがないと思えるからねぇ…。
>>296
それはさすがにひいきしすぎじゃね?
秀次事件の顛末を思えば感情からして仕方ないとも言えるが、そんなあからさまに秀吉への敵愾心と家康への忠誠を見せ付けたら、家康の立場だって悪くなるし、仮に家康が負けていたら、義光は「感情に走って家を潰した」と非難もされただろう。
少なくとも義光にとっても恩人家康にとっても、あまり褒められる行動じゃない。
>>309
市松は三成への個人的嫌悪から家を潰したなんて言われてるか?
・・・・言われてるな
>>309
確かに、秀吉がボケかけていなかったら家康ともども誅殺もんだと思う。
換言すれば、そんなことができるほど秀吉晩年から豊臣政権はボロが出始めていたんじゃないかな、とも。
そんな義光も、関ヶ原ではさすがに上杉相手には「ボクたちは西軍ッス!」
アピールをして三週間も決戦回避していたわけだし。
空気はある程度読んでいたんだろうな。
逸話の真偽はともかくとして
里村紹巴は後に秀次事件に連座して蟄居させられてるから
秀吉にとっては鬱陶しい香具師の一人だったのは確かなんだろう
同じく秀次事件に連座した最上義光は、妻子の喪失感を忘れるためか、せっせと連歌解説書を執筆し、互いに蟄居していた紹巴に添削指導をお願いしていたらしい。
格別目に付くのはシスコンであることくらいか。
だからごく普通の 『優れた』 戦国武将と書いたつもり。
能力的には優れていて、性格や振る舞いについては当時の戦国武将のスタンダートからそう逸脱したものではない、ということ。
地元の人にとっては名君だったと思うよ。
いや特に意味は無いが
鮭の逸話、シスコンな逸話、駒姫の悲劇等々
戦国の世には珍しく人間味を感じさせてくれる逸話が豊富だからじゃね?
淀の渡し
千利休は例の木像が不謹慎だとして突如失脚した。
びっくりした利休は細川忠興・芝山監物らに頼んで、必死になって弁明に努めるが、監物がもっとも頼みとした蒲生氏郷にまで、「一笑一笑(もうむだだの意)」と断られる始末。
堺の会合衆仲間住吉屋宗無・万代屋宗安も利休の手紙を無視し、あれほど利休の周りに群がった人も,かかわりあいになるのを恐れて誰も利休に近づかくなった。
2月14日に秀吉は利休を堺に追放する。当然、時の最高の権力者から睨まれてまで切腹を命ぜられた利休を見送りに行く者はいなかった。
そんな中、淀の渡しに見送りにきたのは、細川忠興と古田織部のたった二人だけであった。
利休はこの2人に感謝をしてそれぞれに自作の茶杓を進呈した。織部はこの茶杓に「泪」と名づけ、忠興は「ゆがみ(命)」と名付けた。
「泪」と「命」の茶杓はこれから先、利休の遺品として重宝されてゆくことになる。
銀の鯰尾兜
蒲生氏郷は、新参者には「銀の鯰尾兜をかぶって奮戦するものを見かけたら、それに劣らぬ働きをせよ」と励ますのが常であった。
新参者が実際に戦場に出てみると驚いた。 この銀の鯰尾の冑の勇者はなんと蒲生氏郷その人だったのだ。
氏郷はこうやって侍はこうあるべきと自ら手本を示したのである。
(名将言行録)
・医学に通じていた毛利元就、桜の木にしがみつく鮭様
・武田信玄の異母弟「川窪信実」の心根、北向きに置かれた信長の兜
・瓜の皮むきをする尼子経久、若き上杉景勝が佐竹義重に送った手紙
・歌舞多城の乞食、池田輝政と福島正則、千利休の石灯籠
・福島正則が宇喜多秀家に贈った備前の酒が詰まった樽