下ネタ禁止の話
ある時、秀吉が細川幽斎・金森法印・桑山法印・宮部法印と雑談していた際に
「いまから面白い話を聞かせよ。但し、腰から下の話は禁止じゃ。罰金は小判1枚とする。」と秀吉が言った。
そして、幽斎が最初に面白い話をすることになった。
幽斎「昨日東山に参拝した帰り、実に見事な茶釜を見ました」
秀吉「一体どんな釜を見たのだ」
幽斎「参拝の帰りにのどが渇いたので茶屋で茶を注文したところ、茶屋のおやじが使っている釜が鉄製に見えないので、おやじに「あの釜は鉄か唐カネでできているのか」と聞きましたところ、
おやじは「あれは鉄でも唐カネでもございません。実は楠で作った木製の釜でございます」と言い、そんなバカなと思って近くで釜をみるとやはり楠でできた釜でした。
あれほど見事な釜は見たことがございません。」
それを聞いた秀吉は思わず
「そんなアホな。茶を沸かそうと楠の釜で火を焚けば、釜の尻が焦げて役に立つまいが。」
とつっこんだ。
幽斎はすかさず、
「尻は腰より下ですから、どうか罰金の小判を払ってください。」と言った。
秀吉はこりゃ一本とられたと大いに笑ったということである。
どこでどう立ちまわればいいかよく知ってる
そういう面を幼い頃からよく目にしたから息子があんなのになったのではないか
ニュース
息子である忠興が全て代わりにやってくれたんだよ
幽斎も若いころは牛と力比べしたりしたからな…
老いてからも自分を止めた門番の腕の骨を砕いた、なんて話があったり
えらいパワフルだなw
利休が金の茶室見て絶望したみたいに
上杉家中にあって、深沢・九鬼の両名はたびたび家中の法度に背くことがあった。
規律に厳しい謙信は業を煮やし、ついに両名の誅殺が決まったが、剛勇をもって知られる両名にあたるには相応の人数と準備が予想され、なかなか処断できなかった。
これを聞きつけた謙信の甥・喜平次が名乗り出た。「我に、その者共の成敗をお任せあれ。」
これに謙信は、
「あやつらは数々の戦で働いた豪の者であり、一人につき三人向かわせても討てるか危うい。まして幼いお前に任せるなど思いも寄らぬ。しかし、その志は勇敢であり、見事だ。」
と、申し出を褒めはしたが許さなかった。
だが喜平次は、「成敗し難い罪人を斬れば、無断で斬ってもむしろ手柄となろう…」
あきらめず、剛勇の二人を斬る策を練った。
9月9日の重陽の節句を祝うため、家中の士の総登城が命じられた。当然、深沢と九鬼も登城し、偶然かこれも喜平次の仕掛けか、両名は近くの席に座った。
喜平次はその場に近づくと、まず深沢に声をかけた。
「その方、目を患っておると聞く。御実城様の耳にも入ったぞ。私に目薬を賜り、その方の目に薬を差し、具合を尋ねてまいれとの御意じゃ。ありがたく受けよ。」
そう言って深沢を仰向けに寝かせ、唐辛子をその目に振り掛けると、「上意なり!」
叫んで脇差を抜き、苦しんでいる深沢を突き刺した。
「何をしている!上意であるぞ九鬼、加勢せよ!」突然の出来事に呆然としていた九鬼は、喜平次に声をかけられ、反射的に未だもがいている深沢に斬りつけた。
九鬼の振り下ろした刀が深沢の体に存分に食い込み、とどめを差したのを見届けた瞬間、
喜平次は脇差を持ち替え、深沢に刀を食い込ませたままの九鬼の胴を一気に切り裂いた。
謙信はこれを大いに褒め、預かっていた喜平次の父・政景の所領をことごとく返してやった。
のちの景勝の初手柄の話。ときに14歳のことだという。(名将言行録)
スゲエ、スパルタだわw
イヤ、この話だと謙信はちゃんと「子供はダメ」って言ってるじゃないか。
しかも上杉家全家臣の前で「上意である!」と叫んで討ってるから、甥が可愛ければ叱る事は出来まい。
スパルタというより単に甘かっただけでは?
スパルタ教育じゃなくて、その元ネタのことを言ってるんだよ
古代ギリシアのスパルタ貴族は子弟にスリ等をさせて機転を養わせ、独りで野に放り出して狩りをさせ、サバイバルと戦闘術を養わせた。
甲陽軍鑑あたりに出てくる謙信なら、こう言うの大喜びしそうだから怖いw
こっちの方が好きだけど
三国時代に生まれてれば確実に劉備一家の鉄砲玉ポジション
逸話や史実見ても、有能なのか無能なのか、善人なのか悪人なのか、さっぱり解らん。
騒ぎを聞き付け自らやってきて秀仙や信綱を殺した毛利が
岩井や登坂に成敗されるのを襖の影からじっと見てたって話もあるな。
何するでもなくじっと見てたってのがなんか怖い人だと思った。
善人悪人というか理想主義を志すリアリストっぽいイメージだ。
将器だけは途方も無く大きかったような印象がある。
そうだけ聞くと劉備みたいだなw
上杉景勝と前田慶次
ある時、豊臣秀吉が伏見城(または大阪城)にて、大名たちを呼んで宴を開いた。
そこに慶次は呼ばれてもいないのに勝手に紛れ込んだ。
宴もたけなわになった頃、慶次は猿の面を被り手ぬぐいで頬被りをし、踊りながら大名たちの膝の上に次々と腰かけ、猿真似をして面白おかしく振舞った。
宴の席なので誰も怒るものはいなかったが、景勝の前へ来ると慶次は景勝を華麗にスルー。
次の人の膝の上に腰掛けた。
景勝の威風凛然とした態度を前にして、どうしてもその膝に乗ることができなかったらしい。
その後、歌舞伎者として名の知れていた慶次はたびたび仕官話が持ち上がっていたが
それらをことごとく断り、直江兼続を通じて景勝に仕官する。
慶次は後に「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」と語ったという。
猿の景勝真似には笑ったのに
慶次の猿真似はつまんなかったんかw
好きな歌手のモノマネとか採点が厳しくなるからな。
景勝に「うちはカブキモノなんぞイラネ」とダメ出しされてる
>>355
景勝くらい冗談の通じなさそうな大名も居ないよね。
たしか景勝が秀吉に臣従して、始めて大阪城に登った際、秀吉主催の歓迎の宴会で、余りにも
無表情で黙りこくっているので、秀吉は大阪までの接待をした利家や三成なんかを呼び出して
「おまえら道中、景勝殿になんか失礼なことでもしたのか?」
って聞いた、って話があったなあ。
直江が「いつもああだから気になさらないように」と、言ったとかどうとかw
でも景勝は筆まめだったと聞いた
ネットじゃ多弁なのに
実際にあってみると穏やかで常に気配りをしてくれる人だったりするから
世の中わからん。