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【戦国いい話44】城盗り百人一首、安芸宰相、江戸城に戻るのが面倒くさい家光

2022年7月31日

140: 名無し 2008/09/22(月) 01:28:17

城盗り百人一首

里見家初代、里見義実、成義親子が、真里谷武田家のを攻めた時の事。
篭城していた真里谷武田家から里見家に、このような提案がされた。

「我らの城の回りは名勝が多くある。この景観を題材に、里見の諸将が今日一日の間に百首詠む事が出来れば、我らは開城しよう。出来なければ撤退すべし。いかが?」

こう挑戦された里見の諸将、我らは文武両道の家、風雅のたしなみも並々ならぬぞ!と、その提案を受けて立った。
そして里見親子は見事百首を読みきり、造海城をめでたく開城させた。
この造海城、この時から「百首城」とも呼ばれるようになった。

その時の一首
里を見よ はげしき春の山嵐 世をつくろみに さはらざりけり

なんとも雅な城盗りのお話

 

146: 名無し 2008/09/22(月) 11:55:20
>>140
いい話ね。でも里見八犬伝は聞いたことあっても里見家はなじみが薄い。
歴史を学ぶチャンスは少ないし戦国って言うと織田 豊臣 徳川だけ
日本は広いのにね。

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155: 名無し 2008/09/22(月) 22:11:04

安芸宰相

秀吉が、甥、秀秋を、子のいない毛利輝元の養子に送り込むつもりだ。
この情報に毛利家は危機感を深めた。そんな事をされてはたまらない。
小早川景隆、毛利輝元はすぐさま、毛利元就の四男。穂田元清の長男であり、英明の誉れの高い秀元を輝元の養子とし、秀秋は小早川家が引き受けた。
毛利本家は守られた。

毛利家の跡継ぎである秀元は順調に出世し、豊臣秀長の娘とも結婚、翌年には三位、参議となり、安芸宰相と呼ばれた。

ところが文禄四年(1595)、輝元に、長子秀就が誕生した。

輝元は喜んだが、毛利家は困惑した。すでに世継ぎは秀元と決めてある。
だが当然、血のつながる秀就こそ正当な後継者だとする者たちが出てくるであろう。
このままでは、間違いなく毛利家は、後継をめぐって二つに割れる。
重臣たちが思い悩む大広間に、その時、まだ16歳の少年であった秀元が現れ、こう言った。

「私はあくまで養子であり、筋目から言って、今日産まれたご嫡男が毛利を継ぐべきです。わたくしは後継のお話をご返上し、毛利の庶家として、ご本家を守り立てていきたいと思います。」

こうして、お家騒動は回避された。彼の水際立った行動は、毛利家中のみならず、天下に賞賛されたという。

まあ、そんな秀元も後年、この後継の座を譲った秀就とほとんど絶交状態になって、毛利からの独立騒動とか起こしたりするんですけどねw
人間関係って難しい。

 

158: 名無し 2008/09/24(水) 16:36:04

みんなのアイドル伊達政宗のお話

三代将軍家光公。彼は祖父家康に似て、鷹狩りが大好きであった。
それはいいのだが、鷹狩りの際いちいち江戸城に戻るのは面倒くさいと、狩場の近くの民家に下宿をとって、そこで寝起きしていた。
幕閣は

「このような場所では警護も充分ではなく、不心得者による暗殺すらおこりかねません!どうかご自重を!」

と、諫言するのだが、家光は聞く耳を持たなかった。

さて、その下宿に政宗が訪ねてきた。しばらく狩りの話をしていたが、やがて家光は
「家臣どもはこう言う場所では、暗殺の心配があるなどと言って余に五月蝿く言ってくるのだ」と、愚痴を言い始めた。それを聞いた政宗、

「それは心配するでしょう。私も何度、鷹狩りの際の家康公の命を狙った事か。」

それ以降家光は鷹狩りの際、下宿を使う事をやめたとか。

 

159: 名無し 2008/09/24(水) 17:54:36
それは家光の家臣に頼まれて政宗が諫言した話じゃなかったっけ?

 

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