家康だとこの話が好きだな。
大阪夏の陣も終わり、家康はいよいよ完全な隠居を決めた。
そこで、かねてより目をつけていた土地に、隠居所を作ろうとし、その設計を藤堂高虎に頼んだ。
ところが高虎は渋い顔をしている。
「何か思うところでもあるのか?」
と、家康が尋ねると、
「は…、大御所様の隠居所を設計するのは良いのですが、これはいつ造られるおつもりで?」
「?、勿論設計図が出来次第造るつもりだが…」
「幕府は先の大阪の陣が終わった時、諸大名を休ませるために、5年間の賦役の停止を宣言しました。大御所様はご自分の手の者だけでこの建築をなさるおつもりでしょうが、それでも諸大名はお手伝いを申し込んでくることは間違いありませんし、中には勝手に工事に参加するものも出て来るでしょう。これは幕府の宣言への違反になりますが、幕府も大御所さまの事として処分も出来ません。それでは幕府の威令は…」
「わかったわかった、皆まで言うな」
こうして、家康は隠居所の建設をあきらめた。
そして代わりに、何者も幕府の命に反することは出来ない。それは最高権力者として何者の追随も許さないこの当時の家康ですら例外ではない、と言う先例を残した。
そして家康
ニュース
「わかったわかった、みなまで言うな」
の後が信長秀吉だとBADEND化しそうだなw
>>366
高虎は相手次第で態度を変えるやつじゃないぞ
どうにも自分から主君を変えたと思い込んでいるヤツが多いようだが
若い頃に仕えた主君はどれも滅亡したり暗愚だったりで嫌気が差して隠遁してたのを秀長に見出されて仕えた
で、その秀長が死んで家が潰れると秀吉の負の面を散々見てきた高虎は豊臣を見限って
不安定な豊臣政権よりも安定政権を築けると見込んだ家康に協力したに過ぎない
家康ほどの人物が変節漢を信用して築城を任せたりすると思うかい?
ま、俺の主観だから異論はあるだろうし色んな意見があった方が面白いが
高虎は裏切り者的な存在ではないってことだけは知ってくれ
藤堂好きなんだな、俺も嫌いじゃないよ
ただ相手を見ずに正論ぶつけて不興を買うような人間じゃないと思うんだ
>>369
一部見返して説明不測になってるんで補足させてくれ
>どうにも自分から主君を変えたと思い込んでいるヤツが多いようだが
>若い頃に仕えた主君はどれも滅亡したり暗愚だったりで嫌気が差して隠遁してたのを秀長に見出されて仕えた
秀長に仕えたのは20歳~35歳
それ以前は浅井に仕えてたが・・・あとはわかるな
秀保が亡くなって40歳で高野山に出家
秀吉に召還されて宇和島で7万石の大名になったわけだが
そこは秀吉の命令には逆らえない時代
秀吉の人材コレクションの1つでしかないから秀吉に忠誠を誓っているわけじゃないってことな
高虎は別に先見の明があって主家を見限って出奔してた訳じゃないぞ。
若気の至りで口論の末に同僚ぬっころして出奔したのが二件。
恩賞に不満で飛び出したのが一件。
確かにどの家も滅びてるがそれは後の話で、高虎出奔と因果関係があるわけじゃない。
島津の軍陣
天正十年十一月、日向宮崎の国人、上井覚兼は島津氏の命を受け、肥後の八代に出陣した。
その彼の、着陣してからの日記
十一日:八代に到着。大将、島津忠平殿の元に挨拶。
十二日:伊集院忠棟殿が着陣された。共に島津家久殿の宿舎に招かれ、一日中宴会
十三日:島津忠平殿の宿所で会議。すると使者に出ていた者達も帰ってきて、会議後そのまま宴会
十四日:
朝、伊集院忠棟、肝付兼寛殿らが上井の宿舎にやってきて、そのまま宴会。
夜、忠棟殿から風呂に誘われ、そのまま又宴会。
十六日:島津忠平殿の宿所で会議。会議が終わると又宴会。石原と言う武士が狂言を舞った。面白かった。
十七日:忠棟殿と肝付殿の宿舎に行き、昼間から宴会。途中で会議に呼び出される。一部の軍勢を有馬に出発させることが決まる。会議の後宴会。
十八日:忠平、家久御兄弟と忠棟殿の宿舎に行く。宴会。一日中飲み明かす。幸若与十郎というプロの芸人が呼ばれていて一曲舞った。気が利いている。
この後年明けの正月11日まで着陣していたが、ずっとこの調子だったりするw
島津の陣では戦場での強さ以上に、肝臓の強さが必要だった、と言うお話。
戦中日記とは思えないwwwwwwwww
それっていい話なのか?
まあ、飲んでも戦はサボってないので。
(酒付き合いが)いい話、とでもw
なんか本当にありそうなのが……
当時の濁り酒はアルコールは低かったろうけど、焼酎はすでに存在するはずだし
・医学に通じていた毛利元就、桜の木にしがみつく鮭様
・武田信玄の異母弟「川窪信実」の心根、北向きに置かれた信長の兜
・瓜の皮むきをする尼子経久、若き上杉景勝が佐竹義重に送った手紙
・歌舞多城の乞食、池田輝政と福島正則、千利休の石灯籠
・福島正則が宇喜多秀家に贈った備前の酒が詰まった樽