なんかいい話だったので
「巧すぎる絵師」の宿命としての真田幸村のトラブルとは対照的に、こんな心温まるエピソードも残っている。
「花の慶次」に登場する徳川家康の外見が勝新太郎をモデルにしていることは有名であるが、あるとき知り合いの演歌歌手の誕生パーティーに原が出席したときのこと。原が隅で料理をつついていると、ホールの向こう端から全身白のスーツ姿にサングラスをかけた小太りの男がつかつかと歩み寄ってくるのが見えた。誰あろう、その恐ろしげな風貌の人物こそ、かの勝新その人であった。
勝は原の目の前に立つと、原の胸を、どんとひと突きした。「―――殴られる。」原はそのとき、そう直感したという。原は勝に無断で、肖像を拝借して作中に徳川家康を登場させていた。真田幸村の一件が頭をよぎる。しかし。勝はサングラスをはずし、ぐい、と原に顔を寄せると満面の笑みを浮かべこう言った。「おめえ、絵が巧いんだな。」それだけ言うと勝は手を振りつつ去っていったという。
数ヶ月して、原のオフィスに一本の見事な長唄三味線が届いた。紫檀製の胴には見事な綾文(鑿で内面に彫られる模様細工)、既に昨今では珍しい本皮張りに、象牙の撥(ばち)。時価にして数百万になろうかという逸品である。それは、三味線職人の次男坊である勝新太郎ならではの、原の作画に対する素直な評価、粋な贈り物であった。原は以後この三味線を何度も作品中に登場させ、前田慶次に弾かせている。
ニュース
秀吉が天下統一したしばらく後のこと
秀吉が大事にしていた鶴が
世話係の不注意で逃げてしまった
世話係がおそるおそる報告すると
最初は顔色を変え、しばらくは
無言の秀吉だったが
やがて静かに問いかけた
秀吉「あの鶴は唐(から)まで逃げたか?」
世話係「いえ…いくら何でもそこまでは…」
秀吉「なら良い、日の本の中ならどこでも俺の領地だ。領地の中にいるのなら、お前は逃がしたわけではない」
そういって秀吉は世話係を咎めなかった。
秀長や利休がまだ健在の頃の話らしい。
良いときの秀吉でよかった
応仁の乱で、西軍から東軍に寝返り、越前守護となった朝倉孝景が、甲斐八郎率いる加賀の一向宗と戦争になったときのエピソード
孝景、陣中にいた会下僧にこう尋ねた
「戦争では、敵も八幡大菩薩、味方も八幡大菩薩に武運長久を祈るわけだ。その一念は敵味方同じであろう。だが、その御利生は、どういう事に成るのであろうか?」
僧曰く
「それは、こう考えると宜しいでしょう。味方には現世安穏、敵には後生善処。」
細川忠興が隠居した頃のお話。
新たに当主となった忠利に小倉城をゆずった忠興は、中津城を隠居場にした。
さて、いざ隠居してみると、家臣たちがぱったりと挨拶に来ない。確かに静かに余生を過ごしたいといった。
だがこれはどういうことだ!
「忠利!まさかお前が、わしのところに家臣が挨拶行かないようにと、言っているのではないだろうな!?」
こんな書状をもらった忠利、当惑し、家臣に「とにかく大殿様にご機嫌伺いするように!」と大慌てで要請
次の日から中津城には、ひっきりなしに家臣達が尋ねてきた。その、あまりの多さに忠興も閉口。
「誰がこんなに尋ねて来いと言った!?用のある人間だけ来ればいいのだ!」
と、やっぱり立腹。困った爺様である。
しかし、そのしばらく後に
「この間はわがままを言ってすまなかった。後悔している。」と、反省文を送ってきたりもした。
案外可愛げもある爺様であった。
これはツンデレといえばいいのか、DQNといえばいいのかw
可愛いなw
鳥居元忠と鈴木(雑賀)孫一
関が原の直前、伏見城上代・鳥居元忠は甲賀者を駆使して三成の動向を調べ、逐一家康に報告した。
三成が挙兵し、伏見城は大軍に囲まれて孤立し、元忠は壮絶な討ち死にを遂げた。
この時、元忠を撃ち取ったのが雑賀党の首領、孫一だった。
実は鳥居家は鈴木家とは同族で、昔からの顔なじみだった。
「どうせ死ぬなら孫一に手柄を立てさせてやろう」
死を覚悟してなお配慮が働いたと思われる。
元忠の子・忠政は父の功により24万石の大名に引き立てられた。
>>915
加増されて二十万石超えたのはだいぶ後年のようだけど、それでも譜代ということを考えると石高的に非常に厚遇されているね。
元忠は家康の人質時代からずっと側近くで仕え続けてきたし、家康にとっては忘れられない家臣なんだろうね。
そういえば、駿府の人質時代、鷹が飼えない家康がトンビ?か何かを鷹の代用として飼っていたら、
元忠の父親が家康をしかりつけ、大将の心構えを説いた、ていう逸話なかったっけ?
おもしろい巡り合わせだよね