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【戦国いい話13】信長を踏み台にした柴田勝家、黒田長政をかくまった石田正継と竹中半兵衛

2022年7月14日

330: 名無し 2008/04/13(日) 23:06:10

うろ覚えなんで細部は違うかも。
寓話的だし、信長らしくないので信憑性は低そう。

朝倉氏が滅亡し柴田勝家が越前に入ったころの話。
越前国内で女狩りをする者がおり、勝家の手の者が捕らえ尋問すると主君信長から越前の美女を集めて連れて来るように命令を受けたという。
越前はまだ平定したばかりで民心もまだ織田家になついておらず、
ここで主君の評判を落とすようなことはまずいと考えた勝家はその者を処刑、
信長には「殿の名を騙り無道を働いた者を処刑しました」とそらとぼけて報告した。
これに信長はぐうの音も出なかったという。

 

331: 名無し 2008/04/14(月) 00:02:00
>>330
一銭斬りの信長がやるかなぁ……?

 

332: 名無し 2008/04/14(月) 02:03:51
一銭斬りは政治的意図が大きいから越前なら別にやってもそれほど変ではないと思うな
むしろ、北陸での織田軍の動きを見ると勝家の言動の方が疑問

 

334: 名無し 2008/04/14(月) 05:55:19
信長は女にだらしないというイメージがないから違和感あるな。

 

335: 名無し 2008/04/14(月) 10:42:23
作り話にしても信長を踏み台にした勝家褒め話って珍しいね

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337: 名無し 2008/04/18(金) 02:59:18

有名な話だけどまだ出てないので一つ

黒田官兵衛は謀反を起こした荒木村重を説得するべく、
秀吉に命じられて村重の有岡城へと赴いた
しかし官兵衛は有無言わさずに村重に牢屋に閉じ込められてしまう

有岡城へ説得しにいった官兵衛が行ったきり帰ってこない
このことを知った信長は官兵衛が村重に寝返ったと勘違いし、
人質にとっている官兵衛の息子・松寿丸(のちの長政)処刑するように秀吉に命じる

秀吉は迷った挙句、信長の命令なので従おうとしたが、
竹中半兵衛が独断で信長には松寿丸を処刑したと報告し、密かに匿って石田正継(三成の父)の元へ隠しておいた

やがて有岡城が織田の軍勢によって落城し、中からやせ細った衰弱した男が出てきた
足に障害を持っており、知っているものが彼が官兵衛であることに気づいた

秀吉は官兵衛が生きていたと知って喜んだが、官兵衛の息子を殺してしまったことに罪悪感を覚えて素直に喜ぶことができなかった
するとそこに半兵衛が密かに松寿丸を匿っていたという報せが届いた
これに秀吉は自分の面目が立って喜び、官兵衛の方も息子の命を助けてくれた
半兵衛に感謝しても感謝しきれぬ思いを抱いた

しかしその時既にことの功労者である半兵衛は世の人ではなく、中国攻めの陣中で没していた
官兵衛は息子の恩人である半兵衛に感謝の言葉を直接言えなかったことを深く悲しんだと言う

一方信長は生前の半兵衛が自分に内緒で松寿丸を匿っていたと知ると呵呵大笑した
「さては半兵衛め、またしてもやられたわ」
と呟いたという

半兵衛はその以前にも秀吉に進言して、柴田勝家の軍勢から無断退却させ信長に反抗したことがあった
半兵衛が官兵衛の息子・松寿丸を匿ったことは
ある意味彼なりの信長への挑戦だったのかもしれない

 

341: 名無し 2008/04/18(金) 11:34:39
>>337
地味に正継の人の善さが伺える話でもあるな。

 

350: 名無し 2008/04/19(土) 19:52:28

>>337
黒田長政が関が原後、捕らえられた三成に丁重に接したというのは
幼いころ石田家に匿ってもらったということもあったのかな?

>>337じゃないけど正継の逸話を一つ。

石田家が統治する近江4郡は豊臣時代を通じてもっともよき民政地だった。
太閤に近侍し、日本全国をとびまわりめったに自分の統治地に帰ってこられない三成に代わり、
民政は主として父の正継(隠岐守入道)が担当した。正継は学問があり、
人柄も温和で土地では「藤右衛門どの」とよばれて親しまれた。

正継は農民に対し
「苦情があれば、じかに申し出よ」
と制限つきながら直訴主義をとった。江戸期にもこのようなことは無く、正継は非常によく仁慈をもって、農民の面倒をみていたといえる。

石田家の領地に上坂郷という地があった。
この地には、近江の浅井家に滅ぼされるまで上坂氏という有力な国人衆があった。
正継は上坂氏の零落ぶりを気の毒がり、そのうちの一人を豊臣家に推挙した。
さらには知行地も故郷の上坂郡の一部に設定してやったりもした。

ところが昔、上坂氏に搾取しつづけられていた上坂郡の農民はみなこれを喜ばず、
「いまさら上坂に殿様面して帰ってこられても困る」
と誰もがそっぽを向いた。

ところが、正継はあくまでも面倒見のいい領主であった。
大名でありながら、領民である上坂郡の農民に対し、下世話にも調停者になってわりこんだのである。

文書のなかで正継は
「昔を思えば旧主ではないか。道で出会えば、腰をかがめるだけでよいのだよ」
それだけの礼でよいのだ、上坂氏が昔のように重々しくのしかかって搾り上げるわけではないから礼をつくすだけでいい、ということである。
「でなければ草木も枯れるよ」
と最後に軽妙に付け加えた。

 

357: 名無し 2008/05/01(木) 18:39:42
>>337
その後、関ヶ原の戦で、松寿丸⇔長政は竹中半兵衛の息子、重門を石田方から徳川方に付くよう説得し、共に丸山で陣をとった。
そして両家の良い関係はその後も。。。

 

362: 名無し 2008/05/02(金) 14:53:27

家臣に城を追い出され、暗君のイメージで語られる山名豊国。

江戸時代になって旗本(交代寄合)となり、但馬に領地をもらって帰ってきた。
帰郷した豊国はかつて毛利と結んで謀叛を起こした重臣の武田高信
(結局毛利に使い捨てられて殺された)の息子をはじめ、
かつて自分をひどい目に合わせた旧家臣の子を快く召抱えたという。

 

364: 名無し 2008/05/04(日) 17:53:07
>>362
人がいいな

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