前田家三代目藩主、前田利常の話。
前田家には源義経の愛妾、静御前が使ったといわれのある薙刀を家宝としていた。
ある時、徳川幕府より使いがきた。
「我が徳川家も、静御前の薙刀を所蔵しておる。前田家の薙刀は、贋物ではないか?」
前田家の家臣達は困った。こちらが本物と言えば、幕府の機嫌を損ねる。だがこちらが贋物と言えば前田家の面目が潰れる。
だが前田利常は、幕府の使者に笑って答えた。
「静御前は勇敢な女だった。義経のために、何度も戦った。その静御前の薙刀が、一本のはずがあろうか。両家の薙刀は、いずれも本物である。」
その答えに、使者も家臣達も手を打って喜んだ。
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俺にとってこのレスの“いい話”といえる部分は、利常の言い訳によって
前田家臣だけでなく徳川幕府側の使者までもが気をよくし喜んだことだと思う
最初から前田家にいちゃもんをつけるつもりでなかった、
争いをけしかけるつもりでなかったということが好感を抱かせる
義経の静御前は白拍子のイメージが強すぎて薙刀なんてとてもとても
全くの出鱈目でもなければ、巴→静に変わっていった話でもない。
そう言うレスが有り難いです。勉強になります。
吾妻鏡にそんな記述はない
静が薙刀の名手っていう根拠はなに?
静御前=薙刀っていうイメージだったんだろう。
当時の歌舞伎や浄瑠璃、書籍を見ても
そういう所はけっこういい加減だよ。
(鎌倉武士が月代だったり、旗本みたいな恰好してたり)
逸話は後の時代に作られる事が多かったし
当時の感覚がベースになるから
その辺をくみ取ってあげようよ。
資料名出せ
長刀の名手ではなかったと証明するのも不可能だよな。
悪魔の証明ってやつ?
堀川夜討の時と西国行きの船が難破してから吉野で別れるまでの逃亡中の間ぐらいかな。
静御前が長刀に通じてたやら、実際に戦ったなんて話あるのかね。
史実に基づくなら、静御前が薙刀を持った事はないと思う。
ただ、薙刀術が流行した江戸時代において
静御前は男型として名前が使われる位
一般のイメージとして薙刀になじみがあった。
逸話を作った人間もその時代を生きた人間だったので
「家宝の静御前の薙刀です」とするのは至極当然。
そもそも各藩に伝わる逸話は、後になってから
作られたモノが多いので、史実、史実と言うのは野暮な話。
俺としては優れた逸話であれば、極論、レスする人間が創作したものでさえ可と思うわけだが
>>573
一応、最低でも明治以前の文献にあるものに、準拠したものでないと
取り止めがなくなってどうしようもなくなると思うぞ。
歴史小説からエピソード引っ張ってこられてはさすがにたまらん。
荒れるようなネタを投下された時だけは別だが。
どの辺まで許容するのかはスレ基準を設ければいいんじゃないか?
連投すまん、どうせ書き込んだんだから、1つくらい書いていこ。
奥州の独眼竜・伊達政宗には重臣後藤信康から献上された「五島」という愛馬がいた。
大坂夏の陣に出陣する折、政宗は五島に向かって言った。
「お前ももう歳だ。此度の出陣は長旅になるであろうから、留守を命じる」
政宗にしてみれば愛馬を気遣ったつもりであったが、
五島にしてみれば長年共に戦場を駆けてきた主人に留守を命じられたことは甚だ悲しいことであった。
もはや役に立たぬ身なればと、五島はその夜のうちに仙台城の崖から飛び降りて自殺してしまった。
政宗はその話を聞くとひどく心を痛め、五島の死んだ地に墓と神社を建立し、手厚く葬ったという。
※神社は現存する。
ま、一説には、死んだのは後藤信康自身とも言われているらしいが・・・・・・こういうオチだったら政宗らしいなw
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