高度かつ専門的過ぎて突っ込みようがないから見てるだけだけど。
軍編成なんかを期待しつつ。
別に専門的な事を書かずとも、ネタフリや感想でもよろしく。
ニュース
軍編成ですか。
「漢帝国と辺境社会」(籾山明著:中公新書)によると木簡から復元される編成は
校(軍尉)ー部(司馬)ー曲(候)ー官(五百将)ー隊(士吏)ー什(什長)ー伍(伍長)
とか都尉ー司馬ー千人ー五百-士吏ー騎士(辺郡の騎兵隊)などが復元されるようです。
学研歴史群像シリーズ33「項羽と劉邦」収録の「漢代の兵制」(重近啓樹著)では
幕府(将軍)ー部(校尉、司馬)ー曲(軍候、千人)ー屯(屯長)ー隊(隊率)ー什(什長)ー伍(伍長)
司馬の次に仮司馬、軍候の下に仮候が置かれることもあったようです。
各段階の兵力は本によっていろいろでよくわかりません。
秦代の屯は50人、2屯を百将が指揮、10屯+護衛兵50人を五百主が指揮、二五百主が護衛兵100名で五百主二名を指揮というのが「商子」にあるようです。
なお屯長の配下に什長、伍長有り。
軍制は、辺境なんかは居延漢簡なんかの研究がずいぶん蓄積されているので結構わかるようですね。
将軍の命令系統については続漢書百官表が詳しいでしょう。
軍制
王莽の制度では大司馬5人、大将軍25、偏将軍125、裨将軍1250、校尉12500、司馬37500、候112500、当百225000、士吏45万、士1350万と定められています。
州牧を大将軍、郡の率正・連帥・大尹(旧太守)を偏将軍、属令・属長(旧郡都尉)を裨将軍、県宰(旧県令)を校尉に任命したそうです。
もちろん人数は非現実的ですが、序列的にはこんなものかと。
推測ですが校尉=県令(2203県)とすると制度の1/5弱の人数で帳尻が合いそうです。
校尉の指揮下の司馬以下士までが1146人と言うのはまあ現実的な数字ですし。
ちなみに後漢の中央5営の校尉の配下は700から1200人程度です。
おそらく実際は偏将軍と裨将軍が太守(125郡)と都尉ですからせいぜい1対2でここで調整がきき、その下は制度上の人数の1/5と言ったところではないでしょうか?
それでも280万人以上ですが、パートタイムの兵まで含めれば有り無い数でもないかなと思います。
自分が知っている漢・三国の軍制について参考になりそうな本、真面目な研究書から三国志マニア向けまでいろいろ。
前出ですが大庭先生の「秦漢法制史の研究」、将軍、中郎将、校尉について詳しいです。
同じく前出の濱口先生の「秦漢隋唐史の研究」、この時代の軍制一般の情報多数です。
大庭先生の本で学生社の「親魏倭王」(将軍等について詳しい)&「木簡」(辺境の組織など)は一般向けなので比較的安価で手に入れやすいと思います。
十数年前に徳間文庫から出ていた長澤和俊先生の「敦煌」&「桜蘭王国」(晋代の辺境屯田の組織についての記述あり)、なお元はちくま、角川が発行。
学研「歴史群像グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典1中国古代編」、通典、商子、尉繚子等に基づいて古代の軍編成の説明があります。
新紀元社「三国志軍事ガイド」(篠田耕一著)、まあ題名のとおりの本です。
徳間書店「三国志全人名辞典」(「中国の思想」刊行委員会編著)、巻末の主要関連官職一覧に各種将軍についての解説があります。
これも前出の中公新書「漢帝国と辺境社会」(籾山明著)、辺境の軍制いろいろ。
平楽寺書店「六朝史研究政治社会編」(宮川尚志著)、第9章に南北朝期の中下級武官(軍主、隊主等)についての考察があります。
【古代の軍の編成いろいろ】
通典、後漢から三国時代又は三国時代よりややあと六朝期か?の2説があります。
5人で列(伍長)、10人で火(火頭)、50人で隊(隊頭)、100人で官(官長)、200人で曲(曲候)、400人で部(司馬)、800人で校(校尉)、1600人の長が裨将軍、3200人の長が将軍。
なお官以下の指揮官の名称は、参照した本に出典が明記されていなかったので不正確かもしれません。
商子は前記のとおり。
尉繚子、戦国末の兵制のようです。
歩兵五人で伍長、10人什長、50人で属長、100人で伯長(閭長)
六韜、5騎に長、10騎に吏、100騎に率、200騎に将 周礼、5人で伍(伍長、身分は下士)、25人で両(両司馬:中士)、100人で卒(卒長:上士)、500人で旅(旅帥:下大夫)、2500人で師(師帥:中大夫)、12500人で軍(軍将:卿) ちなみに、太平天国がこの編成を採用しています。
三国志軍事ガイドでは曹操が制定したと言われる「歩戦令」をもとに、軍(将軍)ー部(校尉、司馬)ー曲(部曲将、部曲督)ー隊(都伯)ー什(什長)ー伍(伍長)。軍の下に部以外に独立部隊の牙門(牙門将)、騎(騎督)が所属することもあります。と言った軍制復元されています。
また晋代はの牙門将の下に副牙門将・散牙門将、部曲将の下に副部曲将・散部曲将がいたようです。
>>121,122
その王莽の軍制は地皇元年、王莽政権がやばくなってきた頃に出された詔でのものですね。
なんでも前後左右中の五大司馬を置いたりしたとか。
1/5だとすると、丁度大司馬が1名だとするとピッタリな数字だった事になりますね。
研究書等の紹介、大いに感謝します。これはかなり参考になるかと。
保存しとく。とくに>>114、>>121-122、感謝する。
>>115
リロードしてなかったです。
難しいというか、私が説明などを省きすぎているというのもあるでしょうか?
少府
「山海池澤の税を掌り、以って共養に給す」。
漢では、農作物のいわゆる年貢や人頭税、資産税は大司農に入り国家財政に組み入れられ、一方で「山海池澤の税」は少府に入り皇帝の個人資産となります。
少府はその皇帝の個人資産の管理と、皇帝の私生活的部分を担当します。
属官も色々ありすぎ。尚書(秘書)、太医(御典医)、楽府(楽団)、胞人(料理人)などや、宦官関係など。
少府
大庭先生によると属官がやけに多いのが特徴、丞も6人存在。
武帝の時期に水衡都尉が分離したと考えられています。
ビザンツ帝国の国家財政長官と皇室財政長官が並立、日本の大蔵・内蔵などを思い浮かべて興味深いです。
家政機関の原初カオス的存在で、ここから太僕等様々な官職が分離していったの想定もなされています。
尚書郎
「中国政治制度の研究」(山本隆義著:同胞社)では漢初の段階でも王命の起草を司った推定されていますが、後漢の制度で類推されたようで積極的根拠はないようです。
また尚書は戦国期秦では丞相に、統一時代は少府に属したようで、本来の任務は上奏の王(皇帝)への取次と推定されています。
漢初の尚書郎は大唐六典や漢旧儀等によると、四人で匈奴單于営部、羌夷吏民、戸口墾田(民曹)、財帛委輸(謁者曹?)等を分掌したようです。
なお前漢では尚書令史から尚書郎への昇進ルートがあったが、光武帝の時に反対があって改められたようです。(「九品官人の研究」宮崎市定著:中公文庫版有り)
なお尚書令史は三公、大将軍等の掾属(比四百石~比二百石、長官が自由任用できる属官)とならんで郎を経ずして二百石以上の長吏と成りうる官でした。
農令等
中公新書「漢帝国と辺境社会」(籾山明著)によると、居延農=部農、左農、右農等が存在し、全体として張掖農都尉の配下にあったとされています。
これらは塩鉄論園池編に言う北辺の田官とされています。
部農の下には部農第四長等番号で呼ばれる属官が存在しています。
また左農。右農が更に前後左右に分かれていました。
部農第四長、左農右丞が居延漢簡に有り。
おそらく農令・農長は上記各農の長官、農司馬は農都尉の副官でしょう。
>>120
少府は皇帝の秘書からお遊び、符節から食事、武器から離宮まで、とにかく何でもあり状態ですからね。
そう言えば、漢書循吏伝の召信臣伝によると、少府属官の太官(湯官、導官と並ぶ皇帝の食い物係)では昼夜火をくべて暖め、温室野菜を作っていたらしいです。
しかも年間数千万銭を費やしていたとか。召信臣が廃止したんですけどね。
尚書と中尚書(中書)については色々な研究があったように記憶していますが、全てをチェックは出来ないので私なりに纏めて述べることになるでしょう。
あと、せっかくなので問題なければ領尚書事、録尚書事についても近いうちに触れます。
農都尉関係についてはより詳細なものをありがとう。
>>125補足。
廃止されたのは太官ではなく、太官での温室野菜栽培です。
後漢では湯官(名前から推測できるように酒など飲み物の係)は太官の中の一部局となり、導官(皇帝の食べる穀物を精米する)は大司農属官になったようですね。
なお、後漢では水衡都尉が廃止されて職は少府に編入され、一方で「山澤の税」自体が大司農(=国家財政)に移管されるなど、少府は大きな変更を経ています。
尚書と中書
尚書は皇帝の文書係にして秘書で、詔を実際に起草するのはこの官の仕事です。
文書係というのは、尚書が詔などの保管もしていたらしいのです。(漢書潅夫伝)
「こういうのを書いといて」と皇帝に言われてそのとおり詔を作ったり、皇帝が一々全部考えるのがめんどくさい場合に代わりに考えたりするというものと言えるでしょう。
この官が次第に機能を強化され、宰相化(漢よりあとの話ですが)していくのは、皇帝が本来直接にするべき仕事が増えて、その分尚書が皇帝から仕事を任せられる部分も増えていったということでしょう。
一方、中書は漢においては中尚書、即ち宦官の尚書です。
宦官しか入れない禁中で皇帝が政務を行う場合に、尚書に代わる文書係、秘書、そして尚書と皇帝の間の文書のやり取りや伝令をしたのでしょう。
司馬遷がそうであったように、宮刑を受けた元官吏などで特に優秀な者などが就任したことと思います。
禁中に篭って政務を行うことが多ければ中書もまた活躍の場が多くなるのは当然の流れで、武帝後半期と宣帝、元帝の時代はそういった時代でした。
尚書と中書
そんな中書にメスが入るのが元帝の後、成帝の時です。
彼は(というよりも大司馬大将軍王鳳というべき?)中書宦官として権力を振るった石顕を左遷、同時に中書を廃止(中書謁者令を中謁者令と改称し、「中尚書」としての機能を無くした)し、おそらくはそれまで中尚書が果たしていた機能(皇帝の側近、秘書)を尚書がそのまま引き継げるように尚書を強化したのでしょう。
それが漢書百官表に「成帝建始四年、更名中書謁者令為中謁者令、初置尚書、員五人、有四丞」という文の実態だというのが通説と記憶します。
(違っていたらどなたか訂正等お願いします)
では、「領(録)尚書事」と尚書、中書の関係はどういうものだったのでしょうか。
これは少なくとも私が学生だった頃は学会でもまだ微妙に論争していた気もしますが、ここでは見た限りの研究を元に私の愚考を述べておきます。
「領(録)尚書事」、少なくとも前漢の「領尚書事」は、武帝死後に幼帝昭帝が即位した事から始まります。
霍光が「領尚書事」となり、上官桀、金日テイがその副になったと言います(漢書昭帝紀)。
その仕事は、漢書霍光伝に「(霍)光時休沐出、(上官)桀輙入代光決事」とあるように何かを決裁、決定するものです。
何を決定するかというと、霍光伝による上官桀、燕王旦、桑弘羊らの霍光排除の陰謀の中で、上官桀らは霍光の休みを見計らって、燕王の名による霍光を弾劾して燕王入朝を願う上書を上りました。
ということは、霍光が出勤していたらこの上書は上手くいかないという事です。
また、これはその子霍禹らの時代ですが、
「又故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、領尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏」(漢書魏相伝)
「時霍山自若領尚書、上(=宣帝)吏民得奏封事、不関尚書、群臣進見独往来、於是霍氏甚悪之」(漢書霍光伝)とあります。
これを見るに、領尚書(事)は「封事」以外の上奏文の副を皇帝より先に見て、「不善」な上奏をいわば握りつぶす事ができたのです。
先の霍光排除の陰謀の時、霍光が居てはこの領尚書事の権限で燕王名の上書が握りつぶされる恐れがあったので、霍光の居ない時を狙ったのでしょう。
そして、「封事」だけはそれを受けず、皇帝がその上奏文を最初に見ることが出来たと思われます。
続きます。
ダラダラと書いていてスミマセン。万が一興味持った方や意見等がある方がいたらよろしく。
続き。
領尚書事は上奏文のチェックをした、更には握りつぶすことが出来ました。
これこそが領尚書事本来の機能でしょう。
領尚書事が置かれたのは決裁権者が幼帝しかいない(臨朝称制する皇太后もいない)状態でした。
領尚書事は、この明らかに上奏文のチェックをするべき者が不在という危機的状況に対応するためだったのではないでしょうか。
つまり、皇帝の代わりに上奏文の内容を吟味したり意見を述べたりイチャモンつけたりするのが仕事、ということです。おそらく。
言い換えれば皇帝の代理人または後見人、あるいは摂政でしょうか。
(なお、前漢の領尚書事はほとんどが皇帝の外戚ですし、後漢の録尚書事(の一人)は太傅でした)
で、こういった機能は幼帝でなければ本来必要ないのでしょうが、宣帝の時代にも領尚書事霍光に「関白」することとなった故事があったのと、皇帝の政務の増大により上奏文のチェックを一部なりとも任せることに皇帝としてもメリットがあったために、(真に秘密とすべき上奏は封事とすれば良いのだし)それ以降は領(録)尚書事が常置のものとなったのでしょう。
尚書と領尚書事の関係に続く。
尚書と領尚書事の関係
皇帝の秘書、側近である尚書と、上奏文の決裁を事実上皇帝に代わって行うに等しい領尚書事は、一旦切り離して考えるべきだと思います。
尚書の強化発展は皇帝の権力拡大と密接な関係にありますが、領尚書事の誕生とその常置化は、むしろ皇帝の大権の一つである上奏文決裁を臣下に一部分であれ与えてしまう行為ですから、皇帝にとっては諸刃の剣でしょう。
また、宣帝の時の中書の職務の一つとして、封事を領尚書事が見る前に取ってくる、というのがあります(漢書霍光伝。霍山の恨み言の中)。
これ自体はパシリみたいなものですが、中書宦官が皇帝に密着した秘書官的存在であったことが伺えます。
と同時に、領尚書事は何らかの制限がなければ皇帝の権限を侵す危険性を孕んでいたということでもあるでしょう。
(後漢において録尚書事が「参録尚書事」と太傅と太尉など複数で行われているのは分散して危険を避けているのではないでしょうか)
大変興味深いのですが、領尚書についてはあまり突っ込めないので、尚書の分曹についてなど。
後漢書の本文では常侍曹(主公卿事)、二千石曹(主郡国二千石事)、民曹(主凡吏上書事)、客曹(主外国夷狄事)の四尚書が成帝時に置かれたとされています。
しかし注釈によると三公曹(主断獄)で五曹あったとされています。
通典は四曹+僕射で尚書五人との説のようです。
このあたりの整合性をとろうとした研究もあるようですが良く覚えていません。
ところでなんで断獄担当が三公曹って名称なんでしょうね?
民曹も職掌と名称があっていない感じです。二千石曹は二千石が地方長官の別名だからいいんでしょうけど。
同じく後漢書(中華書局版)の注釈だと尚書郎は当初守尚書郎、その後年功で尚書郎、尚書侍郎と昇進したようです。
なお「中国政治制度の研究」(山本隆義著:同朋社)では、同じ漢書の注釈を引いての守尚書郎中とされていますが、そうなっている本もあるのでしょうか?
漢書にみる王莽の制度では、百石が庶士、三百石が下士、四百石が中士、五百石が命士、六百石が元士、千石が下大夫、比二千石が中大夫、二千石が上大夫、中二千石が卿とあり
ます。なぜか二百石がなし、廃止か単なる脱漏か?
参考図書など
同朋社出版「アジアの歴史と文化1中国史ー古代」Ⅴ漢帝国の発展(執筆者冨谷至)
一般向けの概説書で漢の官制について簡便に記されており、前漢の職官表があります。
参考文献として大庭先生の「秦漢法制史の研究」などが上げられています。
また参考文献としてあげられている本で、題名から見て興味深そうなものなど。
森鹿三「東洋学研究 居延漢簡編」同朋社出版1975
福井重雄「漢代官吏登用制度の研究」創文社1988
永田英正「居延漢簡の研究」同朋社出版1989
宇都宮清吉「中国古代中世史研究」創文社1977
好並隆司「秦漢帝国史研究」未来社1978
>>130
尚書各曹についてはどうもよく分かりませんね。
思うに、続漢書本文、劉昭が注に引く漢旧儀や蔡質漢儀などは、それぞれ想定する時代が微妙に違うのかもしれません。
もちろん単純に記録に混乱があるだけかもしれませんが。
尚書郎が「守」から真になるというのは前に出た前漢の三輔等の「守」と同じですね。
王莽の時、既に五百石は廃止されている(成帝陽朔2年)ので、そっちもおかしいといえばおかしい。
もしかすると、「百石(以下)」と、以下(以上?)を意味としては補うべきなのかも。
高校の時に授業でさわりを教えてもらった
「塩鉄論」を探しましたが見つかりませんでした。
でもあの時代に塩専売とか専売解禁論者と対決する官僚とか
描写しているのはすごいと思いました。
原文でしたら「中華文化網離線閲覽」などで見ることが出来るようです。
中華書局から出版されていますし。
和訳は東洋文庫(平凡社)から出ています。
現在入手が容易かどうか分かりませんが・・・。