項羽と劉邦 漢

【漢魏の制度4】太子太傅、太子少傅、中尉、将作少府、将行、水衡都尉、王莽の元号など

132: 名無し 04/05/12 00:42

尚書とか少府も興味深いですが次。

中尉
京師(長安/洛陽)の巡回警備。属官が「候、司馬、千人」と、完全に軍事組織の体。
武帝太初元年より執金吾。
後漢ではかなりの部分を省いています。
かの光武帝劉秀もハァハァするほどの見目良い官だったようですね。
光禄勲は宮殿内、衛尉は宮殿の門、中尉は宮殿の外側を守るという訳です。

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133: 名無し 04/05/12 08:26

太常から執金吾までは中二千石。
次からは二千石の官です。

太子太傅、太子少傅
その名のとおり、皇太子の傅役というやつです。
属官は門大夫、庶子、先馬(洗馬)、舎人その他。
皇帝の諸官庁を模したような構成になっています。
なお、続漢書百官志では太子太傅は中二千石で少傅は二千石で、属官は太子少傅に属し、太子太傅はスタンドアローン状態です。

 

134: 名無し 04/05/12 20:02

 前述の「中国政治制度の研究」の注釈を見ていたら、「漢官儀巻上」に武帝が尚書4名を置き、成帝が三公曹(主断獄事)を加えたと有るようです。
なお武帝が置いたのは、常侍曹(主丞相御史事)、二千石曹(主刺史二千石事)、戸曹主庶人上書事)、主客曹(主外国四夷事)の四尚書とされています。
名称と職掌にやや異同が有りますね。

「中国古代帝国の形成と構造」(西嶋定生著:東京大学出版会)を読んでいましたら「漢書」恵帝即位の條に中郎・郎中・外郎に爵を与えた旨の記述があるようです。
西嶋先生は、外郎は他に見えないが、蘇林の注によると散郎のことであるとされ、郎中より官秩が低かったと推定されています。
また中郎・郎中・外郎は、「史記」秦始皇帝本紀二世皇帝の條にある三郎に相当するものとも推定されています。
なおちくま版の漢書の注では、三郎(中郎・郎中・外郎)の一つ散郎と同じ、職事官に対し閑散な官位、とされています。
それと同じ恵帝即位の條によると尚食・宦官は郎中に、謁者・執楯・執戟・武士等は外郎に準じて爵位を与えられており、そこから何となく当時の序列がわかるのでは?
まあ外郎=?散郎はどうも郎中より格下なのは間違いないようですが、正体はよく分からないと言うところですね。
蛇足、この本にも秦の武功による五十石の吏への任官の話が載ってました。

職掌はよく分からないのですが、王莽のころか後漢に尚書大夫と言う官があったようです。
残念ながらメモは残しているのですが、どこで見たものか思い出せないのですが。
なにかいろいろ話を蒸し返してすいません。

 

135: 名無し 04/05/12 20:03

中尉
濱口先生の「秦漢隋唐史の研究」によると、本来は北軍つまり長安防衛軍司令官である
共に、他郡の郡尉に相当する内史の在郷兵を率いる官であったようです。
つまり官名の意味は中央の尉ですね。
また武帝親切の中塁校尉は、北軍の監察官との推定です。
ちなみに南軍司令官の衛尉は、地方直轄郡(王国を含まない)から選抜された衛士を率いていました。
なお南北の称は駐屯地の位置によったようです。
また後漢になると制度の変更等で五校尉の兵を北軍と呼ぶようになります。

武帝の時中尉を執金吾と改名、以前北軍の司令官であったものの、新設の三輔都尉が直接郡兵を指揮することになります。
後漢では郡兵の廃止にともない洛陽警備長官に変化しており、部下は糸是騎200騎、持戟520人。(漢官儀による)

光武帝、夢は大きく、でも実行は堅実にと言った人物像でしょうか?
ただし陰麗華との10歳の年齢差を考えると、ややロリコンの気あり?
古代ローマなら正常(親子くらいの差はざら)だったんですけどね。
平和な時代なら本当に執金吾になって陰麗華と結婚、そつなく任務をこなしすぎて列伝さえ残らなかったりして。
後任者あたりの列伝に比較としてちらっと名前が出てくるくらいかも。

ところで光武帝は平帝の跡を継いだとの認識だったのでしょうか?
また更始帝は王として祭られたのでしょうか?淮陽王がそれでしょうか?

 

137: 名無し 04/05/13 00:35

>>135
そういえば南北軍の事がありました。
ところで中尉が北軍の司令官だという濱ちゃん説って、どのあたりが根拠でしたでしょうか。
申し訳ないことに忘れてしまいました。できれば誰か教えてください。

光武帝は、平和な時代なら列伝に載るかどうかアヤシイでしょうね。
また、光武帝は世代の関係から元帝を父世代としてそれを継ぐものとして処理され、成帝以降は傍流扱いされたようです。
後漢書張純伝に光武帝の時のその議論が載せられ、元帝以上は「洛陽の」高祖廟、成帝以下は「長安の」高祖廟において祀るよう決められています。
後漢は光武帝以下の脳内では、高祖~元帝→光武帝 と継承されたことになったのです。

更始帝の祭祀は良く分かりませんが、子孫が列侯になっているので、
更始帝も列伝では特記されていないので同じ列侯格での祭祀だったんでしょうか。

 

136: 名無し 04/05/12 23:20

中尉の配下で謎の官寺互令
本田済氏の前漢職官表では獄官
冨谷至氏の職官表では各官庁担当、意味不明です?
ちくま版漢書の注では治水官、これはあるいは次の都船令の説明との誤植かも?
見事にばらばらで訳わかりません。
都船令も各々治水官、水上警備、治水官、正体不明です。

王国の中尉
前漢の王国には都尉がいたようです(木簡だったか印章だったかが出土していたかと)。
まあ当初の王国は複数の郡からなっており、郡守=太守がいるのですから当然ですね。
おそらく都尉は支郡の司令官で中尉は内史郡の司令官(中央軍司令官)兼王国軍曹司令官でしょう。
その後の分割で王国が一郡になると、当然都尉は消滅し中尉が単独の司令官になったのでしょう。

 

138: 名無し 04/05/13 00:47

>>136
寺互、都船、ともによく分かりませんね。
漢書注も、「如淳曰漢儀注有寺互都船獄令治水官也」とあるだけです。
どこまでが漢儀注なんでしょうか。
「漢儀注有寺互」と「都船獄令治水官也」で分ければ、都船(獄?)令は「治水官」ですが・・・。
(寺互については説明していない事に・・・)

王国内の郡都尉ですか。そういえば出土資料からは景帝以前から郡尉を「都尉」と読んでいた例があったとか。

 

139: 名無し 04/05/13 08:29

将作少府
「宮室を治めるを掌る」(漢書百官表)。宮殿などの建築、管理といったところでしょうか。
景帝中6年より将作大匠。「少府」では紛らわしかったのか?

詹事
皇后、皇太子の家を掌る。
皇太子の家ということでは、
率更令(続漢書によれば光禄勲のような職)
家令(同上大司農、少府)
僕長(同上太僕)
中盾長(中尉に似るか?)
衛率長(衛尉に似るか?)
廚厩長(続漢書「車馬を主どる」なので太僕?)
となっています。後漢では太子少傅の下に門大夫などと一緒に属していますが、前漢では別でした。

 

143: 名無し 04/05/14 00:45
詹事続き。
>>139に書いたのは皇太子の家。皇后のは別に官があります。
中長秋以下、おそらくほとんどが宦官でしょう。
その後、成帝鴻嘉3年に廃止されました。
おそらく皇后部門は後述の大長秋に併合され、皇太子部門は太子少傅に合わさったのでしょう。
また皇太后宮の管理として長信(長楽)詹事というのもありましたが、景帝中6年に詹事→少府に改称。
「長楽少府」などというようになりました。
なお、(太)皇太后宮には衛尉もありました。

 

140: 名無し 04/05/13 23:08

>元帝の跡を継いだ
元帝の男系子孫は平帝をもって絶えていたわけですからいろいろ都合が良かった?
宣帝の子孫の方はまだ居たようですが。
王莽政権は簒奪者として否定するとして、王莽の元号は認めていたのでしょうか?
それとも平帝の元始の年号が光武帝即位まで続いていたことにしたのでしょうか?

淮陽王
全然根拠ではないのですが、角川の「新字源」の付録の中国文化史年表の新の欄に淮陽王の項目があり、更始元年と一致していて、その次が後漢、光武帝、建武となっています。
それでもしかして更始帝は淮陽王に追封され諸侯王の格式を持って葬られたのかなと思っただけです。
どうもこのあたりに粘着してすいません。

中尉が北軍司令官
濱口先生の「秦漢随唐史の研究」第1部第5「前漢の南北軍に就いて」によると、武帝が期門、羽林、七校尉等の特殊部隊を創設するまでは、中央で軍と言えるものは衛尉配下の衛士部隊と中尉配下の部隊だけであった。
そして衛尉配下の部隊が南軍と称されたことが諸説一致で確実な以上、残る北軍は中尉の部隊しかあり得ないと言うことのようです。
南北の称は衛尉の庁舎が長安西南の未央宮に有り、中尉の軍は北部に駐留していた為だとの推定です。
その根拠としては、衛尉については、前漢百官公卿表「衛尉」の條の顔注に「漢旧儀云、衛尉寺、在宮内」
中尉については史記呂后本紀八年「周勃等が呂氏一族を誅する」の條、漢書第六十七胡建伝「胡建が監軍御史を誅する」の條等をあげられています。
なお期門、羽林、七校尉等の特殊部隊については続く同章及び第六「両漢の中央諸軍について」で考察されています。

 

142: 名無し 04/05/14 00:29

>>140
元帝の後を継いだことにしたのは、光武帝が成帝と同世代に当たる、というのが一番の理由でしょう。
宗廟は原則世代ごとに並べているので、成帝以降と光武帝以降の関係が極めて怪しくなります。
あと別段王莽の元号などを否定するような動きは無かったように思いますが、知っている人居たら教えてください。
少なくとも元始がずっと続いていたことにしたりはしなかったと思いますが・・・。

資治通鑑では表題で更始帝を「淮陽王」として表記しているので、新字源はそれの引き写しなんじゃないかと邪推します。
更始帝がどんな礼で葬られたか、どうもハッキリ分からないですが、淮陽王としてなんですかね。
資治通鑑では(光武帝が与えた)最終的な爵位である淮陽王と称しただけではないでしょうか。
「更始帝」は諡や廟号ではないですし、何より彼は帝位を退いているので。

南北軍についてありがとう。
実際には史記、漢書ではイマイチ衛尉や中尉が南北軍の司令であったというのがピンとこないような気がしたもので。

 

141: 名無し 04/05/13 23:10

史記に見る漢楚抗争期&漢初の官爵
張蒼が任ぜられた計相→主計、財政担当大臣らしいのですがその後との繋がりが不明。
韓信が任ぜられた治粟都尉、主計将校のようなものらしいですが、桑弘羊が任ぜられたものとの関係はどうでしょう?
どこで見たか忘れましたが虎賁令、虎賁県の令と訳されていますが虎賁部隊が存在した可能性はないでしょうか?
王莽も元始五年宰衡の時に虎賁三百人を与えられていますね。
職志、旗奉行らしいです。
郎中騎将、同じ官であるように思われる騎郎将との関係は?改名でしょうか?
特将、別将又は副官のたぐい?
中謁者、取次役のうちでも親近の官でしょうか?
符璽御史、御史大夫の配下、諸侯や将軍の任命時の割り符を扱うらしいです。後の尚符璽郎中と関係があるのか?
隊率、隊帥とも、一隊の長とされています。
連尹、戦国楚の高官、弓矢を司るとも。
車司馬、戦車隊長?
騎将、騎長、騎千人将、右騎将など、まあ騎兵隊長のたぐいかと?

列伝に見る爵位の昇進?の実例
国大夫=官大夫(第六級)→列大夫=公大夫(第七級)→上間又は上間爵=公乗(第八級)か?→五大夫(第九級)→卿→封(賢成君)封ずる意味か?封という爵か?→重封(増封の意味か?、重封と言う爵だとの解釈もあり)→列侯(臨武侯)
武功をあげた列侯本人の官が郎中というのは少々不可解?

七大夫=公大夫(第七級)?→五大夫(第九級)→執帛(楚の爵?)→執珪(楚の爵?)→爵・封(滕公)→列侯(昭平侯)
これを見ると封は後の関内侯に相当するのかもしれません。

取り止めがないですね。申し訳ない。

 

142: 名無し 04/05/14 00:29
>>141
漢初や楚の官は正直まるでわかりません。
「虎賁令」は調べたら史記絳侯周勃世家でした。なお漢書周勃伝では「襄賁令」です。
また漢書成帝紀注によると臣サンは漢初「中謁者令」で、武帝の時代に「中書謁者令」になり、成帝の時にまた「中謁者令」に戻った、と説明しています。
本当かどうかはともかく。

 

144: 名無し 04/05/14 08:22
将行
漢書百官表本文にはどんな官かの説明が無い謎の官(?)。
注、応劭によれば「皇后卿」。皇太子の官属が太子太傅と詹事に分かれていたように、
皇后の官属も将行と詹事に分かれていたのでしょうか?
就任者は前漢では宦官、士人両方あったとのことですが、後漢では宦官のみ。
景帝中6年に大長秋に改称。
大長秋と詹事に分かれているのは後に不合理と感じられたか、成帝鴻嘉3年に詹事を廃止して皇后部門は大長秋が全て管轄するようになりました。

 

145: 名無し 04/05/14 20:46

将行
確かに謎?諸先生方もほとんど触れられていません。
後漢書によると秦の官だそうですが。
大長秋の前身と言っても、御史大夫→司空程度のつながりしかないかも?

秦の官について
「岩波講座世界歴史3中華の形成と東方社会」において、
秦簡資料をいち早く活用した秦史研究の大成として、林剣鳴の「秦史稿」「秦国発展史」
秦資料集成として馬非百「秦集史」中華書局が紹介されていました。
こう言う本を読むと正史で正体不明な官の職掌などがわかるのかもしれません。

太子先馬、洗馬と改名
後漢書本注には職は謁者のごとき、と言う一方で太子の前導威儀。
漢官によると郎中から選抜したようです。
改名の意味が不明、後世にはなぜか文学担当、どこでどうなったものやら。

太子中庶子・庶子・舎人各々六百・四百・二百石(後漢書)
後漢書本注によると各々侍中・中郎・郎中の如し。

ところで諸侯の家臣として門大夫、庶子、行人、洗馬、家丞があり、太子のものと良く似ています。
まあ同じ家政職員だからでしょうか。

将軍について一つの疑問
後漢書本注に見える将軍の属の従事中郎、職参謀議とされていますが、本来はお目付け役として派遣されたのでしょうか。
三国時代の参軍や宋の通判のように。
どうして郎なんだろうなと考えいて思いついただけですけどね。

 

147: 名無し 04/05/15 00:39

>>145
将行についてはどうなんでしょうね。そもそも由来が不明な感じ。
改称前の方が由来不明ってのはなかなか無いですよ。

秦官については、やはり文献資料が限られているので出土資料が鍵でしょうね。
なのでその辺詳しい人が来るのを祈ります。

先馬と洗馬ですが、この時代はサンズイの有無くらいははっきりいって変更の内に入らないかもしれません。
改名についてはそれほど問題になるようなことでもないかな、と思います。
また皇太子の官と列侯の官が同じということですが、これは確かにそうですね。同じ構成です。
列侯も皇太子も天子のコントロールの下で食い扶持貰っているという点で同じだって言う事でしょうか?

将軍の下の「郎」従事中郎ですが、なるほど、と思いました。
お目付け役まで期待したかどうかはともかく、あえて将軍に人事を一任するのではなくて中央からの派遣にした、というのはそれなりに意味があるのかも。

 

146: 名無し 04/05/14 21:03
元帝の件、王莽の元号、淮陽王等回答ありがとうございます。
明の永楽帝は甥の元号を抹消しちゃいましたが、
このころはまだそこまで元号にこだわりがなかったのか?
光武帝が現実肯定主義だったのか?はてさて。

 

147: 名無し 04/05/15 00:39
>>146
現実肯定というか、当時はまだそういった考え方が無かったのかも。
(武帝は後から元号を決めてますが、改元自体はしていたと思われますし。)
むしろこだわりが無いのではなく、元号を重くみていたからこそ軽々しく扱わなかったのかもしれませんしね。

 

148: 名無し 04/05/15 00:44
元号ですが、後漢末には確かに元の元号に戻そうなんて話は出てますが、過ぎ去った元号を復活させようとまでしたかどうか。
元が改まるという事を不可逆的なものと感じなくなってくるというのは、天譴や祖宗の霊などを(本心では)恐れなくなってくるのと同じような気がしないでもないです。
この辺はあくまでも感想ですけど。

 

149: 名無し 04/05/15 17:50

将行
大修館書店の大漢和辞典によると
①行列を取り締まる役目(韓非子 内儲説上)
②の方では漢書をひいて「皇后侍従長、後大長秋と改名」とか書いてありました。(文面は不正確)

字面からは①の方が理解しやすいのですが、直接関係が有るのかないか?
あったとしたらどう職務が変化したのでしょうか?

年号
武帝が始めて元号を定めてからさほど時代がたっていないので、
まだ伝統が浅く余り深い意味がなかったのかなと単純に思ったのですが、
確かにおっしゃるとおり重大視したからこそ変えなかったと言う方が説得力ありますね。

 

150: 名無し 04/05/16 00:08

>>149
将行ですが、その意味の1、「行列を取り締まる役目」ってのが元でしょうかね。
でも韓非子の方とか全く見てないし、はっきり言って何ともワカランです。

元号についてですが、漢では改元が先にあって区別するための元号という感じもしますね。
元号が立てられてからも、改元だけして新たな元号を立てていないというケースがありましたから。
(武帝の後元年。もしかすると光武帝の中元も同じかも)
とはいえ、少なくとも改元はそれなりに重い意味をもっていたと思うのです。暦を支配しているという事ですし。

典属国
大鴻臚でも触れましたが、「属国」を管轄。「蛮夷降者を掌る」(漢書百官志)。
蛮夷には「降者」と「帰義」があり、管轄が違っていた、という事になるでしょうか。
成帝河平元年に大鴻臚に併合。

 

151: 名無し 04/05/16 20:22

漢書によると典属国の管理下にあったらしい属国都尉、典属国廃止後は大鴻臚の管理下に移ったのでしょか?
大庭先生の復元された元康5年2月11日付の詔書は、太守から属国都尉あてに伝達されています。
すると少なくとも連絡網の上では太守の下にあったことになり、あるいは太守の監督下にあったのかもしれません。

改名マニア?王莽の官制改革
大司農→義和→納言、大鴻臚→典楽、大理→作士、少府→共工、太常→秩宗、水衡都尉→予虞
これに新設の大司馬司允、大司徒司直、大司空司若の三公の三司卿(位は孤卿)を加えて九卿。
光禄勲→司中、太僕→太御、衛尉→太衛、執金吾→奮武、中尉(執金吾とだぶり、中塁校尉との説あり)→軍正、これに新設の太贅官(乗輿・服御を担当、後武器も担当)を加えて六監(位は上卿)。
前漢の九卿クラスのうち上記枠組みから外れたのが宗正、大長秋、将作大匠、詹事。
宗正は秩宗に合併としても、大長秋、将作大匠、詹事はどこに消えたんでしょうね?

流から外れますが古代の軍制について
講談社「中国の歴史1原始から春秋戦国」によると、「管子」(管仲著とされるが、実際は戦国から漢初のものらしい)に斉の三国五鄙の制というものがあるそうです。
まず斉の国内を国都と郊外にわける。
国都は士の郷15と商工業者の郷6、このうち士の郷を三分して5郷からなる国にわける。各国は国君と二人の卿が統率。
なお、商工業者の郷は三分したか国君が掌握したのか不明?
郊外は東西南北と国都周辺の五つの鄙にわけ、行政上は属と呼ばれ、全て国君が掌握。

国(長官は元帥、5郷)=軍(軍の単位、10000人)、郷(郷良人、10連)=旅(2000人)、連(連長、4里)=卒(200人)、里(里有司、10軌)=小戎(50人)、軌(軌長)=伍(5人)

属(長官は大夫、10県=9万家)、県(県帥、3郷=9千家)、郷(郷帥、10卒=3千家)、卒(卒帥、10邑=300家)、邑(司官、30家)
すると国都は士30000戸(10000戸×3国)、商工業者12000戸(2000戸×6郷)計42000戸
郊外は農民45万戸(9万戸×5属)総計492000戸、1戸5人とすると人口246万人となります。

 

152: 名無し 04/05/16 21:57

>>151
連絡手段を考えると、文書事務上は太守府から属国へ渡すしかないでしょうね。
わざわざ典属国から直接属国へ送付するのは不合理の極みですし。

王莽の改革ですが、この改革は実のところ前漢末期、成帝、哀帝の時代から続く一連の改革の流れの上にあると思います。
はっきりいってやり過ぎには違いないと思うのですが、王莽だけの思いつきなどではないのです。
で、細かい事を言うと大司馬司允、大司徒司直、大司空司若は新設とは言い難いでしょう。
大司徒(丞相)司直は武帝以来の官ですし、哀帝の改革によって三公にそれぞれ「司○」が付けられる体制になっています。
王莽の三司はその継承です。
確かに「中尉」は不思議ですね。中(塁校)尉ってのはナルホドという感じです。
詹事はもう廃止されてますが、大長秋、将作大匠は思うに太贅官か共工あたりに合併されたというあたりじゃないかと思います。

その斉の三国五鄙の制というのも興味深いですね。
郡県制の原型みたいな部分がありそう。

 

153: 名無し 04/05/16 22:33

水衡都尉
武帝元鼎2年新設。上林苑を管轄・・・なんですが、それだけでは済まなそうです。
漢書食貨志によれば、水衡に塩鉄を司らせようとした、楊可の告ビンなどで上林苑の財物が多くなり、水衡に上林苑を管轄させようとした、との説明があるのです。
また、同じ頃に鋳銭を「上林三官」で独占することとしています。
どうもこの時代を読み解く鍵の一つは「上林」なのかもしれません。

鋳銭については、水衡新設の元鼎2年では、まだ五銖銭の独占鋳造前のはずですが、塩鉄専売は始まっていたはずで、水衡はまずその管理運営と絡んでいたのかもしれません。
また、上林苑は単なる庭ではなく、水戦の演習地になったともいう昆明池なども作られ(元狩3年)、ある意味では国家的なプロジェクトとして整備された側面もあったのかもしれません。

まとまらなくなってしまいましたが、とにかく水衡はこの時代に始まった鋳銭独占、塩鉄専売と密接な関係にあったようなのです。

 

154: 名無し 04/05/16 22:51

鋳銭に関係する「上林三官」とは、おそらくは(史記平準書注集解より)水衡都尉の属官にある、「均輸」「鍾官」「辯銅」でしょう。
但し漢書百官表によると「鋳銭」(この名称の属官は無いので上記の三官のことか)は最初少府に属していたそうです。
ということは、上林三官は当初少府に置かれ、それから水衡都尉の所管に移されたということでしょうか。

なお、上林苑は長安の南西方面に広がり、先に挙げたように昆明池などがあります。
色々な物産を供給し、皇帝のために消費されるのです。

この皇帝の私的な財産を管轄する官(少府、水衡)に鋳銭と塩鉄が置かれたらしいというところが、鋳銭と塩鉄の持つ意味合いを示しているような気がしますね。
ただし塩鉄は後に大司農=国家財政に編入されますが。

 

155: 名無し 04/05/17 08:18

水衡都尉は王莽の時にも予虞と名を変え、九卿の一つに数えられています。
しかし後漢になると姿を消しました。
これは、本来の職掌である上林苑がもはや皇帝の庭や離宮として機能しなくなったというのが大きいでしょうが、後漢において財政が大司農に一本化されたらしいこととも無縁ではないと思います。
なお、山田勝芳氏「貨幣の中国古代史」によると、後漢の鋳銭は郡で行われたといいます。鋳銭という水衡の機能は地方に委譲されたのです。

また、続漢書百官志では武帝が置いた水衡都尉は秩比二千石とされています。
あるいは、漢書に見える二千石というのはどこかの段階で秩が上がったあとの話なのかもしれませんね。

 

156: 名無し 04/05/17 20:34

水衡都尉の本質については知識不足でとても語れませんので枝葉末節。
上林令の下には8丞12尉有りと補佐官が非常に多いです、業務繁忙?
なおこの場合の尉は大場先生によると単なる三等官の意味らしいです。
史記&漢書の張釈之列伝によると上林苑には虎園(動物園?)があり上林尉の下役に虎園嗇夫がいたようです。
(前出の大場先生の著作より)

水衡都尉配下のシュウ濯令、船官らしいのですが官船の管理あるいは製造を担当したのでしょうか?
同じく六厩令、そう言う官名なのか六つの厩令なのか?
ちくま版漢書百官史は後説のようですが、具体名として上げられているのが未央、騎馬、承華、大厩等、太僕配下の諸厩と一致、または良く似た名前が多いです。(根拠は不明)
あるいはそこから騎馬の提供を受けている出先的存在なのか?このあたり謎ですね。

ところで水衡都尉ってどうして都尉なんでしょう?
どうも漢代の官名はなぜ武官名なのか良くわかないものが多いです。
単に武力を背景とした威圧による強制を意図しているだけなのでしょうか?

 

157: 名無し 04/05/18 00:41

>>156
上林苑は皇帝の庭園ですので、それの管理人は一種の武官(だから都尉)なのでしょう。
丞、尉の多さは、単純に広さ故ではないでしょうか。

またその配下の輯濯令などの水、船に関係ありそうな官は、おそらくですが一つは鋳銭に関係する輸送(水運)、あとは昆明池などがあるのでそこに関与する(武帝の時に水戦の教練をしたように)のではないでしょうか。

「六厩令」はそういう官名でしょう。
「属官有上林・(この間6官)・六厩、辯銅九官令丞」と全部で9官属列挙する一つが「六厩」ですから。
「六つの厩令」だったら14官になってしまいます。
「六厩」は太僕の管轄でもあるのですが、これは太僕が管理する軍馬や公用の馬と、水衡の六厩令が管理する皇帝が私用する馬と、両方を同じ六つの厩舎で育てていたということでしょうか。

 

158: 名無し 04/05/18 08:22

六厩ですが、考え直してみるとやっぱり六つの厩舎ごとに別に令がいるかもしれないなあ、と思いました。
太僕では別に令長がいたようですし。

内史
京師、すなわち長安を治める官です。やることは基本的には郡太守と同じです。
太守と言わないのは、内史の管轄が郡県を置く前の秦の領域、直轄地であったということではないでしょうか。
郡は被征服地であり、内史は征服した側の本拠地であるとも言えるかもしれません。

内史は漢書百官表によれば景帝2年に左右に分かれたといいますが、漢書地理志では武帝建元6年に左右に分かれたとしています。
百官表(下)の表では、景帝の時の左右内史は景帝元年の「左内史チョウ錯」のみであとは武帝建元4年の右内史鄭当時まで「内史」です。
これを見ると、左右へ分かれたのは武帝の時と考えた方が良さそうに思えます。

 

159: 名無し 04/05/18 20:23

内史
さてどうして首都近郊の長官が内史と称されたのでしょう?
漢では王国の首都近郊の長官も、帝都近郊の長官と同じ内史です。
他に内史と言えば治粟内史。
内史とは字面から言うと秘書的な意味でしょうか?
直轄地の管理を秘書に任せた?
治粟内史の方はそこから財政担当官が分離したのか?
なぜか石田三成を思い出したりして。
また王国の方の内史は国の民を治めることを司ることが職掌とありますね。

なお漢書では内史は周の官で秦がそれを受け、治粟内史は秦の官とあります。
周の官を受けたと言うことですが、周礼では記録官とされていますが、どこまで信用していいものやら。
そもそも実際にあったのやら、なにをやっていたものやらよくわからないのが実際のところでしょう。

話は変わって王莽は三輔を六尉郡に分け各々大夫を置いています。
京尉、師尉、よく(立+羽)尉、光尉、扶尉、列尉の6郡です。

 

161: 名無し 04/05/18 22:40
>>159
あくまで、これは私の妄想気味の推測ですが・・・。
内史について、「首都近郊の長官」と考えると由来がわかりにくいのではないかと思うのです。
ではどう考えるかというと、「拡大前の秦全体の行政官の一人」というところではないでしょうか。
内史の「史」はおそらく「御史」の「史」と淵源は同じじゃないかと思います。
領土拡大前の秦の国主にとって、後の三輔とは領土全体。
で、その領土は国主が治めますが、国主は民政部分を国主の側近(「史」)の一人に任せたのではないでしょうか。
これが「内史」。そして、農政をさらに分離したのが「治粟内史」。
(側近・秘書でありつづけたのが「御史」)
こういう成り立ちと考えられないでしょうか。
余計に分かりにくくしてしまったかもしれませんが・・・。

 

160: 名無し 04/05/18 20:32
なにかごちゃごちゃと書きましたが、改めて読み返すとなんだかなにが言いたいのか不明確。
おかしなものを書いて申し訳ないです。
つまり言いたいことは、内史がどうして京師長官なんだろうという疑問だけですね。

 

162: 名無し 04/05/19 00:29
主爵中尉
三輔より先にこちらを紹介。「列侯を掌る」(漢書百官表)とあり、どうやら後に大鴻臚管轄となる列侯は最初は主爵中尉所管だったようです。
また景帝中6年に主爵都尉に改称。
そこで終わりなら「尉」が付くことくらいしか謎は無いんですが、問題は、武帝太初元年に右扶風として三輔の一つとなる点です。
何故、列侯を掌る官が内史の一つになるのでしょうか?
(列侯についてはおそらくこの改組と同時に大鴻臚に移管されたのでしょう)

 

163: 名無し 04/05/19 00:52

三輔
太初元年の改組で、左右内史だったものが三分され、京兆尹、左馮翊、右扶風の三輔となりました。
漢書百官表によれば一応こういう変遷だそうです。
右内史 →京兆尹
左内史 →左馮翊
主爵都尉→右扶風

一方、漢書地理志によると、
京兆尹は
塞国(項羽が封じた)→渭南郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→右内史(建元6年)→京兆尹(太初元年)
左馮翊は
塞国(項羽が封じた)→河上郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→左内史(建元6年)→左馮翊(太初元年)
右扶風は
雍国(項羽が封じた)→中地郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→右内史(建元6年)→右扶風(太初元年)
という変遷をそれぞれたどっています。
ここには主爵都尉は全く言及されず、主爵都尉は太初元年より前は内史の長官ではなかったことが分かります。
主爵は、太初になって急に治民官に組み入れられたのでしょうか。
そうだとすると、ほとんど別の官に変わってしまったのではないかとも思うのですが、なんで主爵→右扶風という関係が記載されるのでしょうか?
わかりません。
また、漢初は内史が郡だったというのも少々興味深いですね。

 

164: 名無し 04/05/19 08:27

三輔
もう一つ分からないのが、内史における都尉です。
漢書百官表、主爵中尉の条には元鼎4年に三輔都尉を置いたとあるのですが、これは地理志によると左輔都尉(左馮翊)、右輔都尉(右扶風)で、京兆尹は漢書宣帝紀、「京輔都尉(趙)広漢」の注によれば京輔都尉がそれにあたるようです。
しかし、元鼎4年にはまだ三輔は成立していなかったのでこの時に「三輔都尉」というのも不思議ですし、もう一つ、百官表によると中尉の属官に「左右京輔都尉」があるのですが、これと京輔都尉の関係が不明です。
そして、三輔都尉が置かれる以前、内史に郡における都尉相当の官はあったのでしょうか?

これらについて一応推測してみます。
諸侯王国においては中尉が都尉相当ですので、漢の内史においても中尉、もっと言えば左右京輔都尉が内史全体にとっての都尉に相当したのでしょう。
これが元鼎4年まで。
で、元鼎4年に中尉所管の左右京輔都尉を、左右内史所管の左輔・右輔都尉に再編。
ここで一旦中尉属官の左右京輔都尉は廃止されたかもしれません。
そして太初元年、内史が三分されたと同時に左輔・右輔・京輔都尉と対応する都尉が置かれ、名称上は「京輔都尉」が復活した。
こういった変遷と考えたのですがどうでしょう。
漢書、続漢書の中尉・執金吾の条の左右京輔都尉の説明とは少々食い違うのですが・・・。

 

165: 名無し 04/05/19 19:59

主爵中尉→主爵都尉→右扶風
大庭先生は「公家と武家」思文閣出版所載の「漢代の貴族」において、高祖の功臣であった列侯の多くが絶えて列侯に関する職務が減少したことが、職掌変更の原因と推定されています。
ところで中尉から都尉への名称変更も意味深です。
本来爵は武功により与えられるものだったようですから、爵位関係事務が中央軍司令官である中尉の職務の一部だったとしても不思議ではないです。
(軍最高長官の太尉でも良いのでしょうが、業務繁忙の故か、権力の集中を嫌ったのか?)
そして業務過多につき中尉から別れたのであれば、主爵中尉とは納得のいく官名ですね。
それが都尉に変わったことの意味はなんなのでしょう?
このころの都尉には郡都尉、農都尉、関都尉、属国都尉、騎都尉、奉車都尉、フ(馬+付)馬都尉、水衡都尉、捜粟都尉、治粟都尉(捜粟都尉の誤りとも)等があります。
結構任務もばらばらで単に比二千石程度の武官の称として使っているようにも思われます。
そうであれば、逆に中尉の称を嫌って(特別な意味を持つことを嫌った)の為の改名かもしれませんね。
それにしても主爵都尉から右扶風、本当に両者に関係があったことを疑いたくなるほどダイナミックな職務変更ですね。
それで諸侯のことは以後大鴻臚が担当、以後はお客様扱い?

三輔都尉
ちくま版漢書の「元鼎4年改めて三輔都尉を置く」とあり、三輔都尉の注に原文二輔都尉、三輔都尉の誤りかとあります。
そのことからふと思いついたのですが、もしかすると当初は左右の二輔都尉(又は左右京輔都尉)であり、三輔成立後に京輔都尉が新設されて、三輔都尉になった可能性はないでしょうか。
二輔都尉段階では中尉の属、三輔成立後は各々三輔の属(軍事的には以前執金吾の属か?)に変わった。
つまり左右輔都尉(又は左右京輔都尉)は各々左右内史の兵を率いていたと言う考えです。
まああくまで脳内妄想で、なにも根拠はないんですけどね。

 

166: 名無し 04/05/19 20:26
先ほどの書き込みはなにか意味が通ってないような気がして、もう一度考えを整理してみます。
内史の軍はもともと中尉が指揮していた。内史と中尉には明確な統属関係はない。
内史が左右に分かれたのに対応して左右京輔都尉が置かれたが、その所属は中尉であった。
三輔の成立に伴い左右京輔都尉が京輔都尉、左右輔都尉に再編された。
この際三輔都尉と三輔との間に統属関係があったかどうかは不明。
漢書では三輔都尉は三輔の項目に書かれてはいるが、三輔と都尉との関係は明記されていない。
なお郡尉=郡都尉は郡守=郡太守を補佐することが明記されている。
あるいは三輔は通常の太守とことなり軍権がなかった可能性もあるのかもしれません?
まあその可能性は低いでしょうが。

 

167: 名無し 04/05/19 23:09

もう一度考えを整理し直してみました。
史記孝景本紀、景帝の2年(前155年)大内を左右に分ける。
漢書百官公卿表、景帝の2年内史を左右に分ける。
漢書地理志、武帝の建元6年(前135年)内史を左右に分ける。
この三つの記事の整合性をとると、景帝の2年に左右に分けられたのは大内、建元6年に分割されたのは内史と言うことでしょうか?

また漢書百官公卿表、左右京輔都尉の尉・丞・兵卒は中尉に所属。
同、武帝の元鼎4年(前113年)に改めて二輔都尉(三輔都尉か?)を置く。
同、武帝の太初元年(前104年)右内史を京兆尹、左内史を左馮翊に改める。
同、同年、主爵都尉を右扶風と改め、内史の所轄する西方の地を治めた。左馮翊・京兆尹とともに三輔を形成し各二丞有り。
漢書地理志、京兆尹は前代秦の内史、高祖元年(前206年)塞国に属し、2年渭南郡に改める。9年再び内史、武帝の建元6年(前135年)分割して右内史とし、太初元年京兆尹に改名。

それでそのあたりをまとてめてみたのが下記のとおりです。
当初一応制度が固まって以降は内史が首都圏の民政、中尉が軍政を担当していた。
最初期の塞国だの渭南郡だのころは不明だが、高祖9年以降はその体制と推定。
武帝の建元6年(前135年)に、内史を左右に分ける。
この時中尉の配下に左右京輔都尉を置き、各々左右内史の軍政を管轄したと推定。
更に中尉がその上から両都尉を統括したものと推定。
武帝の元鼎4年(前113年)左右京輔都尉を左右輔都尉に改めると共に、左右内史の配下に移管したと推定。
武帝の太初元年(前104年)内史が三輔に再編成されたとき、それに対応して右輔都尉を京輔都尉と右輔都尉に分割し三輔都尉になったと推定。

あるいは元鼎4年都尉のみ先行して三分したものでしょうか?
つまり、右内史配下の部都尉として京輔、右輔の二都尉が置かれた可能性もあり。

 

168: 名無し 04/05/20 00:07

>>165‐167
いやあ、ホントになんだかかんがらがってきますよね、三輔と都尉。
主爵については、確かに武功と爵の密接な関係を考えればその「主爵」と「中尉(都尉)」という組み合わせは納得できます。
しかしやっぱりこれがどうして右扶風になるのか分かりません。
主爵都尉を廃止して空いた元主爵庁舎を右扶風の庁舎にしたとか、その程度かと思ってしまいます。

あと漢書百官表の主爵都尉の条にある「三輔都尉」ですが、
これ、実は本によって異同がある箇所でして、「二輔」となっているのと「三輔」となっているのとがあります。
漢書補注によれば銭大昭は「三輔」説(京輔と左右輔で三輔だ)、対して王先謙は「二輔」説(京輔は中尉属官にでてる)なのです。
私ははっきり言ってどっちを取ればいいのか判断しかねます。
「二輔」だとすると、左右輔は左右内史→左馮翊・右扶風の属で京輔だけ中尉→執金吾の属だ、ということになると思うのですが・・・。
「三輔」ならそれはそれでツジツマが・・・。

167でおっしゃるように、
最初は中尉属官の京輔都尉、内史分割と前後して京輔都尉も左右に分け、三分の時にそれに合わせて京輔都尉を置いた、というところでしょうか。

合理的な解釈が正しいとも限らないですが、ツジツマ合わせとしてはこんな感じでしょうか。

 

169: 名無し 04/05/20 00:29

で、漢書百官表によれば二千石の官は以上。(太守は後出)

護軍都尉
秦官とあるので漢書によると秦からあった事になります。
(陳平がなった護軍中尉がそれかもしれません)
武帝元狩4年に大司馬(将軍)に属するようになりました。
(なおこの年は大将軍衛青、驃騎将軍霍去病に大司馬の号が加えられた年です)

そもそも何をする官なのか、というのが問題ですが、その名前や、陳平の事績などに見える「護軍」の意味合いなどから考えると、軍監のような感じじゃないかと思います。

なお、護軍都尉は先に挙げた丞相の属官、丞相司直と並ぶ官という面もあったようです。
前漢末の三公制の元では司直、護軍、司隷が並びますので。
詳しく言うと、三公制を最初に施行した成帝綏和元年に、三公の大司馬の属官として丞相の属官司直と並べられ、三公制を再開する直前の哀帝元寿元年には「司寇」と改称、更に施行直後の平帝元始元年には「護軍」とまた改称しています。
司直、司隷が共に監察弾劾の官であったことを考えると、護軍(司寇)も軍を対象とした同種の官と推測できるのではないでしょうか。

 

170: 名無し 04/05/20 08:31

司隷校尉
武帝征和4年の新設。
「巫蠱を捕らえ、大姦猾を督す」(漢書百官表)ためのものであったとされます。

背景として、漢書武帝紀によれば征和元年に「巫蠱起こる」とあり、翌年には巫蠱がらみで時の丞相公孫賀が獄死。
続いて公主などの巫蠱も発覚、更に皇太子が巫蠱の嫌疑をかけられるに及んで皇太子の反乱が勃発しました。
また、その戻太子の乱を鎮圧した丞相劉屈釐もまた巫蠱で要斬されています。
巫蠱とは対象に危害を加えるための呪術であり、人形を土に埋めるなどのやりかたがあったようです。
(呪いのわら人形みたいなものでしょうか)
漢書戻太子伝によれば武帝は周囲がみな巫蠱、呪詛をしているとして特にこの件を厳しく追及させたそうで、皇太子が追い詰められて反乱したのもそのせいのようです。
しかしながら土中から発見された人形が誰によるものかなどを判断するのは困難なはずで、後には武帝も「巫蠱の事多く信じられず」と気付いたようです。
要するに、すべてではないにせよ騙りや自作自演の疑いが濃厚、ということです。

話を戻すと、司隷校尉は皇太子の反乱後、おそらくはまだ巫蠱の追及が厳しかった時期の新設です。
(漢書劉屈釐伝によると、征和3年に巫蠱取り調べが厳しかったとされているし、漢書車千秋伝でも車千秋が丞相になった征和4年以降にも武帝が巫蠱を厳しく追及、摘発させていたことがわかる)
巫蠱の取調べ、更に場合によっては断罪まで行い得る存在として、司隷校尉には「節」と1200人もの奴隷(徒)が与えられました。
皇太子のように、追い詰められた容疑者が暴発することへの対処の意味合いもあったでしょう。

 

171: 名無し 04/05/20 22:44

司隷校尉つづき。
司隷校尉は漢書百官表によれば、「後其の兵を罷める」とあるので、どこかの段階で1200人の兵(奴)は撤廃されたと思われます。何時か分かりませんけど。
そして、「三輔、三河、弘農」を監察するようになった、といいます。
この「三輔、三河、弘農」とは、漢書地理志によれば部刺史の州に属さない郡であり、また同時に(前)漢にとっては中枢部とでも言うべき郡でした。
(劉氏は三河の太守になれないなど、普通の郡とは少々違う扱いだったらしいです。
だからこそ部刺史の範囲から外れたのかもしれませんが)

実際には司隷校尉は「百官以下及び京師近郡の法を犯せし者を察挙するを掌る」(続漢書百官志)、全官僚を対象とする監察官として機能しました。
漢書蓋寛饒伝、諸葛豊伝には「刺挙避ける所無し」といった表現がありますし、更に漢書匡衡伝には司隷校尉王尊が丞相匡衡を劾奏したことが記されています。
位人臣を極めた存在である丞相さえも、司隷校尉の弾劾し得る対象であったのです。

 

172: 名無し 04/05/20 23:20

護軍あれこれ
武帝の元光2年、御史大夫韓安国を護軍将軍に任命し匈奴の誘致襲撃を計画。
この時の護軍将軍は他の将軍との関係を考えても総司令官、少なくと監督的立場にはあったと推定されます。
この場合は将軍自らが護軍の任に当たっていますが、大司馬配下の護軍都尉の場合は大司馬に代わってその権限を行使するものなのでしょう。
晋書や宋書の記述を見ると、曹操が政権を握った段階で護軍が置かれ、後に魏の時代になってから護軍将軍・中護軍(護軍将軍と職務は同じで任官者が資格不足)と改められたようです。
この時の護軍将軍・中護軍は主武官選とあり、人事担当のようです。

他に地方駐留の護軍や安夷護軍・撫夷護軍(帰服のてい(低ーイ)族を管理)もあり、蜀には前後左右中護軍、呉には左右中護軍があります。(どちらも正確な職掌は不明)
(ちくま版「正史三国志」巻末の三国官職表による)

また蜀では、蜀史李厳伝注に引く「諸葛亮公文上尚書」によると、都護、軍師、監軍、領軍、護軍、典軍、参軍の序列があったようです。
(歴史読本93年4月号所載の「三国時代の軍事制度」石井仁)
その後晋の時一度省かれて、再置後は禁軍司令官に変わっています。
また、スレ違いになりますが、唐の左右神策軍には各々護軍中尉・中護軍各1名が置かれ、これは先祖帰りして軍の監察官のようです。(新旧唐書)

司隷校尉
補佐官がなぜか従事、掾でもいいと思うのですが、あえて別にしたところになにかしら意味があるのでしょうか?
また比二千石の高官なのになぜか次官がいません。漢書に次官が明記されていないのは護軍都尉も同じですが、こちらは後代には長史・司馬がいます。

将作大匠の行方
漢書王莽伝下に、地皇3年正月に廟を繕治したとして、都匠仇延を邯淡里附城(関内侯に相当)に封じたとの記事があります。
あるいはこれが将作大匠の後身かもしれません。(ちくま版漢書の訳者小竹武夫氏の説)

 

173: 名無し 04/05/21 08:30

>>172
>総司令官、少なくと監督的立場にはあった
そうなのでしょうね。護軍は、まさに監督的立場だったのだと思います。
というか、そういう用語、用法なのでしょう。
三国頃の護軍も、監察、監督的な立場だったかもしれません。
(もっとも、刺史がそうであるように監察から指揮官へと変質していたのかもしれませんが)

都匠は王莽伝、地皇3年正月ですね。知りませんでした。ありがとう。
顔師古によれば「都匠は大匠なり」とありますし、これが将作大匠の後身だという可能性は高そうですね。

司隷校尉
確かに漢書百官表によれば他の校尉(城門校尉とか)には丞、司馬が付きますが、護軍と司隷には明記されてません。
あくまでも推定ですが、司隷の場合は兵を撤廃された時点でそういった副官が廃され、刺史と同じような構成になったのかもしれません。
護軍の方は良く分かりませんが・・・。

 

174: 名無し 04/05/21 21:06

太と大、少と小
「岩波講座世界歴史5帝国と支配」所載の重近啓樹著「秦漢帝国と豪族」に尹湾漢墓簡トク(讀がごんべんでなく片になっている字)に記された成帝期の東海郡の吏員表が掲載されています。
その中で太守は大(太)守、属官の少府嗇夫が小(少)府嗇夫と記されており、おそらく簡トクの原文は大守、小府となっていたと思われます。
確かに前に言われていたように厳密な書き分けはなかったのかもしれません。

同じ表からもう一点、東海郡の都尉の官秩は真二千石になっています。
ちなみに太守のほうは不明です。
こはあるいは当時の都尉個人の資格かとも思ったのですが、定員表らしいので定制のようです。
一般に郡都尉は比二千石と認識されていますが、実際には例外もあったのでしょうか?

参考文献にあがっていた西川利文「漢代における郡県の構造についてー尹湾漢墓簡トクを手がかりとして」
仏教大学文学部「文学部論集」81 1997年あたりを読むとその疑問が解けるのでしょうか?

もう一つ、当時の東海郡太守府の属吏の定員は25名ですが実際は93名いたようです。

次官がいない
あるいは監察官系は独立で任務を遂行する官であり、次官は置かれなかったのかもしれません。
あとは侍御史とか部刺史とか、この二者には統率者としての御史中丞はいますが。

 

175: 名無し 04/05/21 22:37

>>174
尹湾漢墓ですか。その吏員表は講義か何かで見た憶えがありますね。
中身はもう忘れましたが。
「大」と「太」あたりに限らず、この時代の字は音、意味、形が似ているのを結構通用していたようです。
基準とかそういうのは分からないですけど、印象としては・・・。

東海郡都尉の官秩ですが、実際は郡の大小か何かで変わっていたと見るべきでしょうか。
よく分からないですけど。
尹湾漢墓関係を本気で勉強するんだった・・・。

司隷などの次官ですが、監察官というくくりというのは確かに考えられなくもないかも。
独立した官庁などを構える存在ではない、という感じ?

 

176: 名無し 04/05/22 11:31

司隷校尉
司隷校尉は武帝死後に巫蠱に限らない常設の監察官として機能したように見受けられますが、他の監察官などと大きく違うのが、「節」の存在でした。
天子の代理人の証とでもいうべきもので、「節」の下において出す命令は「詔」であったという事が知られています。
(漢書諸葛豊伝、侍中許章に命令した件)
司隷校尉には「天子の使者、代理人」とでもいうべき由来と、おそらくはそこから天子への直属という意識があったのではないかと想像されます。
この「節」は元帝の時に(上述の諸葛豊の時)に回収されるのですが、天子の直属だという意識や実態はその後も司隷校尉の側にも、官界全体にも残ったのではないでしょうか。

なぜここで天子の直属というのを強調するかというと、当時漢には丞相司直という天子の直属でない監察官が居たからです。
そして、司直と司隷はほぼ対等のライバル関係だったらしく、朝会の際には中二千石の前にいて丞相・御史大夫を迎えるという形だったそうです。
(漢書テキ方進伝。なお、位は司隷は司直の下だったという。テキ方進は司直として司隷2名を弾劾罷免しており、両者の激しい争いが見て取れる)

宰相の下に付く監察官と天子直属の監察官がほぼ対等で張り合ったりする(しかも宰相の側が勝利している)というあたりに、当時の権力構造の一端のようなものが見えるような気もします。
気のせいかもしれませんけど。

 

177: 名無し 04/05/22 20:18

ネタがないので、流れを無視して武功爵の話など。
漢書食貨志にみる武功爵は、第5級官首、第7級千夫、第8級楽卿ですが、平凡社東洋文庫の「漢書食貨・地理・溝洫志」では下記のとおり11級まであげられています。
根拠が書かれていないのですが、なんでしょう?
下から第1級造士、第2級閑輿衛、第3級良士、第4級元戎、第5級官首(見習官に任命)、第6級秉鐸、第7級千夫(第9爵の五大夫に準じて正式任用)、第8級楽卿(ここまで購入可)、第9級執戎、第10級政戻庶長、第11級軍衛
なお実際は第9級以上も購入できたらしいです。
また12級以上も有ったのではないかと言う可能性も有るようです。

爵位と似ている名前(造士、良士、政戻庶長)もあれば似ていない名前もありますね。

>当時の権力構造の一端
それを嫌って内廷に権力を集中させようとしたのでしょうか?

 

178: 名無し 04/05/22 21:34

>>177
私がやってる事についてなら、どんどん流れを無視して結構です。
武功爵の全容は、漢書食貨志の注、臣サンが引く「茂陵中書」によるものです。
この「茂陵中書」(茂陵書とも)は官職などが記されたものらしいんですが、私はそれくらいしかわかりません。
十一等以上あるかも、とは顔師古の指摘ですね。
武功爵自体ははっきりいって詳しくないですけど、なんでわざわざ二十等爵と別のものを作るのか意図が理解できません。

>それを嫌って内廷に権力を集中させようとしたのでしょうか?
私の理解ではそういう感じです。
あえて付け足せば、皇帝がより独裁的に支配する体制の構築にとって、丞相は強すぎ、皇帝の発言力はまだまだ弱いのです。
司隷校尉をはじめとする官の変遷は、少しずつでも皇帝の元に権力を集中し、政務を行う機能を強化するための動きだと言えるのではないでしょうか。

 

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