ニュース
なぜなら普段我々が猫だと思っている生き物は
猫ではないからである。
その証拠に,「猫」と呼んでも返事をしない。
嘘だと思う人は試してみてほしい。
うちの猫は名前があるがみんな猫としか呼ばないので
猫とよんだら返事をしますが何か。
とりでに猫を投げ込んだら、じゃなかったかと。
>>15
ベルギーなどではペスト流行の際厄除けに猫を塔の上から放り投げたそうで、
それで却って広まったとか。衛生面の問題もあったでしょうが。
ねずみが増えたからって言うのは本当?
「ペスト」の流行の原因をネズミとする説がありますが、異説もあるかと思います。
それはさておき、そもそも「ペスト」は14世紀から発生しているのに対して、
「魔女狩り」は15-17世紀が中心。また、ネズミ自体が、人間の食料を荒らしたりする
魔女や悪魔の手先のイメージがあった様です。
catはなぜ「cat」と言うか。それは、昔の英国人が鳴き声を「cat, cat」と聞いたから。
猫はなぜ「猫」と言うか。それは、昔の中国人が鳴き声を「びょう、びょう」と聞いたから。
ねこはなぜ「ねこ」と言うのか。それは、昔の日本人がねこがいつも寝ているから「寝子」
というすごいのもあった気がする。
>>25
源氏物語で女三宮が飼ってた猫を柏木が貰って(?)きて、
その猫が「ねーう、ねーう」鳴くので、猫が「寝よう、寝よう」と言ってる
俺が寝たいのは女三宮なんだけど。と危ない妄想をする場面がある。
猫の逸話で好きなのは、「アナベル・リー」という詩の元になったヴァージニアの猫の話。
極貧で結核にかかったヴァージニアは、まともな布団さえなく、藁のベットとポーの外套
そして猫だけが暖を取る手段だった。
猫もまた自分の役割を知っているかのように、ヴァージニアの上から離れることは無かった。
ところで駄目夫のポーが書いた「黒猫」では壁に猫を塗りこめてそこから犯罪がばれるが、
ヨーロッパでは猫を壁に塗りこめてネズミ除けや魔除けにするという風習があった。
『猫の目(マタクチン)』という果物が豊富だったのが、地名の由来。
街には様々な猫のオブジェがあり、猫博物館もある。
いまNHKの「世界ふれあい街歩き」でボルネオのクチンやってる。
ほんと、でかい猫のオブジェがあちこちにある不思議な街だ・・・
世界史というと微妙ですが、『枕草子』に登場する「命婦のおもと」はどうです。
一条天皇の愛猫で五位の位をもらい、乳母までつけられている。
一条天皇は名君と呼ばれるような人物でしたが、これには『小右記』の作者藤原実資も
呆れています。なお翁丸という犬がこの猫を咬んだ時には死にそうになるまで
折檻されたといい、下人の死は心配しなかった女房たちに心配されています。
だめだ。
「ドラえもん」「キティちゃん」が歴史に残るとまでは言い切れないし
「鍋島猫騒動」も 日本史に名を残すとさえいえるかどうか。
古代エジプトに猫神さまがいたかと思ったが
“これは”という個体ないし固有名詞にも出会わなかった。
北欧神話のフレイアの車は猫が引いている
実在した猫の名前ではないからなぁ
農耕民は猫を神格化する?
一般的にいえるかな?
穀物を生産する
↓
ネズミが食べる
↓
ネズミは悪である
↓
ネコはネズミを獲る
↓
ネコはえらい
↓
ネコは守り神
日本で神格化された猫っているかな?
招き猫。江戸時代後期にはあったようですが、歴史的な起源は不明。
江戸時代初期に薄雲太夫を蛇から護った彼女の愛猫がモデルという説もあり
ますが、話の内容は世界的に分布する民話・伝説「忠義な犬・猫」の焼き直し
です。他に井伊直孝を雨から救ったとか、太田道灌を戦場で救ったという話も。
ただ与太といえども嘘では無いというか、水商売に起源をもつのは確からしい。
大体現在に至るまで水商売の世界は信心が厚いらしい。
は寺院に対する報恩ですが、招く以外に猫が死人の棺おけを念力で持
ち上げ、それを住職に降ろさせて寺を栄えさせたという話もあります。
こちらは京都などにも伝わっているものですが、元々経典をかじる鼠
を退治するために飼われたとか頼豪鼠が比叡山を襲ったとかいう伝説
があるように寺と猫は関わりが深い。
詳しい説明ははしょりますが、どうも「猫が棺おけを持ち上げた報恩」譚
というのも中世後期から近世にかけて成立していたようですから招き猫
の話がそこから生じる余地はあったといえそうです。
タウザー(Towser)でしょうか? 生涯に2万8899匹のネズミを捕まえ,
ギネスブックに世界一のネズミ取りのチャンピョン。ウィスキー・キャットの頂点。
ウィスキー蒸留所であるグレンタレット蒸留所のスティルルームで活動。
24歳近くまで生きた。死後,グレンタレット蒸留所のウィスキー・キャットは
アンバー。
一番最初にネズミがきているのと関係しているらしい
十二支にネコがいない話はいくつかあるんでしょうけど。こんなのもある。
正月に最初に来た順番で決めるさいに、ネズミがネコに日を遅らせたため、
十二支に入れなかった。これ以来、ネコはネズミを追いかけるようになった。
春秋時代からのようです。
ねこタソの場合、忠犬ハチ公とかタローとジローみたいな有名?な歴史上の出来事は
今ひとつ無いね。
ヨーロッパでも、主人の墓を死ぬまで守り続けた犬に対して、教会が主人の隣に埋葬する
許可を出したとか言う話はあるけど、猫はあんまりそんな話聞かないし。
例の「忠義な猫」の話ですが、欧州ではどの例を見ても犬になっていますね。
あらすじは「赤ん坊の守りを任されていた犬が毒蛇を噛み殺すが、赤ん坊を
噛み殺したのだと勘違いした主人により打ち殺される。しかし直後に間違い
に気付いた主人により墓が築かれる。」というもの。
フランスでは犬の墓への信仰が高まったので教会により禁止された事があり
ました。ジャン・クロード氏も『中世の迷信』で書いている。
元ネタは仏典にある話で、そこではマングースであったとは南方熊楠の弁。
猫が信仰の対象となった話ですが、北欧神話のフレイヤの使いが猫でしたね。
バステトはかつては雌ライオンであったそうです。
我が国では『日本霊異記』や『更級日記』や『たまきはる』に故人の霊が猫に生まれ変わ
ったという話があり、化け猫云々は『扶桑略記』や『明月記』や『徒然草』以降に言われ
るようになった話らしい(皮肉なことに『たまきはる』の作者は定家の姉)。
猫をミイラにして副葬品をいっぱい、
って話くらいかなぁ
悪魔には、グラシャラボラスやナベリウスといった犬の悪魔はいるが、猫の
悪魔は見当たらんな。
魔女が猫の姿でサバトへ行く(アメリカ民話にもなっている)話や、
猫の王の話(英国)ならありますね。
次のようなストーリーです。
慶長七年八月中頃に洛中の猫の綱を解いて街中に放してやれという高札が立つ。
猫は大喜びで跳び歩き鼠は隠れ忍ぶ。民衆も鼠害から免れて善政を歓迎する。
そのころ上京(ジョウキョウじゃなくカミギョウね)に高徳の坊様がおられたが、
ある夜の夢に老鼠が現れ今度のお触れで穴に隠れているにも限りがあって、外に
出て行けば猫の餌食になってしまう、前世の因果が悲しいと泣き訴える。
そこで高僧はそれはお前たちが色んな物を食い齧って、人に損害を与えるのが
悪いので当然の報いだと諭す。老鼠は若い者には常々意見してるのだが連中は
「かぶきたること」が好きなので一向に言うことを聞かないと嘆く。
翌晩の夢には虎猫が現れて鼠共は外道なので慈悲をかけても無益である。我々は
唐天竺では虎の子孫であって、日本は小国なので小さな姿で渡来した。後白河の
御世から綱を付けて飼われるようになり、目の前を鼠が走っても捕らえることが
叶わなかったが、今度の解放令には感激していると言う。高僧は神妙な申し条では
あるが出家として殺生を見過ごしにはできない、因果の輪廻を免れるためにも鼠を
餌食にするのは止めて、鰹や鰊など魚類を混ぜた飯で満足せよと諭す。
我慢せよと言われても困る事情を解かってほしいと嘆かれ、高僧も返す言葉も無く
涙に暮れるばかり。
明方にまどろむと今度は夢に先夜の鼠が現れ、洛中の各所で鼠の寄合いがあって、
評定の結果として飢え死にを免れるため近江に行くことになった。検地のために
百姓が稲刈りを見合わせているそうで、冬になったらば野老(ところ)や蕨などを
掘って生き延びよう、正月の鏡餅を齧れないのが無念至極だが仕方ない。猫にも
犬という大敵があるので報いがあるというものだと言って、諸方に立ち退いた。
夢覚めた高僧はこんな話を人に語ったら狂気と評判されようと思ったが、親しい
友にのみ伝えた。
というのがあらましですが、この物語で他の御伽草紙に見られない特異な筋立ては
凡そ非現実的な説話が常態の御伽噺に、歴史上の年月が明記されている点です。
まさか猫解放令なんてものが慶長七年八月に発布されてる筈はあるまい。誰だって
常識的にはそう考えます。何たって御伽噺なんですもの。そして触れの趣旨だって
馬鹿げた内容なんだし。
ところが実際にあった史実なんだそうです。「時慶卿記」の慶長七年十月四日の条に
「猫繋グベカラザル旨三ヶ月以前ヨリ相触レラレ、仍(よって)弐人ノ方ヘ行失、又
犬嚼死事多也ト」とあります。「弐人の方へ行き失なひ」とは何のことか、「犬嚼み
死ぬる事多き」というのは、猫が犬に噛殺された事件が多発したということでしょう。
ともかく公的に猫が解放された事実は存在したもののようです。
高札の文面というのも伝わっています。
一 洛中猫の綱を解き、放ち飼ひにすべき事
一 同猫売買停止の事
此旨相背むくにおゐてはかたく罪科に処せらるべきものなり、よってくだんのごとし
以上は黒田日出男さんの「歴史としての御伽草紙」(ぺりかん社刊)から引用しました。
この記事に続いて中世末期の都市の鼠害について、また猫が繋がれて飼われていた
実態について詳説されています。
ああ、そういう話は私が・・・振ろうと思っていた矢先に紹介されてしまった。
中世は基本的に犬が放し飼いで、猫が繋がれていました。確か『洛中洛外図屏風』のうち
江戸初期に描かれたものにも繋いだ猫の姿があった筈です。
もっとも犬でも移動時には繋がれた(特に唐犬や洋犬)ようですし、猛犬もそうで
あったようですが。ただし『日本霊異記』や『更級日記』にはどこからかやって来た子猫の
話(実は故人の霊)があります。
なお前者では「狸」と表記されていますが、これは元々山猫を意味する言葉です。
中国には山猫としての「狸」が化けたという話が多い。
が牛をまず食べない代わりに犬・猫・海草などを食べる事を記しています。
この内猫については岩波文庫の訳者が「獺の間違いか」としていますが、『料理物語』
に出て来た筈ですのでこの頃には一応食べられてはいたのでしょう。
猫といえば「風が吹けば桶屋が儲かる」というように三味線の話もかかせませんが、これ
は永禄頃に堺に琉球の蛇皮線が伝わったのが(蛇皮線の皮はニシキヘビ製。ちなみに練習
用の三味線の皮は犬のもの)起源だそうです。
朝鮮戦役に島津家が連れてった猫なんだって。
WEB検索してみた。以下あらまし。
豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき島津義弘は七匹の猫を連れて行った。
目的は,猫の瞳の大きさを見て時刻を知るため。
帰還した2匹の猫を祠に祭った。
つまり本来は「時計」機能としての猫神なので
六月十日の時の記念日には時計屋さんがここに集まって
お祭りをするそうです。
しかし絵馬なんかをみると,
「タマが元気でいますように」のような感じで
現代人は「ペットとしての猫」の神様として扱ってるみたいです。
隣に猫グッズ屋さんが営業しています。
仙巌園(磯庭園)という市内有数の観光スポット,
元は島津家邸宅の庭園内一角です。
乗っていましたね。
>>112
サバトに出かける魔女が、黒猫のまたがっている場合もあり、関連
しそうですね(箒の方がイメージが強いけど)。
ヘロドトスの『歴史』において、エジプトでは、火事が起こると、
不思議なことに猫が飛び込んでしまうので、そうしないように
人が見張りをおこなうのだとしている。
それがもう一人の女は箒に跨っています。
人々は消火よりも猫を見張る方にやっきになったといい、万が一死ぬような
事にでもなれば盛大な葬儀を営んだそうです。
「赤猫」という火事の隠語もこうした理由から来たものかもしれませんが、
明暦の大火で生じた死者を回向する為に出来た回向院には犬猫の墓がありま
した。
山東京伝・歌川国芳による『朧月猫乃草紙』によれば火消壺に入れて葬ったらし
く、猫の病気の流行った文化4・5年(1807・1808)には年に六百匹の
猫が回向院に集まったらしい。
ただいちいち墓標を立てたものというよりは供養塔で代表して済ませた様。
火事で死んだといえば『更級日記』の猫もそうでしたが、古くは藤原頼長が康治
元年(1142)に当時10歳だった愛猫を衣につつんだ上で櫃に入れて葬らせ
ています。これは七歳未満の幼児と同じやり方。
(動物の供養というのは当時からあり、犬や馬の供養というのもありました。)
海外の例については思い当たりませんが、清の黄漢という人が1852年に
『猫苑』という大著をものにしているそうです。どなたかお確かめ下さい。
随筆類にも何か面白い話がありそうですが、生憎確認している暇が・・・。
「猫苑」は「筆記小説大観」(江蘇廣陵古籍出版社刊)に収録されています。
残念ながらうちにはありません。廣陵古籍の「筆記小説大観」は16冊もので
石印本を縮刷したような感じの叢書です。叔父は「太平廣記」の部分だけ買い
他は当時は金が無かったので見送ったそうです。叔父は25年くらい前に神田の
山本書店の目録に出てたのを見かけたそうですが、これまたえらく高かったので
「不急不要の書物だから止めといた」そうです。
スペインだったかもしれないが
猫のマスコット来て通りを歩くやつ
猫祭りはベルギーのイープル(イーペル)で行われる。
魔女狩りが盛んだった時期に、魔女の手先として猫がたくさん殺されたのを
悼んでの祭りだとか。
イープルと言えば毒ガス戦の舞台にもなっている。(イペリットの語源)
魔女狩り、毒ガスとロクでもない事ばかりだ。
暗い歴史の証人みたいなものか。
>>120
黒猫はアンラッキーのイメージが強いと思いますが、
そもそもアンラッキーなのかというところもあります。
a黒猫に出会うと不吉
b黒猫が、目の前を横切ると不吉
b->aに汎化しそうですね。
その一方で、
c黒猫が訪れると追い払うと不吉
d黒猫が訪れると後から幸運がやってくる
c->dも転化しそうですね。
それでいて、
e黒猫を飼うのは縁起がいい
もあるので、そもそも象徴やイメージはえてして表裏一体で、その認識も地域・
時代・文化の差以外にも同時並行的に混在していることがしばしば。
じゃあ、元々黒猫は「運」の象徴で、それが「不運」に変化したってこと?
>元々黒猫は「運」の象徴で、それが「不運」に変化したってこと?
猫の行動や仕草、特殊な能力、神話などの影響
↓
猫には不思議な力がある
↓
マイナスに働けば「不運」、プラスに働けば「幸運」
どちらかといえば、人間はマイナスを記憶にとどめやすく、またその因果律から直前の事象に敏感に
なりやすい。ゆえに「不運」が一般的で、特殊な条件を満たすと「幸運」扱いになる。
混在している状態においては、より簡略化され汎化された形の方が強く伝わり、それに対立する
ような部分は特化して伝わりやすいが、前者の方がより広範に広がりやすいはず。特化は限定条件
をつけて、その対立を緩和し解消する。イメージがアニメ、出版、映画、ゲーム化などにより定着化
しだすと、そのイメージがぬぐえなくなり、後者の存在は無視されてしまい、時として、前者が正しく
後者は正しくないと安易に判断がされがちとなる。意思伝達は汎化しやすい傾向にあるが、得てして
いくつもの説やバリエーションが生じるのは必須的な現象、しかも、それが時間軸や地域などと一致
しないことが多々あるので分析は困難となるのではないだろうか。
まだでていない事を・・・・・・。
☆「ネコ」の歴史☆
広義ではネコは、哺乳綱食肉目ネコ科に属すチータ属、ヒョウ属、ネコ属の3つを
動物学上ではいいます。狭義のネコとは「イエネコ」を指していいます。
このイエネコは、ネコ属のリビアヤマネコが家畜化されたものと考えられています。
リビアヤマネコとは、インドやアラビア半島、小アジア、アフリカの半砂漠地帯から
熱帯雨林地帯にかけてさまざまな環境の中で暮らしているネコで、妊娠の期間はおよそ
56~60日、一回の出産で1~5匹を産みます。
ネコの歴史は今から4000~5000万年前にスタートします。
他の食肉類と同じ先祖であるミアキスから進化したといいます。その進化の過程で
4つのグループに分かれました。1:ホプロポネウス亜科、2:マカイロダス亜科、
3:ニムラブス亜科、4:ネコ亜科と分かれ、それが1500万年前のことです。
それ以降、ネコはほとんどその姿を変えることなく現在に至った珍しい哺乳類です。
リビアヤマネコが家畜化されイエネコになったというその根拠は、このリビア
ヤマネコだけがイエネコと頭がい骨の形が類似している為です。
また、イエネコの腎臓は濃縮した尿を作り出しますが、これは僅かな水分を効率よく
使うのに適していて、祖先が水の乏しい乾燥した砂漠地帯にいた事を暗示しています。
現在のイエネコの中ではアビシニアがリビアヤマネコに似ているそうです。
>>123
広義のネコと狭義のネコといえば大体こんな感じで
欧米の「cat」>日本の「猫」
仏教の伝来以前に、日本の縄文時代の地層からネコの骨が出土しているので
野生のネコはいたんでしょう。
文学・音楽史系なら、モンマルトルのキャバレー「黒猫」
サティがピアノを弾いて生計を立てていた。
ローレライの近くにあるカッツェンエルンボーゲン伯爵が築城した城。
通称(略称)はカッツ(ネコ)城という。
確か縄文時代の早期にはまだオオヤマネコがいた筈。
日本にいる野生の山猫はイリオモテヤマネコとツシマヤマネコ(ベンガルヤマネコの亜種)。
どちらも(特に前者は)原始的な種類だとか。
ただ本土の山間部と日本海や太平洋に浮かぶ島々には「山猫」に関する妖怪伝説があり、
島にいない狐狸の代わりに怪異を引き起こす役目を負っている。
☆古代エジプト編☆
古くは紀元前5000年頃のイェリコ遺跡ですでにネコの遺体が発見されていますが、
これは野生のものらしく、家畜として最初に目をつけたのが古代エジプト人でした。
第18(あるいは第19か?)のメリメリの墳墓から発掘された大理石の石碑に、女性の
膝の上に乗っているネコの絵が彫られていますが、これは恐らくイエネコと思われます。
また遡って第6王朝アメンホテプ1世の一人の廷臣の母は「ネコちゃん」という
ニックネームがついていたそうです。
その古代エジプトでは、ネコはその瞳が太陽の東から西へと動くのに従って動く
もの(瞳孔の大きさの変化の事)と考えていました。そして、夜に闇でも見れるのは、
夜に太陽がネコの目を通して下界を見るためという発想になっていったのです。
こうしてネコは神格化され遂に、女神バテストが誕生しました。
時代は下り、紀元前1世紀のローマ占領下のエジプトでは、シチリア人の
ディオドロスの記録によると、戦車でネコをひき殺してしまった兵士が怒った民衆
から石を投げられたとあります。
またヘロドトスの『歴史』では、飼い猫が死んだ場合にはエジプトの人々は、
悲しみを表す為に眉を剃って、手厚く葬る為にバテスト神の信仰の総本山、
ブバスティスの町まで出かけたといいます。
また、モーゼを追って紅海まで来るも失敗に終わったギリシア人のガステロスの
子孫、ファーガス1世はイギリスの一部を支配下に置きました。
その支配した土地を自分の曽祖父の名前であるスコタ(Scota)にちなんで、
スコットランドと命名しました。更にそのスコットランドにエジプトの女神パシュト
(Pascht)の象徴であるネコを伝えたといいます。スコットランドでネコの事を
「pussy」と呼んでいるのはここから来ています。
発掘に関わる事では、1890年にイギリスの探検家がベニ・ハッサンでネコのミイラを
発見しました。その数は30万体に及びます。更にアドビスでは、1921年から22年に
かけて考古学者のフリンダー・ベトリが発掘した所、小さな墳墓を発見しました。
そこには17匹のネコの遺体が見つかり、一体一体の前には恐らく牛乳を入れたと
思われる「ツボ」も並んでいました。
☆ヨーロッパ編☆
古代エジプトで神聖化されていたネコは、当然国外に持ち出すことは禁止されて
いました。しかし、これを破ったのがフェニキアの商人たちでした。密輸による暴利を
夢見て実行に移したのです。
当時、まだ飼い猫の習慣のなかったヨーロッパでは当初、害獣を退治してくれる
動物として大事にされていましたが、ヨーロッパに広く浸透するにつれて変わった
習慣も生まれました。例えば、建物をより堅固にするためにネコを生きたまま埋め
込むとよいといったものでした。また、疫病や災難から身を守る為に、ネコが火あぶり
されたりもしましたが、いずれにおいてもまだこの段階ではネコを高く評価していた
からこういう事がなされたといえます。
しかし、15世紀の終わりにはその立場は逆転します。
そのプロローグとして魔女狩りを当時の宗教権力者が実行し、その魔女といつも
いっしょにいたであろうとされたネコが「悪魔」のレッテルを貼られて火あぶり
などの対象になったのです。この行為は18世紀頃まで続きました。
ですが、その後立場はまた逆転します。東方からやって来たドブネズミが、
土着のクマネズミを駆逐しました。そのドブネズミをやっつけてくれたのが
「悪魔」のネコでした。
また、近代合理主義の発達によって科学や医学も進展した中、パストゥールが
病気の原因が一般的に、細菌によるものでそれが体内に入り発病すると発表して
からは、これまで平気で触っていたイヌやウマなどが敬遠されて、逆に清潔を旨と
するネコが愛着される対象になったのです。
☆東洋編☆
では、東洋ではどうでしょうか。日本にはインド⇒中国⇒日本というような経路で
来たようですが、元のインドにはどうやって来たかがはっきりとしていません。
現在考えられるのは1:ナイル上流域からシリア、ペルシャ経由、2:紅海から
アラビア海に出る商船航路、などです。またこういう考えとは別に、東洋で独自に
ジャングルキャットというイエネコの近種が、インドでイエネコの起源になったという
説も出ています。
インドでは、マヌ法典に初めてネコの記載が見えます。これより古いヴェーダや
釈迦の涅槃図には一切ネコは出ていません。因みに涅槃図でネコの絵が描かれている
物は日本で後年作られたものです。
マヌ法典ではネコをあまりいいようには扱っていません。
「ネコのように振舞う者には、口頭の挨拶すら敬意を払うべからず」
「水すら与えるべからず」・・・・・・・。
そして、中国へは仏教伝来とともに入ってきたようです。理由は仏典をネズミの
害から守る為というわけです。
日本には同様に仏教伝来と共に伝わったといいます。
日本では飼い猫の記録が初めて登場するのが宇多天皇の日記(889年2月6日)で、
天皇は先の光孝天皇より唐渡来の黒猫を賜り5年に亘って大切に育てたといいます。
日記にはその事がくわしく書かれているそうです。
また、一条天皇もこよなくネコを愛した人物でした。
宮中で子猫が生まれたときなどは人と同じように育てました。貴族や皇族がするような
儀式をその子猫に対して行なったり、また五位を授け「命婦のおもと」という名前を
付けたといいます。【『枕草子』『小右記』】
その一方で、藤原清廉は大のネコ嫌いで知られていました。
彼は金を持っていながらちっとも年貢を納めず、困り果てた国司の藤原輔公は
ネコを使って清廉に年貢を出すように迫り、遂に納めるという約束を書いた証文を
手にする事ができたという事です。【~猫恐の大夫~『今昔物語』より】
最後に古代エジプト絡みで、ギザにあってその場にいる者に睨みをきかせている
スフィンクスですが、このスフィンクスという名前のついたネコがいます。
1966年にカナダで生まれたこの種のネコは、毛がないのが最大の特徴です。
また、ネコにつき物のの「ノミ」にはクフ、カフラー、クレオパトラといった
歴代のファラオの名前が学名になっているものもあります。
アフリカ大陸周回航海のパトロンですね。
<トリビアの泉>より
三毛猫の99%は
メスである。
それは常識でないのか?
三毛猫は雌というのは誰でも知っているはずだが。
・・・・・・すまん。おれは>164ネタかと思ってた。
165の足を引っ張るようで申し訳無いが、
おれ、マジしらなかった。
・・・三毛はメスって本当なの?
雄がうまれる確率は1/250000らしい。
しかも生殖能力なしになるらしい。
知らんかったなあ。
稀にオスがいることも含めて常識。
オスのミケは
海が荒れている日にも方角がわかる
と信じられていて
じいさんがいっぴきだけ見たことがあるといっていた。
漁師にあげることにして 大変喜ばれたそうだ。
さて,これは全国的なものなのかどうか。
じいさんは静岡県西部地区。
珍しい存在:不思議な力を持っている
っていうありがちな結びつきですけどね
この状態だと、まず授精能力はない。
子を産むのが雌、産ませるのが雄とすれば、雄とは言えない。
三毛猫は雌と雄もどきだけで、雄は居ない事になる。
>>178
三毛猫の場合、性染色体の”X”に黒or茶の形質情報があって、
”白”の形質は性別を決める染色体とは別個の染色体にのっている。
したがって、メスは”XX”だから、白以外の形質を二つ持つことができるが、
雄は”XY”だから、白以外の遺伝情報を一つしか持つことができない為に二色になる。
つまり、三毛猫の三つの色が出現するのは”XX”染色体を持つ場合に限られており、
”XY”染色体の雄では出現しない。
希に”XXY”の場合に出現するが、同時に染色体異常のための疾患を抱えている場合が多いので、
胎児の時か生まれてすぐの時点で死ぬ場合が多い。
大人の猫にまで成長するのはさらに希。
黒(もしくは茶)・白の雄と、黒・茶・白の雌で三毛猫は生まれるよ。
ニュース
国立児童保護協会が創立されたのは1884年である」とどっかの旅行ガイドに書いてあった。
>>192
ヨーロッパで,
「子どもが発見された」のは比較的近代のことである
ということは
教育学・社会学では比較的常識の部類。
ためしに「子どもの発見」でググってみてみ。
アリエスの議論って、完全に定説なの?
>>196
>>199
アリエス自体にいくつか批評・批判・修正がでているんですが、アリエスの影響
が強いのかいまだにあっちこっちに影響が見られるということですね。
「子供という観念は近代になって上流階級の間で発見されたものだ、さらにまた
遠い昔の庶民ないし農民、ひいてはブルジョワ階級は子供に対して相対的に無関心
だったなどという研究者には、たとえどんなに傑出した研究者であっても、素直に
耳を傾けてはなるまいと言う気になる(ル・ロワ・ラデュリ『モンタイユー』)」
「アリエスは、1960年にフランスで刊行された『アンシャン・レジーム期の
こどもと家族』という著書のなかで、近代以前のヨーロッパではこどもの死亡率が
非常に高かったために、親はこどもに深い愛情を抱かなかったこと、また「こども」
という認識概念が存在しなかったために、こども服なるものはなく、こどもは
「小さなおとな」とみなされていたことなどを説きました。しかし、現在の歴史研究
ではアリエスのこのような話に多くの批判が出され、近代以前のヨーロッパは確かに
多産多死の社会ではあったけれども、親子の絆はかならずしも希薄なものではなかった
ことが明らかにされています(甚野尚志、堀越宏一編『中世ヨーロッパを生きる』
より「母とこども」(高橋友子)」
「アリエスの命題が衝撃的であっただけに誤解されるばあいも多く、アリエスの
書物が刊行されてから20年以上たつ現在ではアリエスの見解を修正しようとする
書物が多数現われています。……(中略)……中世にも近代にも子どもはいたので
あって、中世には子どもがいなかったという命題はやや誇張された命題としては
おもしろいけれども、正しいとはいえないのではないでしょうか。(阿部謹也
『甦る中世ヨーロッパ』)」
頭だけだした20匹の猫がチェンバロの上に置かれて、その楽器を弾くと
とがった刃が猫のしっぽにあたり、悲鳴で鳴く。猫はそれぞれの音の高さに
あわせてあるので、演奏家はこれを利用して音楽を奏でたという。
曲になる前に大暴れしてしまいそうだが。
江戸時代に香具師が猫の後ろ足を布で包んで上体を天井から吊るす、鉄板を
熱して猫の後ろ足を載せ、三味線を弾いて「猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが、
猫が絞りの浴衣で来るものか」という唄を唄う。猫は熱いもんだから足を交互に
上げる。このように訓練した猫は猫じゃじゃを弾くと条件反射で踊りだす。
香具師はこれを見世物に使った。という怪しげな話を読んだ記憶があります。
今おもい出しました。
安政四年に公儀の天文方役人の藤岡藤十郎と野州無宿の富蔵が共謀して、
千代田城の御金蔵に忍び込み四千両の大金を盗み出し、発覚した末に
小塚原で処刑されます。
この事件は幕末に「花街模様薊色縫」(さともようあざみのいろぬい)
普通には「十六夜清心」で通っている芝居に、白浪作者の河竹黙阿弥が
脚色しましたが、明治になって幕府に対する禁忌が無くなって実名で
上演されたのが「四千両小判梅葉」です。この時は黙阿弥と富蔵役の
五代目の菊五郎が直接に、旧幕時代に傳馬町の大牢を経験した古老を
尋ねて取材したそうです。そこで犯人両名が御用弁になって入牢中の
様子をリアルに再現し、一般には未知の世界なので大評判を取りました。
この初演の最中に芝居の掛かっていた千歳座の近所に失火があったので、
客席が騒然としたところ、鎮火の耳打ちを受けた菊五郎が早速の機転で
「赤猫は引っ込んだそうでございます」と牢名主役に言ったとのことで、
取材の成果が活かされたとのことです。この話は六代目菊五郎の芸談で
読んだように記憶します。
ふと腰を掛けた茶店で足元に目をやると猫が餌を食べている。空になった皿を眺め
はっと商売勘が閃く。草鞋の緒を締めなおす振りをして皿をつくづくと改めると
案に違わず赤絵の名物。「本物の値打ちを知らねえってのは恐ろしい、茶店の爺を
ごまかして皿をせしめてやろう」と腹を決めるが、ストレートに切り出すと親爺も
気が付くかも知れないと考えて、「とっつぁん、いい猫だな鼠を捕りそうだ、俺は
江戸で道具屋をしているが鼠が商売物を齧りゃがっていけねえ、この猫を譲っちゃ
くれめえか」と五百文を提示する。下女の給金十日分と張り込み二つ返事と思いの外
「いんにゃ、目の明かねえうちから育てた奴だで売るわけにゃぁなんねえ」ならばと
倍増させて「一貫出すがどうだね」それでも首を縦に振らない。骨董屋も慾と意地で
吊り上げた末とうとう駄猫に一両の値を付けて成約。しかし皿は安くても三十両は
堅いところ、うまく売れば五十両にはなると胸のうちはシメシメと、何食わぬ顔で
金を渡して猫を受け取り、さて「ところで手に直に餌を乗せて食わせるってわけにも
いかねえ、序でってのも何だが皿を貰っていくぜ」と何気なく取り上げようとすると
「皿まで売ったわけじゃねえ、置いていかっせえ」「これさ意固地を張らねえもんだ、
猫が舐めてた皿を取っておいてどうしなさる」「そこへ出しておくと別の猫がまた
一両で売れるだよ」
「胡人採寶譚」というタイトルで2編の研究ノート風の文章を書いています。たしか
「長安の春」に収録されていたと記憶します。今回その内容を紹介しようと思って
叔父の書庫を探したんですが見当たりませんでした。
プロットの基本は長安の町のある商人が何の奇もないような代物を安値で売り渡した
後に、胡賈が現れ「こちらにしかじかの物があると聞き及び買受に参った」との申出、
「たった先刻に売り渡してしまいました」との答えに「あれは稀代の珍宝ではるばる
尋ねてきたのに実に残念だ」と地団駄を踏むので、「いかほどでお求めになる心算で
あったか」と問うと途方もない重価を示したので、今度は長安の商人が地団駄を踏む
といった説話です。
「長安の春」は平凡社の「東洋文庫」に入ってたと思います。お持ちの方お確かめ
ください。
ヤマネコとイエネコの話を・・・・・・。
【ヤマネコ編】
『動物誌』を書いたアリストテレスによると、ヨーロッパ産のオオヤマネコ
(lynx)を観察した所、くるぶしの骨の形が偶蹄類に似ているとしました。
偶蹄類のくるぶしの骨の形は六面体で、そのうち二面はやや曲がっているという
そうです。古代ではこれを「アストラガロス(距骨)」と呼んでサイコロに利用して
いました。アリストテレスはヤマネコのくるぶしの骨を「半アストラガロス」と
称しています。これは、多分、偶蹄類ほど形が整っていないからと思われます。
また、プリニウスの『博物誌』では、西洋では古く、オオヤマネコの尿はその内に
真っ赤な色鮮やかな結晶になると言われ、琥珀(こはく)もその尿が固まってできた
のだと信じられていたそうです。オオヤマネコ自身もその生成作用を知っていて、
尿をした後にすぐにその上に土を被せるのは、結晶化を早めて、かつそれを他の誰にも
奪われないようにする為だというのです。このことからヨーロッパでは、オオヤマ
ネコは貪欲の象徴になりました。
因みに、古代ローマにオオヤマネコがやってきたのは紀元前55年のことといいます。
ポンペイウスがガリア地方で狩りをしその獲物としてオオヤマネコを持ち帰ったから
です。
西洋では古くからオオヤマネコは視力に優れた生き物と考えられていました。
これは、あらゆるものを透視するとされたギリシャ神話のリュンコス(Lynkos)に
名前が似ている為に混同されたといいます。そんなことからやがてはキリストの
全能を象徴するようにもなりました。そして、優れた視力という伝説のおかげで、
オオヤマネコは紋章にもなりました。1601年、ローマで設立された世界で初めての
科学者組織の紋章になったのです。学会の名前はもちろん『山猫学会』。
のちにガリレオも会員となったこの学会の紋章にヤマネコが選ばれたのは、
その鋭い視力が何にでも疑問を持つという「科学の目」を象徴し、また、地獄を
守る無知の象徴、魔犬ケルペロスに挑むヤマネコ(叡智)を表しているのです。
中国では『本草綱目』によると、ヤマネコを肉は痔の薬とされました。
ですが、正月に食べると神を汚すとされました。また、ヤマネコの陰茎を灰にして
東方へと流れる川の水で飲むと、女性は生理不順が、男性はインポテンツが治ると
されました。
中国名ではヤマネコは「貍」と書きます。ですが、この字は日本では「狸」と
なり「タヌキ」を指すのです。『和名抄(931年・承平元年~)』でも狸の字は
タヌキに当てられています。この混同は古くからあったことを示しています。
本草綱目に置ける貍の記述では、形状はネコに似ていて、大きさはキツネほど。
またネコやトラ、ヒョウに似た斑紋を持つ、とあります。
しかし、この記述が江戸時代の百科事典といわれた。『和漢三才図会』では、
タヌキの項でそっくり登場しているのです。
話がややこしくなりますが、『國譯本草綱目』では「狢」の項の記述をタヌキに
当てていますが、『和漢三才図会』では、これをムジナ(タヌキまたはアナグマの
異名)と同定しています。
【イエネコ編】
古代エジプトで飼い猫の習慣が始まり、その後この習慣がローマに定着するのが
4世紀頃、そしてイギリスでは10世紀頃とされています。当時のヨーロッパでは
ネコはかわいらしい動物の代名詞にもなっていました。
ですが、18世紀にビュフォンの『一般と個別の博物誌』で、ネコほど役に立たない
家畜はないと酷評しています。しかし、最近の研究では、ネコは役立たなくて
カワイイ仕草をする事で、人間の赤ん坊の擬態をしていると考えられています。
例えばその鳴き声一つとってみても、『ニャ~オ』と鳴くのは一般的に飼い主に
対してしか使われません。つまり、飼い猫の習慣が定着してからネコもこのような
声を出すようになったのです。
もっとも、ネコは全く役立たないというわけでは当然ありません。
例えば、カンボジアでは高床式の家が新築した場合に、ネコを借りてきてこの新居に
放ちます。大切な食糧を他の動物から守る為です。
西洋ではネコに対する思いや俗信がかなりありました。
‘A cat has nine lives’といわれるようにネコの生命力はかなり強いと信じられ
ていました。先の言葉は文字通り〔ネコには9つの命がある〕という事です。
これは、三位一体が三組集まったことを示す古代からのラッキーナンバー「9」を
福の象徴であるネコに結び付けたと思われます。
ヨーロッパではネコは子供の寝床に入って寝息を吸い取り、子供の命を奪って
しまうと広く信じられていました。
また、結婚式の朝に花嫁の傍でネコがクシャミをすると結婚生活はいいものになると
占われたのです。ノルウェーではネコは結婚の女神フレイア(Freyia)の聖獣と
されています。従って、結婚式もフレイアの日とされる木曜日に主に行なわれますが、
花嫁が普段からネコをかわいがっているとその日は晴れるといいます。
更に、黒ネコは広く不吉の象徴とされていますが、イギリスではその逆です。
黒ネコを吉、白ネコを幽霊の色として忌みきらいます。そして船乗りの妻は、黒ネコを
航海安全のお守りとして大切に飼ってたのです。
一方、近世のヨーロッパではネコは魔物扱いされていました。
フランスでは、謝肉祭の最終日の告解火曜日に饗宴が終わりになると男たちが
1匹のネコを取り囲んで毛をむしってそのうめき声聞いて楽しんでいました。
またドイツでも同じような風習があり、これを『Katzen Musik(ネコの音楽)』と
称していました。
シャムネコのシッポはねじれて曲がった個体が多く見られます。
これはシャム王朝がそういったシッポを持つ個体のみを宮廷でかわいがっていた
ことによるらしいです。伝説によれば、昔シャムの王女が水浴びする時にいつも
ネコのシッポに宝石類をぶら下げて見張らせていたためにシッポが曲がって
しまったのだといいます。
仏教世界ではネコは凶獣扱いされています。
これは伝説では釈迦が病に伏していたので、天上の麻耶夫人(まやぶにん)が
薬が入っていた袋を落下させた所、木に引っかかってしまいました。
そこで夫人はネズミに命じて薬袋を取らせようとしたのですが、ネコがそのネズミを
食い殺してしまった為に釈迦はそのまま死んでしまいました。
それ故、ネコは仏教徒の敵になってしまったという訳です。
また、中国ではカイコをネズミの害から守る為にカイコを飼っている部屋の
周囲の壁にネコの絵を飾るというような習慣もありました。
日本では、『和漢三才図会』によれば虫が耳に入った時はネコの尿を耳に
垂らすと良いと記しています。その尿を取るにはショウガやニンニクをネコの
牙か鼻に塗るか、または生のネギをネコの鼻の中に突っ込むと良いとのこして
います。
佐渡島の有名な『佐渡おけさ』は若い娘に化けたネコの歌っていた歌だとする
伝説があります。
江戸時代にはヨーロッパ産のネコが多数入ってきたようですが評判はあまり
良くなかったようです。例えば『中陵漫録』では「阿蘭陀の猫は、なべて虎の毛の
如し。黒白及び三毛ならば更に只虎毛の一種にして、尤も(もっとも)大に尾も
ふっさりとして、甚だ見苦しきものなり。」
>>244
>イギリスでは10世紀頃とされています。
イギリス(イングランド?)で10世紀だと、ノルマン・コンクエスト以前で、
その頃はまだまれで徐々に入ってきたとする説もあるみたいです。
コンラット・ケラーの『家畜系統史』によると、ヨーロッパには紀元1世紀には
イエネコがもたらされているが、イギリスでは紀元10世紀にもいまだまれで
あったとしていて、また、アト・ド・フリースの『イメージシンボル事典』では、
「西暦936年には、すでにネコ保護条例があったが、一般に飼いネコとして定着
したのは16世紀以降といわれる。魔女のネコ(およびその基本的な象徴)が一般
となったのはさらにそののちのことと思われる」としている。
>更に、黒ネコは広く不吉の象徴とされていますが、イギリスではその逆です。
同上の『イメージシンボル事典』にも、「2 ネコの色。a英国では、黒ネコは
幸運を表し、白ネコは不吉を表す(白は幽霊の色)。ただしアメリカとヨーロッパ
大陸ではその逆のことが多い。……c船乗りの妻は、夫の無事を祈って黒ネコを飼う
のがよいとされた。」とあるわけですが、オウビー、テイタムの『英語 迷信・俗信事典』
(イギリス中心、採集場所と内容を個別表記している)では、黒猫を幸運と扱っている例が
多いのですが、黒猫に朝早くあう・黒猫が道を横切る・黒猫の背を向けるなどでは不吉
としている例もあり、イギリスでは黒猫は、幸運とされることが多いぐらいの意味合い
だと思います。
同上の『英語 迷信・俗信事典』では、猫は忌みことばとして釣糸を設置している
最中はとくに口にしてはいけないとして、カーザー、フィッティング、ヴェングラ、
フーディンなどと呼びかえる例を載せている。日本では、漁師や船乗りが海上で口にする
ことを忌む「沖言葉」では猫は「ヨコザ」と代用する。猫が水を嫌い、魚を好む、漁船の鼠
を退治する、猫と強風の関連からきているようです。
>>247
>アト・ド・フリースの『イメージシンボル事典』では、
>「西暦936年には、すでにネコ保護条例があったが、
おそらく948年のHywel Ddaの法か、それに由来するVenedotian,Dimetian,
Gwentianの法典などを指していると思われる。
Hywel Ddaの法では、猫を盗んだり怪我させたりすると、1匹の牝羊かその肉を
支払わなければならなかった。また、猫を殺すとその猫を尻尾で吊して鼻が地面に
触れる状態で、尻尾が十分隠れるぐらいの(高さに盛り上げた山盛りの)量の穀物
を支払わなければならなかったらしい。
The cat is out of the bag(秘密がもれる)
猫を袋に入れて豚だといって売ろうとしたが、猫がとび出てばれてしまったという
故事からきているが、猫を兎として売ろうとする話は、
『ディル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の第55話に出てくる。
オイレンシュピーゲルが生きた猫を兎の毛皮の中に縫い込んで袋にいれ、毛皮匠に
生きた兎だとして売った。毛皮匠はツンフトの親方の家に行き、みんなで生きたまま
放し飼いにして兎狩りを楽しもうとしたら……木の上に登って「にゃーご」と鳴きだ
した。
そういえば「猫をかぶる」という言葉があるけど、これだと「兎をかぶる」か。
ところで、みんな猫飼ってるの?
いつか猫 飼いたい・・・
「野良猫がいっぱいお産しちゃって、こいつはおっぱいにありつけなくて、かわいそう
だからうちで飼って」冗談じゃない!自分が叔父のとこに居候してる身分だし、叔父も
飼い猫がいて喧嘩でもされたら困るので、「ダメ、お母さん猫は今ころ必死でこの猫の
行方を捜してるよ、元のとこへ返してきなさい」翌日「返しに行ったけど親猫も子猫も
みんな元のとこにいなくなっちゃった、このまま捨てると死んじゃうから飼おうよ」
結局まけて飼うことになって7年、数年後に友達から「うちの猫たくさん子供できちゃった、
一匹もらってよ」と頼まれことわれず、嘘ついたって真相が判明しました。
でもこの猫はストレッチ>匍匐前進>四肢を思いっきり前後に伸ばして完全腹這い状態の
姿勢になる面白い芸当ができたり、跳び上がって蝿を両前足で叩き落とすウルトラ技を
演じたり、結構たのしませてくれた子でした。最近は7.8kgの体を持て余し気味で毎日
デレデレしています。
猫の話になるとつい長くなっちゃうの、堪忍にゃ。