次に紹介するのも、「晋での有名人」の一人です。盧植の曾孫ですから、家柄的には一流です。
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盧志 字 子道 ?(254)~311
統率 80
武力 37
知力 85
政治 78
魅力 73
義理 11 野望 10 夢 王佐
人物 名声重視 戦略 バランス好戦
*「偏見」というデータが欲しい。これが高いと、相性の悪い人や異民族への偏見が
激しくなるというもの。程度が酷くなると、君主が自分の嫌いな人や民族を重用する
だけで不満がたまるという厄介な能力だ。当然、盧志はかなり高いだろう。
盧[王廷]の次男。晋の尚書。八王の乱では成都王司馬穎に従う。趙王司馬倫が帝位
を簒奪すると、司馬穎に挙兵を勧めた。司馬倫を倒すと、斉王冏と対立するが、盧志
の進言で[業β]に帰還させ、鋒を避けた。
また、戦死者の埋葬や祭祀を司馬穎に進言した。司馬穎は文盲だったが美形で、
盧志に全幅の信頼を寄せていたので、これらは全て実行され、司馬穎の名声を
高めた。
やがて司馬冏の行動が周囲の反感を受けるようになると、長沙王司馬乂に
討たれた。司馬穎は司馬[禺頁]らと共に乂を討った。
ところが、やはり司馬穎の陣営にいた陸機(陸抗の子)は南方人であることから、
盧志ら北方人に見下されていた。その為陸機は兵を与えられながら、なかなか勝て
なかった。たまたま、司馬穎の側近である孟玖(宦官)の弟、孟超が陸機の命令に
背いて、勝手に戦死した。
孟玖は陸機が殺したのだと疑い、司馬穎に讒言。その上陸機が殺されると、今度は
陸機の弟・陸雲らも殺そうとした。これにはさすがに江統ら他の家臣が司馬穎を諌め
たが、孟玖・盧志の強引な押しで、ついに陸機の関係者は皆殺しにされた。
『世説新語』に、このような逸話が残っている。盧志ら北方人の偏見の強さが、
窺われる。
ある時、盧志が満座の宴席で陸機に言った、「陸遜、陸抗は、君の何に当たるのか」
本名を名指しするのは、中国では非常に失礼に当たる。特に、相手の親ならなおさら
だ。
陸機、「卿の盧毓、盧[王廷]との関係のようなものだ」
宴席が終わって弟の陸雲、「どうしてあれほどまで言ったのですか。彼は本当に
知らなかったのかも知れません」
陸機「わが父祖は、名は海内に鳴り響いている。知らぬはずがあるものか。鬼子
(幽霊の子、盧氏は幽霊と人間の間に生まれた子の子孫といわれていた)め、わざと
ああ言いおったのだ」
こうしたごたごたの中、司馬穎は勝利するが、またも王浚(王沈の子)・
東海王司馬越らの挙兵に遭い、敗走。荊州に逃れるが、劉輿は詔勅と偽って司馬穎
を殺してしまった。遺体は最後まで付き従っていた盧志が葬った。
永嘉の大乱が起こると、盧志はさらに南へ逃れようとしたが、捕まって殺された。
盧諶 字 子諒 ?(273)~350
統率 40
武力 44
知力 73
政治 56
魅力 74
義理 9 野望 8 夢 維持
人物 能力重視 戦略 バランス
盧志の子。晋の武将。温[山喬]は彼が清潔で文才があると称揚した。西晋滅亡後、
北に行って劉[王昆]に身を委ねた。彼が敗れると、段末波を頼った。東晋の元帝は
何度も彼を召し寄せようとして、散騎中郎侍郎に任命したが、南に行く事は出来
なかった。結局異民族の領域で亡くなり、子孫は東晋に渡った。
彼の曾孫の盧循は孫恩の乱に加わり挙兵、五斗米道の信徒で妖術を操ったという。
孫恩が自殺すると跡を継いだが、劉裕(後に東晋を乗っ取る)によって敗走し、
交州で死んだ。
許混 ?(177)~?
統率 17
武力 12
知力 79
政治 44
魅力 70
義理 12 野望 7 夢 大義
人物 能力重視 戦略 無関心
許劭、字は子将の子。汝南郡の人。清潔・純粋で人物を見抜く見識があった。
曹叡の代に尚書となった。
裴潜 字 文行 ?(174)~244
統率 70
武力 62
知力 72
政治 68
魅力 60
義理 6 野望 8 夢 維持
人物 能力重視 戦略 バランス
裴茂の子、裴秀の父。河東郡聞喜県の人。初め劉表に身を寄せたが、彼の失敗を
予想して長沙に移った。のち曹操に仕え、劉備の印象を尋ねられると
「中国に住まわせれば、人を乱に導く事は出来ますが、太平を導く事は出来ません。
もし間隙に乗じて要害の地を守れば、一方面の主となれるだけのものは持っており
ます」と答えた。
のち烏丸族を慰撫し、さらに[┴兌]州刺史、尚書、河南尹を歴任。父の死によって
官職を離れ、光禄大夫となる。そのまま亡くなった。
>>260
矢張り、伝が立っている武将は出来るだけ登場して欲しいですね。
諸葛融 字は叔長 ~鷹揚な性格の凡庸なお坊ちゃん~
統率58
武力41
知力74 *(宴会の時などに行うと、親密が多めに上昇し、
政治63 楽しいミニゲィムが出来る。
魅力73 様々な技芸に通じていたという逸話から。)
特技:水軍、耕作、*技芸
諸葛瑾の息子。諸葛恪の弟。顕貴の家に生まれ、若い頃から楽しみを追いかけ、
学問はしたが、何でも知っているかわりに精確ではなかった。
父の爵位を嗣ぎ、公安に駐屯したが、兵も役人も皆彼に懐いた。
春夏に開く盛大な宴会には、休暇を取ったのに遠路はるばるやって来る者も居たという。
また、質素な父や兄と違い、派手な衣服を好んだ。
兄諸葛恪の失脚に伴い、逮捕される事になったが、彼は急に軍勢が来たと聞き、
驚き、おろおろして為す術もなく、城が包囲されるに及び、金粉を服して自殺した。
裴徽 字 文季 ?(190)~?
統率 47
武力 32
知力 70
政治 34
魅力 43
義理 5 野望 9 夢 征服
人物 名声重視 戦略 無関心
裴潜の末弟。魏の冀州刺史。高い才能を持ち、よく玄妙の理について語った。
馬鈞が発石車を改良すると、裴徽はちゃんちゃらおかしいと思い、欠点を挙げて
非難した。馬鈞は言い返せなかった。裴徽は勝ったと思い、この事を言いふらした。
ただ馬鈞の弟子の傅玄は「あなたは口が得意だが、馬氏が得意なのは実際の器用さ
で、心中で承服せぬまま表面上言い負かされたに過ぎない」と反論した。彼の六世の
子孫が、『三國志』の注をつけた裴松之である。
裴秀 字 季彦 224~271
統率 41
武力 69
知力 65
政治 66
魅力 68
裴潜の子。『4』『5』に登場した裴秀は『8』パワーアップキットでの復帰が濃厚と
思われるので、詳細を省きます。ただ、264年、簒奪を控えた司馬昭が五等爵制度を
決めた際、その内容を裴秀が作った事。古代から晋代までの地理をまとめた
『禹貢地形図』18編を作成し、歴史地理学のさきがけとなった事を考えますと、『5』
の能力(「統率」のみ『4』)は過小評価といえます。
裴[危頁] 字 逸民 ?(256)~300
統率 65
武力 42
知力 71
政治 63
魅力 70
義理 8 野望 8 夢 維持
人物 能力重視 戦略 バランス
裴秀の子。晋の侍中。271年、父が死ぬと、末子ながら跡を継いだ。品行は高尚で、
かつゆったりした性格の持ち主で、若年より名を知られた。
恵帝司馬衷が晋の皇帝になると、外戚の楊駿が実権を握った。賈皇后らは
クーデターを起こしてこれを倒したが、裴[危頁]もこれに加わっていた。
しかし、今度は趙王司馬倫らのクーデターにより賈皇后らが倒される。
司馬倫は裴[危頁]の名声を恐れ、かつ憎んでいた。裴[危頁]は政治に携わっていた
とはいえ、賈氏の独裁に同調していたわけではなかった。しかし司馬倫は強引に
三族皆殺しにしてしまった。
では、引き続き魏将です。
満偉 字 公衡 ?(198)~?
統率 51
武力 27
知力 73
政治 62
魅力 75
義理 11 野望 4 夢 大義
人物 能力重視 戦略 バランス
満寵の子。魏の衛尉。人品の良さで名が知られた。
諸葛誕が反乱を起こすと、その鎮圧に司馬昭に従って許まで行ったが、病気のため
軍に加わらなかった。また、その子(名は不明)が従軍したが、帰還して病気を
見取りたいと願い出、事変が片付いたので付き従って帰った。この事と別の息子
満長武の事を司馬昭は恨み、満偉は平民に落とされ、満長武は殺された。
満長武 ?(223)~260
統率 64
武力 63
知力 40
政治 56
魅力 78
義理 13 野望 2 夢 大義
人物 能力重視 戦略 バランス好戦
満偉の子。曹髦が反司馬のクーデターを起こした時、掾として晋の宮門の掖門
(両側の小門)を守っていた。司馬昭の弟、司馬幹が満偉の妹を妃にしている事を
頼りに入れてもらおうとしたが、長武は「この門は公(司馬昭)の住まいに近く、
ともかく、ここに入っても参る者はございません。東掖門からお入り下さい」
と追い返した。司馬昭の参軍・王羨も同じ理由で入れてもらえなかった。
この事を王羨は司馬昭の側近を通じて追及すべきと進言、長武は杖打ちにより
殺された。
立場が逆ですが、政治の実権を握っていたのが司馬昭なので、
便宜上こういう事があります。または、「逆クーデター」と。
字は鴻予。山陽郡高平の人。後漢末の官吏。
御史太夫として献帝の使者となり、
曹操に魏公任命の辞令を渡した。
(徳間書店 三国志全人名事典より)
でも、興亡三国志では、華【音欠】より悪党。
とにかく人を陥れる事が好き。
そこら辺を考慮して
知力79
政治88
武力47
魅力30
統率50
特技【捏造、歪曲】
補足させて。 字は鴻豫。荀彧に推挙された名士の一人。
あと、名は「虜」じゃなくて「慮」だったはず。
「興亡三国志」って読んだ事ないけど、そんな悪人にされてるの?
確かに、不仲だった孔融を法律によって免職したけど、
それは曹操の意を酌んでの事だし、ちょっと可哀想・・・。
あっ、そういや演義じゃ嫌な奴だったっけ。
ベルクタイ モンゴル
統率63 歩兵C 登場年1170頃
政治59 騎兵B 寿命60歳位
戦闘63 弓兵C
智謀39 水軍E
特技 機動 突撃
こういうタイプでは未出なんですな
キャリアからして政治を高めに考えました。(でも事績が・・)
1160?-1210?
チンギス-ハーンの弟。
帝国創立時には司法官を努めた。
ご無沙汰しました。諸葛恪絡みでもう一人。
聶友 字は文悌 ~不運に泣く俊英~
統率63
武力45 *(追加:名士Lv.は自分よりLv.の高い名士や人相見から
知力76 評価される事で上がる。
政治72 また登用する時、自分より低いLv.の名士だと、
魅力67 登用成功率が上昇。)
特技:弁舌、水軍、商才、*県名士
豫章の人。弁舌の才があり、若くして県の役人になった。
虞翻もその才能を高く評価し、豫章太守の謝斐に手紙を送って、
聶友を郡の功曹に任ずるよう勧めた為、先任の功曹がいたのであるが、
彼が代って功曹に用いられる事になった。
使者として都に出た際、諸葛恪と対等の友人となった。
当時の世評では、顧譚・顧承兄弟の名声に肩を並べられる者はなかったが、
諸葛恪が聶友を二人と並ぶ者として売り出したことから、
聶友の名は人々に知られるようになった。
のちに将軍となり、二四二年七月、校尉の陸凱と共に、
珠崖と【イ詹】耳を討伐し、帰還したあと丹楊太守に任ぜられた。
二五三年春、諸葛恪が前年の勝利に驕り、再び出兵しようとした時、
聶友は手紙を送って諫めたが、諸葛恪は聞き入れず、
合肥新城を包囲したが、結局作戦は失敗し人心を失う事になった。
諸葛恪を誅殺した後、孫峻は聶友を警戒し、左遷してしまおうと企てた。
聶友は病気を発し、悶々のうちに死去した。三三歳だった。
字を子尼、楽安国蓋県出身。鄭玄の門下生で、司空の曹操に招かれ
属官となり屯田の最高責任者になったが、綿密な計画を立てて
大成功を収めた。
曹操が馬超らを討伐に行った際、留守を守っていたが
反乱を起こした者がいたため、討伐した。その時
当時の慣例をやぶって、挙げた首級を実数で報告して曹操に賞賛された。
魏郡太守に昇進しのち、太僕となったが、倹素な生活と謙虚な態度が
人々の尊敬を集めた。
知力85
政治85
武力51
魅力85
統率73
【屯田が起こると莫大に兵糧が増える】
字は伯慎、南陽出身。
後漢の司空。陶謙、孫堅を配下に辺章・韓遂
を討伐した。
董卓に袁術と内通していると誣告され、董卓自身に鞭打ちで殺された。
この人は段【ヒ火頁】「ダンケイ」(賈クに伯父と詐称された人)
と同じで、売官で司空になったという説もある。
知力68
政治76
武力68
魅力31
統率80
(最大値15)義理6 野望9 夢「出世」
辺境勢力を撃ち破ったことと、董卓、陶謙、孫堅を率いていた
ことで統率力高め。
>>290
そちらの張温も『8』に登場済みです。『8』での能力は次の通り。
武力 46
知力 67
政治 76
魅力 78
義理 8 野望 4
人物 能力重視 戦略 バランス好戦
GAMECITYで発表されたパワーアップキット版追加武将 その2
宋謙
諸葛緒
韓徳
成済
楊阜 字 義山
諸葛緒は『4』からの返り咲きです。曹髦殺しの下手人、成済が出て来るという
事は、ひょっとしてイベントもあり得るか?
では、続きです。
[登β]朗 ?(253)~?
統率 50
武力 66
知力 20
政治 58
魅力 52
義理 9 野望 4 夢 征服
人物 能力重視 戦略 バランス
[登β]艾の孫。[登β]忠の子?祖父が冤罪で殺された後、西域へ流され、奴隷と
された。やがて祖父の無実が明らかになり、自由の身に。273年、ようやく郎中に
取り立てられた。永嘉年間、新郡太守に任じられるが、赴任前に自宅のあった襄陽で
失火があり、子の[登β]韜・行を除く一家全員が焼死した。
胡淵 字 世元 247~301
統率 68
武力 82
知力 65
政治 14
魅力 59
義理 12 野望 10 夢 大義
人物 能力重視 戦略 軍備
胡烈の子。父が鍾会に捕らわれた際、鍾会を殺して父を救った為名を挙げた。
八王の乱で、趙王司馬倫が帝位を簒奪すると、司馬倫に従って諸王の軍を迎え撃った。
たびたび斉王司馬冏の軍を破ったが、成都王司馬穎の軍に敗れ降伏、処刑された。
新武将用として紹介しているのなら、列伝欄に入力するために
56~72文字以内に要約した方が良いのでは。
ただこれはおそらく最も頭を痛ませる作業になるだろうから
無理強いも出来ませんね。
さらに禁則処理にも気を使うことになるから大変。
う~ん、そうですか。余り有名じゃない人物ばかり取り上げているので、
知らない人も多いと思い、情報を詰め込んで書いたのが災いしましたね。
まあ私の場合、新武将用としてではなく、コーエーに対する、遠回りな上訴として書いていた事に原因があるのかもしれませんが。